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復活とは? 不死の境地とは?

相談 蟻(@soudan-ari)の回答

回答No.1

以下はわたしの思考可能なレベルです。 復活はキリスト教を主流としたものと解釈しますが、それで良かったでしょうか? 1、終わりを起点にして、思考することは出来ます。でも、人間の創作や思考でもない限り、それらは時間の流れに従うことを前提に考えます。不可逆である事。 2、思考の停止が主観的な終わりで、絶対的な終わりは思考の枠を超えていると考えます。 3、永遠の現在とはどのような状態なのでしょう?(1)時間の停止 (2)不滅しない時系列の中にある今。時間が永遠に存在する根拠は無いですね。一秒、一時間、一日、365日・・・、太陽の動きによる人間が決めた尺度。ですから時間は人間の尺度です。永遠では無いかもしれません。宇宙の成り立ちを垣間見る時、その存在自体が人間と関わりなく存在しているようにも感じます。変化する宇宙は永遠とは見られてないと思われます。目に見えないミクロの世界にも同じように言えます。 4、復活は無からのもので、それを自覚出来るのは御自身か近しい知人などしか出来ないように思うのです。「ああ、私は一度死んだけれども今再び生きてる。」。逆に「あなたは復活したんです。」と言われても全く自覚が無ければ、再生ではなく本人にすればゼロからの始まりでしょう。肉体と思考で認識できなければ復活ではないと思います。 復活したと自己主張する事は出来でも、それと同時に証明も不可欠と思います。小説などで、前世は○○だったとかありますが、客観性を求めるものではありません。 何かの参考にでもなればと思い、主観的に列記して見ました。

bragelonne
質問者

お礼

 ええーっと まづは そうだん‐ありさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  個々のくだりに反応そのままを述べるかたちで見てまいります。  ★ 復活はキリスト教を主流としたものと解釈しますが、それで良かったでしょうか?  ☆ ええ。一般に《復活》と言えば クリスチアニズムのものと思われます。  そしてしかも まったくどの宗教のオシエであるかにまったくこだわらないで ご見解をのべていただけばよいと考えています。  ★ 1、終わりを起点にして、思考することは出来ます。でも、人間の創作や思考でもない限り、それらは時間の流れに従うことを前提に考えます。不可逆である事。  ☆ ちょっと意味がとりにくいのですが   ☆☆ 1. すべてを 終わり=目的から 始める。  ☆ というのは たとえば分かりやすく言えば 《わたしは 首相になる》という《終わり=目的》を 初めに置くということです。《国家を事実上になう公民層が 市民たちに大政奉還をすること》からコトを始める。といった場合を言います。  ★ 2、思考の停止が主観的な終わりで、絶対的な終わりは思考の枠を超えていると考えます。  ☆ 前項での説明のようにお応えすることになります。  つまり 《おわり=目的》を初めに大前提として据えてすべてそのために行動するというとき 志半ばにして寿命が尽きたという場合もあり得ます。しかし そんなことは考慮に入れません。《おわり=目的》から始めて 行動していればよいという意味です。中断されてもかまいません。そこで終わったら終わったというだけのことです。  ★ 3、永遠の現在とはどのような状態なのでしょう? (1)時間の停止 (2)不滅しない時系列の中にある今。時間が永遠に存在する根拠は無いですね。一秒、一時間、一日、365日・・・、太陽の動きによる人間が決めた尺度。ですから時間は人間の尺度です。永遠では無いかもしれません。宇宙の成り立ちを垣間見る時、その存在自体が人間と関わりなく存在しているようにも感じます。変化する宇宙は永遠とは見られてないと思われます。目に見えないミクロの世界にも同じように言えます。  ☆ ちょうど前項でお応えしたように コトが始められていれば その《終わり=目的――つまり英語( end )や仏語( fin )は 一語でそのような両義を持ち得ます――》に向けて行動がおこなわれていればそうしている限りで その都度の一時点たる現在は その過程をあゆむワレにとって 言わば永遠です。《永遠》の連続する過程です。なぜなら 大前提に《おわり=目的》をかかげているからです。  一瞬一瞬がつねに《終わり=目的》を見ているからには そのつど永遠です。永遠の現在が そういうかたちと中身として過程して行きます。  こういった単純なことを言って 《永遠の現在》と呼んでいます。  ★ 4、復活は無からのもので、それを自覚出来るのは御自身か近しい知人などしか出来ないように思うのです。「ああ、私は一度死んだけれども今再び生きてる。」。逆に「あなたは復活したんです。」と言われても全く自覚が無ければ、再生ではなく本人にすればゼロからの始まりでしょう。肉体と思考で認識できなければ復活ではないと思います。  ☆ 前項で説明したごとく まづ 主観的なものです。  そしてその主観において 《おわり= わが人生の基本的な目的》のもとに永遠の現在をつねに経るかたちで 行動しつづけているなら もうそれよりほかに《おわり》がないということであるからには すでに《死から自由である》――途中で挫折しても その挫折の時点までは 死を寄せつけない――。死を前方に見てさまようことがなくなったなら 死んだ状態から生き返って 言わば復活している。  むろん重ねてのべれば すべてはあくまで 主観の内に起こっている出来事です。  そして 主観にかんするかぎりで《永遠の現在》を生きているという実感はあるでしょうし 人間の主観が採りうるあらゆる形態のなかで 《因果関係〔としての最終の死〕から自由》な状態であるのではないか? そういう意味です。  ほかの人たちがどう見てどう判断しようと おそらくこの《復活劇》は それとして 活きた人生だと考えられます。  途中の挫折も ものかは となると考えます。  ★ 復活したと自己主張する事は出来でも、それと同時に証明も不可欠と思います。小説などで、前世は○○だったとかありますが、客観性を求めるものではありません。  ☆ 《自己主張》は ことさら おこないません。すべての人が それぞれの思想でその主観を生きるというように その中のひとつの事例であるということでしかありません。  《証明》もしようと思わない。なぜなら しなくてもこの復活劇は生きて行くことが出来るからです。  前世も来世も関係ありません。《客観性》も関係ありません。

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