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復活とは? 不死の境地とは?

相談 蟻(@soudan-ari)の回答

回答No.12

ズバリ、これがわたし(NO1)の本音 ☆ ええ。一般に《復活》と言えば クリスチアニズムのものと思われます。 質問者さまは、復活を明確に定義されていると思われませんが、復活は死からの復活と考えますと、人類史上、死からの復活の検証はなされたと聞いたことがありません。仮にわたしの知らないところであったとしても、統計的にほぼ100%死からの復活は無いと言えるでしょう。(信仰的は尊重されるべきですし、幻覚として見る場合もありえますが。) 私達は事象の正否を判断する場合、有りうる可能性は認めますが一般化されてない場合は、否とします。これは、私だけでなく多くの日本人や、国際的にも同様の判断に立つと思います。例えば、尖閣諸島や竹島などのように主張が相容れない場合、武力行使が起こったとしても、正しい解決方法としては国際法などの検証を待つべきだろうと考えます。 で、本題に戻りますが、人間を初め動物も含めて復活は有り得ないだろうと見ます。IP細胞も復活とは言えないし、輪廻転生も復活とは違うでしょうから。これが結論です。しかし、個々の精神的事情により、立ちきれない思いや、精神的な葛藤などが起因して復活を切望する場合は、個々の対応として完全否定するものではありません。ここで、事象と精神で区分する必要があると考えられます。 以上です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 復活を明確に定義されていると思われませんが  ☆ はい。一例を挙げておりますが きちんとした定義はかかげておりません。  これには 事由があります。       復活とは 将来おこるべきこととしていま臨むのがただしい  と考えるからです。生身の人間でいるかぎりで ほんとうには分からないと考えられます。  そうして ひとつの実例を提出して問うています。  ★ 復活は死からの復活と考えますと  ☆ ええ。おそらく そう捉えることになると思います。  ★ 人類史上、死からの復活の検証はなされたと聞いたことがありません。  ☆ おっしゃるとおりです。聖書にたとえばイエスのほかにも ラザロが――死んだようになったあと息を吹き返し生き返ったというのではなく そうではなく すでに死臭をただよわせていたところ――復活したという物語が語られています。  そもそもこれも 検証をするしないの前に 虚構であります。物語として語られています。強いて言えば ちょうど《神》というものを証明つきでかかげるのではなくただそれを想定するに過ぎないのと同じように この《復活》ということも それとして想定されている。ということであり そうであるに過ぎないことです。  ★ 仮にわたしの知らないところであったとしても、統計的にほぼ100%死からの復活は無いと言えるでしょう。(信仰的は尊重されるべきですし、幻覚として見る場合もありえますが。)  ☆ 《物語として想定する》ことであるゆえ その復活については《将来おこるべきこととして いま臨む〔のがただしい〕》となります。  証明できるとは思っておらず 証明しようともしていません。あるいは 語ったことについて真偽を検証しようとしているのではなく 《経験世界において起こる事象》としてはあり得ないと考えられることを なぜか想定したのです。それを受け容れるひとは 受け容れるということです。ただそれだけのことです。  そしてこのことは  ★ 信仰的は尊重されるべきですし  ☆ というふうに一般になっています。信教・良心の自由という公理です。  ★ 幻覚  ☆ は 経験事象です。  ただし その想定した復活について あたかも時には予感することが――そのひとの主観にあっては――あるかも知れません。予感は 経験事象に属します。となると 世間一般的には この予感も まぼろしである。と言ったほうが 妥当な議論である。こうも考えます。一般に ヒラメキですね。      ★ 私達は事象の正否を判断する場合、有りうる可能性は認めますが一般化されてない場合は、否とします。  ☆ これは 微妙なところです。  一方で 神だとか復活だとかという《非経験の場》にかかわる《想定》の話である 他方では その《経験しうべからざる非思考のことがら》を予感するという経験事象の話である。  ですから そのひとが予感したと言うなら そのひとの主観のかぎりで 予感という事象は起こったとなると思います。そして ただしその予感の内容は(予感したという対象は) 非経験の場という雲をつかむことがらです。  総合して捉えるに その人が主観において 想定されている神のことを――そのもとにあるなら あたかも永遠の時空間を生きると想定の結果考えられる――予感したということまでは その成否を判断するのを別としつつ みとめられるのだと考えます。    つまり 《否とする》のではなく 成否は分からずその判断を棚上げして 予感を持った(ヒラメキが得られた)ということ自体についてはみとめる。こういう取り扱いになると考えます。  ★ で、本題に戻りますが、人間を初め動物も含めて復活は有り得ないだろうと見ます。IP細胞も復活とは言えないし、輪廻転生も復活とは違うでしょうから。これが結論です。  ☆ ええ。そしてこの結論は 初めから決まっています。みとめられています。つまりなぜなら 経験事象としては 復活があり得ない。こう言っているからです。  しかも想定としての神ないし復活というのは そのあとに 主観においてゆるされるかぎりで 物語をおのが胸にいだくとき あぁ 予感があったとなればそのひとは 復活について さらに問い求めることになるでしょう。そしてただ それだけのことなのです。この大前提において この質問は成り立っています。  すなわち  ★ しかし、個々の精神的事情により、立ちきれない思いや、精神的な葛藤などが起因して復活を切望する場合は、個々の対応として完全否定するものではありません。ここで、事象と精神で区分する必要があると考えられます。  ☆ と捉えられることがらは あくまで経験事象のことです。そのかぎりで 誰もに起こりうる事象だとして取り扱われます。そうならば経験事象一般というのは 非経験の場ないし非思考の庭にとっては どうでもよいことなのです。神を想定する以前の段階(あるいは次元)の世界での問題だと捉えられるからです。    むろん経験事象を取り扱うのは 経験科学があります。しかもこの経験科学が扱い得るかぎりで――なぜなら 予感ないしヒラメキということ自体は 経験行為だからなのですが・したがって半分そうではないことがらであっても扱おうとするには―― 《想定しておく》というかたちで議論が起こされる。こう考えてのことです。  

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