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デカルトの疑いについて
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発作的に出された質問、ということなので、厳密なお考えがあって書かれた文章ではないかと思います。 ただ誤解があるように思え、気になって仕方がないので、非常に申し訳ないのですが、指摘させてください。 >デカルトの「我思うゆえに我有り」と言う言葉は、徹底的に疑うことによって、到達した言葉だと聞きましたが これは非常によく陥りがちな誤りです。 デカルトの第一原理は、デカルト個人が思索を経た後に、「たどりついた到達点」ではありません。 数学の世界では、古典幾何学は「ユークリッド公理」に基づいていることはご存じですね。 ユークリッドは、まず点や線を定義し、5つの公理を示しています。 公理とは、「証明する必要のない、明らかに自明な法則」ですから、ここから出発して、それらを組み合わせることにより、いろいろな定理を証明していきます。公理が正しければ、そこから導かれた定理に疑問の余地はありません。 デカルトは数学的方法をもって、唯一の真実の学問的方法であると考えました。 すべての認識は、数学的方法にのっとって、初めて確実な知識に到達する、と考えたんです。 こうした観点から、哲学も、数学を規範として打ち立てようとした。 まず、誰にとってもあきらかな直観的真理を求めて(点と線のように)、これを公理として、確実な真理を演繹し、展開していこうとしたんです。 この点と線にあたるのが、「我思うゆえに我有り」という哲学の第一原理なのです。 到達点ではなく、ここを確実な足場として、一切の論理を組み立てていこうとしたのです。 デカルトは考えます。 従来学問といわれたものは、ばらばらの知識の寄せ集めに過ぎない。 したがって、一般的に真理と言われているものすべてを疑い、まったく新たに真理を見出していかなければならない。 『省察』を読んでいただければわかるかと思うのですが、この第一原理を導き出していく徹底した懐疑、という部分、「われわれが一切のものを疑いつくしたときにおいて」…と、一貫して主語が「われわれ」になっていることに注目してください。 われわれは、一切を疑うことができる。 けれども、この自分が疑っているという事実、自分が思惟しつつ存在するということのみは決してこれを疑うことができない。 こうしてデカルトは哲学の出発点となるべき確実な真理に到達したのですが、これは、公理が誰にとっても真理であるように、誰にとっても確実なことです。 しかも、これは推論によってえられたもの、「すべて思惟するものは存在する」「われは思惟する」「ゆえにわれは存在する」という、三段論法によって得られたものではなく(詳しくは書きませんが、デカルトの時代は未だスコラ哲学の影響の強い時代で、デカルト自身もスコラ哲学を学んでいます。スコラ哲学は、厳密に概念措定をおこない、三段論法を用います)、直接的・直観的な認識なのです。 したがって、疑っている人は、あまねく真理を求めようとする人、と理解できるのではないでしょうか。 ※なお、文中に「ユークリッド公理」を喩えとして用いているのは、あくまでも私の比喩としてご理解ください。 ユークリッド幾何学と、デカルトが体系化した解析幾何学の関係を見ていく能力は私にはありません。
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お礼
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