- ベストアンサー
吉田松陰は獄中から高杉晋作へ手紙を。
松陰は、牢役人に目こぼしをしてもらうための賄賂が要るので金を工面してくれ、と伝馬町牢屋敷から晋作に手紙を出しています。 幕府は、藩に命じて松陰を萩から江戸へ護送させてまでして、投獄したのですが、それにしては監視が雑な気がします。 安政6年といえば、まだ井伊大老が健在のころです。 質問ですが、伝馬町の牢屋敷の監視や手紙の検閲はこの程度のものですか。 松陰以外(例えば橋本左内や頼三樹三郎)で、獄中から手紙を出した人はいますか。 よろしくお願いします。
- kouki-koureisya
- お礼率95% (1808/1896)
- 歴史
- 回答数2
- ありがとう数2
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
関連情報なのですが。 牢役人もですが、牢では牢名主(ろうなぬし)という人にも賄賂(寸志・心付け)をあげないと手紙を出したり手紙を受け取ったり、差し入れをもらったりが出来ませんでしたので、松陰は牢名主にも賄賂を渡していました。 牢名主というのは役人ではありません。牢屋に入れられている同じ罪人なのですが、長く牢屋にいるのでいばってて、牢屋の主(ぬし)のように後輩罪人にあれこれ指図して力を振りかざしていた人だそうです。牢名主ににらまれると、些細なことから意地悪されまくりだったので意地悪されないように、気に入られて少しでもマシな牢屋ライフが送れるように、みんなせっせとワイロを渡したそうです。 松陰は牢名主に渡すため、「福神漬けを2樽送ってくれ」と実家のお父さん(杉家)に手紙を書いています。なんで、福神漬け? と思いますが、牢名主の好物だったか? それにしても2樽とは、江戸時代の流通が発達していない時に、運賃がすごい高かったでしょうに。 清廉潔白な松陰がワイロだなんて、似合いませんが。今の時代の価値観で判断してはいけないのかもしれません。 しかし、牢名主にワイロ渡していたお陰で、松陰の遺書『留魂録』は残りました。牢名主が明治に入ってから松陰の門下生に遺書を届けてくれなかったら、遺書は歴史の中に消えていたところでした。その最後に記された辞世の句、 身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂 も牢名主のお陰で残りました。
その他の回答 (1)
- mekuriya
- ベストアンサー率27% (1118/4052)
だから牢役人が目こぼしをしている訳です。自分が受け取る賄賂の金策の手紙なんだから、喜んで協力している訳です。いくら井伊大老といっても、そんな下っ端の役人まで直接コントロールなどできません。井伊大老から牢役人の間にもたくさん役人がいます。世の中万事金次第。上から下まで賄賂合戦で少しでもおいしい役職にありつくのに必死なんですから。そもそも井伊直弼だって賄賂で大老にのし上がった政治家です。牢役人の目こぼしごとき些細な事に過ぎません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 賄賂に使う金の差し入れを頼む手紙の例をあげたのは拙かったです。 取り調べに対する苦情などを書き連ねた手紙も残されています。 同志に尊王を呼び掛ける内容のものは、おそらく握りつぶされたのでしょう。 しかし、「世の中万事金次第」ということで、納得です。
関連するQ&A
- 高杉晋作の功績とは
小説やマンガなどに登場する高杉像に憧れています。 脚色されていることがあるかと思い、自分なりに史実を追ってみました。 自分なりに調べた結果、今まで知っていた晋作とはかけはなれた、あまりパッとしない人物のように思えました。 長州が大変な時期になると、イヤなことから逃げるように脱藩したり、 大事な時期に活躍していなかったり。。。 奇想天外な行動力でカリスマ的に登りつめた印象があったのですが、 家柄で登用されていたに過ぎない感じもしました。 最後の最後、騎兵隊をちょいとまとめて、数回戦に勝ったぐらいしか 目立った活躍はないように思えます。 はたしてどれほど維新に貢献したのでしょうか? そこで疑問に思ったのは、なぜ高杉はここまで評価されているのか。 また、自分が知っているイメージを払拭する史実があれば教えてほしいです。 坂本龍馬は、司馬遼によって一気に知名度を上げましたが、高杉はどのように 知名度を上げたのでしょうか? 舎弟である、伊藤や井上、山縣辺りが誇張して広めたのでしょうか? まとめ 1.高杉晋作はなぜ有名人になったのか (史実に基づいた具体的な功績など) 2.維新への貢献度 3.回答者の皆様が思う、高杉評価 エピソードとかは抜きで、史実に基づいた意見を1~3に対する回答で聞きたいです。 よろしくお願いします。
- 締切済み
- 歴史
- 添削お願いします!
私は高校生で、もうすぐ期末テストです。 日本史の問題(論述)があらかじめ発表されているので頑張って作りました。 間違えていることがあると困るので、ご指南頂きたいと思っております。こっちの方がいい・ここの部分は要らない等のアドバイスもお願いいたします。 問題) 幕末1860年代の公武合体論と公議政体論の違いを具体的な忠実の推移をあげながら説明しなさい。 但し、桜田門外の変 文久の幕末改革 船中八策 朝廷 の語句を用いるものとする。 回答) 開明的な老中首座であった阿部正弘は、雄藩藩主の意見を取り入れた政治を行っていたが、譜代大名らの反発を受け、開国派の堀田正睦に老中首座の座を譲った。譲った後も権力を掌握し続けるが安政 4(1857)年に死去する。 翌安政5(1858)年に13代将軍家定が死去すると、安政 の将軍継嗣問題が発生。 一橋慶喜を推す一橋派と、徳川慶福を推す南紀派に分かれて争う。 老中首座である堀田正睦は、安政5(1858)年に日米修好通商 条約の調印を求められた時に於いて、夷狄嫌いな孝明天皇に調印の 勅許を得ようとし、失敗。幕府の権威を失墜させた。 一橋派であった堀田正睦の失策に対し、南紀派且つ、政治的方便上、開国派であった井伊直弼は、失脚を画策し、大老に就任。強権 を発動し、朝廷の勅許無しで調印に踏み切った。更に、直弼は、一 橋派の人々を次々と処罰し、専制政治を布いた。 これを、安政の大獄という。処罰された主要人物は、吉田松陰、橋本左内らが処刑。一橋慶喜、松平春嶽(慶永)、山内容堂(豊 信)らが謹慎。水戸斉昭は隠居に追い込まれた。 この安政の大獄によって、一橋派の公家も処罰され、沈静化したかにみえたが、安政7(1860)年3月24日桜田門外の変が起こる。直弼に恨みを持つ、水戸藩の脱藩浪士ら18名の襲撃を受けて、井伊直弼が死亡する事件である。時の権力者である大老が大名屋敷から、城内に登城する合間に殺されたことによって、幕府の威光は地に堕ちた。 公武合体論は、島津久光によって提唱された政策論である。朝廷の伝統的権威と幕府を結びつけることによって幕府の権力の再構築を行うことを目的とした政策。久光は文久の幕政改革によって人事を一新し、朝廷と連動して兵を率いての改革を行った。 公議政体論は、土佐藩脱藩浪士坂本龍馬の考案した政策を、船中で同じく土佐の後藤象二郎が書き留め、船中八策として、山内容堂に上申。更に、それが慶喜に上奏され、最終的には帝に奏上された政策。諸藩藩主による諸侯会議の携帯を目的としており、その中に、徳川家も一諸侯として含まれていた。尊皇佐幕派の支持を得ていたが、王政復古の大号令によって構想が瓦解する。 以上お願いします!
- 締切済み
- 歴史
お礼
ご回答ありがとうございます。 『留魂録』がそのようないきさつで伝えられたとは知りませんでした。 将にドラマチックな話で感動しました。 また、牢名主は一般の雑居牢に居るものだと思っていましたので、思想犯?の松陰は独居房に隔離されているもの、と思い込んでいました。 すっきりしました。感謝します。