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デカルトの疑いについて

ghostbusterの回答

回答No.5

わー、ごめんなさい。 質問者さんがそう書いていらっしゃったから使ったんですけど、私の方が「発作的」なんて書いたら失礼でしたね。 そんなつもりじゃなくて、私の方は、質問の要点から離れて、言葉の使い方みたいなところに突っ込んで、揚げ足取りみたいだなー、止めようかなー、と思いながら書いてたので、つい、あんな表現になってしまいました。 やっぱりユークリッド幾何学を例に取ったのは不適切でしたね。 そうです。 質問者さんがおっしゃるように、デカルトは数学を「真の学問」としつつも、それにも懐疑を及ぼしています。 なぜならば、数学においてもわれわれは誤ることがある。 われわれが確実だと思っていても、神が常に誤らせていないとは断言できないからです。 で、あらゆるものを疑い尽くしたときに、ただひとつ確実なもの、それが疑っている「われ」なんですね。 ただ、以前、私自身が理解していくとき、デカルトが目指そうとしたものは、ユークリッド公理のようなもので、点や線にあたるもの=コギト、という理解の仕方をしたんです。それで、そんなふうな書き方をしたのですが、確かに誤解を生む表現だったので、訂正しておきます。 時間については私自身、ちょっとよくわからないので(延長という性質を持つ物体とは別個に定義づけていたかよく覚えていません)、また別の機会があれば、ということにしておいてください。

noname#15238
質問者

お礼

わっはっはっははは~(笑って誤魔化しましょう。 今朝起きたら、すっかり熱も下がり、正常になりました。 皆様のお薬が効いたようです。 それでは有難うございました、では、あまりにも無責任です、症状の顛末についてご報告させてもらいます、馬鹿なやつとお笑いください。 他で書いたように、少々混乱していました、最初は、すべてを疑った後、疑えない「我」にたどり着くより、始めに疑ったときに「疑っている我」に気が付けば良いのに、と言うばかげた考え、すぐ気がついたのですが、その後、「我」「存在」が同時に疑えないとするとき、「疑っている我」と疑えない我」同時に存在しては矛盾しているのではと、思い込んでしまいましたのです。 「思う、あり」を「思う内容、あり」と、取り違えてしまった、恥ずかしい質問でした。以上お騒わせしました。

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