他者への援助における戒めとは?

このQ&Aのポイント
  • 他者への安易な援助は避けるべきです。ブドウを食べたことのない旅人にブドウを与えると、彼は自力でブドウを手に入れることができなくなります。同様に、知らないことを教えてしまうことで、かえって不幸になる可能性があります。
  • この要約は、他者への援助において施すべきでない行動について述べたものです。例えば、福祉や臨床心理などの分野で、安易な援助は避けるべきです。また、発展途上国への援助においても同様の戒めが存在します。
  • 他者への援助における戒めは、安易な援助を避けることを示しています。例えば、未経験者に経験を与えることは、その人が自ら経験を積む機会を奪う可能性があります。この戒めは福祉や臨床心理などの分野で重要視されており、発展途上国への援助においても応用されています。
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その人が独力で行えないことは施さない方が良い…?

仏教の説話だったか、どこかの童話だったか忘れたのですが、人に何か親切をするにあたって、その人が独力で行えないようなことは、施さない方が良いという内容のものがあったように思うのですが…。 たしか、ブドウを食べたことがない旅人がいて(ブドウではなかったかも知れませんが)、ブドウを欲しがったけれど、もしその人にブドウを食べさせてあげて、その人がブドウの美味しさを知ってしまうと、以降その人はそのブドウの味にとらわれてしまって、故郷に戻ったりして、自力でブドウを食べることが出来なくなったりすると、ブドウの美味しさを知ったゆえに苦しめることになってしまうので、その人にブドウを食べさせて上げない方がよいというような説話だったと思うのですが、この話の詳細、どこに出てくる説話かなど知りたいです。 アダムとイブが禁断の果実を食べたこと、知らなくても良いことを知ってしまったために、かえって不幸になってしまうという話とも似てると思うのですが(アダムとイブの本当の趣旨とは違うのかもしれませんが)、こういう説話が他にもあれば教えて下さい。 また、現代においてもこういう局面は色々あるかと思いますが、他者への安易な援助はやめた方が良いという戒め、例えば、福祉や臨床心理などの他者への援助行動において、こういう戒めは何と呼ばれているのかとか、発展途上国への援助などの場面において、何と呼ばれているのかとかも教えて頂けると有り難いです。

質問者が選んだベストアンサー

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  • kanto-i
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回答No.2

昔、田舎に住む貧乏な若者が、何らかのきっかけでお金持ちの庄屋さんを助けて 願いを叶えてくれるというので、貧乏では口にできない料理をご馳走してもらった。 あまりの美味しさが忘れられず、寝ても覚めてもその食べ物のことばかり。 仕事も手につかず人生を棒に振ってしまった。 こんなことなら食べなきゃ良かった。知らずにすんでたら、こんなことにはならなかったと後悔。 何かを探しているときに、どこかで読みましたがURLは不明。 覚えがある人がいたら、お願いします。 臨床では、注意事項的に学んだような・・・。 現象とかシステムとか療法とか名前は付きますが、注意するポイントに名前があったかな? あえて言うなら自立支援。 自立支援の目線で考えると、援助の線引きができます。

lalikkuma
質問者

お礼

ご回答有り難うございます。よく似た教訓話ですね。援助された側の視点で、よりリアルな感じですし、自立支援のポイントとして重要な点だと思うのですが、何と呼ばれているのか、非常に気になっています。 老子だったか、何だったか、 「人に授けるに魚を以ってするは、人に授けるに漁を以ってするに如かず」(魚を援助するよりも、魚の取り方を教えることが重要) こういう教訓は、現代の援助・支援の場で、何と呼ばれているのか…

lalikkuma
質問者

補足

ご回答有り難うございました。これでこの質問は締め切り、少し角度を変えて、「親切を行う人間が抱える問題について」という質問を投稿しましたので、もしよろしければ… http://okwave.jp/qa/q8205287.html

その他の回答 (7)

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.8

lalikkumaさん、こんばんは。 (1) 1 ブドウの説話は、何処のお話だったか 2 同じような説話は、他にもあるのか 3 対人援助や途上国援助において「安易な援助」に対する戒めのことを何と呼ぶか こういうご質問ですね。 (2) 残念ながら、私も詳しくは判りません。 ですが、援助と言えば、 「自立支援」と言いながら、実は「他律訓練」ではないか、と思ってしまうことがあります。 対人援助では、まず大切なのは、相手(本人・被援助者)のことを聴くことです。 特に、これを「傾聴」と言います。 援助者は、本人・被援助者のことを判るように努めること。 その過程で、被援助者本人が、本人すら気付けていなかったことに気付くこともあります。 そうした本人の気付きが大切です。 これを「答えは、援助者ではなく、本人が持っている」と言います。 だから、援助者に出来るのは、本人に「気付き」を促すこと。 そのために、本人に自分のことを表現してもらうこと。これは、根気の要ることと思います。 しかし、本人が「自分の問題」に気付いたら、後は本人が自律することが出来るのです。 (3) さて、本回答では、実は私は(2)の内容を伝えたくて回答させて頂いたのですが、 しかし、いきなり(2)の内容を書いては、ご質問者様の趣旨を受け止めないことになります。 そこでまずは、(1)で、ご趣旨を受け止めた上で、断って(2)を書きました。 そういう、(一旦は)本人・被援助者の本意を受け止めることも、必要なのです。 いきなり「そんなことより、(2)だよ(2)」では、 「それは別の問題だけど、それはそれで判る」ことが出来るかどうか、心穏やかではないでしょう。

lalikkuma
質問者

お礼

ご回答有り難うございました。相手のことをとりあえず、受け止めて…、カウンセリングなどの基本形を形で示していただいたようでもあり… 親切を行う人間が抱える問題についてというか、類似した質問なんですが、ちょっと角度を変えて、質問を投稿しましたので、もしよろしければ… http://okwave.jp/qa/q8205287.html

回答No.7

> 他者への安易な援助はやめた方が良いという戒め、例えば、福祉や臨床心理などの他者への援助行動において、こういう戒めは何と呼ばれているのかとか、発展途上国への援助などの場面において、何と呼ばれているのかとかも教えて頂けると有り難いです。   諌め・戒めを簡単にいうフレーズは知りませんが、やっている本人も、やられている人も、それを見聞きするなどして知っている人も、援助と考えている行為が、結果として、援助の対象者の退行・逃避・嗜癖・悪癖その他の問題行動をさらにひどい状態にすることに繋がるということを「イネーブリング」と言い、支援・援助していると考えている本人を「イネーブラー・イネイブリスト」と言うことはあるようです。 治療や自助グループの現場ではよく使われる言葉だそうですが、昔の言葉ではないし、諌め・戒めの言葉でもないです。 http://www.just.or.jp/?terminology=000770 http://www.geocities.jp/joininthelaughter/tiyougo.html

lalikkuma
質問者

お礼

ご回答有り難うございます。臨床心理(精神医学?)の場においては、やはり、そういう言葉があったのですか…。 カウンセリングなどの場面で、共依存という言葉を聞いて、援助する人間が抱えている問題に思いをめぐらせたことがあるのですが、イネーブリング、イーネーブラーなる言葉は、今回、初めて知りました。

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.6

自立支援 自立支援(じりつしえん)とは対人援助における対象者の自立に向けた支援をいう。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%AB%8B%E6%94%AF%E6%8F%B4

lalikkuma
質問者

お礼

ご回答有り難うございます。 「人に授けるに魚を以ってするは、人に授けるに漁を以ってするに如かず」… 自立支援という言葉(漁を以てする)はあっても、そうではない援助(魚を以てする)については、何か名称はないのでしょうか?

回答No.5

間違えていたらごめんなさい。 > 福祉や臨床心理などの他者への援助行動において、こういう戒めは何と呼ばれているのかとか、発展途上国への援助などの場面において、何と呼ばれているのか ⇒ 特別の名称はないのではないかと想像します。 自立へ向かうことへの支援、教育的支援、施し・救済にならない支援、環境を整えるための支援、知識技術を獲得することへの支援などということは重視されますが、直接的な慰め、理解を示すころ、物資や住宅、安らぎの場を提供すること、特別措置で補助金給付金や税制面で直接肩入れすることも、通常、同時に行います。 福祉や困窮者支援では、最初の段階ではそうした直接の肩入れが相手に心情的に感じられ、依存出来るという状態を造ることが重要な場合も多いようです。 安易な援助はろくでもない結果をもたらすことは多いですが、安易な援助肩入れと同じようなことをしなければどうにもならないようなことも多いのが現実だと思います。   自然治癒力があるにしても、手術が必要なときも、薬剤の力を必要とするときも、鎮痛薬や安静に休ませ声掛けし慰めてあげることが大事なことも多いです。 むしろ、現実的にはそうした直接的支援があることが被災者や傷病者、弱者を最悪から取り戻す効能は高いです。 絆、連帯などは、ほとんどそちらをメインにしています。   できるものなら、「他人から、他国から、政府や行政からの直接支援は出来るだけ遠慮したい」と考えるだけの余力や能力、技能、蓄積を持てる日常を形成できるような支援を日常的にやっておくことが重要なのでしょう。   日本の現状でも大多数の人が高校まで進学しますが、就職環境を整えてもらうこと、良い勤め先や勤務環境を整えてもらうこと、雇用を保障してもらうこと、最低賃金や安全性、短時間・軽労働でストレスのない状態にしてもらうこと、など「してもらう」ことにばかり意識が向き、自力で自立し、八方ふさがりで厳しい環境であっても何とか自力で自立するのが本来のあるべき姿だという意識と行動を身につけさせることもしていない現実を見るべきです。   自立に向かう精神と行動原理を身につけさせる努力をしなくなった社会で、困窮者が発生したときに、自立の大切さ、自力救済の重要さを強調し、「安易な援助はやめた方がよい」というのは、悪意があるように思われてしまう可能性があると思います。

lalikkuma
質問者

お礼

ご回答有り難うございます。自立支援に向かわない援助については、安易な援助とか言われたりしても、やはり特に名称はないのでしょうか…

回答No.4

ブドウの説話は知りませんが、芥川龍之介の「芋粥」に 似たような話が出て来ます。短くてすぐに読めますので 一読してみてください。 援助依存症は福祉やカウンセリング、途上国援助などの場面で わりとよく見られる現象です。 それぞれの分野で問題提起や議論がなされています。

lalikkuma
質問者

お礼

ご回答有り難うございます。さっそく、「芋粥」を読んでみました。「今昔物語」と芥川ではポイントが異なっているとのことですが、志賀直哉の「小僧の神様」を思い浮かべたりもしたのですが、こういった親切(施し)の事例というのは、相手のことを思ってのことではなくて、自分の自己満足の方が強いということなんでしょうか? 援助依存症というのは、NO2の回答の方が書いて下さった金持ちの庄屋さんに助けてもらった貧乏な若者が、その料理の味を忘れられずに、仕事が手につかなくなってしまったという話で、こんなことなら知らなきゃ良かったと自罰的に思うのではなく、援助の続きを期待するようになってしまうという感じなのかと思ったのですが、その辺の議論を簡単に知りたいと思っているのですが、「人に授けるに魚を以ってするは、人に授けるに漁を以ってするに如かず」なんてことは、何と言われているのかとか、一見、相手のことを思って、親切にしているようでいながら、実は自己満足のためにやっているに過ぎないとか…そういうことは、何と呼ばれているのかとか、とても知りたいです。

  • MOG777
  • ベストアンサー率14% (20/139)
回答No.3

回答とはずれますが 対機説法の応用であり、ひとを観て援助しろという解釈も成り立ちます。

lalikkuma
質問者

お礼

ご回答有り難うございます。仏教の対機説法というのも、相手の視点に立って…という点で、大切な視点を教えてくれるようで… 人への親切や援助の場面で、何と呼ばれているのか、もし何か用語があれば何と呼ばれているのか…

  • soodann1
  • ベストアンサー率0% (0/7)
回答No.1

  それはイソップ物語のすっぱいぶどうのお話でしょう。 キツネが、たわわに実ったおいしそうなぶどうを見つける。食べようとして跳び上がるが、ぶどうはみな高い所にあり、届かない。何度跳んでも届かず、キツネは怒りと悔しさで、「どうせこんなぶどうは、すっぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか。」と捨て台詞を残して去る。 やっぱイソップ物語ってサイコーだよね。 ほかにもいいお話がいっぱいあります。  

lalikkuma
質問者

お礼

ご回答有り難うございます。ひょっとすると、イソップ童話の一節の可能性もありますが、酸っぱいブドウの話とは…

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