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価値とはどのように発生するのか?

全ての「価値」なるものは、その事物自身から発生するのか、それともその事物に関与する人間の興味に依存して発生するものか、どちらでしょうか?なお、宗教の観点からのご意見はご遠慮頂きとう御座います。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.7

どう考えても後者です。分かりやすい例えをあげるならば金銭でしょうね。 例えば1万円があるとします。さまざまな国において、レートが違えば物価も違う。 その1万円がどれぐらいの位置づけ(価値の想定)になるかは、国によって異なる。 さらに言えば、困窮者と裕福な者においても、変わるでしょう。 1ヶ月以上食べていけるのか、1回の飲み代で消えてしまうのかw 価値とはそういう物です。 本当に価値を論ずるならば、カント、西田幾多郎、牧口常三郎あたりの蔵書に 触れてみましょう。信仰を持つ者が多いが、論じている物が宗教の教えと 完全にリンクしているわけではない。牧口常三郎の価値論は面白かったですよ。

freulein
質問者

お礼

ご回答有難う御座います。どちら様にも御礼申し上げます。どうやら「価値とは利害の一表現・一傾向」とのご趣旨が多数意見のようです。せっかくの「哲学カテ」がこの点でやせ我慢して欲しいと願います。私の設問が不備だったようです。みんなのために「より価値がある」「もっと尊い価値がある」というご主張と論点を期待して改めてご質問いたします。面白い価値論をお教え下さいませ。

その他の回答 (9)

回答No.10

 こんにちは。  《価値》と言ったら 人びとのあいだにおいて――降って湧いたようにか それとも誰かが勝手に決めたものが そのままかまたは変容をこうむったかたちで 受け容れられるようになってか―― 決まるように成るその値打ちのことなのでしょうね。  人それぞれの主観にとっての必要や効用とは関係なく 決まるのでしょうね。  その事物がなければ話になりませんが  ★ その事物自身から発生する  ☆ とは思えません。もしそういうかたちで値打ちが決められ価値だと受け容れられたとしても それは なお局地的で一時的な現象に終わるのではないかと考えます。  ★ それともその事物に関与する人間の興味に依存して発生するものか  ☆ 人間が多数いなければ話にならないでしょうが またその人間がものごとに《興味》を持つというのでなければやはり話が始まらないと思われますが そのような《人間の存在 また ものに対する興味》が《事物》とのあいだにかもし出す生物化学的なまたたんじゅんに心的な刺激や反応 つまりそういった《関与》によって 価値が発生するのではないと思われます。  そのような事物に対する人間の《関与》があってこそ《値打ち》というものも持たれるのでしょうけれど その値打ちを捉えようとするときにはおそらくすでにその事物に《価値》が発生しているあとなのだと思われます。    社会にその交易のための市場をつくるかたちでそれ相応の長い期間にわたって《価値》が人びとに受け留められ受け容れられるには それがどこかで《発生している》のでなければおかしいわけですが その発生というのは いつしか降って湧いたように現われるのでしょうか どうなのでしょうか。  だって《貨幣》にしても このとき誰の誰べえが発明したというものでもないと思われます。  価値が 貨幣価値としてさだまると 人びとは この価値のかたちは使い勝手がよいと思うように成っているかと思われます。交換が容易にそして便利に成っています。  あとは この貨幣価値をめぐる人間の理性の物語になるかと思います。主役は 価値をどう扱うか どう増殖するかという理性が主役になるのではないかと考えます。(むろん よいわるいを別として事実問題としてです)。  感性がそのような価値をつけ添えられた商品は いやだ 要らんと言っても あるいはその感性にしたがって 意志がそのような商品は買わぬ あっても捨てると言っても 社会全体としては必ずしもそのようには成りません。  この商品は この貨幣価値つまり値段で売るのだ その商売をつうじて 価値の再生産ないし自己増殖を果たすようにさせてやるのだという理性が よしあしを抜きにして 主役となります。王さまと成ります。  そのような合理的な資本の自己増殖の過程が 世の中の仕組みとしてもととのい成り立ったなら 価値はその仕組みにのっとって さらにあたかも新たに《発生》してくるのではないか。――こう考えます。  

freulein
質問者

お礼

ご回答有難う御座います。どちら様にも御礼申し上げます。どうやら「価値とは利害の一表現・一傾向」とのご趣旨が多数意見のようです。せっかくの「哲学カテ」がこの点でやせ我慢して欲しいと願います。私の設問が不備だったようです。みんなのために「より価値がある」「もっと尊い価値がある」というご主張と論点を期待して改めてご質問いたします。そちらでまたご意見くださいませ。

回答No.9

いわゆるマルクス主義で言うところの「使用価値」ですね。 物欲や精神的満足を含む“必要”による。 その「必要」がどれほど強いか、あるいは、それをどれほど 充たすか、ていう。

freulein
質問者

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回答No.8

質問者のことば表現での、“物に関与する人間の興味に依存して発生するもの”を価値というなら、敢えて今更“価値”を論じる必要性はなさそうですね。 だからどなたかが言っている様に、価値の説明や質問の目的に敷衍しないといけないのではないでしょうか。

freulein
質問者

お礼

ご回答有難う御座います。どちら様にも御礼申し上げます。どうやら「価値とは利害の一表現・一傾向」とのご趣旨が多数意見のようです。せっかくの「哲学カテ」がこの点でやせ我慢して欲しいと願います。私の設問が不備だったようです。みんなのために「より価値がある」「もっと尊い価値がある」というご主張と論点を期待して改めてご質問いたします。そちらでまたご意見くださいませ。

回答No.6

なんでも鑑定団を見れば明らかなように、全ての価値は、担当の鑑定士に依存して発生する。 誰も知らない価値を鑑定士が発表した瞬間・・・・じゃがじゃん  おー  となる。

freulein
質問者

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回答No.5

事物の価値というのは、主体と対象物の関係において成立するものだと思います。どちらか一方に依存するものではないと思います。肉食動物(主体A)にとって肉(対象物)は価値がありますが、草食動物(主体B)にとっては価値はありません。

freulein
質問者

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  • alphaXXX
  • ベストアンサー率40% (108/264)
回答No.4

後者なのは明らかでしょうね。 「猫に小判」「豚に真珠」という言葉があるように、価値とは主観的なものです。 親から見れば世界で一番可愛い愛する我が子であっても他人から見ればただの糞ガキです。

freulein
質問者

お礼

ご回答有難う御座います。どちら様にも御礼申し上げます。どうやら「価値とは利害の一表現・一傾向」とのご趣旨が多数意見のようです。せっかくの「哲学カテ」がこの点でやせ我慢して欲しいと願います。私の設問が不備だったようです。みんなのために「より価値がある」「もっと尊い価値がある」というご主張と論点を期待して改めてご質問いたします。そちらでまたご意見くださいませ。

noname#181644
noname#181644
回答No.3

普通に考えれば後者ですよね。ダイヤモンドも人間が価値を見出さなければ只の光る石ですからね。 ただ、人間にとって価値はなくても、他の動物にとっては価値あるものはあると思います。食物や住処など。例えば、人間は笹を食べないですがパンダにとって笹は主食ですし、価値あるものでしょう。ですから、人間の興味によるというよりは、種族のニーズによるとも言えるのかもしれません。

freulein
質問者

お礼

ご回答有難う御座います。どちら様にも御礼申し上げます。どうやら「価値とは利害の一表現・一傾向」とのご趣旨が多数意見のようです。せっかくの「哲学カテ」がこの点でやせ我慢して欲しいと願います。私の設問が不備だったようです。みんなのために「より価値がある」「もっと尊い価値がある」というご主張と論点を期待して改めてご質問いたします。そちらでまたご意見くださいませ。

  • nevel
  • ベストアンサー率13% (39/288)
回答No.2

価値は人間が決めるものでしょううね。 人間の興味に依存して「価値」なるものは発生します。 園山真希絵が頑張って作った美味しい食事と、深田恭子が頑張って作った不味い食事が有ったとします。 「価値」なるものが、その事物自身から発生するとすると、園山真希絵が作った美味しい食事の方が価値が有る事に成ってしまいます。美味しいのだから。 しかし現実には、深田恭子が作った不味い食事の方に、より価値があります。

freulein
質問者

お礼

ご回答有難う御座います。どちら様にも御礼申し上げます。どうやら「価値とは利害の一表現・一傾向」とのご趣旨が多数意見のようです。せっかくの「哲学カテ」がこの点でやせ我慢して欲しいと願います。私の設問が不備だったようです。みんなのために「より価値がある」「もっと尊い価値がある」というご主張と論点を期待して改めてご質問いたします。そちらでまたご意見くださいませ。

  • dsdna
  • ベストアンサー率24% (308/1281)
回答No.1

 >  まずは価値を定義しなさい。

freulein
質問者

補足

早速のご回答有難う御座います。ご自身でお考えの価値について論議くださいませ。

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