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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:吉田松陰を尊敬している男性について。)

吉田松陰を尊敬している男性について

このQ&Aのポイント
  • 吉田松陰を尊敬している男性の共通点とは
  • 幼児教育の指導者だった場合、子どもに対してどんなメリット・デメリットがあるか
  • 吉田松陰を尊敬している男性の特徴とは

質問者が選んだベストアンサー

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noname#196757
noname#196757
回答No.7

こんにちは。 NO6の回答者のisokenさんが、 吉田松陰と言う人物を過不足なく言い表しておられます。 その通りでしょう・・・私もそう思います。 幕末動乱のあの時期、見るべき業績は何一つ無いように、 私は思います。 質問について少しお話しさせてください。 松陰と言う人は天性の教育家であり、その面においては 天才とも言えるべき人です。 その園長先生を松陰に見たてるなら、 suer34さんのお子さんの長所を見つけて上手に伸ばしてくれるでしょう。 あるいは正義の何たるかも教えてくれるはずです。 松陰は「絶望」と言う言葉を知りません・・・。 お子さんに諦めないと言うことも併せて教えてくれると思います。 デメリットについてもお尋ねです。 松陰と言う人は純粋過ぎるくらいに純粋な人です・・・ 為に、時に弟子にすらその性格を疎まれます。 これは現代の我々の社会にも往々にしてあることでしょう。 ただ、教育には関係のないことのように思います。 私がsuer34さんでしたら、私も子供を預けると思います。 ただ、教育は先生に任せきりにして良いものではありません。 suer34さんも注意深く見守ることは必要でしょうね。 最後にどなたかが桂小五郎に触れておられました。 補足の意味で・・・。 桂と言う人は松陰の明倫館教授時代の兵学の弟子です。 松下村塾の塾生ではありません。 年齢も三つほど下ですから師弟と言うよりは、 兄事している友人とみるべきでしょうね。 ついでですから、叔父の文之進は玉木の家に養子に入り、 玉木文之進です。 文之進の上に兄大助がおり、吉田の家に養子に入ります。 松陰はこの叔父大助の養子に入って吉田の当主になります。

suer34
質問者

お礼

知りたかった事を教えて頂きありがとうございました。先生に任せきりにせず、注意深く見守っていきたいと思います。

その他の回答 (6)

  • isoken
  • ベストアンサー率32% (596/1825)
回答No.6

>吉田松陰を尊敬している男性について。 或いは日本史上の偉人で、吉田松陰ほどその評価が別れる人物は、稀かも知れません。 ペリー艦隊に赴き密航を企てたとか、幕府を転覆する陰謀を企てたとか諸説ありますが、あの時代に於いてはさほどの勲章ではなく、そして珍しい事でもなかった。 つまり叔父の玉木文之進から松下村塾という私塾を受け継ぎ、僅か数年の間主催した点を除けば、彼の業績を語れる方は恐らく少ないでしょう。 それも特別の事を教授した訳ではなさそうで、伊藤博文などは「寺子屋のつもりで通っていた」と明言しているほど。 ところが長じてその塾生の何人かが長州閥の中核を成す一大勢力を形成し、その中から名だたる明治の元勲が輩出した事に依り、本来であれば日本史の片隅にひっそりと埋もれるはずであった人物が、一躍日本史上に燦然と輝く巨人となった、そういう事であろうかと思われます。 言うなれば、かつて松下村塾で学んだ長州系の元勲達の純粋な思慕と、一方に於いて胡散臭い思惑(松蔭を偶像化する事で、自らも尊しとする意図)の双方が彼の業績としてフィード・バックされ、その人格が幾分デフォルメされて後世に伝えられた、そう評価する向きも少なくないでしょう。 一方私が松蔭に感じる殆んど全ての魅力は、彼の不器用な処世術と、武士道を煮詰めて純粋培養されたような、その精神にあります。 恐らくその園長先生も、人材育成術を含めた松蔭の人柄に傾倒される方なのでしょう、そして私の価値尺度もそれを否定しない、依って私であればその園長先生に我が子を託すかも知れませんが・・。 思うに、幼少期ほど人格形成に於ける純度と大人の影響力が高い為、全ては御両親の価値観でお決めになるべき、何しろお子様へのリスクと最終的な責任は、御両親が背負われるのですから。

suer34
質問者

お礼

他の回答者様と違った切り口からのお答え、ありがとうございます。我が子を託す重要性、ひしひしと感じております。 isokenさんは、我が子を託すかもしれない。。というご回答、非常に参考にさせて頂きました。ありがとうございました、

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11113)
回答No.5

面白く読んでいただくために、ちょっとマンガチックに話をデフォルメしますが、ウソは書きません。はっきりいってとんでもない人です・笑。 実家が貧しかったので、幼くして親戚に養子に出されました。この親戚の親父(玉木文之進)がとてつもなく猛烈な人でした。幼い松陰先生に学問を叩きこんだのですが、ある日、松陰先生が蚊に刺されたので掻いたら文之進先生は大激怒し松陰先生をボコボコにしました(本当)。その理由は 「今は学問をやっているときで、学問のときのお前は公人である。しかして、蚊にさされたところを掻くという行為は私人としての行為である。公人のときにワタクシの愉しみをするとは学者として何事であるか!お前はその年齢になってもそれが分からんのかあっ!」 というものでした。ちなみにこのとき松陰先生は・・・6歳!・・・のときでした。 こんな調子でスパルタ教育というのが甘く聞こえるほどの猛烈な教育を受け、実の母親が「いっそ息子が死んだほうが楽になるのでは?」と思うほどだったそうです。 なお、文之進先生の名誉のためにフォローすると、公人のときは猛烈なほどにスパルタでしたが、私人のときは松陰先生を溺愛したんだそうですよ。 かくして、松陰先生は11歳にして藩主の前で講義をするほどとなりました。このときに藩主、毛利慶親に「こいつァ頭がいい」と認められたのが彼の生涯を決定づけました。 松陰先生の情熱を通り越した激アツな行動は枚挙にいとまがありません。 まず、22歳のときに脱藩をします。脱藩というのは今でいえばパスポート(通行手形)を持たずに国外(この時代は毛利藩から外に、という意味です)に出たためです。実は松陰先生、毛利藩に通行手形の申請はしており、その許可も下りていました。ただ、発行が遅れていたのです。だけど、友達との約束の日に間に合わなかったんですね。そしたら、脱藩しちゃった・笑。その理由が 「僕は友人と約束をした。その約束を破ることは僕がウソをついたことになる!友人を裏切ることはできない!」 っつーものでした。いやもちろん周囲は必死に止めましたさ。だって、脱藩というのはお家断絶になるほどの重罪ですもの。だけどさ、「僕は一緒に旅に出ると約束した!約束を裏切ることはできない!」とアツいことをいって行動しちゃったのです。 この事件は、藩主が「手形の発行が遅れたのはこっちの落ち度だし、松陰のいうことは(武士道的に)正しい。なんとかせい」っちゅうことで苦肉の策で納められました。 有名なのは、あのペリーの黒船に密航しようとしたことです。いやもうこれはシャレにならない重罪です。その根源も、 「僕はあの船に乗りたい!アメリカに行き様々なことを学びたい!ああ、このほとばしる情熱をどうにも抑えられないッ!」 というものでした。漁船を盗んで黒船に乗り込み、アメリカに連れて行けととてつもないムチャクチャなことをいいます。もちろんペリー側もいきなりこんな奴を抱え込んだら重大な外交問題に発展しかねないので断られたのですが、甲板を叩きながら「我、アメリカに渡らんと欲す!我、アメリカに渡らんと欲す!!」と涙ながらに叫んだそうです。 んで、断られたら先生はその足で自首しに行きます。その理由は、もう説明不要ですよね。ウソをつくのは許さない人なのです。 ところで松陰先生の教育における根幹は、「出会った人は、みな師」です。もちろん、その方針も生涯ブレることはありませんでした。相手が娼婦だろうが、あるいは獄中でも出会った人に「僕は学問を教えるから、君も僕に教えてくれッ!」とどストレートに迫りまくったそうですよ。そのせいかどうか、一説には松陰先生は生涯純潔を守ったともいわれています。 松陰先生といえば松下村塾ですが、そこで桂小五郎(木戸孝允)や高杉晋作に多大な影響を与えました。元々は二人ともいいとこのお坊ちゃんで、まあモラトリアムな若者だったんですよ。「うぜえなあ、たりーよ」って若者だったんです。しかし、松陰先生に「君はッ!情熱を持ってッ!生きているかッ!!」と熱血教育を受けてしまったら幕末の志士となってしまったのです。 子どもへのメリットデメリットですか?もう、そんな打算と計算で考えることそのものが松陰先生の教育方針の最も嫌うことです。松陰先生の教育を今の言葉で分かりやすくいえば「自分の頭で考え、正しいと思ったら周囲になんといわれようと自分が正しいと信じた道を進め!」です。 ちなみに、「君」「僕」という言葉を広めたのは松陰先生なんだそうです。それまでは「師」「弟子」と縦の関係だったのですが、「お互いに教え合う仲だから上下関係はない。お互いに対等な関係だから、自分のことは僕といい、相手のことは君と呼ぶ」といったのです。そこがしびれる、憧れるゥ!

suer34
質問者

お礼

歴史にうとい私でも、わかりやすく理解できました★とにもかくにもまっすぐな人柄だったようですね。悪い人ではないようで安心しました。面白いご回答ありがとうございました。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1973/9603)
回答No.4

suer34さん、こんばんわ。 吉田松陰にいささか関心のある者です。松陰の教育はとてもユニークでした。 一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれます。弟子には高杉晋作や久坂玄瑞、明治の元老の伊藤博文、山県有朋などがいます。 学者としての彼は外国のことがわからないのなら、外国へ行ってみればよいと言って密航を企てたりしました。 その反面、憂国の士であった彼は幕府が天皇の許しも得ずに日米修好通商条約を結んだことに憤慨し、倒幕や当時老中だった間部詮勝を暗殺しようと計画したと自供し、安政の大獄で斬首されました。 その後、弟子たちは倒幕運動に加わり、ある者は明治維新の原動力になりました。 その園長先生はたぶん、正直である分、頑固な人かもしれませんね。

suer34
質問者

お礼

正直である分、頑固な人。まさにその通りの方だと思います。文学だけでなく、登山や水泳なども行うという部分も、まさにその通り。非常に参考にさせて頂きました。丁寧なご回答ありがとうございました。

  • trajaa
  • ベストアンサー率22% (2662/11921)
回答No.3

私自身は特に尊敬も何も感じませんが 確かに暗殺計画に関与したと言われてはいるけど、そんな事を言い出したら明治政府の関係者は多かれ少なかれ、似たような経歴を持っているので彼だけを取り上げてどうのこうのと言っても特に意味はない それに、松陰を尊敬するからって子供達に何か不法行為や暴力行為を推奨する訳でもないだろうし 特定の誰かを尊敬している事がメリデメに直結しない

suer34
質問者

お礼

吉田松陰に対して、特別な感情をお持ちの方以外の方からのご回答を期待しておりましたので、とても参考になりました★確かに、おっしゃる通りですね。ありがとうございました(^o^)

  • PopoAmin
  • ベストアンサー率50% (70/138)
回答No.2

吉田松陰は外国から日本を守るためにはまず外国を知る必要があると考えて 外国への密航を企て、失敗して捕えられ萩へ送られ、そこで松下村塾を開き 後に明治の元勲となる志士たちを教育しました。 日米修好通商条約が締結された時、公憤に耐えず、老中間部詮勝の暗殺を 計画しますが、実行には移せませんでした。安政の大獄の時、江戸に送られ通常ならば遠島に 処せられるところを自分から老中暗殺を企てたことを申し出て死刑となりました。 とても広い視野と強い信念をもった人だったようです。 今も「松陰先生」とその遺徳をしのぶ人々は数知れません。 吉田松陰の思想は実際の行動を大切にするものでしたから 今の子供たちにとって特に悪い影響は無いと思います。 しいて言えば、チマチマと細かいことにこだわった勉強ばかりしているようでは 人間は大きく育たないといった考えをしますから、 自分の子供をこじんまりとしたごく普通の目立たない小市民に育てたいのであれば (実際そう望むご両親も多いと聞きます)どこかで合わなくなるかも知れませんね。

suer34
質問者

お礼

信念を持って生きることを教わることが出来そうですね。参考にさせて頂きます♪ご回答ありがとうございました(*^_^*)

  • m41
  • ベストアンサー率30% (346/1127)
回答No.1

吉田松陰は先進的な考えの持ち主で 当時としては危険人物とみられても 仕方がなかったかもしれません しかし彼の教え子の多くが明治維新の功労者であり 日本が植民地化されずに独立国としての地位を 確立できたことも事実です 彼は幼い頃 公私をわきまえろと厳しく 教育され勉学中に顔を掻いただけでも 叱られたそうです 有る時公用中に 腹痛になり便所に寄った時でさえ 公用中の時間を私用で無駄にしたのだから 取り戻さなければ申し訳が立たないと そのあと走ったという話です その反面行き過ぎな部分も多く 奇行もかなり残っています とにもかくにもブッ飛んだ人だったことは 間違いありません その園長先生が松陰のどの部分を 尊敬しているのかわかりませんので 簡単にお答えすることはできないと思います ご本人で園長先生や先生をよくお知りの方々と 話して人物鑑定するしかないかと 吉田松陰は検索すればいっぱい出てきますよw 興味があるならいくらでも読めなすのでドゥゾ♪(っ'ω')っ)) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0 http://bakumatsu.org/blog/2012/05/syoin.html

suer34
質問者

お礼

幼い頃の話し、参考にさせて頂きました♪良くも悪くも、信念を貫いた人物だったようですね。。。ご回答ありがとうございました(^^)/

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