• 締切済み

恋愛とは、<侵略>、それとも、<征服>!?

・恋愛とは、他者を<支配>する行為なのか? いろいろと、恋愛にかんする言説なり、さまざまな意見に目をとおしてきましたが、恋愛というものは、ほんとうのところは、特定の他者を<侵略>、あるいは<征服>する行為ではないでしょうか? 特定の個人を言葉で口説き落とすこと、さらには、お金を<殺し文句>、あるいは<エサ>にして、彼、あるいは彼女を<支配>することが、恋愛というものなのでしょうか? お金では恋愛は成立しないということを「美談」のように強調する人々がいますが、地獄の沙汰もびっくりしてしまうくらい、「金次第」なのが、恋愛の本質なのではないでしょうか? その証左かもしれませんが、キャバクラやらホストクラブ、ソープランドなどに通いつめてしまう人々がいます。そういった人々にとって、恋愛とは「お金の無駄遣い」なのかもしれません。 そして、恋愛といえば、わたし自身にも、ひっかかることがあります。わたしの片親は、外国からやってきたわけですが、わたしの日本の親にとって、わたしの外国の親は、「カモ」のような存在であったのかもしれません。「ジャパン・マネー」をちらつかせ、わたしの外国の親と<結婚>し、母国の国籍を奪い、日本社会に「同化」させ、さらには、わたしがこの世に生まれたことを考えたとき、恋愛って、結局のところ、<侵略>であり、<征服>なのだと思うときがあります。 こういうことを書くたびに、主張するたびに、「ほんとうの恋愛をしたことがない!」と、批判されます。それは、事実です。では、誰がわたしに恋愛を教えてくれるのでしょうか? すぐに「落とせそう」な人は、優しい人であっても、誠実な人であっても、「つまらない人」ということになるのでしょう。

noname#189117
noname#189117

みんなの回答

  • saregama
  • ベストアンサー率47% (555/1166)
回答No.24

>わたしの日本の親にとって、わたしの外国の親は、「カモ」のような存在であったのかもしれません。「ジャパン・マネー」をちらつかせ、わたしの外国の親と<結婚>し、母国の国籍を奪い、日本社会に「同化」させ、 前半は私そのものですねwでも後半は疑問です。 外国人と結婚しても、その外国人の母国の国籍を奪うなんてことはできませんよ。普通は永住許可を得ればそれで大抵のことに不便はありませんから、国籍まで変えるのは余程のことです。私の夫も永住者ではありますが、日本国籍に帰化したりしていません。本当にあなたの外国人親は日本国籍に帰化したのですか? そもそも日本人と結婚しても簡単に日本国籍に帰化したりできません。 国籍法上は婚姻3年日本在留1年又はその逆で帰化申請自体はできますが、 その他の条件も厳重な審査もあり最短でも5年以上は必要です。 帰化審査には何度も面接があり、本人が望まないのに配偶者に強制させられていたら、絶対に許可されるものではありません。 百歩譲って日本国籍に帰化していたとしても、中国籍や韓国籍のように日本国籍に帰化したら自動的に失う場合もありますが、ほとんどの国でその国籍を離脱するのはまた別の手続きが必要なので、母国籍も維持していることも考えられます。特に南米諸国の国籍は離脱することがほぼ不可能です。 私は夫の国が大好きです。夫の国で暮らしたくて押しかけ結婚したけど、夫がお人好しすぎてジャパンマネーに群がる周囲に押しつぶされ、日本に逃げ帰ってきました。慣れない仕事や外国人差別に苦しんだりはしましたが、努力して仕事にやりがいを見出し、家族のために頑張ってくれています。仕事以外はインターネットで母国のエンターテイメントを満喫するのが日課です。老後は二人で夫の母国へ行き、日本の老齢年金でゆったり心豊かに暮らすのが夫婦の夢です。 結婚は「侵略」でも「征服」でもありません。 敢えてそのような表現をするなら「同盟」でしょう。 そして夫婦は「支配」と「隷属」では決してありません。 お互いにレスペクトしあえる存在こそが真の夫婦です。 >誰がわたしに恋愛を教えてくれるのでしょうか?  あなたはなぜ「教えてくれる」なんて受け身なんですか? 恋愛は相手がいなくては始まりもしません。 恋愛は相手と共に学んでいくものだと思います。 あなたにもそんな出会いがありますように。

noname#189117
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

回答No.23

まさに侵略ですね。                                                                                                                                                                          

noname#189117
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

  • klzvb
  • ベストアンサー率5% (2/39)
回答No.22

「恋愛する」ということは侵略に繋がると思います しかし侵略が自分のことしか考えていないのに対して恋愛は何処までも他人のことを考えていると思います

noname#189117
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

回答No.21

人を国として考えると力関係は侵略、征服、植民地など例えられるかも知れません。 結婚などは同盟関係の維持の様なものですね。お互いにどれ位我慢して譲り合えるか。 ただ損得勘定を抜きにした恋愛は、基本的に国益を考えて運営する国単位で考えると感情面が抜け落ちてしまうので、例えにするには適していないのではないかと。 目の前に子猫がいて撫でてあげたいと思うときに損得の感情はありませんよね? 動物に対してと同じとは言えませんが、そう言う損得とは別の情動が人間に有るのも事実なので分けて考えた方が良いと思います。 質問者さんも理論で正解を探すより感情や衝動のような本能に近いところを思い出した方が好きな人や恋人は出来やすいと思います。 理論的なのは悪いことではないですが恋愛とは相性が悪いのではないかと。 やはり社会は基本損得で回っていますからせめて友達、家族、恋人は損得抜きで労り合えるのが理想だと思います。

noname#189117
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

回答No.20

恋愛を侵略・征服だとするのなら、逆に考えて相手に自分を征服させて良いと思えることも恋愛なのではないでしょうか? 質問を拝見する限り一方通行で侵略・征服する側とされる側の様に感じますが、その立場がいつ逆転されてもおかしくないのですから。

noname#189117
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

  • matumuha
  • ベストアンサー率1% (4/203)
回答No.19

侵略でしょうね 相手のハートという名の城を侵略します

noname#189117
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

回答No.18

ずばり侵略でしょうな 女または男を落とすという言葉があるように

noname#189117
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

  • krodo
  • ベストアンサー率0% (0/21)
回答No.17

同感です 征服するものだと思います

noname#189117
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

回答No.16

恋だ愛だといってもやっぱり最期は1人で死んでいくんです。 それも含めて人生です。

noname#189117
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

回答No.15

私は侵略よりかは征服かなと思います。 恋愛は人間が一番犯しやすい間違いだと有名な人が言ってたと思います。

noname#189117
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

関連するQ&A

  • 絶えず侵略されているような感覚

     私は、絶えず他者から侵略されているような、乗っ取られているような感覚に襲われます。背後から聞こえてくる足音、ぶつかりそうな位置を歩く人、次々と仕事を持ちかけてくる同僚、食べ物をくちゃくちゃ噛む音、私を利用したり罠に陥れたりしてくる人々・・・とにかく大小かかわらず、あらゆる物理的・心理的刺激が、私への侵略・メンタルレイプのように感じられます。    これは何という精神病なのでしょうか?このような悲惨な感情を和らげるには、どうしたらよいのでしょうか。

  • 恋愛における<ハードル>とは?

    ・<ハードル>,「ガードの固さ/難さ」って何? よく,恋愛にかんする言説や,イメージにかんするものに,<ハードル>というものがあります。このことは,「ガードの固さ/難さ」であると受けとめている人々もいます。 たとえば,パートナーになってくれる人にたいして,一定の社会的地位をもっていることや,一定の金銭的収入があることを求めることが<ハードル>であり,「ガードの固さ/難さ」でもあるとされます。 <ハードル>が高い,あるいは,「ガードの固い/難い」ということは,たとえば,「高給取りじゃないとパートナーにしたくない」,などという考え方が,ひとつの例とされます。 では,あなたにとっての,恋愛における<ハードル>とはどのようなものであり,どのような例が考えられるのでしょうか? わたし自身の場合は: ・基本的には,「来るものを歓迎する」姿勢です。少しでもわたし自身のことに興味をもってくれれば,パートナーとして受けいれたいと思います。あとは,いろいろとコミュニケーションを重ねたいと思います。 ・いわゆる「後天的なもの」については,特に問わない。 ・ただし,他者を差別すること,偏見のまなざしをもつこと,異文化理解につとめないこと,寛容の精神に欠ける行為をすることについては,厳しい態度をとります。

  • 恋愛とはお金をばら撒くこととみたり

    あなたは、「お金」の力で愛を勝ちとることを、どのように受けとめていますか? 不道徳行為であると思いますか。 あるいは、是非も及ばすと受けとめていますか。 または、社会的な許容範囲のうちであると受けとめていますか。 「金の切れ目が愛の切れ目」を口にする人々は少なくありません。 そして、恋愛の機会に恵まれない人々にとって、「お金」ほど重要なものはありません。 意中の相手のために、「お金」を費やす。いや、「ばら撒」くと書いたほうが適切でしょう。 言葉は悪いのですが、それが事実ではないでしょうか。 パートナーに恵まれなかったら、「お金」の力で愛を勝ちとる。 「卑しい行為」であると批判をする人々がいるのかもしれませんが、そうでないと愛を勝ちとることのできない人々は少なくありません。そういった人々にとっては、これは切実な問題です。 「お金」の力にすがっても、愛を勝ちとりたいのです。 たとえば、中高年の日本人男性が、外国の若者と結婚する事例を考えてみてください。数百万円というお金を、業者や相手の家族のために負担することで、愛をもぎとりました。(そして、そういった環境で生まれたのが、わたしです。) それは、不道徳的な行為なのでしょうか。黙認せざるをえない行為なのでしょうか。 「金の切れ目が愛の切れ目」を口にする人々は少なくありません。 そして、恋愛の機会に恵まれない人々にとって、「お金」ほど重要なものはありません。 「お金」の力によって、おたがいの関係を「維持」しているからです。 でも、それは、とてもリスクの高い行為でもあります。 もしも、自分自身が職を失い、収入が激減したら… すべては終わります。 パートナーは、あなたのことを見捨てるでしょう。 「お金」で勝ちとった愛は、「お金」がなくなったとき、それが終わるからです。 そして、「自己責任」とされます。 恋愛について語る人々は大勢いますが、「お金」と恋愛の問題について、真摯に向きあっている人々は、そう多くはいないものと認識しています。 「純愛」という考え方が消えた、いまの日本社会。 愛することも、愛されることも、できない日本社会。 不都合な時代、不憫な時代と批判される日本社会。 そういった世の中で、恋愛の「あり方」が問われています。

  • 女を侵略、征圧、屈服させる行為

    次の文章を読んで感想などを下さい どう思われますか? セックスとは女を精神的、肉体的に侵略、征圧、屈服させて支配する行為 と言い換える事ができる 私は男としてこの行為の全て、過程そのもが好きで女に対して優越感や自尊心の満足感などを味わっているのです 皆さんは、日常生活のどういう場面で女に対して優越感や自尊心の満足感を味わってますか? 女を自分の色に染め上げる事により、自分より下位の存在としての女に安心感を覚えるのである こういう男性はかなり居るのではないかな? 女の生活の一挙手一投足にまで管理、監視して、その全てを支配するのである ここに支配者としと征服者としての最大の喜びや楽しみがあるのである

  • 「純愛」しか出来ない!

    ご覧になってくださり,ありがとうございます。 この質問は,恋愛に関連した言説にかんするものです。 わたし自身,恋愛の経験がありませんので,この場をとおして,皆様からの回答をとおして,いろいろなことを理解できれば幸いだと考えています。 言説にいっさい「振り回されない」恋愛観の「功罪」 この場をとおして,皆様と恋愛にかんする議論をいくつかしてきたことで,わたしなりに理解がでいたことは,多くの人々が,恋愛にかんして,多くの恋愛にかんする「言説」を支持していることです。 そして,これらの「言説」のなかには,いわゆる「恋愛体質」に代表されるような,いわゆる「恋愛テクニック」にかんするものも多くあります。 さまざまな「言説」に触れていくうちに,わたしはこういった「言説」が,ほんとうに恋愛にとって“必要”なのか,疑問を持つようになりました。 わたしが他者にたいして出来ることは,「誠実であること」,「相手に情をかけること」,さらには,「相手を裏切らないこと」など,いわゆる基本的な人間関係の構築において重要とされるものです。恋愛にもこのような要素は必要なのですが,現代日本社会においては,このような要素以上に,「恋愛体質」などに代表される,いわゆる「恋愛テクニック」が“重要視”されています。 わたし自身,いわゆる「恋愛テクニック」を持っていません。(なぜならば,過去にそのような経験がひとつもなかったから。) 「誠実であること」,「相手に情をかけること」,さらには,「相手を裏切らないこと」については,それらを適切に理解し,日常的に実践しています。しかしながら,いわゆる「恋愛テクニック」を持っていないので,おそらくは,「つまらない人」,「一緒にいて面白くない人」,「堅物」,「融通のきかない人」,という印象を他者から持たれるのではと考えています。 いわゆる「恋愛テクニック」のない人でも,「パートナー」として受けいれてくださる人がいるのか,恋愛対象としてみてくださる人がいる「可能性」はあるのでしょうか?

  • 「生まれ持ったもの」にゆだねられる恋愛観

    恋愛とは,「生まれ持ったもの」にゆだねられるものなのでしょうか? これまで,パートナーほしさに,恋愛にかんする書物に目をとおし,恋愛にかんする言説を分析してきました。何かしらの知識を身につければ,恋愛はできる,パートナーを見つけることができると思っていました。 表向きには,恋愛とは共感の賜物のようなものとして受けとめられています。恋愛にかんするタテマエとして,共感のスキルが重要であると受けとめている人々は,とても多くいると思います。恋愛のおけるコミュニケーション・スキルとは,共感のスキルでもあると,わたしは考えます。 しかしながら,恋愛とは共感の賜物でもなんでもなく,そのホンネとは,「生まれ持ったもの」にゆだねられることです。 「ただし,イケメンに限る。」 この言葉こそ,恋愛とは「生まれ持ったもの」にゆだねられるという,恋愛観を代表する言葉だと思います。 そして,この概念を打ち破るには,「自分磨き」などという言葉で表現される共感のスキルを磨くことではなく,「お金の力」でしか打ち破ることができないとされます。ある有名な企業の創業者が,「お金で買えないものはない」という発言をしましたが,「生まれ持ったもの」をもたない人々にとって,恋愛とは「お金で買うもの」であると思うときがあります。人身売買のようなものであると批判したくなる人々もいることでしょう。そして,これは,ある経済学者の発言ですが,「イケメン税」なるものを導入すべきだというものも,過去にはありました。 恋愛のための適正とは,生まれながらにして,その有無が決まるものだと思います。才能であれば磨くことができますが,恋愛については,生まれる前からその是非が決まっているという,残酷なものだと思います。

  • 恋愛において本当に必要とされているものとは?

    恋愛において「本当に必要とされている要素」は何でしょうか? 今も昔も同じようなことではありますが,恋愛ほど多くの人々の関心を寄せるものはないと思います。現代の日本社会においても,恋愛は多くの人々が関心を寄せるものの第一位として挙がることが多々ありますが,恋愛に関する「テクニック」や,その「あり方」について,わたしはさまざまな疑問を持っています。 それらの疑問について考える為,いくつかの「ヒント」を提示しました。 〇 情熱,約束,親密さや共通性 恋愛に関しては長らく文学,心理学,経済学など,さまざまな学問の見地から論じられてきましたが,(1)パートナーに対する情熱,(2)パートナーとのあいだの約束,そして,(3)パートナーとの親密さや共通性,などが恋愛における最も重要な要素の3つであるとされました。 参考: 恋愛における3つの重要な要素(英語版ウィキペディアより) http://en.wikipedia.org/wiki/Love_triangle (1) モテるための「テクニック」だけが先行 現代の日本社会においては,マスコミ等による影響などから,恋愛に関する「テクニック」が人々の関心の的になりました。恋愛を成就させるためには,これらの「テクニック」を持つことが重要とされました。これらの「テクニック」のなかには,先に挙げた恋愛における3つの重要な要素などを前提としたものがあるので,恋愛を成就させるためには,良い方法であるといえるかもしれません。 しかしながら,「テクニック」だけが必要以上に強調されたため,あたかも「テクニック」がないと恋愛を成就させることが出来ないとされるようになりました。このことは,信頼関係の構築などといった,恋愛を含めた人間関係の構築における重要な要素を尊重することよりも,これらの「テクニック」が最重要視されてしまい,「テクニック」なき人間はいくら信頼関係を構築する能力があっても,「魅力なし」,「モテない」とされてしまいます。 恋愛がしたいのだけど,恋愛ができない。その背景には,これらの「テクニック」の受けとめかたを間違った人々が多くいることによって起きた「悲劇」があると思います?「テクニック至上主義」からの脱却が必要であると思います。 参考: 理系のための恋愛論(マイナビ) http://news.mynavi.jp/column/rikei/index.html (2) 「お兄ちゃんみたいな人」,という「あいまいな定義」 「お兄ちゃんみたいな人」,「優しい人」,など,恋愛能力に関する言説には,非常に「あいまいな定義」を含むものがあります。このような「あいまいな定義」は,どうすればモテるのかという問いに対する回答をつくるにあたって,しばしば障壁になることがあります。 たとえば,「優しい人」とはどんな人のことを指すのでしょうか?そして,「親切な人」と「優しい人」とのあいだには,どのような「違い」があるのでしょうか?これらの「あいまいな定義」が存在することによって,恋愛が「難しいもの」になってしまったと思います。 そして,ついには「東大に入ることよりも,パートナーをつくるほうが難しい」とまで揶揄されるようになってしまいました。 参考: グーグル検索(「お兄ちゃん」,「恋愛対象」で検索) http://www.google.co.jp (詳細なURLは省略しました) (3) 個人の「スペック」に関する言説について 「モテるためには・・・・・・」という主旨の質問に対する回答のなかには,「自己投資」を強調するものがあります。たとえば,スポーツをやること,楽器を演奏すること,外国語を学ぶことなどが挙げられます。 ところが,「スペック」が高い,あるいは,「出来ること」の範囲が広くなれば広くなるほど,人間は他者から「敬遠」されてしまう場合があります。「この人とは距離をおいたほうが身のため・・・・・・」,などと思われてしまう場合があります。 このことに対しては,「物は言い様」,あるいは「能ある鷹は爪を隠す」,「言わぬが花」といった,日本社会における「美徳」とされるものに関連しますが,何事も「カモフラージュ」することが重要であると受けとめる日本人は多くいます。 「スペック」の高さを感じさせない「第一印象」を持つことが,「魅力」であるとされるのですが,それを身につけるための条件などが,非常にあいまいです。 参考: オトメスゴレン(恋愛に関する言説などが掲載されている) http://girl.sugoren.com/ (4) 恋愛が「天賦の能力」と化してしまった「不都合な事実」 現在の日本社会における恋愛事情に関しては,恋愛に関する能力そのものが「天賦の能力」であると多くの人々が認識したことであると思います。「生まれ持ったもの」をもたない限り,モテることがないだろう,ということです。 当然のことですが,いわゆる非モテで活きることを選択した人々も多いかと思われます。しかしながら,なかには非モテ脱出,KIRIN克服という目標を持っている人々がいることも事実です。 恋愛能力そのものを「天賦のもの」であるという考えから脱して,「公平なまなざしをもって他者を評価することの大切さ」が強調されることが好ましいはずです。 恋愛に関する「スキル」のなかにも,「普遍的な何か」があるはずですから,それが適切に強調されることが望ましいのです。 参考: オトメスゴレン(恋愛に関する言説などが掲載されている) http://girl.sugoren.com/ (5) 恋愛と「リスク」に関して 前述の「東大に入ることよりも,パートナーをつくるほうが難しい」という揶揄に関連して,恋愛と「リスク」の関係についても考える必要があります。 個人と個人が恋愛関係にいたるまでには,さまざまな「ステップ」が存在します。そして,ひとつひとつの「ステップ」に,経済的な負担が発生します。パートナーとして選んでくれる為に,さまざまな「リスク」をとります。たとえば,「男性がデート代を負担すべき」という考えが存在しますが,このとき,男性はパートナーになってくれそうな人のために,経済的な「リスク」をとります。 経済的な負担はいかなるかたちであっても「リスク」であり,それは「投資」,「投機」でもあります。パートナーになってくれるだろう人の機嫌が悪くなれば,「大失敗」ということになります。 勉強のための努力とは異なり,恋愛のための努力は「むくわれない」ことが前提となってしまいます。猛勉強をしたので高校に入れた,大学に入れた,試験で100点をとったということとは,大きく異なります。「努力」はしたのだけど,何らかの理不尽な理由で実らなかった,パートナーとなってくれるだろう人が去ってしまった・・・・・・,なんてことはよくあります。 そのような「リスク」があるため,「リスク」から解放されたライフ・スタイルを模索する人々がいます。 参考: 彼女はいないけど・・・(OKWAVEより) http://okwave.jp/qa/q4324915.html

  • パートナーが欲しけりゃ猫を被れ!

    みずからを「偽る」ことは,パートナーを求めている人々にたいするアドバイスになりうるのでしょうか? 恋愛にかんする言説においては,いわゆるモテ要素にかんするものが少なくありません。そして,誰しもが,いわゆるモテ要素をものにすることで,他者から魅力的であると思われ,そのことが,恋愛関係につながるとされます。 仮に,諸事情があって,いわゆるモテ要素のほとんどない人物がいるとします。その人物にたいして,さまざまなモテ要素を身につけてもらうとしましょう。そうすれば,その人物には,パートナーができるのでしょうか?

  • 「認める」ことの大切さ

    ・他者を「認める」ことは、みずからの自尊心を傷つける行為になりえますか? ・他者を「認める」ことは、みずからのプライドを傷つける行為なのですか? これは、どこの社会においても重要なこととされます。これまで、恋愛にかんする質問をしてきましたが、恋愛の根本であると思いますので、「認める」ことについての質問をしました。 他者を「認める」ことは、難しいこととされます。なぜならば、他者を「認める」ことを、みずからの自尊心に悪影響をもたらすことと解釈する人々がいるからです。 あいつのことを「認める」だなんて、俺のプライドが許さねえ! こういう人々がいることを、わたしは知っています。意外かもしれませんが、かなり多くいると思います。 これは、過去のことでしたが、わたしは外国に「つながり」をもつ日本人で、そのような出自から、わたしのことを日本人として「認める」ことを拒んだ人間がいます。 何の脈略もなしに、突然、「ハーフのくせに、日本人だなんて許さねえ! 国へ帰れ!」などと言われたこともありました。 出自だとか、民族のアイデンティティがつねに関係するわけではありませんが、そのほかの理由もありえると思います。いろいろな難癖(本人にとっては、ちゃんとした理由だそうですが)をつけては、他者を「認める」ことを拒む人間がいます。

  • 「内向き」という「言説」からうかがえるもの

    ここ数年,日本社会においては「内向き」という言葉が,経済界などを中心に論じられるようになりました。「内向き」という言葉には,どのような「意味」,そして,「社会的な背景」があるのでしょうか? たとえば,外国にたいする関心の薄さを「内向き」であると定義する人々がいます。また,他者にたいする関心の薄さを,「内向き」であると理解する人々もいます。ほかにも,向上心の低さなどを「内向き」であると認識する人々もいます。さまざまな「意味」と「使われ方」があることから,「内向き」とは,定義しにくい概念であることがわかります。 この言葉の「意味」や「使われ方」を深く掘りさげると,「内向き」とは社会的な現象ではなく,社会事情を論じるための「言説」のひとつであることがわかります。そして,この言葉の「対象」として挙がるのは,その多くが若者とよばれる,10代~30代の人々です。このことから,「内向き」とは,いわゆる「若者批判」のひとつであることが理解できます。 皆さんが考える「内向き」とは,どのようなもの/ことを指すのでしょうか? そして,「内向き」という言説をとおして,どのような「現代日本社会のすがた」が描かれるでしょうか?