• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:KY は 草の根民主制への第一歩ではないか。)

KYは草の根民主制への第一歩

雪中庵(@psytex)の回答

回答No.1

民主主義は、利己主義とは異なる。 むしろ相性が悪い。 民主主義は、単なる自己主張の場ではありません。 民主主義の核は、多数決だけではなく、少数派の意見を 無視する事なく、論議を尽くして相互理解を深める事です。 それは単に議論するだけでなく、互いの立場を理解し、 社会貢献の見地から、短絡的な利己を抑制する事も 肝要です。 人の迷惑を顧みず、ルールを無視し、利己や自己顕示の ための自己主張を続けるのとは、自ずと異なります。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  果たして回答であるのか うたがいますが 強いてそうだと受け留めるとすればですが:  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~  KY はダメだと言われるときのクウキはそれをも読むことだけは読んでおいたほうがよいはずだが 読んだ結果として KY という現象が起きても構わないし 起きたほうがひとは よりいっそう自由である。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここなどに対して  ★ ~~~~  民主主義は、利己主義とは異なる。 むしろ相性が悪い。  民主主義は、単なる自己主張の場ではありません。  ~~~~~  ☆ と考えるとの自己主張を示して回答するところとしては:  1. KY と言われる《クウキを読まない》姿勢と振る舞いは 煮詰めて言えば《利己主義》である。  2. 利己主義は 民主制とは違うので 将来の草の根民主制に向けて KY が何か役割りを果たすとは思えない。  こういう内容でしょうか?  でしたら・もしそうだとしたらですが 借問します。  3. 《利己主義》とはどういう思想で 《民主主義》とは何であるか? 定義ないしもう少し詳しい説明をしてください。    4. たとえば古いところでですが アダム・スミスは むしろ個人の利得となるところを一人ひとりが追求しつつ 社会公共の利益を大きくしていくといった考え方を提起しています。早く言えば 博愛主義だとか利他主義だとかという――自己の生きることおよびその利益をむしろ返り見ないところの――思想をしりぞけています。  4-1. むろんスミスの場合には その一方でいわゆる《同感 sympathy 》の理論を説いていて けっきょくその利己的な行動についても他人や社会が妥当だとみとめる中身であることを要請しているわけです。  4-2. さて あなたの定義する《利己主義》とは そして《民主主義》とは 果たして現実性があるのでしょうか?  5. スミスの見解がいまも決して《少数派》ではありませんが あなたの文面がどこへ向かっているのかと推察するなら 《〈単なる自己主張〉をおこなうだけの少数派》をなじっているというところでしょうから言いますが   5-1. 《自己主張》と《単なる自己主張》とそして《自己主張ではない自己表現と言いますかつまりはひとに向けての発言》 これら三つの区別は どのようになっていますか?   5-2. もしそれら三つの区別が妥当性を持った内容としてみなさんにみとめられないとすれば 《少数派》というものに対しては ひとまづ無条件にそれとして《無視することなく 議論を尽くして相互理解を深めること》が大事なのではないですか?  6. 重ねての問いかけになります。  ★ ~~~~~  それは単に議論するだけでなく、互いの立場を理解し、  社会貢献の見地から、短絡的な利己を抑制する事も  肝要です。  ~~~~~~~  ☆ このとき やはり用語の内容がはっきりしません。  6-1. 《社会貢献 ないしその見地》 これが自明だとは思えません。(4)等で触れたように 個人の生活のためとしてその利益を追求することがむしろ社会の富を増進するという意味では貢献することが出来る。場合がある。ただ単に社会貢献と言っても どうすればよいかは 自明ではありません。  6-2. 《利己》が そのようにその中身についてやあるいはそれのもたらす結果について 幅広い意味合いがあるのは別としても それが《短絡的》だというのは これまた 自明ではありません。(4)の議論からすれば 《同感》が得られない内容としての利己ではないかと こちらが推測しはしますが けれども《短絡か長考か》によって《同感の可能性》は決まりません。短絡的な思考としての利己であっても 人びとの同感を得て 社会貢献をなすことが出来る場合もあるのです。  6-3. 《互いの立ち場を理解し》と言っていますが 果たしてあなたが今まで 相手の立ち場を理解し相互理解に到るようにつとめたことがありましたか? つねに回答しっぱなしです。しかも同じ文句でです。  7. ★ ~~~~~  人の迷惑を顧みず、ルールを無視し、利己や自己顕示の  ための自己主張を続けるのとは、自ずと異なります。  ~~~~~~~~~~  ☆ この中で《ルールを無視する》ということは さすが なさっていないようです。そのほかのことは 敢えて民主制にもとづく発言をこころがけるなら 《人の迷惑を顧みるかどうか / 利己 / 自己顕示 / それらのための自己主張 / しかもそれらとしての同じ振る舞いを延々とつづけること》 これらは〔敢えて民主的な発言をこころがけるなら〕けっきょくお互いさまですよ。  7-1. もしご自分の自己表現としての投稿が《人の迷惑をつねに省みており 利己ではなく自己顕示でもなく しかるべき自己主張をおこなっているのみである》と言い張るのなら そう言ってみなさい。  言うだけでよろしい。検証しようとも思いませんから。言うだけでよろしい。ただしみなさんが 証人となります。  

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     《日本教=クウキ教》の批判です。  《押し籠もり》。  引きこもりに対して 《押しこもり》。  あるいは 《突っ張り籠もり》。  《押し / 突っ張り》というのは ここで 要するに生活において仕事においてあるいはコミュニケーションにおいて 活発であることを意味します。  ただし 《籠もっている》。  どういうことか?    ひとに対して送信はするが ひとからの受信はしない。  発信ではなく ただの送信にしかならない。  でも活発である。押している。突っ張っている。  これは おそらく現状における社会力学のあり方に棹差している状態だと思われます。  《送信》としては いくらでも既成の社会のあり方とその流れに棹差して コミュニケーションを推し進めている。と自分では思っている。  けれども浮いてしまったというよりは そうではなく みづからが周りからの見方考え方を受けつけない。むろん自分の送信している内容と同じであるならば 受け留めている。  半ば鎖国状態のようになっている。けれども 社会力学上 有力な勢力の中に身をおいているかたちであることによって その送信だけの言葉も 或る程度は 人びとによって聞かれている。  また 経済は言わば待ったなしであるから その流れの中に位置するかぎりで 送受信は回って行く。らしい。  ちなみに 《引きこもり》の場合は あくまで 時代の・つまり未来社会の先取りである。  現状の社会力学のあり方に対してすでにそれを乗り越えて 将来のコミュニケーションのあり方を見つめつつ 時代を先取りしている。ただし わづかにそれは 今は陰画としてである。  言いかえると ヒキコモリは 未来社会のネガとして いまは生きている。  KY の場合も同じようである。  現状としての社会力学つまりそれとしてのクウキについては すでにそのような人間的交通のあり方を超えてあたらしいコミュニケーションのあり方を先取りして見つめている。現在のクウキなどは あほらしくて読めない。というところがある。  言ってみれば アマテラス普遍語(科学語および人格語)の問題である。普遍語とは 《あやまち得ない》という看板を掲げているという意味だ。  これが 日本教を――逆立ちにおいて・頭で立つかたちで――成り立たせている。  このアマテラス普遍語を ただしそのきわめて訛ったかたちで 政治(立法)・行政・メディアあるいはその種の企業の世界それぞれにおいて じつは方言として使っている。それぞれの世界の方言をつくって使っている。  KY は その人間的交通のあり方をすでに飛び越えている。そのアマテラス語諸方言は 読めない。読み取れない。読み取らなくてもよいとすでに考えた。   つまり 未来の先取りであり いまはわづかにまだ陽画としては成っていないネガの状態にある。  したがって もしこうだとしたら 《押し籠もり》は一般に意識的に自覚をしてか否かを問わずこのクウキに乗っかってすべて押しでその歩をすすめつつ このようなヒキコモリをむしろ生んでいる。ヒキコモリへと人びとを促す作用を専門にしている生き方になる。  果たしてどうでしょうか? 以上すべてが たたき台です。果たしていかがお考えになりましょうか?    オシコモリに負けるな! と言えるまでに現状分析として成っていますか。

  • 民主制の中にも帝国主義(覇権思想)があり得る。

     § 1 まづ社会形態の類型をとらえます  市民社会(《わたくし》の S 圏=一階)と公民圏(《おほやけ》なるお二階 A 圏)との二階建てから成る国家という社会形態について 次のみっつの種類に分けてみた。  (α) A圏とS圏との自由対話型:日本社会    (κ) 《民衆( S圏 )は自由暴君》型:アフリカ型社会  (ω) S圏内もA圏内も両圏相互としても 自由競争型:西欧社会    おおざっぱな分類です。《果たして民主主義でよいのか》のたぐいの質問とそのやり取りがつづいていますので それにちなんで何とか問題をほぐしたい。  これまでの大統領が任期を終えたあとには ことごとくと言ってよいほど石持て追われるかの様相を呈しているところを捉えて その大韓民国という社会は (κ)のアフリカ型ではないか?  中華人民共和国は 人民の国とうたっている割りには おほやけなるA圏のもっぱらの公民が暴君としてのさばっている。やはりアフリカ型か?  とは言うものの 現代にあっては おほやけなるA圏の人たちも 《わたくし》なる一人の市民としてそして人間として みんな自由でありその自由が互いにひとしく平等であるとうたった考え方は それとして普及しています。タテマエは 民主制です。  民主制のもとにあっても 日本型も西欧型も 対外的な帝国主義の動きは過去となりつつあるとしても 対内的な覇権主義が――じつはそれは過去の動きであったものであると同時に 現在にも残っているし―― はたらいている。という問題を取り上げたい。  § 2 民主制にひそむ覇権思想としてのアマアガリ・シンドロームについて  まづ (α)日本型と(ω)西欧型とにかんたんに捉えた説明をあたえて行きます。  (α) 対話型の社会形態は 国ゆづり型である。  (α-1) 日本における国家は 《国ゆづり》型であるゆえ 市民 S らは おとなしい。もともとおとなしく けんかをするほどに仲良しであった。  どのようにクニユヅリが成ったか?  S(スサノヲ)市民の中から出た公民 A (アマテラス)らは 特に優秀であったゆえ 人びとは社会というヤシロにも特別な神棚をこしらえてやりもっぱらその空中庭園に住まわせた。この第二階となる神棚にまつりあげた。  優秀であるうえに品行方正で申し分のないほど人間的な人間たちであったが ただひとつ玉にきずなのは つねに人びとから注目を浴びていなければ落ち着かない。お山の大将型であったことだ。  市民らは かれらに根負けして それならと言うので神棚をわざわざこしらえて そこを棲み処とさせた。人権を限定し制約するような檻に住まわせたとも言える。これが のちのち或る意味でわざわいともなった。  (α-2) 市民 S らの中には この第二階への出世志向が流行り病いのごとく起こり(=アマアガリ・シンドローム) ひとつには とうとう A 者公民たちにこびへつらうようになり ひとつには ゆすり・たかりをはたらき甘い汁を吸おうとするようになる者が出た。  このお二階さん志向――そして別様に言えば お上意識; つまりは アマテラス予備軍症候群なる心理――が絡んでくると スサノヲ市民どうしのあいだでも いざこざが絶えなくなる。  簡単に言ってこういうわけで 市民 S 者のあいだには まっすぐな心持ちにもとづく行動と どこか歪んだところのある振る舞いとそれら両面が見られることになる。  すなわちこれらよき基礎とあしき部分とをふくんだところの《 S - A 》の対話型である。  そして 端的に言って アマアガリ・シンドロームは 覇権思想である。もっぱら《上から目線》によって成り立っている。  (ω) A と S とが《競争型》なるその《 A - S 》連関制  (ω-1) つまり西欧の市民 S は そして公民 A も 誰もがおのれの中にお二階さん志向(または アマアガリ欲望)を持つ。すなわちひとりの個人がその内面においてあたかも《 A(おほやけ) = S(わたくし) 》としての市民 S であり この市民 S が同じく《 A = S 》としての公民 A と成るという傾向を有する。こう推し測られる。  国ゆづりというよりは 国盗り・天下取り型になる。  (ω-2) すなわちこの競争型とは   (ω) 欧米型(または遊牧民型): A ( A=S ) ∽ S ( A=S ) 連関制  である。相似形の記号( ∽ )の意味は つねに転覆(回転=レヲ゛リューション)が起こり得るということを表わす。  言いかえるとその社会では 第一階においてすでに 《人は人に対して狼なり。( Homo homini lupus. )/ 万人の万人に対するたたかい( bellum omni contra omnes. )》という市民(《 A = S 》なる市民 S )どうしの社会的な意識の流れが関係し合っている。  そのような個人としての・ワタシとしての意識が互いに日常においてすらも対立しがちである。そしてそのいわゆる弁証法的展開が ふつうに見通されているようでもある。  § 3  (α)および(ω) 両者を比較対照します   日本市民が このアマアガリ志向に対して《くにゆづり》をしたと言う時 それは非戦論であり そうだとすれば それに対して欧米市民は 主戦論に立つものと考えられる。  土地に縄を張って ここはおれのものだと宣言したとき 言葉たくみににしろ力づくでにしろ その土地を獲ってしまえば 自分のものになると考える傾向ではないだろうか。《法律》は その既成事実を保守するためにつくられる傾向があるのだろうか?  日本市民は――その昔 オホクニヌシとその息子のひとりは―― これこれはおれのものだと主張するときに どういうかたちにしろ争うことは 人間の弱さから来ると考え それならと言って 非戦論を採った。いちどゆづったら 相手を神棚に挙げてしまったのだから おいそれとは国の共同自治の権限を返せとは言えない。言わない。おとなしい。そして ただそれだけのことだと考えられる。  ただしそのアマアガリ・シンドローム(末は博士か大臣かの出世症候群が覇権思想となったヰルス)の感染具合いに応じて 波風の立つこともある。《主戦論》が優位に立つ場合もある。欧米主導のグローバル化に感染したゆえなのかどうか。  § 4  さらに別の A - S 連関制 とはどういう現実か  これは 《アフリカ的段階》と呼ばれるもので ひとことで説明するなら 市民 S らに絶対主権があるようなかたちである。   (κ) アフリカ型:《 S (=じつは 絶対的 A ) ∽ A 》連関制  ◆ (『アフリカ的段階について』 ヘーゲルを解剖学した世界観?) ~~~   http://y-bat.txt-nifty.com/doyo/2009/01/post-8de9.html  マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本〔隆明〕はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。  ( a ) そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王(* A )がいる。  ( b ) しかし、民衆(* ――《〈じつは A 〉なる S 》――)は豊穣と生活の保障と引き換えに王(* 権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。  ( c ) 生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。  ( d ) 民衆(個人 S とその共同性)と王(権力と象徴= amaterasity アマテラシテ)は等価なのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このアフリカ型(κ)は 特に( b )の特徴にかんがみて 民衆暴君型である。  対話型(α)と見た日本社会の《伝統》は そして 自由競争型(ω)と捉えた西欧社会とともに この民衆暴君型(κ)と見られるような社会と国家の動きに対して どのように対処して行くのがよいであろうか。  いったい何が問題なのか? 何が悲しくて何を問題としているのか?  お考えをお寄せください。