• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう)

ゴータマ・ブッダのさとりとは?中身はあるのか?

hokekyou333の回答

回答No.41

回答No29に回答した者ですが、即お礼文をいただき、ありがとうございます。 》 ★ 私の中での結論は、ゴータマはペテン師なんかではないわけですが^^。  ☆ という反論を――何であるかその根拠の分からない理由によって〔と判断せざるを得なかったのですが〕―― 発言するというまでの状態にあるということは ゴータマ・マジックなるペテンにかかっていることになりませんか。  それとも ゴータマは 何もさとっていないのだというご議論でしょうか。《 とのことですが、 ということは、ご質問自体すでにゴータマ・ブッダへの批判が前提となっている点では「質問するまでもない事だ」としてその答えを知っていながら質問している姿勢を意味するものと思いますが^^、 また、私自身のNo29に「質問への質問」という形の最初の質問を書かせていただいたことには、お答えいただけなかったことも含めて、 ここでは、そちらの仏教の長い歴史(記述されてきた事実)の悪い面への叱咤の情熱ゆえと理解させていただき、No29の質問は、場合によって無視していいことをもこちらから語っていますので、むしかえし繰り返すをことやめ、先へと次の論議展開を求めて回答をつづけさせていただきましょう。 ただし、すでに前回の回答に語っているように、私の方からの論議は、現代の文献学から類推されるところのブッダ自身の言動についての後の記述は、とても史実としての記述とは言えないものであり、今となってはこれこそ「わかりえない」ものであり、 したがって、せいぜい後のその創作記述群が、その実在の人物の言動のなにがしかの影響は受けているだろうとの推理の下にて、さらにそう推理して判断ではなくて推理は推理としたまま「そのような推理が自然ではないか」という程度のことしか導き出せないことを、その史実に関してはですが前提としている点は、まず書かせていただきます。 (そんなことは百も承知をいわれるところでしょうが、これを読んでいる人は大勢おられるだろうことを念頭に書いていますので) 一つ一つ議論してゆくしか、時間的に無理であることはすでに書かせていただきましたが、 》 さて 《さとり》の中身は 何でしょう? おしえてください。    つまり 中身はありますか? という問いです。  つまり 何もないのではないか? 何もないのに ただ《目覚めた(ブッダ)》と言ってみただけなのではないか?《 との情熱ほとばしる問について、 ほんとうにとても一括りで回答出来ない世界が仏教思想の歴史となってしまっているというふうに私が認識しているため(あるいは現在そう思い込んでいるため と思っていてくださってもかまいません) 能力の無さゆえなのかもしれませんが、 やはり、一つ一つ、一つづつ議論を展開させていただこうと思います。 宜しくお願いいたします。 では、まず「生老病死」というブッダの生涯の物語でも、それについて思索したことが記述創作されているその内容について、最初には私流に徹底批判のメスをいれておきましょう。 物語、つまりおとぎ話しの中でのそのへんの記述自体については、不問に付しますが、後々までそのへんを多くのブッディストが何の疑問も持たず重要なブッダの根本思想として受け取ってきた形跡があるのは明らかだと思われますので、そのことへの徹底批判です。 「生老病死」いくらなんでも、こんなむちゃくちゃな人生の分類の仕方があるでしょうか? いえ、これは別に人生を分類したのではなく、それぞれをたまたま一緒に語っただけというのであれば、それって哲学ですらないと言えませんか? これは、今これを読まれている人への質問なのですが、宗教や哲学自体が、全人生を思索せんとすることを前提とした思索の世界であることは思索されていますか? 明らかに、これを宗教思想と呼ぶのであれば、この「生」「老」「病」「死」の思索展開は、仏教思想において関連性のあるものとして語られているはずだということはごく当然のこととして判断されてしまうところでしょう。 つまり明らかにここは「人生の分類」の一つとして語られてしまっているということなのです。 このこと自体、もし詳しい説明をするとなると長くなりすぎますが、 そのへんの簡単な説明をしておきましょう。 まず、例えば「死」という事態につても、私達の具体的な切実な生活の真っただ中においては、あまりにもさまざまなケースがある世界なのではないですか? 一度設備業の仕事で高い所から ふいに落ちたことがあります。 まず逆さまの景色が見えた後、私は気を失っていました。 次の瞬間、私は左手で頭をかばう形でコンクリートの角に落ちて横たわっていることに気が付きました。 つまり角と左手が頭を守っていた形です。 アバラは折れていましたので助けを呼ぶ声は出ませんでしたが、ちょうど近くの人が見つけて救急車を呼んでくれ助かった形です。 これは、もしその最後の逆さまの景色の後に、もし頭を打っていたならば、私はもうここに^^いなかったことを意味します。 なんの苦しみも無かった可能性もありますし、恐怖も無く日常と命が消える最後の体験としての死がそこにあったことになります。 一方、肺胞が一つ一つつぶれてゆく肺炎の死の床にて意識を失えずにいたこともあります。最後は右は全滅、左の肺胞もあと少ししか残っていない状態であと三日の命を医者が説明しているのを聞いています。 極度の苦痛、耐えきれない苦痛の世界、でありつつ死の恐怖と孤独の極限がそこに加わった苦しみの世界がそこにはありました。 同じ死の世界でも、その間にありとあらゆる別世界があります。 老衰して静かに荘厳に死にゆく素朴な村の老人の死と、これからこそ生きられると思っていたものごころついたばかりの子供らの死、戦争状態にて、殺されゆく死、助けたい大人と助けを呼ぶ子供たち、でもみずからも無念の中なにも助けられずに死んでゆく大人たちの死、争いの渦中の恐怖故、殺しあわないではいられなくなった普段は虫も殺せない人たちの威嚇の声と死、…、書けばきりのないあらゆる死の世界があります。 「死」の苦からの解脱?えっっ何が言いたいのでしょう? これ、ここまでの説明では反論のある人はいるのでしょうけれども、ここでは「死」についての具体的なこの存在の大地においての描写を持って簡単な説明とさせていただきました。 「生」はどうなのでしょう。これこそ、何万冊の本でも語りつくせない快苦とその浅深の千差万別な世界、これは書かないでおきましょう。 しかし、まず人生における「生」を具体的に語らんとするならば、健康な心身における無限の幸せの可能性を語る必要があります。信頼という当たり前の人間体験の向こうには無限の触れ合いの豊かさの可能性もあります。 同じ生であっても、例えば、私自身いじめられた恐怖で、頑丈な体が先程書いた死の床へと繋がり、とうとう気がふれるまでになってしまった体験すらあります。 気がふれている状態の時は別に苦しいわけでは無いですよ。しかし、その前後、特にその直後気が付いた時が惨めさの極致とも言える状態となります。 とても普段の人間の意識状態ではなかったことを克明に憶えているからです。 「たった今自分は気が狂っていた」と気が付くほど惨めな事は無いと思います。 ある人は、そのような極限の環境でないのに、ふとしたはずみで人を殺めてしまい、その後のその「生」はもがくような後悔の念にさいなまれ続けるのがその人にとっての「生」となったかもしれません。 で、 《「生」の苦》からの解脱って何が言いたいのでしょうね。解る人いるのでしょか。 また、同じく「老」ってその生の成熟期の世界ですよね。、 苦しい姿だけなのでしょうか? 「病」こそ、苦しみそのものですよね。それをどうして他の3つといっしょに、しかも苦かの解脱として語らんとしたのでしょう? ほんとうに苦しみを理解していたのでしょうか? それとも、人生を何も知らない王子様が少し人生を垣間見て考えに耽った姿にすぎないということのこれはその証明となってしまうような思想ととらえられるのでしょうか? おっと紙数も時間も無くなってきました。 私のこの《「生老病死」思想への批判》は、ほんとうはもっと徹底したものです。 ただ、このへんは考えるまでもないことと、質問者様は言いたいところなのでしょう。 論議するまでもないばかばかしい問題とかたずけたいのではないですか? さてここからが今回の質問者様への質問です。 ですが、これを「ブッダは何を悟ったのか」という最初の設問の推理(あくまで私は推理の問題ととらえているわけですよ)にあてはめて、どうして後の人がこんないい加減な雲をつかむような分類を生んでしまったのかを推理してみて、これでこのへんブッダもただの馬鹿だったと推論しきれるのですか? 質問者様はどう思われますか?、この「生老病死」にまず限っての質問です。 今度は答えていただけるでしょうか? すみません、一遍にはとても語れないのが仏教思想の世界(いまでは確かに大きな流れは分類されていますのであくまで無数の紙数が必要だなどということではないですが)、どうしてもすぐに「さとり」とかのその存在についても疑問視されるお言葉に関してならなおさら、簡単には語りがたく、こんな形の論議展開となってしまいます。 おつきあいください。 宜しくお願いします。 今回は以上です。

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  • われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか

     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • われわれは各々が ブッダであると何故言わないか

     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

  • やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。

     『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。  § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?  ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~    ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。  と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。  それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)   ~~~~~~~~~~~  【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?  【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?  § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?  ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。  (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?  ▲(自灯明・法灯明) ~~~~    ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。  (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)  ~~~~~~  【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?  【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?  つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。  ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?   みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?    《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。    これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。  以上について よろしくご教授ください。

  • ゴータマ・ア‐ブッダのいんちきについて問います。

     §1. 《無明》をすべてのものごとの下敷きにした。  (1) その無明(=煩悩=渇愛=無知)を みづからのトレードマークなるブッダとは 別の世界だとした。自分はシガラミから足を洗っているというわけである。  (2) あるいはつまり 世の中のものごとをすべて《苦》に還元する見方を――ブッダであるからこそそのように見るのだという言い方で――打ち出した。  (3) なぜ人びとは このイカサマにやられてしまったのか? 《人間の根本的生存欲》としての無明およびそれから自由になれないことの苦 これを押し出されて人びとは そのペテンについて行くまでに どうしてあたまがイカレてしまったのか?  §2. ブラフマニズムにおけるアートマンに対して 《アン‐アートマン》(アン‐は 語源として アン‐インストールのアン‐と同じ)と言って否定したが これの意味があいまいであり あいまいなままに終えてしまった。  (4) 好意的に解釈することはできる。ブラフマン神との一体性としてのアートマンつまり梵我一如を否定し 言わば《無梵無我一如》としてのけっきょく信仰を言ったのだとすれば それは 《無い神(無梵))》を信じる《非思考の庭》のことである。  (5) あるいはまた アートマンを他に拠らずみづからにのみ拠って存在する霊なる実体と捉えてこれを否定し アン‐アートマン(無我)と言ったとすれば これは――やはり前項の無神論に通じるとともに―― けっきょくのところモノゴトはみなその《実体》がないととなえた。すなわち 色即是空としての《空》観である。  (6) ところが §1の《無明》観がブッダでない人間(凡夫)には一生にも二生にもあてはまるというのであれば (4)の信仰は持ち得ないと見たし (5)の空観も きわめてあいまいであり あいまいのままに終わった。  (7) 空観についての誤解は 色即是空としてこの経験世界は 何一つ確かなものはないと見たそのあと 反転して空即是色というように それでも世界は仮象としては現象しているのだという見方を伴なわなくなっているそのことだ。  (8) だから 人びとは《煩悩を消す・無くす》とか《私利私欲を離れ 無私になるのだよ》だとか 《ただの精神論》に片向き そこにブディズム研究という《観念の大伽藍》をきづいて来ている。  §3. けれども 称号=商号なる《ブッダ》にけっきょく中身がなかった。   (9) 観念の大伽藍が築かれて行くのと 玉ねぎの皮むきが延々とつづけられるのとは 同じひとつのコトである。    【Q:ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう】    http://okwave.jp/qa/q8314264.html  (10) 《無明》が下敷きになっているからには ものごとを善(広義のプラス)と悪とに分けて おおきくは善因善果か悪因悪果かのどちらか一本線でのみ 人びとの歴史的ないとなみを捉えることしか出来ない。  (11) そういう解釈をこそみちびいた。無明の一元論(または 明知との二元論)ゆえ。または 世界の《苦》視ゆえ。   【Q:《因果の道理》は 道理ではない。】    http://okwave.jp/qa/q8329251.html  (11) 無明・煩悩が インチキなのである。だから われわれの意志行為は つねに こうである。   ○ われらが因果論:     人間因(善悪・仏性煩悩をふくむ)⇒ 人間果(善と悪をふくむ)  ここに無明をも《わたし》が 活用するのだ。善用するにまで到れば 鬼に金棒 孫悟空に如意棒である。     (12) あるいは それとも    【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】    http://okwave.jp/qa/q7526932.html

  • 仏教における小乗と大乗の違いとは?

    仏教における小乗と大乗の違いとはどのようなものでしょうかという質問です。 釈尊の背中を見ていると、菩提樹下でお悟りを開くまでが小乗で、梵天勧請を受けて、伝道を開始して、弟子を増やし教化する段階が大乗のように見えますが、経典主義の方々には違った見方もあると思います。 回答よろしくお願いします。

  • それでは ブッダのさとりとは何だったのか

     以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。    【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】     http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。  ☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。  空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。  みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。  慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。  そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。  【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。  ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】  【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】  次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。   ○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか   http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?

  • 乳粥

    牛乳歴史クイズの質問第4弾です。 http://www.zennyuren.or.jp/chisiki/kentei/rekisi_01.htm 上記サイトに、 「お釈迦さまが1杯の乳粥を飲んで悟りを開いたという「乳粥」とは? 」 といふクイズがあります。解説は、かうです。 「『 ヨーグルト 』仏教の開祖釈迦(ゴータマ・シッタルタ)にも、乳をめぐるエピソードが残されています。悟りを開くため出家して山奥で断食苦行をしていた釈迦は、悟りが開けぬまま衰弱したからだで山を下りていきました。その途中、出会ったひとりの乙女スジャータから1杯の乳粥(インドでダヒというヨーグルト)を捧げられます。あまりのおいしさに驚き、その瞬間に悟りを開いたというのです。 」 私は、インドで「キール」と呼ばれる食品だという話は、聞いたことがありますが、「ダヒ」といふヨーグルトだといふ説は初耳です。 「乳粥」は、ほんとうは、何なのですか。