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ためになる仏教論

こんにちは。 ためになる仏教の説話、論など、皆さんご存知であれば、教えていただきたく思います。 どうぞよろしくお願いします。

  • a_hona
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質問者が選んだベストアンサー

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回答No.4

こんにちは。 ☆ためになる仏教の説話、論など、皆さんご存知であれば、教えていただきたく思います。 ◇本ですと、 横山紘一 仏教思想へのいざない 大法輪閣 あたりがおすすめでしょうか。 この一冊で、 原始仏教・部派仏教・般若・唯識 などの思想を一通り知ることができます。 八宗綱要 凝然大徳/鎌田茂雄全訳注 講談社 なども、おすすめです。 ベックの『仏教』(上下二巻)岩波文庫 などもいい本です。 オカルトが入っている、仏教とヨーガを同一視している、という批判もありますけれども・・・。 説話ですと・・・、 法華経の常不軽菩薩の話が、 個人的には好きですかね。 http://www.kosei-kai.or.jp/images/faith/jyofukyobosappon20.pdf

a_hona
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 色々とご紹介いただきました。ありがとうございます。 常不軽菩薩はいいですよね。彼の忍耐には恐れ入ります。とても自分にはできないことだと思います。

その他の回答 (6)

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.7

全ての段階が仏教の名の下に日本にあることです。

a_hona
質問者

お礼

全ての段階とは、精神的な何かのプロセスのことでしょうか。 ご回答ありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.6

こんばんは。 仏教は、いいです。 無理が無い。

a_hona
質問者

お礼

確かに仏教は、熱くもなく、冷たくもなく、ちょうどいい温度の説話が多いですね、私もそう思います。

noname#186640
noname#186640
回答No.5

むかしむかし、お釈迦様は、長生きしました。 おしまい。 わたしは、このお話を聞いて救われました。 「美人薄命」といわれる世論があったので、 わたしは早死にするんじゃないかと恐れて いましたが、古代インド哲学を学べば長生き できるんじゃないかと思い立ち、いま学んで いるところです。要は、生を諦めないことです。

a_hona
質問者

お礼

ユニークな回答をありがとうございます。 ゆったりと、安らぎの中で長生きできたなら幸せそうですね。仏教から生き方を学ぶことも多そうです。

回答No.3

 こんにちは。  何も無いというのが 取り敢えずの回答です。  たとえば  【Q:キサーゴータミーの説話について】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7880066.html  ○ 母親のキサーゴータミーは 《それまで死というものを見たことがなかった》ので 人びとがわが子を火葬に付すのをこばみ 《子どもの薬》を手に入れようとする。  ☆ このとき《それまで死者を見たことも聞いたこともない》というのが ウソです。あり得ないことです。  そのように この説話もガラガラと音を立ててくづれて行きます。

a_hona
質問者

お礼

この死とは、死の悲しみを知らなかったという意味でしょう。これが読み解けないということは、回答者は人の気持ちが分からないということを自ら露顕していることになります。 それにしても貧しい見解だと思います。何もないだなんて。 回答者が仏教を嫌うのは自由だが、答えもないのにわざわざ来るとは物好きですね。

  • alterd1953
  • ベストアンサー率20% (239/1173)
回答No.2

いくつかの仏教関連書を読んで心に残った言葉を挙げます。 細部の表現は違っているかも知れませんが 「共に学ぶ者が居なければ、林の中の象のように一人歩め」 「肘は外に曲がらない」等です。 後、NHKの「100分de名著」で知りましたが 「般若心経」に出て来る「色即是空」の「空」は何も無いことではなく この世の全てを統べる法則の事を表わしていて、それを知ることは決して出来ないのだと言う事を知って一応の納得を得ました。 それと、これと言って言葉は残っていませんが 「臨済録」は、へたな哲学書を凌駕する迫力がありました。

a_hona
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 一人歩めの詩は私も好きです。 空という考えも魅力的ですね。 臨在録は読んだことがないのですが。

noname#195588
noname#195588
回答No.1

群盲象を評す http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A4%E7%9B%B2%E8%B1%A1%E3%82%92%E8%A9%95%E3%81%99 ウィキペディアによると ジャイナ教の話らしい。 てっきり仏教の話かと思っていた。 もちろん仏教にもあって 鏡面王というのが出て来るそうだ。 宗教論争なんてのは結局、この話がぴったりだと思う。 ただ、そうやって見えない人たちが騒ぐのを 喜んで見ているような人がいるんだろう、という悲しさもある。 グノーシス主義では 盲目の神ヤルダバオートというのが登場するそうだ。 この世界そのものが、傲慢な誰かによって創造された 誰かの、つまりは自分ではない他人の意志でしかない というのは、不条理さや理不尽さを説明するのには ちょうどいいと思う。 もしくは、自分の意識よりは、無意識に重点を置くとか。 もちろん目は見えたほうがいい。 視覚は明らかに人間にとって特別なものである。 ただ、見る見られるという主観と客観の対立をたまには はずす必要も哲学的には必要だと思う。 でも、主観と客観なら聴覚もそうなわけで、 ようは、感覚について少し考えてみる必要があるということだろう。 この世界はマーヤー(幻影)に過ぎない。 というのはシャンカラだったか。 四無量心のうち、原始仏教であきらかに重要なのは 捨であるが、私は、悲を強調してみた。 やむにやまれぬ同情。汝はそれなり。 結局、他人を助けるのは自分を助けたいのだ、 というみもふたもなさ。ヤージュニャヴァルキヤが何度もくり返す、 アートマンが愛しい。ということ。 とはいえ、理性的な慈のほうがいいだろう。英訳だとフレンドリーで驚いた。 喜もあるんだけど、仏教で喜びはどれくらい思想的に深化しているのか 調べないとわからないけど、調べる気がない。 ついでに私が仏教の登場人物で、一番共感するのは アシタ仙である。 ゴータマ・ブッダが生まれたとき、 そのうちブッダになるだろうが、自分はそれを見ることは出来ないと 悲しんだ人物である。 遠い未来には、もっとすばらしい世界あるとしても、 それは今で言えば、科学技術の進歩。 自分はその恩恵を得ることなく、中途半端な時代に死んでいく。 もっと後世の人間からは、当時の人間はこんなことも知らなかったのかと いわれてしまうような悲しさ。 しかし、 悲劇よりは喜劇のほうがいいと思う。 どうも思想や哲学をやる人間は悲劇好きが多いのか。 悲劇のほうが評価が高い。

a_hona
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 うまくお礼の言葉が見つかりませんが、宗教論争など本当にくだらないと私も思います。もっとためになることがあるだろうと思い質問して見ました。

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