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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ゴータマ・ア‐ブッダのいんちきについて問います。)

ゴータマ・アー・ブッダのいんちきについて問います。

このQ&Aのポイント
  • ゴータマ・アー・ブッダのいんちきについて問います。無明をすべてのものごとの下敷きにしたことや、ブラフマニズムにおけるアートマンに対するアン・アートマンの意味、そしてブッダの称号に中身がなかったことなどについて質問したいです。
  • ゴータマ・アー・ブッダのいんちきについて知りたいです。無明がすべてのものごとの下敷きになっていたことや、アートマンに対するアン・アートマンの意味、そしてブッダの称号に中身がなかったことなどについて教えてください。
  • ゴータマ・アー・ブッダのいんちきについて質問です。無明をもとにしたブッダの信仰や、アートマンとアン・アートマンの関係、そしてブッダの称号について教えてください。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.4

こんばんは。 ☆ この場合は おのれ独りが 目覚めてすくわれたクラスを形成し ほかの人間はみな凡夫の階級に属すという人間差別だと考えられます。 ◇ええ、仏教は、《クラス》理論です。 《スーパークラス》として《自性清浄心クラス》があって、 それに属性が色々くっついて、 《仏陀クラス》、 《菩薩クラス》、《声聞・独覚クラス》、 《凡夫クラス》 という《サブクラス》が生まれる。 《仏陀クラス》と《菩薩クラス》は、《継承・インヘリタンスの関係》にはなく、《排他的》な関係です。 《凡夫クラス》と《菩薩クラス》も《継承関係》にはなく、《排他的》です。 ただし、 《仏陀クラス》と《菩薩クラス》と《凡夫クラス》は、 《自性清浄心クラス》と《継承関係》の関係にあります。 そして、 《仏陀クラス》と《菩薩クラス》、《凡夫クラス》は横並びの関係になります。 本来、これに上下の関係はありません。 いやまぁ~、無理やり、 継承関係にしようと思えば、出来なくはないですけれど、 それは自然ではない。 コンピュータのプログラム的に書くと、 class 自性清浄心 {  キレイキレイなココロ } class 仏陀 {  キレイキレイなココロ  仏智 } class 凡夫 {  キレイキレイなココロ  六識  煩悩 } みたいな感じ・・・。 ☆さとりの知恵は得ていると言ったはずです。 ◇これは、知識ではなく、 《こころのハタラキ》です。 《こころの自在性》を得たと言っている、 と、 わたくしは理解しています。 《得た》というのは慣用的な表現であって、  実際は、《こころの自在性》を邪魔していたものが落ちた だけのことです。 このことを《得た》と表現しているだけです。 ☆☆ というように 無明の一元論 または 明知との二元論として 打ち出しているところにあります。それが インチキです。 ◇明知と無明は、クラスが異なるので、二元論にはなりません。 わたしが思うに、 明知に《客塵》がくっつき、無明になる。 スーパークラスとして明知があり、それに、《客塵》という属性がつき、そのサブクラスとして無用が派生する。 なので、二元論にはならない、と思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。   ○ 凡夫にも自性清浄心があるとしても――ブッダターがやどるとしても―― ゴータマは自分の得たさとりをいくら説いてもその凡夫が理解することはないであろうと踏んだ。  こういうわけです。そういう意味でのクラス分けは 人間の差別になります。  ◇ 《こころの自在性》を得たと言っている、  ☆ いづれにしても 凡夫クラスの理解しえない何かを得たと言っているわけです。これは インチキでしょう。  ◇ 実際は、《こころの自在性》を邪魔していたものが落ちた  ☆ という状態になることを 凡夫クラスは 理解しえないし 成就しえないと思ったわけです。その思いは変わらなかったということでしょう。  ◇ 明知と無明は、クラスが異なるので、二元論にはなりません。  ☆ この意味は おそらく世界が違うといったことではないかと解釈します。ふたつの別の世界があると言ったなら そして明知の世界は 凡夫には到達することは無理だと思ったしそう思っていたなら 問題です。   ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  わたしが思うに、  明知に《客塵》がくっつき、無明になる。  スーパークラスとして明知があり、それに、《客塵》という属性がつき、そのサブクラスとして無用が派生する。  なので、二元論にはならない、と思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《二元論》という用語は やっかいなのでなるべく使わないですすめようと思うのですが  おそらく善因楽果や悪因苦果といった縁起説をいうときには それは大きく《無明》の世界における出来事を言っているのだと考えられます。ブッダなる人間には あてはまらない。つまり《明知》の状態にある場合は 世界が違うのであり そこでは因果関係は当てはまらない。  こういう区別は 人間の差別であるという物言いです。  それに ややあやふやなまま発言しますが  ◇ 明知に《客塵》がくっつき、無明になる。  ☆ というのとは別の定義があるように思われます。  すなわち 世界は《苦》であるのですし 《無明》は 人間の根本的生存欲と解釈した事例もあって これは ブッダのみがよくそこから解脱することのできる何らかの根元を言っているのではないかという推測です。  つまり言いたいことは もし仮りに   ◇ 明知に《客塵》がくっつき、無明になる。  ☆ といった単純な成り立ちだとしても この《客塵》が取り除かれるのは ブッダただ独りだと言っていると考えられるのです。この人間差別は インチキです。

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その他の回答 (34)

noname#195588
noname#195588
回答No.25

モーガラージャ 愚鈍の王 バラモンの名前に詳しくないのでなんとも言えませんが こんな名前をつけるのでしょうか? 親鸞みたいな人だったんでしょうか。 愚禿。 もしかしてですけど、 ひょっとして、 後世の仏教徒が、創作した話だったりして? バラモンをわざわざ愚かと呼んで。 いや、もちろん自分から愚かという場合もありますけどね。 わからない。 そんな名前の人もいる、くらいでいいか。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ひとの名前のつけ方は いろいろなのでしょうね。  特に昔は わるいイメージの言葉でも 平気で・あるいはかえって積極的につけたようにも思われます。  このモーガラージャの命名が そうであるかどうか分からないので 例示は 考えるのをやめます。  現代にも ノ・テーウ(盧大愚)という大統領がいましたね。  ★ 後世の仏教徒が、創作した話だったりして?  ☆ までの可能性があるとすると 分からなくなります。

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noname#195588
noname#195588
回答No.24

読み返したら自分の 空はある。という表現は奇妙だと思った。 いわゆる、存在への問い。というのだろうか。 空が否定の概念だとしても その空は存在している。 その存在を問題にしよう。みたいな話。 存在忘却。 以前、空の処格について 文法上は場所があるとかの話もそうだけど。 それにしても 空は単数形。世界も単数形なんですね。 仏教は世界がたくさんあるとかいいそうな気もするんですが そうでもないんですね。 般若心経とかの空は単数形なんだろうか? 今見て、思ったんですが mogharāja ですけど、 パーリ語辞典 水野弘元著 mogha:a.[〃] 空虚の,無用の,愚鈍の.acc.moghaṃ 徒らに,空虚に.-jiṇṇa 徒らに老いたる.-dhamma 愚痴法.-purisa 愚人.-vāra 空時分.-suttaka 空糸. http://palidictionary.appspot.com/#/browse/m/mogha それで、サンスクリットのほうだと http://spokensanskrit.de/index.php?script=HK&beginning=0+&tinput=mogha+&direction=AU さらに調べると amoghaというのがあって ~~~~~~~~~~~~~~~ om amogha vairocana オーム (聖音) 不空なる御方よ 毘盧遮那仏(大日如来)よ オン アボキャ ベイロシャノウ  唵 阿謨伽 尾盧左曩 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E7%9C%9F%E8%A8%80 ~~~~~~~~~~~~~~~ amoghaで、不空と訳している。 不空羂索観音 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A9%BA%E7%BE%82%E7%B4%A2%E8%A6%B3%E9%9F%B3 ~~~~~~~~~~~~~~~ モーガラージャは空王 もしくは、空虚な王とも訳せるでしょうね。 空虚な王が 死の王と対比されている。 名前から詩の内容を考えたんだろうか。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  読み返したら自分の  空はある。という表現は奇妙だと思った。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《空》なんて言っても はじめは何のことかと思うでしょうね。そう受け取るでしょうね。  ▲ (スッタニパータ) ~~~~~~~~~~~  ・(中村元:1119) 世界が空なりと観ぜよ。    ・ 1119:《空っぽ(ゼロ)なるさま〔と〕( Suññato ) 世界‐を( loka-ṃ )見なさい( avekkhassu )。  ▼ (般若心経) ~~~~~~~~~~~~~~  (え) 色即是空:      ruupam    suunyata,      かたち‐ハ  空っぽ(ゼロ)‐なるさま〔なり〕  (お) 空即是色     suunyata          iva   ruupam.      空っぽ(ゼロ)‐なるさまハ まさに かたち〔なり〕。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たとえば 秋の夕暮れのなかにいて もののあはれを知ったという。世界を見たということは わが存在についても 何がしかのことを思ったということなのでしょうね。つまり 存在観のもんだいであるかも。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  モーガラージャは空王  もしくは、空虚な王とも訳せるでしょうね。  空虚な王が  死の王と対比されている。  名前から詩の内容を考えたんだろうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いろいろですね。

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  • 0fool0
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回答No.23

ふーるです。 >質問者が納得するように証明してから そういうことは言ってください。話になりません。 会ったこともないのに どうしてそんな浅はかな発言を為すにおよぶのですか? そんなうすっぺらな自己表現しか出来ないのですか。 納得するしないは貴方の勝手でしょうねぇ。 会った事も無い貴方は、何故に無責任に他者の否定が出来るのでしょう? 私が薄っぺらなのは結構ですが、読解力と言う物も人によりけりですからね。

bragelonne
質問者

お礼

 めちゃくちゃです。

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noname#195588
noname#195588
回答No.22

“Suññato lokaṃ avekkhassu, Mogharāja sadā sato; Attānudiṭṭhiṃ ūhacca, Evaṃ maccutaro siyā; Evaṃ lokaṃ avekkhantaṃ, Maccurājā na passatī”ti. Sutta Nipāta 5.16 Mogharājamāṇavapucchā http://suttacentral.net/snp5.16/pi/ トップページからは http://suttacentral.net/ Pali→Khuddaka Nikāya → Sutta Nipāta → Mogharājamāṇavapucchā と進んでください。 ~~~~~~~~~~~~~~ Suttanipata (Pali Text) PTS Version (Andersen/Smith) https://mywebspace.wisc.edu/jrblack/web/BU/DL/suttanipata.html 詩句の番号は1119。 ~~~~~~~~~~~~~~ とりあえず、興味があってもパーリ文が 無い人のために、該当箇所を引用しておきます。 PTS版は中村元の訳と比較できるので便利。 スッタニパータでも成立の古いとされる 第四章と第五章のうち、 第五章に、空のことばが出てくる。 やっぱり、空は昔からある、のか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ▲ ( Sutta Nipāta 5.16 )~~~~~~~~~  “Suññato lokaṃ avekkhassu,  Mogharāja sadā sato;  Attānudiṭṭhiṃ ūhacca,  Evaṃ maccutaro siyā;  Evaṃ lokaṃ avekkhantaṃ,  Maccurājā na passatī”ti.  ▼(中村元訳) ~~~~~~~~~~~~  1119 (ブッダが答えた)、  「つねによく気をつけ、  自我に固執する見解をうち破って、  世界が空なりと観ぜよ。  そうすれば死を乗り越えることができるであろう。  このように世界を観ずる人を、  <死の王>は、見ることがない。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  こころみました。  ○ (スッタニパータ §5.彼岸にいたる道の章) ~~~~~~~ §16 若いバラモンのモーガ-ラージャ(愚鈍-王)の質問( Mogha-rāja-māṇava-pucchā )  1119:  《空っぽなるさま〔と〕( Suññato ) 世界‐を( loka-ṃ )見なさい( avekkhassu )。  モーガラージャよ( Mogharāja ) つねに( sadā ) 心に思って( sato )〔いなさい〕  自己( Attānu- )〔の〕見解-を( -diṭṭh-iṃ ) 取り除き‐つつ(ūhac-ca ),  このように( Evaṃ )死〔を〕乗り越えたさまに( maccu-taro ) あられたし( siyā );  このように( Evaṃ ) 世界を( lokaṃ ) 見る‐者‐を( avekkha-nta-ṃ ),    死‐王は( Maccu-rājā ) 無い( na ) 見い出す( passati )》と( iti )。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▽ 自己( Attānu- ): attan (われ、自己)が 語基。    sg.nom.: attā // pl.nom.(および acc. ): attā, attāno  つまり 複数・主格の attāno と解した。けれど attāno ではなく attānu と成っている。これは ほかの読み解きを考えつかないので 苦肉の解釈。

bragelonne
質問者

補足

 パーリ語注解です。  1. Mogharāja / Maccurājā のラージャについて:      ▽ (水野) http://palidictionary.appspot.com/browse/r/r%C4%81jan    ・rājan:rājā m.[skt. 〃] 王,国王.   (sg.) nom.rājā; voc.rāja; acc.rājānaṃ; instr.raññā,rājinā; dat.gen.rañño,rājino,raññassa; loc.raññe,raññi;     ☆ -a 語基( m.; n.)ではなく -an 語基の m. (男性)。    ・sg./ nom.: rājā;     ・sg. / voc.: rāja  2. avekkhassu < avekkhati:[ava-ikkhati,BSk.avīkṣate] 観察する,見る.  水野辞典では 直説法の中に 命令形として分類されている。  能動態ではなく 反照態(=中間態・再帰形)の命令形。        sg. 1 -e / 2 -ssu / 3 -tam  3. sato < sata : adj. [sarati √smṛ の pp.,Sk.smṛta] 憶念せる,念の,念あり,具念,正念の  4. ūhacca : adv.(1) [ūharati< √ud-hṛ の ger.] 揭げて,舉げて; 引き出して,除いて     ger. -ya, -tya  5. maccu-taro の taro <  tara adj. 渡る、度脱の       < tarati (1)( √tr) 渡る、超える、横切る  6. siyā < atthi (skt. asti):ある。存在する。        opt.(希求法):       act. sg.1: siyam, siyaa, assam // pl.1:assaama          sg.2: siyaa, assa //    pl.2: assatha          sg.3: siyaa, assa //   pl.3:siyum, assu    7. avekkhantaṃ < avekkhanta: present active participle (ppr)    現在分詞:語基に -t (-nt ), -nta, -maana, -aana 等を接尾する。  8. ・・・ passatī” ti. < passati” iti.

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回答No.21

独り言なんですがね~、 考えてみれば、  sunnato lokam スッタニパータのこれ、 sunnatoが主語か、lokamが主語か、わかんないんですよね~。 sunnatoを主語と考えれば、 「空性は世界である」 の意味になる。 『般若心経』に出てくる、 《空即是色》 の意味じゃないのか、この部分は・・・。 わたしは、 倒置されているのだと考えましたが、 ここには解釈が入っている。 テキストの語順を尊重すれば、 「空は世界である」 としなければならない。 テキストは尊重されるべきである!! lokamの語尾《m》は対格を意識しているかもしれない。 (英語でいう目的語なんです、「観察せよ」の目的語なんす、この部分) 独り言ですよ、 ひとりごと、 《ひ・と・り・ご・と》!!

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  エラーがありました。  ruupam / ruupa は -a 語基の中性で ruupam が 単数・対格だけではなく 主格でもありました。  (水野弘元:パーリ語辞典 1989二訂版)  lokam / loka は -a 語基で男性名詞ですので lokam は対格であるようです。

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回答No.20

こんばんは。 スッタニパータ1119では、  Suññato lokam avekkhassu でsuññataという語が出てきます。 最初は、 たいして気にも止めなかったんですが、 使われているのは、 《suñña》ではなく、《suññata》!! 「『世界は空性(?)である』と観察せよ!!」 というのが原意。 ───世界は、性質ではないだろう!!─── suññata = suñña + ta:空性(?) loka:世界、世間 avekkhati:観察する、見る 実はこれ、 般若心経の 「色即是空」 「rUpaM zUnyatA:るーぱむ しゅーにゃたー」 と同じ語法。 ───色即是空以降の空はすべて《zUnytA》です─── (サンスクリットは京都・ハーバード記法) パーリ、サンスクリットともに、形容詞ではなく、抽象名詞が使われている。 これはポイントかもしれない・・・。 で、ちょいと思ったのですが、 観自在は《Avalokiteśvara》で、観音さま・・・。 サンスクリットの《avalokate》《avalokayati》とパーリの《avekkhati》とは、意味的には大差ない。 avakkhati = ava + ikkati ikkhatiは「see」とか「look」くらいの意味・・・。 avaは「down」、「away」、「off」くらいの意味をもつ接頭字。 √lokは、見たまんま、英語の「look」でしょうから・・・。 (調べてませんよ~)。 観音菩薩 ───────── 梵名のアヴァローキテーシュヴァラとは、ava(遍く)+lokita(見る、見た)+īśvara(自在者)という語の合成語との説が現在では優勢である。玄奘三蔵による訳「観自在菩薩」はそれを採用していることになる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E8%8F%A9%E8%96%A9 ───────── 似ていると思うのは、 オレだけだろうか? ひとりごと、独り言、 《ひ・と・り・ご・と》!! ちなみに、 般若心経の《五蘊皆空》の《空》は、  svabhAva-zUnyAn すゔぁばーう゛ぁ しゅーにゃーん と、 形容詞の《しゅーにゃ》が使われています。 (意味は、《自性・svabhAva》欠如している) 「《しゅーにゃ・zUnya》ではないだろう」と細かいことは気になさらず。 細かい人間は、どこの世界でも嫌われます(笑い)。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ▲ (スッタニパータ1119) ~~~~~~~~~  (あ)Suññato      lokam    avekkhassu.    (nom. sg.)       (acc. sg.)  (med.imper.2sg.)   空っぽ‐なるさま〔ト〕   世界ヲ  見よ。  ▼ (般若心経) ~~~~~~~~~~~~~~~   http://www.hannya.net/bongo.htm  (い) Aryaavalokitesvaro     bodhisattvo      貴い‐遍く‐見られた‐あるじ  目覚めた‐存在‐性  (う) svabhaava-suunyaan     自‐性  ‐空っぽ  (え)「色即是空」:「rUpaM  zUnyatA:るーぱむ しゅーにゃたー」      ruupam    suunyata,      かたち‐ヲ  空っぽ‐なるさま〔ト〕  (お) 空即是色     suunyata      iva   ruupam.      空っぽ‐なるさまハ まさに かたちヲ    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ■ ava(遍く)+lokita(見る、見た)+īśvara(自在者)  ☆ このロキタは なぜ《見られた》ではないのだろう。  わたしは 習熟 いまだしです。

bragelonne
質問者

補足

 あちゃあ。エラーがありました。  ruupam は -a 語基の中性で 単数・対格だけではなく 主格でもありました。  lokam / loka は -a 語基で男性名詞ですので lokam は対格であるようです。  ▼ (般若心経) ~~~~~~~~~~~~~~  (え)「色即是空」:「rUpaM  zUnyatA:るーぱむ しゅーにゃたー」      ruupam    suunyata,      かたち‐ハ  空っぽ‐なるさま〔なり〕  (お) 空即是色     suunyata      iva   ruupam.      空っぽ‐なるさまハ まさに かたち〔なり〕。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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noname#195588
noname#195588
回答No.19

~~~~~~~~~~~~~~~ 注意 (e) āse の形の複数主格は非常にまれです。 これはベーダの複数主格に対応します。 http://apostata.web.fc2.com/pali/pract-pali/05-chapterV.html ~~~~~~~~~~~~~~~ 以前、問題にしたāseですけど、 結局これは古いのか新しいのか。 それがわからない。 そのサイトでもヴェーダに関係するような説明 でしょうけど、なんとも。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ▲ (パーリ語 名詞曲用) ~~~~~~~~~~~~  120. 語幹が a で終わる男性名詞の格語尾は、以下のようになります。  単数・・・・・・・・・複数  ____________________  主  o         主  a, āse  属  ssa       属  naṁ  与  ssa, āya    与  naṁ  対  ṁ        対  e  具  ina       具  ehi, ebhi  奪  ā, smā, mhā, to  奪  ehi, ebhi  処  i, smiṁ, mhi   処  su  呼  (語幹と同様), ā   呼  a  * 注意 (e) āse の形の複数主格は非常にまれです。 これはベーダの複数主格に対応します。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▼(水野弘元:パーリ語辞典) ~~~~~~~~   -a 語基  m. 語例: buddha (仏)/ dhammma (法) nom. sg.: buddho / dhammo nom. pl.: buddā ( buddhāse ) / dhammā ( dhammāse )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ふつう -ā と -āse とふたつの語形があれば 長いほうが古いと考えられるとは思うのですが。でも わたしでは何とも言えません。《ヱーダ》って言っていますね。    ▲ i (短い) で終わる名詞の曲用 ~~~~~~~~~~    http://apostata.web.fc2.com/pali/pract-pali/05-chapterV.html  130. i で終わる男性名詞の格語尾  単数・・・・・・・・・・・・・複数  _____________________  主 ――          主 ī, yo  属 ssa, no       属 naṁ  与 ssa, no       与 naṁ  対 ṁ           対 ī, yo  具 nā          具 hi, bhi  奪 nā, smā, mhā     奪 hi, bhi  処 smiṁ, mhi      処 su  呼 ――          呼 ī, yo  * 注意 (e) いくつかの古形がまれに見られます:  (i) 単数属格 -e:  例 mune。  (ii) 単数処格 -o:  例 ādo、また  (iii) 単数処格 -e: 例 gire。  (iv) 単数具格 -ena: 例 raṁsena。  (v) 複数主格 -no: 例 saramatino  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 確かにこの古形が使われているかどうかで 原典のふるい・あたらしいが判定されうるかも分かりません。

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  • tomoka_m
  • ベストアンサー率9% (15/151)
回答No.18

悟ったつもりの者をインチキと言うのであれば、 質問者の妄言を戯れ言ではないと主張できる 根拠があるのですか? 造語と思い込みで自己主張しているのは、哲学とは言いません。 造語無しで日本語を記載する事はできませんか? これができなければ、タダの厨二病でしかありません。 キチガイにキチガイ扱いされるのは、該当人物の評価を上げ、 発言者の評価を著しく下げるだけなのです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 質問者の妄言を戯れ言ではないと主張できる根拠があるのですか?  ☆ 根拠を示して 考えを述べ これを問うています。  それは《妄言》だ ただの《戯れ言》だというご見解であれば その理由を示して回答を寄せてくださいな。  哲学カテにおける情報交換というのは そういうかたちで成り立ちます。  ★ 造語と思い込みで自己主張しているのは、哲学とは言いません。  ☆ あたらしい哲学には あたらしい言葉も必要です。ですから いづれにしても 理由を示して ご自分の見解をあきらかにしてください。  《自己主張》でない自己発言は ありません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  造語無しで日本語を記載する事はできませんか?  これができなければ、タダの厨二病でしかありません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ぢゃあ じんるいの言葉は ホモ・サピエンスと成ったその時点での語彙から増えた部分は みな《厨二病》のしわざだとなります。  ★ キチガイにキチガイ扱いされるのは、該当人物の評価を上げ、 / 発言者の評価を著しく下げるだけなのです。  ☆ ここは 削除されるでしょう。

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  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.17

ふーるです。 そうですねぇ、釈尊の肩を持ちまくっていますねぇ、私w 別に擁護するつもりは全く無いのですが、耳にする限り、良い人ですよ? 勿論、現状の寺に行っても全く声は聞こえませんがw >さとりを得たというのに その中身は言わない。 これは別にケチって言わないのではないのです。 言えないと言うか、伝えられないのです。 大体言葉で言えれば文字で残せます。 別に私は釈尊以前・以降に同じ境地に至った人間がいない等と思っていません。 しかし、布教の人生を歩みきった人間はいなかったと思っています。 私だって文字に出来るのならば証明したいぐらいですよ。 私はすごいんだぞってw

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 耳にする限り、良い人ですよ?  ☆ 質問者が納得するように証明してから そういうことは言ってください。話になりません。  ★ 別に私は釈尊以前・以降に同じ境地に至った人間がいない等と思っていません。  ☆ 会ったこともないのに どうしてそんな浅はかな発言を為すにおよぶのですか?  そんなうすっぺらな自己表現しか出来ないのですか。

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noname#195588
noname#195588
回答No.16

現存最古と推定される仏教写本と申しますのは、白樺の樹皮製の29巻の巻物で、現在はロンドンの大英図書館に保管されております。白樺の樹皮をつなぎ合わせて、幅14~25センチ、縦2.3メートルから2.5メートルにしたものを、表を内側にして下から巻いたものです。ギリシャのパピルスの形状を真似たものと推定されています。この写本は法蔵部への寄進と銘された土器の壺の中に入っていました。壺から取り出される前に撮影された写真から壺の中に写本が入っていることがわかります。写本を入れた壺がどこから出たか明確ではありませんが、伝聞によるとハッダ、現在のジャララバードの近くで発見されたそうです。ハッダは大乗仏教の授記の思想と関係する場所ですが、この写本には大乗仏教の要素が全く見られないことが注目されます。  この写本の素材は白樺の樹皮です。インド全般ではターラという椰子の葉(貝葉)が写本の素材としてよく使われましたが、ガンダーラやその周辺から中央アジアにかけては主に白樺の樹皮が用いられました。写本というと紙に書くものと思われがちですが、紙は中国で発明されたもので、それが中国から中央アジアを経てインドまで入ってくるのはこの写本よりずっと後になります。  この写本の言語はガンダーラ語です。ガンダーラ語というのは、ガンダーラ周辺で少なくとも紀元前3世紀頃から紀元後4世紀頃まで使われていた言語です。 http://www.let.osaka-u.ac.jp/indology/Blb.htm

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ▲ 現存最古と推定される仏教写本  ▲ この写本の言語はガンダーラ語です。ガンダーラ語というのは、ガンダーラ周辺で少なくとも紀元前3世紀頃から紀元後4世紀頃まで使われていた言語です。    ▲ 白樺の樹皮製の29巻の巻物  ☆ ちなみに ブック( book )は ブナの木( beech )から作られたとか。

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     1. 《空》を 神と見立てればよいものを あくまで人間の境地だと言い張った。  2. すなわち 《目覚めた(ブッダ)》状態としてであり 言ってみれば《神として》ではなく 《神の場に行き来できる存在》として にんげんなる《われ》にその境地があるのだと言い張った。  3. ブッダ状態としての《さとり》とは ここで あくまで《確率》として存在するというものである。言いかえると その存在についてもその状態についても ついぞ人が確定して認識しえず言葉によって表現しえない場なのだと。  4. 言いかえると ブッダよ あんたのさとりを 示せという疑いや要求に対しては あくまでシラを切る。《表現しえず》と。  さとったのなら 人びとに分かるように説明せよと言われても 沈黙をまもる。  人びとが それはこれこれの状態を言うのではないか? と尋ねた場合には いやいや さとりとは そんな生ぬるい境地などではないと答える。  では どうなのか? という問い返しには だんまりを決め込む。  5. したがって ブッダのさとりは 表現の問題におさまるかとさえ考えられる。  人びとに分かるように説明しえないならば そのさとりは インチキではないか? という問いに対しては いやいや われははるか昔からはるかこの先までブッダである。と言って聞かない。  説明が出来ていないではないか? という問いに対して いやいや われは その現場を取り押さえられても姦淫はしていないとどこまでも言い張るごとく ブッダなりと答える。ブッダはブッダなんだよおーんと。  ――このような《表現およびやり取りの問題》にすべてをおさめようというおそろしく決意の固い宗教家なのではないか?  6. 一方で 人びとの求道の心を引き出し ただし他方では さとりの証明にかんしては 量子を特定して示すことは出来ないというような論理で どこまでも逃げ しかもブッダ論をぶちつづける。      *  この質問は 下記の質問でのやり取りを承けています。   【Q:ブディズムの再生はあるか。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7563932.html  その趣旨説明から 次のくだりをふたたびかかげます。上の    1. 《空》を 神と見立てればよいものを・・・  について説明している箇所ですから。  ☆☆ (信仰の類型) ~~~~~  ( d ) 有神論および無神論それぞれとしての信仰を 類型的にまとめてみます。互いに同等であると見るというものです。  |非経験の場|経験世界の分身|信仰の形(非思考の庭)|  ○ 神道  |かみ|かみがみ|もののあはれを知る;きよらかなおそれ|  ○ ヒンドゥーイズム  |ブラフマン|神々|アートマンなるわれ|  ○ ブディズム  |空|神々|如来蔵(信じないと信じる)|  |マハーワイローチャナ|マンダラ|秘密なるわざ|  |アミターユス|無し|絶対他力;自然法爾|  ○ 聖書  |ヤフヱフ|無し|名を受け容れる|  |キリスト|無し|名を受け容れる|  |アッラーフ|無し|クルアーンに拠る|    ○ 西欧古典古代  |宇宙霊魂;世界霊魂|神々|《わたし》|  ~~~~~~~~~~  7. 有神論(たとえば 梵我一如)をしりぞけ それでも無神論〔という信仰〕の立ち場をも採らないならば その存在論・その人間の境地論は 《非思考の庭》としての信仰と 思考としての経験思想とのあいだで どっちつかずのままに終わる。というおそれが 大きいと思われる。  果たして どうか?

  • やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。

     『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。  § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?  ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~    ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。  と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。  それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)   ~~~~~~~~~~~  【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?  【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?  § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?  ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。  (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?  ▲(自灯明・法灯明) ~~~~    ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。  (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)  ~~~~~~  【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?  【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?  つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。  ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?   みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?    《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。    これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。  以上について よろしくご教授ください。

  • われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか

     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • ブッダは ブラフマンの掌で暴れまわった孫悟空では?

     ブッダの独自性は何でしょう?  そのむかしアブラハムという人に《信じる》という非思考の場が芽生えました。  神とわたしとの関係がその信じるままであるならば――という意味は 非思考のはたらきとして記憶能力において精神および身体の秩序がととのっているならばということですが そうであるならば―― とうぜんのごとくひとはやわらがしめられている。こころはやすらかである。ひとと仲良くやっていく。  と知りました。  このことは 古代インドでは神をブラフマン(梵)と呼び《わたし》をアートマン(我)と捉えて その両者の一体(つまり 梵我一如)という思想に表わしました。  あるいは同じく神を プラトンでしたかは 世界霊魂(プシュケー・コスムー)と呼びました。ローマ人たちは アニマ・ムンディと訳し換えて使っています。その後ドイツ人らは 同じくヱ゛ルト・ゼーレと言ったりしていました。  ところで ゴータマ・ブッダは 天の邪鬼よろしく 無我(アン‐アートマン)の説を唱えました。(諸法無我)。ほかのものに依存せずみづから成ってあるという存在を――つまり ブラフマニズム(バラモン教)の宇宙霊であるブラフマンのことを言っているのですが これを―― そんなものは無いと言いました。(もしくは 有るとも無いとも言わないと説明しました)。  ですから いわゆる仏性は――あたかも 宇宙霊のブラフマンが 《わたし》としてのアートマンに宿るというそのようなものとわれわれは捉えていると思うのですが その仏性は―― ブッダは説いていません。あくまで後世になって説かれたものです。   ただしそのブッダも あたかもみづからが宇宙霊となって 自分はブッダとして永遠に生き続けており 自由自在に好きなように歴史に即して人間となって現われるのだというようなことを言ったとされています。つまりそのように後世の人びとは 捉えるようになっています。  乱暴にひと言で言ってしまうなら ブッダは ブラフマニズムという思想の中で孫悟空のように飛び回り暴れまわっていたということではないでしょうか。  《成道》を得たブッダに おまえの悟りを人びとに伝えたまえとブラフマンが勧めた(梵天勧請)と自分(ブッダ)では言っていますが 果たして どれだけの独自性があったでしょうか?  (ないと思って言っているわけではないのですが 批判にまわりたいと思っていますし そのことに道理はあると考えています)。  もし仏性という普遍性の定理は別として言えば もはやブディズムは惰性としての仏教しかないのではないでしょうか? 橋から落ちた犬に引導を渡すのは 哲学の役目だと考えます。

  • われわれは各々が ブッダであると何故言わないか

     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

  • 色即是空=信頼しないこと?

    仏教の考え方について勉強をしています。 その中でも色即是空という考え方、 物事への執着、煩悩を捨てよという考え方は、 とても本質的で素晴らしい考え方であると思っています。 しかし、良い物も悪い物も根源的には全く同じもの、 表裏一体であって、絶対のものではない、 色即是空の教えは、一見本質的ではありますが、 目の前に見える美しい物、楽しい物すら、 それをそういうものであると心から信じるなという考え方にもなりませんか? 目に見えるものを疑ってかかる行為は、 逆に心の中の不安を増加させてしまう行為であるとも思うのですが、 私の色即是空の解釈は間違っているのでしょうか。 色即是空の教えの上では、人は今目に見えているものをそれとして、 心から信じることはできないのでしょうか。 「色即是空の教え」と「信じること」について、 どなたか無知な私にご教授いただけたらと思っております。 よろしくお願い致します。

  • ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう

     ▼ (ヰキぺ:釈迦) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6  § 3 生涯  § 3.3 成道  そこで(* 難行苦行を要らぬこととして捨てたあと) 釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。  ナイランジャナー(nairaJjanaa、尼連禅河、にれんぜんが)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala) の樹(後に菩提樹と言われる)の下で、「今、証りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で観想に入った。  すると、釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。壮絶な戦闘が丸1日続いた末、釈迦はこれを退け大悟する。これを「成道」という。・・・  7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起・十二因縁を悟った。  8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。  22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。  その結果、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうし、了ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。  ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むヴァーラーナシー (vaaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて 《さとり》の中身は 何でしょう? おしえてください。    つまり 中身はありますか? という問いです。  つまり 何もないのではないか? 何もないのに ただ《目覚めた(ブッダ)》と言ってみただけなのではないか?  つまり 人びとはこれを真に受けて それはとうといものだと 何の根拠もなしに・また根拠がないからこそ 受け留め あたかも正負の正の意味でのいけにえの小羊としてのように受け容れるようになっている。だけなのではないか? これが問いです。   つまり 《さとり》の中身は 何でしょう?  なければ 世界史上まれにみるペテン師であったと考えられます。  集団催眠のごとくであり それは 人びとも自分たちのほうから積極的に(?)その催眠事業に参加して行っている。と分析すべきでしょうか。    自分に対してマインドコントロールをおこなうことは 自由なのでしょうが それによって ものごとを見るふつうの目が曇らされているなら 哲学の問題になります。  たとえば 上に引用したくだりについてなら なぜゴータマは梵天勧請を受け容れたかの理由がさだかではありません。そういう子供だましの話に人びとが乗って行ってしまっていることは 理性も感性もダメにされている証拠だと考えられるからです。――これは 社会公共にとっての問題です。  すなわち人びとは ゴータマ・ペテン宗教によって骨抜きにされ 二千年以上にわたってみづからすすんで たましいまでもふにゃふにゃに成ってしまった。のではないか?

  • 空仏一如!?

     霊のお話です。  宇宙の霊と 《小宇宙(わたし)》の霊と。  1. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン    我:アートマン  2. ゴータマ・ブッダ:無無一如    無:空・シューナター・ゼロ    無:無我・アン‐アートマン;ニルワーナ  3. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・仏性  4. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  5. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  6. シントウイズム:もののあはれを知る    =きよらかなおそれ    =聖なる甘え    =わび・さび  ご教授ください。

  • それでは ブッダのさとりとは何だったのか

     以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。    【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】     http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。  ☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。  空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。  みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。  慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。  そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。  【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。  ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】  【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】  次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。   ○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか   http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?

  • ゴータマが生は苦だと言ったのは悪魔の使いである。

     生が苦だと言ったことについて たとえば人間には《根本的な生存欲》があって・あるから これが無明≒煩悩≒渇愛となって どうしても目覚めることを妨げているといった見方もあります。《苦》というのは そういう意味なのだと。  ところが もし道をゆづってそこまでを認めたとしても そのときには 目覚めが けっきょくゴータマの編み出した方法によるしか無いのだということを認めたことにほかなりません。どういうことか?  つまり ひとびとよ この世に生きるには 誰もに難病が俟っている。それを治す薬は わたしが説く目覚め方式によるよりほかに無い。と言ったことになる。  これは ただのマッチポンプ商法にほかならない。蝦蟇の油売りである。まさに 天上天下唯我独尊なる論理のグローバリズムである。  苦を説くゴータマは 悪魔の権化である。なぜなら その《唯一の目覚めの方法》は ついに明らかにならなかった。そのアタマの中は空っぽであった。ゆえに。  足場だけを組んだ。家本体は築けなかった。ゆえに。    《生は 苦なり》の部分を取り外せば まだ ブディズムには多少なりとも 見るべき思想はあるかも知れない。ただし ゴータマは ゼロであるだけでなく マイナスである。百害あって一利無し。ではないか。  これを問います。