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インドネシア独立戦争での日本兵について
インドネシア独立戦争で現地の若い住民に軍事教練を施し 強固な軍隊にした日本人の将兵がいたそうですが、実際の 戦闘については分かっていないことが多くあります。 実際、どのような戦争であったのかを教えてください。 特に時系列でイギリス、オランダ軍と衝突した場面とか、作 戦参謀としての日本兵、そして前線で指揮をした日本兵に ついての情報もお願いします。
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Tentara Sukarela Pembela Tanah Air (略称PETA)、日本語名「郷土防衛義勇軍」のことをおっしゃっているのでしょうか? 略称のペタを使いますが、このペタというのは1943年10月3日に発足したものであり、インドネシアの独立闘争期に生まれたものではありません。日本軍政期の日本軍の防衛力を補佐する目的で設けられたもので、そこでは日本式の軍事教練が行なわれていました。 このペタが独立戦争のときのインドネシア側軍事力の核になったわけです。ペタの教官は大日本帝国軍人が基本でしたから、間違いなく日本人将兵ですよ。 第二次大戦で日本が降伏したとき、インドネシアの日本軍は連合国による武装解除と本国送還を待つ間、インドネシアの治安維持の責任を負わされました。それはつまり、ペタの武装解除の責任を日本側が負わされたということでもあるのです。連合国、中でも旧宗主国オランダはインドネシア人の軍隊が存在することを認めませんから、それは当然の帰結になるわけです。 そうなると、ペタは自己保存自己防衛のために日本軍と対立しなければなりません。これが終戦後のインドネシアにおける大筋の流れであり、構図だったわけです。そういう対立構図の中でインドネシアの青年たちが、やがて戻ってくるであろうオランダ人と戦うための武器を確保する動きに出ます。つまり日本軍から武器を奪って武装するということです。それが実際に行われた結果、各地で日本軍とインドネシア人の衝突が発生しています。 そういう状況、つまり昨日までは日本人の味方をさせていたインドネシア人を今日はてのひらをかえすように、武器を取り上げ、軍服を脱がせるようなことを不本意に感じた日本兵が多数脱走して、ペタやその他の武装勢力に加わりました。軍隊の規律から言えば、かれらは日本軍脱走兵です。 そういう人たちの中に、あなたがおっしゃるような現地の若い住民に軍事教練を施すというようなことがあったかもしれませんが、独立戦争の核になった草創期のインドネシア軍というのはその前から存在していたわけです。ペタの中で、既にインドネシア人の中団長・小団長がピラミッド構造を作っており、急遽脱走日本兵が青年を集めて軍隊に仕立て上げたということではありません。 さらに、脱走日本兵は各地の戦闘部隊の将校クラスになって戦闘を指揮したようです。ほとんどが野戦の指揮ですね。軍司令部の中はさすがにインドネシア人で固めたようです。それはインドネシア人がインドネシアの独立を確保するために行なう戦争ですから、軍司令部上層部に外国人を入れるようなことはするはずもないでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。脱走日本兵がインドネシア 独立戦争に力を貸したということなのですね。 するとそれ以前に日本軍が現地の住民に軍事教練を 施していたというのも頷けます。 その事実をひた隠しにした当時の日本政府は進駐軍の アメリカに対して面子を失ったということでしょうね。 インドネシアでのことはあらゆる面で日本が目指したもの を体言化していたと思います。 つまり欧米人がアジアを植民地にしていることへの解放 を訴えたかったということなのでしょう。 しかし韓国、中国ではそれがまた新たな日本の侵略と 捉えられて、抗日運動へと発展していったのでしょうね。