仏性とアートマンは生命か霊か?

このQ&Aのポイント
  • 仏性(ブッダター)やアートマン(霊我)は、生命や霊の本質を指す概念です。
  • これらは神秘的な存在であり、経験や思考では理解しづらいものです。
  • 生命や霊は科学的に検証されるものではなく、経験によってのみ理解される存在です。
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仏性は 生命なのですか? 霊なのでは?

 (α) ブッダター(仏性)は 生命なのですか?  あるいは  (β) アートマン(霊我)は 神の霊であって 非経験・非思考だとおもわれる。か?  (γ) ブッダターは けっきょく アートマンと同じなのではないか?  (δ) 生命とは この神であり霊であるのか? そのようにただ想定されているものに過ぎないのか?  (ε) それとも 自然科学によって検証され得るものですか? 経験事象ですか?  (η) あるいは 非経験・非思考でもあり 経験事象でもある? そんなことはないかぁ。  (θ) ヒトの自然本性は 身と心だと思われるが そして霊とは これらを超えたワケの分からないナゾだと思われるが では 生命とは何ですか?  (ι) ヒト(あるいはほかの生物)に付属している(もしくはそのむしろみなもととしてある)チカラでありハタラキであるのですか 生命は? 遺伝子のハタラキですか?

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回答No.2

こんにちはです。 ☆ (α) ブッダター(仏性)は 生命なのですか? ◇ まぁ、YES。生命(せいめい)よりは、生命(いのち)でしょうか。和語の「いのち」のほうがピッタリする感じがします。ブッダターは、《イノチのハタラキ》といったところでしょうか。 ☆ (β) アートマン(霊我)は 神の霊であって 非経験・非思考だとおもわれる。か? ◇ でしょう。経験の世界に属する我々には、それの影くらいしか掴めないと思いやす。 ☆ (γ) ブッダターは けっきょく アートマンと同じなのではないか? ◇ YES。勝鬘経では、如来蔵こそ真のアートマンであると書いてある。しかし、それは概念などで仮設された外道(バラモン教etc)などのアートマンとは異なる、と書いてある。つまり、非思考・非経験の場で感応できる何かなのでしょう。 ☆ (δ) 生命とは この神であり霊であるのか? そのようにただ想定されているものに過ぎないのか? ◇ イノチとは、本源的なナニモノかのハタラキ・作用なのでしょう。概念設定されているのですから、その意味では、想定されたものということになりますでしょうか。 ☆ (ε) それとも 自然科学によって検証され得るものですか? 経験事象ですか? ◇ 自然科学によって検証はされない。原理的に不可能。自然科学は、観察などの経験に基づくものであり、それゆえに、それを超えるものについて語ることはできない。あるとも言わないし、ないとも言わない、というのが正しい姿勢だと思います。 イノチのハタラキの結果としてあらわれるものは、経験事象なのでしょう。 ☆ (η) あるいは 非経験・非思考でもあり 経験事象でもある? そんなことはないかぁ。 ◇ イノチのハタラキと概念設定された段階で、それは既に経験事象なのではないでしょうか。概念設定されたそれを、イノチのハタラキと同一視するのは、間違いではないでしょうか。 ☆ (θ) ヒトの自然本性は 身と心だと思われるが そして霊とは これらを超えたワケの分からないナゾだと思われるが では 生命とは何ですか? ◇ さぁ~。僕が教えてほしいくらいです(ポリポリ) ☆ (ι) ヒト(あるいはほかの生物)に付属している(もしくはそのむしろみなもととしてある)チカラでありハタラキであるのですか 生命は? 遺伝子のハタラキですか? ◇遺伝子そのものが、イノチのハタラキによって作られたものだと思います。 スピノザのように、イノチ(のハタラキ)を自然と呼べば、遺伝子は自然に内在するハタラキによって作られた。自然科学では、そのことを否定せずに肯定します。そこから出発します。 そして、自然科学は、「why」ではなく、○○が、自然の中で、どのようにして生まれたかという意味での「how」の学問体系です。 そもそも、自然科学を用いて、神を語ることはできません。 それは、自然科学の範疇外のことだ、自然科学の濫用だ、とわたしは理解しています。

bragelonne
質問者

お礼

 いえね。池田氏の講義には 生命という言葉がよく出て来ます。アートマンの説明に そういう言い方もあったのですか。  まづは ご回答をありがとうございます。  ◇ 勝鬘経では、如来蔵こそ真のアートマンであると書いてある。しかし、それは概念などで仮設された外道(バラモン教etc)などのアートマンとは異なる、と書いてある。つまり、非思考・非経験の場で感応できる何かなのでしょう。  ☆ ひゃあーーあ。どこかで一度そう聞いたようにも思えますが なあんだぢゃないですか。  でしたら     ○ 仏仏一如 は梵我一如にひとしい。  でいいんぢゃないですか。もっと早く言ってくださいよ。これでも手さぐりで――えらそうな態度で――ものを言っているんですから。  ◇ イノチのハタラキの結果としてあらわれるものは、経験事象なのでしょう。  ☆ なるほど。霊だとか神だとか言うと それのハタラキと言っても ただちに経験事象として現われているとは どうも言えないようですが 《いのち》と言うと 割り合い経験事象に なじめますね。すーっと入って行けるようです。人びとの気持ちの中に。  ◇ イノチのハタラキと概念設定された段階で、それは既に経験事象なのではないでしょうか。概念設定されたそれを、イノチのハタラキと同一視するのは、間違いではないでしょうか。  ☆ これは むつかしそうですね。やはり 思考等の経験世界と非思考の庭とのあいだに 根本的なへだたりはあると――想定じょう――捉えておかないと理論(神学)は 成り立たない。ということでしょうか。  ◇遺伝子そのものが、イノチのハタラキによって作られたものだと思います。  ☆ 分かりました。これは 分かりやすいですね。要するに コテコテの抹香臭い言い方をすれば 神が背後に控えているのだと。  ◇ ~~~~~~  スピノザのように、イノチ(のハタラキ)を自然と呼べば、遺伝子は自然に内在するハタラキによって作られた。自然科学では、そのことを否定せずに肯定します。そこから出発します。  そして、自然科学は、「why」ではなく、○○が、自然の中で、どのようにして生まれたかという意味での「how」の学問体系です。  ~~~~~~~~~  ☆ 遺伝子を 量子として捉えた次元では 自然科学も 《 why 》の問い求めに入るのでしょうか?  あるいは 量子の理論こそが すでに非思考の庭をもあつかっていましょうか?  (言い過ぎですか?)    

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  • ks5518
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回答No.32

>ええ加減にしてください。 では、さようなら。

bragelonne
質問者

お礼

 分かりました。  ではどうぞ。  おつかれさまでした。

  • ks5518
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回答No.31

No.29です。  (か) 《“業(カルマ)”》とは 単純に《行為》のことですよね? そこに過去からの結果なる状態がくっついているのかも分かりませんが 《自性清浄心》である仏界には影響をおよぼしませんよね?    (き) 《仏性》は――それこそアマラ識として 一念三千の《源泉》となって―― 九界のいわゆるシガラミとはげしく接しているのでしょうが それによって左右されることはない。と言ってよいでしょう。つまり 《宿業》からは自由です。  (く) むろんそのときにも――仏性が自性清浄心としてのハタラキにおいてシガラミに接していてもそれを宿業とはしないそのときにも――  ■ 『依正不二』  ☆ です。そのことに例外はありません。しかも正報たる――仏性の源泉のもとに生きる――人は 環境たる依報とむしろからみ合っていつつ・しかもそれによっておおきくは影響を受けない。というとき 依正不二という状態は つねに成り立ちます。  (け) つまり 宿業から自由である境地において生きることがあり得ます。  (こ) ですから 確かに  ■ 念心と身体、あるいは生活(社会)環境に至るまで、全ては関連していると説いています。  ☆ というふうに《不二》というまでに《情況とワタシ》とは 密接な相関関係にある。そのとおりだと考えます。  (さ) このとき  ひとつに 仏性は狭い意味においては 《念心》の中のひとつの仏界という位置を占めるだけであるかも知れませんが  ひとつに その念心において広がる一念三千の諸相・諸法つまり 全体世界 これと同等であるチカラであるか それともその全体世界を成り立たせている源泉であるか。いづれかであると思われます。  (し) もし仏性がハタラキを休んでいる場合なら おそらくその仏性があたかも陰画(ネガ)のごとくになって それでも世界全体にけっきょくかかわっている。のではないか? いづれにしても 狭義の仏界と広義の――けっきょく妙法そのものとしての――仏性とが 捉えられるのではないでしょうか?  (す) 拡大解釈をし過ぎでしょうか? ■仏性については、十界の境涯の中でも、なかなか現われるものではないとされています。“如来、ブッタ、世尊”といった存在なら常時仏界を現じているのでしょうけれど、一般の衆生であれば難しい事だと思います。 また、“業(宿業)”についてですが、全ての業が悪いという事では有りません。また、それらに“勝てない、負ける”というものでも有りません。依正不二で実生活上に現われてきている“業(宿業)”は、実践修行により転換できるとされています。 ※宿業 宿世(過去世)の業因のこと。身・口・意の三業の積み重ねによって、今世の苦楽の果報が決定される因果の理法をいう。善い宿業と悪い宿業があり、一般的には悪い方の意味に使われる。宿業、宿習、宿縁にはほぼ同意に使われるが、厳密には多少の異義がある。 ・宿業・・・過去世の善悪の三業の積み重ねによって今世の果報が決定される因果の理法をいう。 ・宿縁・・・過去世でつくった因縁のこと。 ・宿習・・・過去世の善悪の行動や思考が積み重なってできた、潜在的な生命の傾向性のこと。  (せ) ですから 輪廻転生は たぶん(し)の中で触れた《ネガの状態――仏性のハタラキがお休みの状態――》がつづく場合に あたかも前世から現世そしてさらに来世へというふうに その仏性がハタラキを休んでいるあいだは どこまでも・いつまでも 宿業を背負ってあゆむといったような解釈がなされるのではないか?  (そ) つまり それは 仏性よ おまえのハタラキを表わしてくれたまえという願いを込めて わざわざ三世にわたる生まれ変わりなる物語を編んだ。そういうことではないでしょうか。  (た) それにしても この輪廻転生は ブラフマニズムの思想ですよ。なんでわざわざブディズムが それを継承しなければならないのでしょう? それにさらには ブッダとなれば もうそのような転生はしないのですから 何だか要らぬものをひきずっているなぁと感じられます。 ■逆に、『輪廻転生』を是として、その中で、“仏性を開く為の教えとして”法華経は説かれた。過去世の宿業を開き、打開し今世において成仏するために法華経は説かれたのではないでしょうか。 妙法蓮華経 如来寿量品第十六 『毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身』(毎に自ら是の念を作す 何を以てか衆生をして 無上道に入り 速やかに仏身を成就することを得しめんと) そして、その成仏の法が『南無妙法蓮華経』であるわけです。 それゆえに、当時の衆生にしては画期的な教えだったのではないでしょうか。それが広まり、形は変わっても最終的には現在の末法にまで流布されているのではないでしょうか。 ※インド古代思想については、専門家でもありませんし、それが何を示すのかも判断しかねます。こちらについては、また、インド古代思想と仏教(釈尊一代の説法を指して)の関係については、専門家の方に委ねたいと思います。  (ち) 宿業は ただそのように言って あなたはいま仏性がハタラキをしていませんね ネガの状態にありますねということを注意し自性清浄心を呼び起こすために――宿業と――言うだけではありませんか。 ■仏教については、先ず『現実の衆生の抱える苦悩の解決』を目的として説かれています。そして、多くの教義がこの衆生生命に内在する“宿業”を基に、因果を知見しその解決をはかるものです。

bragelonne
質問者

お礼

 けいえす5518さん ダメです。ダメ。そんな弱気ぢゃ ダメです。もうひとつ ダメです。  こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ■ 仏性については、十界の境涯の中でも、なかなか現われるものではないとされています。  ■ 依正不二で実生活上に現われてきている“業(宿業)”は、実践修行により転換できるとされています。  ☆ どうしてこんな弱音を吐くことが 流行しているのですか?  たとえ九界のどこかにいたとしても 仏界につうじているではないですか。それに ひとつの時代と社会において ひとりのブッダもいないということは ないでしょう。  だとしたら そのブッダさんにあやかって 仏界の境地にかろうじてつらなっていると言っても マチガイではないでしょう。  宿業は すでに転換されています。  忘れたのですか?  ○ 凡夫即極 / 直達正観 / 即身成仏 / 即得往生  ◆ (百六箇抄講義1977:01~同11 先生の講義 第八回) ~~~~~  http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1712347.html#more  久遠元初における日蓮大聖人は、名字凡夫の姿のまま妙法を唱えられると同時に、直ちに正観に達せられたのであります。  まさに「直達の法華」とは、妙法にはらまれた、仏因と仏果とを因果倶時ならしめる妙なる力を指しているのであります。  それはまた、久遠元初の自受用報身如来即日蓮大聖人の生命に脈打つ一法でもある。  ~~~~~~~~~~~~~~  ■ ~~~~  ※宿業  宿世(過去世)の業因のこと。  ~~~~~~  ☆ 生まれてからその現在の時点までの《過去》なら分かりますが 生まれ変わる前の前世という意味の過去世は 受けつけられません。生まれ変わりなどはあり得ませんから。妄想はよしましょう。  ■ 逆に、『輪廻転生』を是として、その中で、“仏性を開く為の教えとして”法華経は説かれた。  ☆ そのようなおとぎ話のほうが 一般大衆には分かりやすいという問題があったかも分かりませんが いまでは要らないというのではなく そうではなく その昔の当時においても そのおとぎ話はあくまで方便としてのたとえ話であって そのときにあっても それがウソであることは あきらかであった。こうでなければ話になりません。  《生まれ変わり》などは あり得ません。みづからすすんで精神錯乱に落ち入ろうというのですか?  輪廻転生は 絶対に受けつけません。  ■ 過去世の宿業を開き、打開し今世において成仏するために法華経は説かれたのではないでしょうか。  ☆ タワケです。  ■ ~~~~~~~  そして、その成仏の法が『南無妙法蓮華経』であるわけです。  それゆえに、当時の衆生にしては画期的な教えだったのではないでしょうか。それが広まり、形は変わっても最終的には現在の末法にまで流布されているのではないでしょうか。  ~~~~~~~~  ☆ いいえ。直達正観と言わないのなら 受けつけません。  六道輪廻は ただただ現世のあいだにあたかもそのように低い境涯の状態を経巡っているというのみです。  ■ 仏教については、先ず『現実の衆生の抱える苦悩の解決』を目的として説かれています。そして、多くの教義がこの衆生生命に内在する“宿業”を基に、因果を知見しその解決をはかるものです。  ☆ これではまだまだ 中学校の段階のことを言っています。ただちに 直達正観を伝えないのなら そのことがウソでありおそらく誹謗になるでしょう。  ええ加減にしてください。  

  • ks5518
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回答No.30

No.28です。 >(あ) アマラ識=九識心王真如の都 これは 一念(念心)として一念三千の諸相をふくむ。ゆえに仏性をも含む。    ――こういうことだと理解しましたが それでもそのとき 《この一念三千なるけっきょく世界全体と対応するかたちでその世界のあたかも源泉になっているようなアマラ識》は 仏性がある(または仏性である)ゆえにこそ そのような源泉性なるチカラをはたらかすことが出来る。のではないでしょうか? ■仰っている意味が良く分かりません。 仏性よりも、念心に内在する宿業があるゆえにだと思います。 >(い) 別の言葉で言いかえるなら 《仏性》は 十界のひとつに位置するだけではなく 十界や十界互具や一念三千の全体を成り立たせるチカラ(つまり前項の《源泉》)であるのではないか? ■それは違うと思います。何故なら、全ての衆生において、常に仏性が現れているという事がないからです。 あくまでも、仏性は十界の一境界として存在します。 >(う) わが心の《非思考の庭》には仏性がやどる。のですが 仏界のほかの九界は 言わば《思考の緑野および感性の原野》(つまりは 経験領域)と対応している。と見られる。したがって 十界互具や一念三千なる全体世界は 《非思考の庭》と《思考の緑野および感性の原野》とのまとまった全体と対応している。――こう見られないか? ■仏性・・・というよりも、念心自体の話しでしょうか? それしも、あくまで仏性のことでしょうか? >>十界互具や一念三千なる全体世界は 《非思考の庭》と《思考の緑野および感性の原野》とのまとまった全体と対応している。――こう見られないか? 十界互具や一念三千⇒これが内在される念心は、あるいは念心によって全ての身体、環境とは関係、連動しています。これは、念心に宿る業を元に全て作用されます。 >(え) もしこのように考えてくるなら 見方がふたとおりあると思われる。  すなわち 仏性を 十界のひとつとしての仏界としてだけ捉えるなら   ■ アマラ識=如来蔵=〔狭義の特殊な意義として〕生命=念心 > 仏性  が成り立つ。しかも同時に もし仏性をアマラ識と同じように一念三千の全体世界を成り立たせる源泉だと広義に捉えるなら   ○ アマラ識=如来蔵=〔狭義の特殊な意義として〕生命=念心 = 仏性  がけっきょく成り立つ。のではないか? ■後者は成り立ちません。仏性の理解としては、あくまでも前者になります。 >(お) 言いかえると 《生命》についても同じことが言えるはずだ。   生命:狭義として・・・如来蔵=アマラ識      中広義として・・・一念三千の世界の内の生物      広義として・・・・一念三千なる世界の全体   仏性:狭義として・・・十界の内の仏界      広義として・・・如来蔵=アマラ識(これは 一念三千の源泉である) ■生命、命という言葉は生物学上の別な概念があり、これをそのまま使用することには、色々と誤解が生じる恐れがあります。ニュアンス的に、また、個人的に良く理解していれば問題は有りませんが、多くの人間の理解の及ぶ範囲ではありません。 メインタイトルに戻りますが、“仏性は 生命なのですか? 霊なのでは?”これはNo.27の冒頭で回答している通りです。 >>>■仏性は単体ではなく、十界互具であり百界である《生命》(この生命という表現にも、疑問が残るが、、、)に備わるものである。 おそらくは、質問者様は仏性については理解されたと思いますので、次の質問になるかと思います。 それは、生命(分かりやすいように使っちゃいます)と業、そして身体、環境の関連性でしょうか??

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ■ 仏性よりも、念心に内在する宿業があるゆえにだと思います。  ☆ いえ。《宿業》は内在しません。あたかも内在するかのように錯覚するだけです。    それはつまり 仏性のハタラキがお休みの状態にあるからです。《内在する》のは――想定において―― 《仏性》のみです。  この仏性がお休み状態であってあたかもネガのような姿でいるとき それは分かりやすい話として《宿業がこびりついて 仏性のアマラ識の場に居ついてしまった》などと 比喩で言うだけだと考えます。  じっさいには 宿業が《内在する》ことなどはないと考えます。  仏性がハタラキを休んでいるあいだ その空白のような部分を何かが占めると言えば分かりやすいという物語だと見ます。  ■ ~~~~  それ(* 仏性は 一念三千の源泉という説)は違うと思います。何故なら、全ての衆生において、常に仏性が現れているという事がないからです。  あくまでも、仏性は十界の一境界として存在します。  ~~~~~  ☆ 十界の一境界だというのは 共通の認識です。それだけだろうかという問いです。  ■ 衆生において、常に仏性が現れているという事がない  ☆ この状態は 仏性がそのハタラキを休んでいる状態なのではないでしょうか?  言いかえると そのような休息の状態だと言っても休んでいるだけであって・ネガの状態にあるだけであって けっきょく世界(つまり一念三千の諸相のすべて)にかかわっている。はずです。それは 十界互具からも言えるはずです。  つまり 一念三千の世界のさまざまな成り立ちを支えているのは――たとえ仏性がそのハタラキを実際におこなっているのが その時代にただひとりであったとしても そのひとりの稼働状態にあるところの――仏性のチカラなのではないでしょうか? これが 如来蔵ともアマラ識とも呼ばれるに過ぎません。そしてここでの問いとしては《生命》という呼び方でもあると。  すなわち これまでのお話で 狭義と広義の仏性を捉えようとして来ましたが それゆえ《狭義の仏性》だけに絞るなら  ■ ~~~~~  仏性・・・というよりも、念心自体の話しでしょうか?  それしも、あくまで仏性のことでしょうか?  ~~~~~~~  ☆ といった疑いが繰り出されるとは思います。  すなわち《広義の仏性》というのは   ■ 十界互具や一念三千⇒これが内在される念心は、あるいは念心によって全ての身体、環境とは関係、連動しています。これは、念心に宿る業を元に全て作用されます。  ☆ というふうに捉えておられるその中に見い出されると考えます。  ■ これは、念心に宿る業を元に全て作用されます。  ☆ すなわち業・宿業は 仮象であってあるいは飾りであってそのチカラがあまりにも強いと見られるときがあったとしても それは 仏性のお休みの時間であるというだけである。――このように もし捉えることが出来たとすれば   ○ 念心に宿る仏性を元に全て作用されます。  と言いかえるほうが 現実に即している。こう考えます。  なんで妙法を保ちながら 《宿業》なるシガラミに大きく影響を受けるのでしょう? あるいはつまり 地涌の菩薩としては つねにシガラミの中に身を置きこの宿業とはげしく接し言わばたたかっています。けれども どうしてこの宿業とのたたかいに 初めから負けが決まっている〔かのように世界をとらえる〕のでしょう? おかしかないですか?  ですから 仏性のハタラキが実現している人――それが 一時代にたとえひとりであったとしても――にとっては その依正不二は 仏界の影響下にある世界です。なんでこのブッコクドの実現が芽を吹いているというそのことを もっとしっかりとはっきりと伝えないのでしょう? おかしかないですか?  ■ 後者(* 仏性に広義の仏性もあると見る見方)は成り立ちません。仏性の理解としては、あくまでも前者(* 狭義のみ)になります。  ☆ なぜでしょう?  もしそうであるなら ひとつの時代とその社会にあって 仏性の顕現する人はひとりもいないと言ったことになります。そうでありながら どうして《仏性》の想定を言うことが出来るのでしょう? だれがそんなあやふやなことを言いふらしているのでしょう? まるっきりウソぢゃないですか。  ウソと言わないまでも 決して分かって言っているのではない。となります。ただ聞いたことを 鸚鵡返しに述べているだけだとなります。  そんなことで どうしてブディズムの旗印をかかげていられるのでしょうか?  ■ ~~~~  おそらくは、質問者様は仏性については理解されたと思いますので、次の質問になるかと思います。  それは、生命(分かりやすいように使っちゃいます)と業、そして身体、環境の関連性でしょうか??  ~~~~~  ☆ ええ。すでにその問題を取り上げて 反論しています。  すなわち けいえす5518さんのおっしゃる《仏性》は あたまの中で想像した観念である。こう結論づけざるを得ません。どうでしょう。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄をおぎないます。  ◆(百六箇抄講義1977:01~同11 先生の講義 第二回1) ~~~~~   http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1712368.html  § 本仏の生命に触れることが大事  ( a ) また、私たちの五陰仮和合の生命は、一瞬もとどまることなく動いている。エネルギーに満ちた存在です。  ( b ) これを一時点の断面だけでみようとするのは、あたかも飛んでいる矢を静止させてみようとしているようなものでありましょう。  ( c ) 「因」と「果」の織りなす連続した時間のなかで生命を捉えてこそ、真実相に迫りうるのではないでしょうか。  ( d ) 本門が迹門より一歩深い洞察に立っているのは、この観点からもいえると私は思うのです。  ( e ) この関係を釈迦仏法でいえば、迹門では、始成正覚の仏と説かれ、釈尊の仏としての生命は、今世にはじめて生じたもので、その根源が明かされていません。  ( f ) また、本門寿量品において五百塵点劫の昔に仏になったことが説かれたとしても、それも、ただその原因は、菩薩道を行じたというだけで、結果のみが表になっています。  ( g ) それに対して、御本仏・日蓮大聖人は、大宇宙とともに、元初よりの南無妙法蓮華経を説き明かし、それを大聖人の事実の行動のうえに顕現されたのであります。  ( h ) まさしく、一個の生命に律動している根源の大リズムを捉えたというべきでありましょう。  ~~~~~~~~~~  ☆ ほかにも引用して考慮すべき個所がいくつかありますが 敢えてここのようにかえって形式的な整理のもとにある説明をとおして 《生命》と《仏性》との関係などを捉えてみます。  (1) 生命は 一般的な意味とともに狭義で特殊な意味・用法が見られる。こう思われるのですがたとえば:    ◆ ( h ) 一個の生命に律動している根源の大リズム  これなどは はっきりしていると思われます。  まづ   ・《一個の生命》とは:ひとりの生きる存在である人間としての生命  でありましょう。ところが   ・《律動している根源の大リズム》とは:《非経験の場なる神》つまりその霊  だと見ざるを得ません。  (2) なぜなら   ◆( g ) 大宇宙とともに、元初よりの南無妙法蓮華経を説き明かし  とあるように   ・《律動している根源の大リズム》とは:《非経験の場なる神》つまりその霊    すなわち 《大宇宙》のことであり    《元初よりの南無妙法蓮華経》という《律動している根源のリズム》のことであり    それは 《経験現象としての摂理》などではなく――なぜならもしそうであるならば    創造やその維持だけではなく 破壊や災害をも 妙法のことだと言わなければなら    なくなる―― 目に見えない神の霊としてのチカラである。  と考えられます。  (3) しかもさらに   ◆( g ) 大聖人の事実の行動のうえに〔その根源のリズムを〕顕現されたのであります。  というときには どうなるでしょうか。《宇宙の根源のリズム》が神の霊としてハタラキを持つということに付随して 《妙法の当体》とその現実に生きる行動とにおいては 経験的な・目に見える《事実》としても《顕現された》と言っています。  (4) これは ブッダの三身で説明されるようです。    ・法身:神の霊:宇宙の根源なるリズムとして《非経験の場》なるチカラ    ・報身:・・・(?)・・・    ・応身:現実の存在とその行動という《経験事実》  すなわち この《法身》と《応身》とのふたつを 少なくとも 言っているように思われます。  (5) 報身は措いておきますが だとすれば 《生命》ないし《仏性》の定義は 或る程度得られます。    (あ)生命=仏性:法身なるブッダ:神の霊    (い)生命=仏性:応身なるブッダつまりその現実の姿および行動    (う)生命:生きている存在の活動力    (え)生命存在は 仏性をそなえている。ほかに経験事象としての九界がある。   (う)および(え)は 次のように表現されるふつうの生命である。     ◆( a ) また、私たちの五陰仮和合の生命は、一瞬もとどまることなく動いている。エネルギーに満ちた存在です。      (6) ◆( e ) ・・・釈尊の仏としての生命は、今世にはじめて生じたもので、その根源が明かされていません。  ☆ というときには どういうコトが導き出せるか。    (お) 《釈尊の仏としての生命》には 《始め》がある。    (か) 同じくその場合の生命は 《その根源が明かされていない》。  (7) 従うならば ぎゃくに:    (き) 《始め》のない生命 《根源が明かされている》生命      またはその《根源そのものである》生命       こういう生命もある。    (く) これは 《(あ)生命=仏性:法身なるブッダ:神の霊》のことだ。  こんなところでしょうか。  いづれにしましても 《仏性》は 広義の(または最広義の)《生命》と同じく 《神の霊 ないし 法身のブッダ》なるチカラであると言えるはずです。

  • ks5518
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回答No.29

No.28です。 >■ 念心  ☆ これは 一念(一瞬)ごとの心――そこに 三千の諸相がそなわる――と捉えてよろしいでしょうか。 ■その通りです。 >■ そうです。仏教では“死んだら終わり”ではないのです。《九識心王真如の都》、衆生生命、念心は流転するのです。過去世、現世、未来世の因果を説いているのです。消滅はしません。  ☆ 輪廻転生ですよね。これは ざんねんながら わたしは――文学作品などなら別ですが――哲学としては受けつけません。  なぜなら かんたんです。同じ遺伝子の人間が 過去にいたということはあり得ないからです。生まれ変わりは あり得ないと考えます。  いかがお考えでしょうか? ■遺伝子は関係ないと思います。仏教では、“業(カルマ)”として捉え、この“業(宿業)”によって様々な教えを説かれています。例えば、『依正不二』です。念心と身体、あるいは生活(社会)環境に至るまで、全ては関連していると説いています。 ※(あ)~(お)については、後ほど回答いたします。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  《念心》についてありがとうございました。  ■ 遺伝子は関係ないと思います。仏教では、“業(カルマ)”として捉え、この“業(宿業)”によって様々な教えを説かれています。例えば、『依正不二』です。念心と身体、あるいは生活(社会)環境に至るまで、全ては関連していると説いています。  ☆ ええっと 反論します。  (か) 《“業(カルマ)”》とは 単純に《行為》のことですよね? そこに過去からの結果なる状態がくっついているのかも分かりませんが 《自性清浄心》である仏界には影響をおよぼしませんよね?   (き) 《仏性》は――それこそアマラ識として 一念三千の《源泉》となって―― 九界のいわゆるシガラミとはげしく接しているのでしょうが それによって左右されることはない。と言ってよいでしょう。つまり 《宿業》からは自由です。  (く) むろんそのときにも――仏性が自性清浄心としてのハタラキにおいてシガラミに接していてもそれを宿業とはしないそのときにも――  ■ 『依正不二』  ☆ です。そのことに例外はありません。しかも正報たる――仏性の源泉のもとに生きる――人は 環境たる依報とむしろからみ合っていつつ・しかもそれによっておおきくは影響を受けない。というとき 依正不二という状態は つねに成り立ちます。  (け) つまり 宿業から自由である境地において生きることがあり得ます。  (こ) ですから 確かに  ■ 念心と身体、あるいは生活(社会)環境に至るまで、全ては関連していると説いています。  ☆ というふうに《不二》というまでに《情況とワタシ》とは 密接な相関関係にある。そのとおりだと考えます。  (さ) このとき  ひとつに 仏性は狭い意味においては 《念心》の中のひとつの仏界という位置を占めるだけであるかも知れませんが  ひとつに その念心において広がる一念三千の諸相・諸法つまり 全体世界 これと同等であるチカラであるか それともその全体世界を成り立たせている源泉であるか。いづれかであると思われます。  (し) もし仏性がハタラキを休んでいる場合なら おそらくその仏性があたかも陰画(ネガ)のごとくになって それでも世界全体にけっきょくかかわっている。のではないか? いづれにしても 狭義の仏界と広義の――けっきょく妙法そのものとしての――仏性とが 捉えられるのではないでしょうか?  (す) 拡大解釈をし過ぎでしょうか?  (せ) ですから 輪廻転生は たぶん(し)の中で触れた《ネガの状態――仏性のハタラキがお休みの状態――》がつづく場合に あたかも前世から現世そしてさらに来世へというふうに その仏性がハタラキを休んでいるあいだは どこまでも・いつまでも 宿業を背負ってあゆむといったような解釈がなされるのではないか?  (そ) つまり それは 仏性よ おまえのハタラキを表わしてくれたまえという願いを込めて わざわざ三世にわたる生まれ変わりなる物語を編んだ。そういうことではないでしょうか。  (た) それにしても この輪廻転生は ブラフマニズムの思想ですよ。なんでわざわざブディズムが それを継承しなければならないのでしょう? それにさらには ブッダとなれば もうそのような転生はしないのですから 何だか要らぬものをひきずっているなぁと感じられます。  (ち) 宿業は ただそのように言って あなたはいま仏性がハタラキをしていませんね ネガの状態にありますねということを注意し自性清浄心を呼び起こすために――宿業と――言うだけではありませんか。

  • ks5518
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回答No.28

No.27です。 今回、回答するに当たり、分かりやすくするために、回答順序を組み替えてみたいと思います。 >☆ いまの段階では 次のように捉えています。あらためてですが:   ○ アマラ識(日蓮も用いている言葉)=如来蔵=仏性=    そして =神の霊=アートマン=    そして =〔狭義の特殊な意義として〕生命 ■アマラ識(日蓮も用いている言葉)=如来蔵=〔狭義の特殊な意義として〕生命=念心>仏性    そして =神の霊=アートマン= ※ =神の霊=アートマン= については、ややこしくなるのでここは置いておきます。 >もしよろしかったら この十界互具ないし百界をめぐる生命の扱いにかんしては きちんと整理したまとめなどがあるのでしたら おしえていただきたい。こういう状態であり姿勢でいるというのが ほんとうのところです。 > ■ ~~~~~~~~    (α) ブッダター(仏性)は 生命なのですか?   ■ 先にも書きましたが、仏性は単独で存在するものではありません。⇒十界互具、百界千如、一念三千参照  ~~~~~~~~~~  ☆ ですから 正直に申せば――いつもそうしているつもりですが―― これだけではわたしには まだ腑に落ちた理解が行きとどきかねています。 ■《一念三千》 衆生の起こす一念《念心》の心に三千の諸法を具足すること。一念とは瞬間、極微の生命をいい、三千とは現象世界の全てをいう。すなわち、衆生生命(一念)に現象世界(三千)の全てが収まることをいう。⇒仏教哲学大辞典 聖教新聞社発刊 ※文中《念心》・・・については、今までの経緯から分かりやすく私が附しました。 《十界》・・・・基本的に仏教で説かれている十種の境涯 ・地獄界 ・餓鬼界 ・畜生界 ⇒以上、三悪道 ・修羅界 ⇒以上、四悪趣 ・人界 ・天界 ⇒以上、六道。六道輪廻などの六道です。 ・声聞界 ・縁楽界(辟支仏ともいう) ⇒声聞、縁楽を二乗といいます。『二乗作仏』などの二乗です。 ・菩薩界 ・仏界⇒仏性のこと 《十界互具=百界》・・・・基本の十界にそれぞれ十界を具すこと。十界×(かける)十界で百界となります。 ・地獄界-地獄  地獄界-餓鬼  地獄界-畜生  地獄界-修羅  地獄界-人  地獄界-天  地獄界-声聞  地獄界-縁楽  地獄界-菩薩  地獄界-仏 ・餓鬼界-地獄  餓鬼界-餓鬼  餓鬼界-畜生    ~(途中省略) ・仏界-声聞  仏界-縁楽  仏界-菩薩  仏界-仏 《十如是》・・・・諸法に具わっている十種の存在の仕方。法華経 方便品第二に書かれています。百界×十如是で、千如。 ・如是【相】 ・如是【性】 ・如是【体】 ・如是【力】 ・如是【作】 ・如是【因】 ・如是【縁】 ・如是【果】 ・如是【報】 ・如是【本】(※本末究竟等) 《三世間》・・・・因縁の和合によって造作された一切の差別法(すべての事物、事象)を三種に分別したもの。この三世間それぞに百界千如が存在するため。三世間×百界千如で【三千】となります。 ・衆生世間 ・五陰世間 ・国土世間 ですので、上記 “生命=念心>仏性” となります。つまりは、仏性とは、仏界であり、他の境涯と共に念心に具足されているもの。 >ただし 仏性にかんしては またひと味違うのだというご見解でしょうか。 ■上記参照。 そうです。 《生命》=《仏性》=《神の霊》は成り立ちません。 “生命=念心>仏性”となります。 ■また、質問者様の定義において、《非経験の場》、その反対は《経験の場》でしょうか?? 《非経験の場》・・・・人間が経験できないもの。科学的に証明が不可能なもの。 《経験の場》・・・・人間が体験できるもの。科学的に証明が可能なもの。 で宜しいのでしょうか?? >ただし  ■ 衆生生命《私が言うところの念心》  ☆ につきましては 今回初めてお聞きしたのですが ここにも《生命》が出て来ている点について どう捉えればよいか。  つまり 《念心》ですか。  《寿命》ではないですよね?  あるいは 《生きて動く活動力》でもないですよね? (重なるところがあるとしても そのような生き物にかんする一般的な生命力を言うのとは違いますよね?)  だとすると 何でしょう? 一方で《神の霊》ではなく――つまり《非思考》ではなく―― 他方で だとすると 経験的な生命力に近いかたちで 特には人間の思念などにかんするチカラやそのハタラキなのでしょうか?  でも それだとすると 生命力一般にふくまれるようになってしまわないか。とも思えますが。  ■ ~~~~~~    (η) あるいは 非経験・非思考でもあり 経験事象でもある? そんなことはないかぁ。   ■ 衆生生命《私が言うところの念心》、ブッダター(仏性)、《アートマン(霊我)》、《神の霊》の定義付けが必要ではないですか!?要するに、建て分けです。  ~~~~~~~~  ☆ 建て分けは いまのところ 《経験領域》と《非経験の場》とのふたつの区分のみです。あとの三つは 《非経験の場》に対応しています。  《衆生生命〈私が言うところの念心〉》 これはひょっとして 両方にまたがっている。ということですか? ■そうです。仏教では“死んだら終わり”ではないのです。《九識心王真如の都》、衆生生命、念心は流転するのです。過去世、現世、未来世の因果を説いているのです。消滅はしません。 しかし、“次も間違いなく人間に生まれる”とは釈尊は一言も言っていません。その代わり、法華誹謗の罪により、爬虫類に生まれ嫌われる事は書れています。 また、以前の貴方の質問の回答で、“正法の存在しない世界に生まれる”と言ったのは、この“過去世の業”によるものだからです。 ※不足したところ、説明不足のところにつきましては、後ほど見直し、回答いたします。

bragelonne
質問者

お礼

 かなり明らかになってまいりました。ご回答をありがとうございます。そして こんばんは。  まづ分かりやすいところから確認して行きます。  ■ 念心  ☆ これは 一念(一瞬)ごとの心――そこに 三千の諸相がそなわる――と捉えてよろしいでしょうか。  ■ そうです。仏教では“死んだら終わり”ではないのです。《九識心王真如の都》、衆生生命、念心は流転するのです。過去世、現世、未来世の因果を説いているのです。消滅はしません。  ☆ 輪廻転生ですよね。これは ざんねんながら わたしは――文学作品などなら別ですが――哲学としては受けつけません。  なぜなら かんたんです。同じ遺伝子の人間が 過去にいたということはあり得ないからです。生まれ変わりは あり得ないと考えます。  いかがお考えでしょうか?  ■ ~~~~~   《非経験の場》・・・・人間が経験できないもの。科学的に証明が不可能なもの。   《経験の場》・・・・人間が体験できるもの。科学的に証明が可能なもの。  で宜しいのでしょうか??  ~~~~~~~  ☆ ええ。そのつもりで使っています。  もっと細かく言う場合には 次のようにも言います。   ○ 非経験の場:人間が経験できるか出来ないか それが人間の能力によっては 分からない。つまり 分かるか分からないかが分からないナゾ。  つまりひょっとしたら 非経験の場は――つまり 仏性や神の霊は―― われわれ人間が経験しているのかも分からないということを含んでいます。そういうナゾです。    衆生生命(念心)のことがやっと分かりました。  ■ ~~~~   アマラ識(日蓮も用いている言葉)=如来蔵=〔狭義の特殊な意義として〕生命=念心 > 仏性    そして =神の霊=アートマン=  ※ =神の霊=アートマン= については、ややこしくなるのでここは置いておきます。  ■ ~~~~~~  上記〔すなわち 十界互具や一念三千なる生命の中に《仏界=仏性》が位置することからして〕“生命=念心 > 仏性” となります。つまりは、仏性とは、仏界であり、他の境涯と共に念心に具足されているもの。  ~~~~~~~  ☆ これらの用語を整理するにあたって 先ほどの《非経験》と《経験》との区別を 次のようにひとりの人間の内面において分析して捉えると分かりやすいと思うのです。  ○ (ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ):【非経験の場】    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市) :【経験領域】    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ もっと簡略には:   ○ 【非経験の場】∽ 《信じる》=《非思考の庭》    【経験領域】 ∽ 《考える》=《思考の緑野》  それで そうしますと まづ分かっていることは 次です。   ○ 如来蔵=仏性=〔狭義の特殊な意義として〕生命     さらに =神の霊=アートマン=  あとは すみませんが あらためて質問するかたちで確認させてください。  (あ) アマラ識=九識心王真如の都 これは 一念(念心)として一念三千の諸相をふくむ。ゆえに仏性をも含む。    ――こういうことだと理解しましたが それでもそのとき 《この一念三千なるけっきょく世界全体と対応するかたちでその世界のあたかも源泉になっているようなアマラ識》は 仏性がある(または仏性である)ゆえにこそ そのような源泉性なるチカラをはたらかすことが出来る。のではないでしょうか?  (い) 別の言葉で言いかえるなら 《仏性》は 十界のひとつに位置するだけではなく 十界や十界互具や一念三千の全体を成り立たせるチカラ(つまり前項の《源泉》)であるのではないか?  (う) わが心の《非思考の庭》には仏性がやどる。のですが 仏界のほかの九界は 言わば《思考の緑野および感性の原野》(つまりは 経験領域)と対応している。と見られる。したがって 十界互具や一念三千なる全体世界は 《非思考の庭》と《思考の緑野および感性の原野》とのまとまった全体と対応している。――こう見られないか?  (え) もしこのように考えてくるなら 見方がふたとおりあると思われる。  すなわち 仏性を 十界のひとつとしての仏界としてだけ捉えるなら   ■ アマラ識=如来蔵=〔狭義の特殊な意義として〕生命=念心 > 仏性  が成り立つ。しかも同時に もし仏性をアマラ識と同じように一念三千の全体世界を成り立たせる源泉だと広義に捉えるなら   ○ アマラ識=如来蔵=〔狭義の特殊な意義として〕生命=念心 = 仏性  がけっきょく成り立つ。のではないか?  (お) 言いかえると 《生命》についても同じことが言えるはずだ。   生命:狭義として・・・如来蔵=アマラ識      中広義として・・・一念三千の世界の内の生物      広義として・・・・一念三千なる世界の全体   仏性:狭義として・・・十界の内の仏界      広義として・・・如来蔵=アマラ識(これは 一念三千の源泉である)  以上のようです。

  • ks5518
  • ベストアンサー率27% (469/1677)
回答No.27

今日は、、、、 【メインタイトル】仏性は 生命なのですか? 霊なのでは? ■仏性は単体ではなく、十界互具であり百界である《生命》(この生命という表現にも、疑問が残るが、、、)に備わるものである。 “霊”という表現は、霊の定義確定によると思いますが、一般的なスピリチュアル論理で扱うところの“霊”ではない。  (α) ブッダター(仏性)は 生命なのですか? ■先にも書きましたが、仏性は単独で存在するものではありません。⇒十界互具、百界千如、一念三千参照  あるいは  (β) アートマン(霊我)は 神の霊であって 非経験・非思考だとおもわれる。か? >アートマン(霊我)は 神の霊であって  ■定義の確定が必要でしょう。 >非経験・非思考だとおもわれる。か? ■上記の確定によるでしょう。現段階で私は、質問者様の仰る《アートマン(霊我)》《神の霊》は非経験・非思考だと思います。 ※あまり《アートマン(霊我)》《神の霊》ということに詳しくないので。そちらの分野は質問者様のほうが専門的でしょうから。  (γ) ブッダターは けっきょく アートマンと同じなのではないか? ■違うと思います。ブッダター(仏性)はあくまでも、一境涯として内在されるものであるから。  (δ) 生命とは この神であり霊であるのか? そのようにただ想定されているものに過ぎないのか? ■全く違うものである。  (ε) それとも 自然科学によって検証され得るものですか? 経験事象ですか? ■何が、、、、ブッダター(仏性)ですか?それとも、《アートマン(霊我)》《神の霊》ですか? ※前回の質問でもその傾向がありますが、衆生生命《私が言うところの念心》とブッダター(仏性)、《アートマン(霊我)》《神の霊》が質問者様の中でゴッチャになっていないですか??⇒【独自の理論⇒個人的概念】と捉えてしまいますよ。  (η) あるいは 非経験・非思考でもあり 経験事象でもある? そんなことはないかぁ。 ■衆生生命《私が言うところの念心》、ブッダター(仏性)、《アートマン(霊我)》、《神の霊》の定義付けが必要ではないですか!?要するに、建て分けです。  (θ) ヒトの自然本性は 身と心だと思われるが そして霊とは これらを超えたワケの分からないナゾだと思われるが では 生命とは何ですか? ■No.4でもお話しましたが、【生命】・・・この捉え方がややこしい。 基本的には⇒一般世間的には⇒医学的には、生命は“Life”と捉え、人間《もちろん人間だけではないが・・・ここはわかりやすくするために》生を受けてから死ぬまでにある生命の事を指して言います。ここで、仏教概念にまで【生命(もしくは命)】を使ってしまうと非常に分かりにくくなる。何故なら、仏教的概念によれば、それらは滅する事がないと言われているからです。 また、“心”も同じような概念があります。これは、とり方によれば脳、思考に直結するからです。 魂、霊についても同じような事が言えます。 ですから、先ず定義有りきだと考えます。  (ι) ヒト(あるいはほかの生物)に付属している(もしくはそのむしろみなもととしてある)チカラでありハタラキであるのですか 生命は? 遺伝子のハタラキですか? ■上記を踏まえて、遺伝子の働きではないと思います。 生命・・・・やっぱりこの定義。これを使うか使わないか?????

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。まづは あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。  《生命》にかんしては つまり《仏性》を問うという前提での生命としましては わたしに自然科学の識見もまたこまかい経典の知見もすくないものですから あまり回答者の方がたとのあいだで やり取りがすすまないのかも知れません。  とまづはおことわりして  ■ “霊”という表現は、霊の定義確定によると思いますが、一般的なスピリチュアル論理で扱うところの“霊”ではない。  ☆ ええ。これは そのとおりです。《仏性》をもとにしてこの霊という言葉も出して来ていますから。  ただし ここでの定義では あくまで《思考に非ず》と捉えています。言いかえると 《非経験の場》に・またそこにチカラがあると捉えてそのチカラに 当てています。  ■ 仏性は単体ではなく、十界互具であり百界である《生命》(この生命という表現にも、疑問が残るが、、、)に備わるものである。  ☆ どういうふうに言いましょうか わたしの場合ブディズムにかんしては きわめて〔自分で〕基本的な〔と思われる〕ことがらを捉えて 大胆に勝手に突飛なまでに これこれこういうことを言っているのではないかとさらに解釈までをもして みなさんとやり取りしつつ問い求めている。そんな感じになります。  それで この一念三千にしてもその内容としての十界互具にしても 特には経典に原文を求めたうえで議論をするというまでには到っていません。  細かいところが分からないということですが この質問では《生命》という言葉をどのようにブディズムの中身になじませて捉えるのがよいのか。これを問い求めたわけです。特には 池田氏の講義によくこの《生命》ということばが出て来ます。そこからの質問でした。  もしよろしかったら この十界互具ないし百界をめぐる生命の扱いにかんしては きちんと整理したまとめなどがあるのでしたら おしえていただきたい。こういう状態であり姿勢でいるというのが ほんとうのところです。  ■ ~~~~~~~~    (α) ブッダター(仏性)は 生命なのですか?   ■ 先にも書きましたが、仏性は単独で存在するものではありません。⇒十界互具、百界千如、一念三千参照  ~~~~~~~~~~  ☆ ですから 正直に申せば――いつもそうしているつもりですが―― これだけではわたしには まだ腑に落ちた理解が行きとどきかねています。  ■ ~~~~~     (β) アートマン(霊我)は 神の霊であって 非経験・非思考だとおもわれる。か?    >アートマン(霊我)は 神の霊であって    ■ 定義の確定が必要でしょう。  ~~~~~~   ☆ この定義につきましては はっきりしています。    ○ 神ないしその霊とは この経験世界における因果関係から自由な場ないしそのチカラ  のことだと規定しています。《想定》でもありますが。  すなわち これが《非経験の場》であり これをわが心に受け容れたときには その心に《非思考の庭》が成ると捉えています。《仏性》は――けっきょく《アートマン》と同じくまた《神の霊》と同じく―― この非思考の庭にやどる。このように想定し規定しています。  ちなみにそのとき アーラヤ識だとかアマラ識だとかのそれ独自の場を――人間存在の中に――取り分けて置くことまでは していません。特別にそうしたほうがよいと分かれば その説に従いますが いまのところでは その必要は感じていません。  そうして《生命》にかんしては 単純にこのブッダターのことだと捉える。このように ひとまづ結論づけています。  (勝鬘経では 如来蔵(つまり 仏性)のことを ブラフマニズムの用語であるにもかかわらず《アートマン》であると言っているようですし。  (ジャイナイズムでも アートマンを霊としてみとめていて これを《 jivah (生命という一般的な語)》でも呼んでいる。  (つまり《生命(ジーワー)》なる語を 寿命なり生きるチカラなりの一般的な意味から 取り分けてこの神の霊をも――特殊に狭義に――表わす語として用いている。  (あるいはまた 日蓮も アマラ識を持ち出しているのなら それは如来蔵のこと・つまり仏性のことであるのですから 一連の概念の集まりにあっては 《生命》=《仏性》=《神の霊》として けっきょくは 用いている。と見られます)。    かくて  ■ 現段階で私は、質問者様の仰る《アートマン(霊我)》《神の霊》は非経験・非思考だと思います。  ☆ というひとつの結論を得ています。  ただし 仏性にかんしては またひと味違うのだというご見解でしょうか。  ■ ~~~~~~~    (γ) ブッダターは けっきょく アートマンと同じなのではないか?   ■ 違うと思います。ブッダター(仏性)はあくまでも、一境涯として内在されるものであるから。  ~~~~~~~~~  ☆ 《一境涯として内在されるもの》 この規定は これまでの理解と異なるものではないと思うのですが?  ■  ~~~~~    (δ) 生命とは この神であり霊であるのか? そのようにただ想定されているものに過ぎないのか?   ■ 全く違うものである。  ~~~~~~~~  ☆ つづくご議論を見てみます。  ■ ~~~~~  ※ 前回の質問でもその傾向がありますが、衆生生命《私が言うところの念心》とブッダター(仏性)、《アートマン(霊我)》《神の霊》が質問者様の中でゴッチャになっていないですか??⇒【独自の理論⇒個人的概念】と捉えてしまいますよ。  ~~~~~~  ☆ いまの段階では 次のように捉えています。あらためてですが:   ○ アマラ識(日蓮も用いている言葉)=如来蔵=仏性=    そして =神の霊=アートマン=    そして =〔狭義の特殊な意義として〕生命  ただし  ■ 衆生生命《私が言うところの念心》  ☆ につきましては 今回初めてお聞きしたのですが ここにも《生命》が出て来ている点について どう捉えればよいか。  つまり 《念心》ですか。  《寿命》ではないですよね?  あるいは 《生きて動く活動力》でもないですよね? (重なるところがあるとしても そのような生き物にかんする一般的な生命力を言うのとは違いますよね?)  だとすると 何でしょう? 一方で《神の霊》ではなく――つまり《非思考》ではなく―― 他方で だとすると 経験的な生命力に近いかたちで 特には人間の思念などにかんするチカラやそのハタラキなのでしょうか?  でも それだとすると 生命力一般にふくまれるようになってしまわないか。とも思えますが。  ■ ~~~~~~    (η) あるいは 非経験・非思考でもあり 経験事象でもある? そんなことはないかぁ。   ■ 衆生生命《私が言うところの念心》、ブッダター(仏性)、《アートマン(霊我)》、《神の霊》の定義付けが必要ではないですか!?要するに、建て分けです。  ~~~~~~~~  ☆ 建て分けは いまのところ 《経験領域》と《非経験の場》とのふたつの区分のみです。あとの三つは 《非経験の場》に対応しています。  《衆生生命〈私が言うところの念心〉》 これはひょっとして 両方にまたがっている。ということですか?    ■ 何故なら、仏教的概念によれば、それら(=【生命(もしくは命)】)は滅する事がないと言われているからです。  ☆ これは 手前味噌で言いますと 《神の霊》のことです。因果関係の支配する経験世界では 生まれると死ぬとがあり 初めと終わりとがあります。これらから自由な場が 非経験の場であり 神の霊のことです。  その霊がわが心にやどることにおいて人は 宇宙の霊とも呼べる神と呼応した境涯が得られるというものです。  こちらの解釈では 《九識心王真如の都》とまったく同一であると捉えています。  ■ ~~~~  また、“心”も同じような概念があります。これは、とり方によれば脳、思考に直結するからです。  魂、霊についても同じような事が言えます。  ~~~~~  ☆ これにつきましては 回答No.17のお礼欄に ひととおりの整理をしておりますので 参照ねがえればさいわいです。  ■ 上記を踏まえて、〔生命は〕遺伝子の働きではないと思います。  ☆ ええ。 遺伝子そのものが 《生命》のハタラキによって成ったものだという理解です。  

回答No.26

 「不具」については、命(いのち)ある者の側が望むような“完全な生命”はない、と言うか“生命はまだ完全ではない”と言うか・・・・・だからこれも生まれ出るべくして生まれてしまう、と云う事なんだろうと思います。  こんなことを考えていたら、仏性と言う言葉は広い意味で宇宙の精神、と云った意味合いで使われる場合もあるかと思いますが、人間の心という限られた世界における性、として使われる場合もあって複雑です。  そして今回の質問は、その両方にまたがって考えなければならないようで、さらに難しくなっていますね。    

bragelonne
質問者

お礼

 ★ そして今回の質問は、その両方にまたがって考えなければならないようで、さらに難しくなっていますね。  ☆ まさに そうでした。  ご回答をありがとうございます。  でも   ◇◇(回答No.2) ~~~~    ☆ (γ) ブッダターは けっきょく アートマンと同じなのではないか?   ◇ YES。勝鬘経では、如来蔵こそ真のアートマンであると書いてある。しかし、それは概念などで仮設された外道(バラモン教etc)などのアートマンとは異なる、と書いてある。つまり、非思考・非経験の場で感応できる何かなのでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ だと知りました。つまり 《如来蔵》は 《仏性》のことであり これが 《アートマン》だと言います。つまり ひとにやどる神の霊のことです。  あるいは 次のようなことも知られます。  ◇◇(回答No.12) ~~~~  仏教の双子の宗教と言われるジャイナ教では、この《jiva》がアートマンです。  仏教とジャイナ教には、用語をはじめとして様々な共通点があります。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 《 jivah 》は サンスクリット語でふつうに《生命・いのち》という意味の語です。その《生命》が 《アートマン》のことだと言われているそうなのです。  すなわち 狭義の生命なる概念は 神の霊に当てられて用いられるのだと知り得ます。    狭義の生命= jivah =アートマン=ブッダター(仏性)=神の霊  です。広義の生命は 一般的な意味になります。  ちなみに 精神は:  1. 狭義に 理性を言う。  2. 記憶と知解と意志の三つの行為能力をまとめて言う。  3. 宇宙の精神という場合 神のこと・またその霊を言う。  でしょうか。

回答No.25

 訂正です。    私の帰依するお坊さんは「如来の本体は絶対の大心霊体である」と霊の文字を使って言っているので、神=霊としても良いかと思います。  そこで、訂正は「神=魂」とは云えない、・・・・・としたいと思います。  よろしく。

bragelonne
質問者

お礼

 ええ ちょうどいまご返答を書き終えたところでした。  ★ 神=霊としても良いかと思います。  ☆ 了解しました。  ★ そこで、訂正は「神=魂」とは云えない、・・・・・としたいと思います。  ☆ たしかに《たましい》のほうは もし《霊》と同じ意味に用いるとした場合には むしろ人間という存在のほうにかんして用いるというように思われます。  あっ そう言えば これらの用語を定義したことがありました。それを引っ張り出して来ます。  《こころ・たましい・霊》の定義をこころみます。  ○ 《たましい》は   A. 感性   B. こころ   C. 霊  これらを表わします。  ○ 《こころ》は 次を表わします。   A. 感性 また 感情・気持ち    B. 世界にあってそれに相い対するときのみづからの向き あるいは 働きかけとしての意志(志向性)    B1. これを広げれば 身体を基礎とし身体に一般に呼応して動きを生じる精神    B2. この精神としてのこころには 《意志》の行為のための判断材料を提供する《知解》という行為能力もある。合理的な推論をとおして導き整合性をもたせた情報や知識を提供する能力行為。    B3. この知解は 精神の基層としてあってその秩序作用という能力行為でもある《記憶》からその知恵や知識を得てくる。   C. たましいとしての霊 霊としてのたましい  ○ 霊とは    C1. 身体(≒感性)および精神(記憶・知解・意志という三つの行為能力)を超えた領域を仮りに想定したもの   C2. 経験世界を超えたところのことである。つまり 何が何だか分からないもの。   C3. つまり 経験合理性にもとづく経験思考(一般に科学)によっては分かるか分からないかが分からない領域   C4. 《表象しえぬもの》・《無根拠》・《なぞ》    C5. けっきょく 《絶対》・《無限》・《真理》とも呼ばれるものである。   C6. それに色をつければ 《神》のこと。(自然の現象や人間の心理作用を神格化したような――つまり一般に神話におけるところの――《かみがみ》のことではなく その背後の超自然・超経験の領域を言う)。   C7. ちなみに 従って 人間の――経験領域における――《精神》は 《霊》ではない。   C8. しかもこの超経験の《霊》の意味で たましい・こころ・精神といったことばが使われることがある。区別するのが望ましい。いや特に精神となるとややこしいので区別すべきである。    よって一般的にこう言える。  ○ 《こころ》は 経験的である。つまり 身体(感性)につながっている。  ○ 経験的なこころが その伸び(志向性)として・明け(超経験への窓)としてあるとき しかもそこで同時に 超経験なる《霊》との接点が もしそうだとすれば 想定される。これを一般に 《たましい》と言っている。  ○ たましいとは 非思考である。

回答No.24

 前回、思い付きをちょこっと述べましたが、あれだけの文でも結構時間がかかってしまうのです。それは私の頭が弱いだけでなく、混とんとしているから、整理されていないから。だから考えながら、と云う事になるので。  今回も同様に、考えながらと云う事になるので、どこまでいけるか心もとないけど・・・始めます。  思い付きと言うのは、生物の進化と言う考えを、精神にもそのまま当てはめてみよう、というものです。  微生物から、だんだんと複雑に細胞を組み合わせて“からだ”を進化、発達させてきたように精神も同時に進化、発達してきたと考えてみたのです。  からだとこころの進化、発達は同時進行と考えるのが妥当かと思いますが、精神の進化、発達が“からだ”の進化、発達を促したのかもしれないなんて思ったりすると、“精神”そのものに何らかの内存する“力(ちから)”の働きがあるから、と思えてくるのです。  もしあるとるならば、この“ちから”を「意志」と表現してもブラジュロンヌさんの同意は得られると思いますが。  こんなことを考えている私の頭は、すぐに植物の種の不思議を思い起こします。  あんなに小さくて、物質としては単純な成分の組み合わせで構成されているようですが、それがそれぞれ芽をだし成長し、草花になったり大木になったりして、実に不思議です。  生命の「意志」を思わずにはいられません。  そして杉の木の種には杉の精神(意志)があるとするならば、人の誕生時にもその人の精神(意志)が宿るのだろうと思います。  ただ、高等に発達した人間の精神はすでに“精神的な個性”というものが、その“人の種”にあって、それが後々に、成長するに合わせて、人間としての個性となって現われるのでしょう。  宇宙の本体は絶対の精神(大心霊体)である、とは彼のお坊さんの主張ですが、だとすれば宇宙は精神そのもの。でもその精神は地球上に於いて“生物”を通して「こころ」として表れています。  我々が感じるところの生物に備わる精神は、生物が地球にしかいないことを思えば、地球全体はそれぞれの生物となりうる精神の種で充満しているのではないでしょうか。  進化を精神にもあてはめれば、人間誕生以前には人間になるべき精神の種はまだなく、何らかの切っ掛け、“因”によって、現生人類が現われたその時に、人間の種も誕生したのだと思います。  でも、その時の“種”にはまだ現代人としての精神的要素は含まれてなく、でも既に地球上に存在していた“猿人の精神”は“含まれて”いたかもしれません。いやそれらの種が現生人の種になったのかも知れない、とさえ考えています。  うまく話をつなげられませんが、要するに「霊」とは“種”ではないかと思うのです。  人間として恵まれた精神、肉体をもって生まれる人がいるかと思えば、その正反対と思えるような人の誕生もあって、まさに運としか言いようがありませんが、自身ではどうしようもない、変えることの出来ない精神、心の種、これを「霊」と表現したいと思います。  神と霊とを同じ意味では使いたくありません。      

bragelonne
質問者

お礼

 いろんなものごとの定義や整理をしつつ ということのようです。これは つまり定義にかんしては あくまで自分の言葉で表現するのでなければ(ほかの人の表現とひとしければ 同じであってもいいわけで) なかなかものごとを納得して捉えることがむつかしい。とは思います。  ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  からだとこころの進化、発達は同時進行と考えるのが妥当かと思いますが、精神の進化、発達が“からだ”の進化、発達を促したのかもしれないなんて思ったりすると、“精神”そのものに何らかの内存する“力(ちから)”の働きがあるから、と思えてくるのです。  もしあるとるならば、この“ちから”を「意志」と表現してもブラジュロンヌさんの同意は得られると思いますが。  ~~~~~~  ☆ 生物学等の知見があればと思いますが このままで考えるなら ひとことで結論を言ってしまうなら     その精神のチカラは 精神全体のチカラだと思います。  あるいは身をもふくめた自然本性の全体のチカラであるというふうにです。  すなわち身に対して心を取り上げるのなら     全体としての精神 すなわち記憶と知解と意志のすべてにわたるチカラ  ではないかというふうにです。これは 単純にそう思います。つまり ぜんぶおのれの意志によって 精神を・自分をそだてかたちづくるものとも思えないからです。意志を超えたチカラもはたらくかも知れない。うんぬんです。  すなわち  ★ 生命の「意志」を思わずにはいられません。  ☆ というようにです。この場合も生命は 活動力をも意味するでしょうし そのような経験事象を超えた――その意味での霊としての――生命をも意味すると取ってよいのではないでしょうか。  ★ 神と霊とを同じ意味では使いたくありません。  ☆ 霊というのは 次のように規定する場合の《精神》のことですよ。  ★ 宇宙の本体は絶対の精神(大心霊体)である、とは彼のお坊さんの主張ですが、だとすれば宇宙は精神そのもの。    あるいはつまり――概念の定義や整理をわたしもいまおこなうのですが――  ★ 我々が感じるところの生物に備わる精神  ☆ という場合でしたら この精神が 広狭の用法として分かれると思われます。    生物に――人間の意志や存在をあたかも超えて――そなわる精神とは 霊である。    霊としての 神の霊であり ブッダター(仏性)であり アートマン(霊我)である。  そして この霊としての精神は 《非思考の庭》に呼応していると見るものです。  そのほかに《思考の緑野》における精神もあります。  あらゆる心的現象をふくめたその《心》は――《身》に対する《心》は――広い意味での精神です。  この心としての精神に 記憶と知解と意志との三つの行為能力があります。  いま考えてみれば 精神には《神》なる言葉が含まれているのですね。これは 日本語にかかわる事情のことでしょうが そうだとすると 宇宙の霊魂――それとしてもアートマン――を《精神》と呼ぶのも ありなのだと思われます。  つまりは それは《神》なのですから やはり《霊》であるとなりますよ。  いやいやというご見解です。  ★ ~~~~  ・・・要するに「霊」とは“種”ではないかと思うのです。  人間として恵まれた精神、肉体をもって生まれる人がいるかと思えば、その正反対と思えるような人の誕生もあって、まさに運としか言いようがありませんが、自身ではどうしようもない、変えることの出来ない精神、心の種、これを「霊」と表現したいと思います。  ~~~~~~  ☆ だとすれば こうでしょうか? すなわち    ○ 宇宙の《精神》と共通の内容であるものと思われるような・人間の中に   そなわるチカラ    これが 精神の種として 霊である。  でしょうか? 《種=霊》は 下位の概念であると。《精神》が 上位概念だと。  なぜなら 生まれたときにそなわる《身と心》にかんする特性は 人によって違う要素もあるのだからと。  人に共通の自然本性としての要素ないしチカラは 精神であり そのような上位概念のもとに下位概念として 人それぞれの特性としての《精神の種 すなわち 霊》も捉えられるのだと。   大きく言って《不具》の問題になるかと思います。自然本性に言わば欠陥があるか。あるとすれば どう捉えるか。  どう考えるかを考える前に その概念整理をしておくなら 《不具にかかわる特性は 精神の種としてあり これが霊である》と規定すればどうか?  結論を先に述べますが わたしの感触では 受け容れられづらい。でしょうね。  ひとつに《霊》は けっきょく幅の広い概念としての《精神》と同じに用いるというのが 一般的でしょうね。  ★ 絶対の精神(大心霊体)  ☆ というようにも霊が用いられています。  今後もそうなるのではないかと思います。《霊》は《精神》ないし《神》と同じく広い範囲にわたってあてはまる意味合いを持つと思われるからです。  とすれば 言いづらい言葉ですが 不具にかかわる特性の要素を どう呼べばよいか。この問題になるはずです。  これまでこの要素の呼び名は 特にはないのではないでしょうか。  とりあえず ここまで考えました。   

回答No.23

「ぶらじゅろんぬ」は判らない、と言う人達にとってブラジュロンヌさんが、今回ここに記した“定義”は、判るための資料となるかも知れません。 いろいろ考えているうちに、思い付いたことがあります。 生命(一般的な意味で)が単純なものから複雑かつ高度に段階を経て成長してきた様に、精神も同様なのではないかと。 アメーバにはアメーバレベルの精神が具わり、昆虫には昆虫に合った精神が宿り、こうして精神は肉体と共に成長し、そしてほ乳類としての精神が作り上げられてきた、と考えてくると、なかなか面白いですね。 時間がなくなったので一旦ここで、投稿しておきます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 「ぶらじゅろんぬ」は判らない、と言う人達にとってブラジュロンヌさんが、今回ここに記した“定義”は、判るための資料となるかも知れません。  ☆ そうですか。No.22お礼欄での定義ですね。  あらましを述べました。そりゃあ 理解の糸口になれば それに越したことはありません。  《生命》は 自然科学としてどう扱っているのか。これが分からなかったのが この質問の目的だっただけなんですが。  ★ 生命(一般的な意味で)が単純なものから複雑かつ高度に段階を経て成長してきた様に、精神も同様なのではないかと。  ☆ この点も 生物学やら知識があれば くわしいことが言えるのかも分かりませんが。つまりわたしは 残念ながら ああ そういう見方があるのだなぁというくらいなのですが。  ひとの《精神》として特徴となるのは やはり自由意志だと思います。  いまおこなっている行動のほかにも選択肢がある(あった)という事態ないし情況ですね。  ほかの動物は 選択肢を持ったとしても おそらく水が低きに流れるように よさそうなものをえらぶというようなことであって ひとつ決めたら そのまま行動するのではないかと思います。  途中では 外からその行動を妨げられないかぎり そのえらんだことをやり続けるのではないかと。  おまけにヒトは 自分の心にさからってでも 何かをなそうとするようです。

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     1. わが心なる《非思考の庭》は 言わば《神の国》である。    2. ひとは 自然本性として身と心がそなわっており 身は 感性の原野を成し 心は 思考の緑野としてはたらく。これらは 経験世界の内にあり 経験事象と対応している。  ○ 自然本性:身(身体)と心(精神):経験存在   心:【考える】:思考の緑野   身:【感じる】:感性の原野  3. しかも人は これらの身体および精神だけではなくそれらを超えたナゾのチカラをも自然本性プラス・アルファとしてのごとく そなえている。――これは ふるくは ブッダター(仏性)やアートマン(霊我)あるいはプネウマといった神の霊なるチカラとして捉えられたものである。  4. このナゾのチカラを 《非思考の庭》と呼びたい。具体的には《心の明け》としてのごとく 知恵としてヒラメキを得させ 良心として身体の神経組織で恥ぢを知らしめるヤマシサ反応を起こさせる。  ○ 非思考の庭とは 心が閉じられていないことである  【信じる】:非思考の庭:聖霊(知恵・ 良心)・・・・【神の国】                 ↓    ↓  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  【考える】:思考の緑野:  ヒラメキ  ↓ ・・・・・【地上の国】  【感じる】:感性の原野:      ヤマシサ反応・・【地上の国】  5. 信じる非思考の庭は 経験的な存在である人間すなわち《われ》の内にやどっている。これを 《神の国》と呼ぶことは 哲学はゆるすか? 神とは 普遍神である。  6. 哲学する者は 神の国の外交官(アポストロス)として生きると言えるか?  7. 地上の国のみで生きる人に対して 外交官は その人たちそれぞれと同じように成って 外交活動を繰り広げるであろうか。  8. ムンジェインやキムジョンウンあるいはシーチンピンと同じ思考や感性をおのが内にあたかも開発して 対話を推し進め得るか。  9. アマテラシテ天皇やアマテラス公民なる人びとそれぞれと心において同じように成って 社会と人間のあり方について 話し合いをすすめ得るだろうか。  10. こういう話はあり得るか?

  • 信じないとは 非思考の庭にて信じないと信じることだ

     神は 《非知》である。  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________       ↓          ↓     ・・・・・・・・・にんげん・・・・・・・・・・・・・   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》は 信仰(非思考)をオシエ(思考)に代えた。要らぬ思考や想像は 削ぎ落されて行くことでしょう。  オシエを信じる=つまり 思考物を非思考とする。これは ゆるされない。そこ(オシエ)では 想像の産物としての神が・つまり おもちゃの神が 取り憑かれたかのように観念において思い込まされている。  《信仰:非思考の庭なる動態》 これは 世界では 名前の違う《神》が持たれているので その形態も名称が違って来ているようだけれど 中身は 類型的にみないっしょである。次のごとく:  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ・ブッダ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  ☆ これらは 《思考》ではないというところが ミソである。  すなわち中で  《B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)》のごとく  《神を信じない》という向きにあっては それでもその場合には《信じないと信じている》のであり 《〈無い神〉を信じている(つまり 心に受け容れている)》ということだ。  以上のたたき台について その成否を問います。どうぞ思いっきり自由なご見解をお寄せください。    

  • 普遍神を名づけた個別神をめぐる主観は 特殊絶対性

     1. 神はすべて 同じひとつの普遍神である。これは 一般絶対性とよぶ。  2. 一般絶対性なる普遍神を 個別に名をつけて――あるいは 名などはなく神も無いのだと見て――主観がえらんだ神は 個別絶対性である。  3. すなわち 《無い神》または《有る神:オホモノヌシ;ブラフマン;ヤハヱ―;アッラーフなどなど》。  4. ブラフマン(梵)なる神は わが自然本性なるアートマン(霊我)と一体である――すなわち 梵我一如――と忖度するのは 特殊絶対性の始まり。  5. ただし アン-アートマン(無‐霊我:無我・非我)を唱える場合にも その元に言わば無梵(ア‐ブラフマン)なる《無い神》をかかげ そのようなマクロコスモス( 宇宙)とミクロコスモス(人)との一体を言うようであるから――つまり《無い神》派にあっても―― 類型としての梵我一如は 共通なようである。  6. アミターバ・ブッダなる《有る神》の場合は 主観が アートマン(霊我)の代わりに ブッダター(仏性)なる霊において呼応する。すなわち 仏仏一如なる梵我一如パタンである。  7. つまりここまでは 類型としての梵我一如が なお《一般絶対性=個別絶対性》のもとに その基礎となり基本となっている。  8. そこから主観はさらに 神についておのが思いを描き出す。  9. 神は われと――信仰なる《非思考の庭》としてだけではなく――思考においても・また感性にあっても つながっている・・・といったように 主観が 飛んで行く。これが 特殊絶対性である。  10. おれはきのうの夜 神を見たんだと言うのも ひとつの特殊絶対性である。そんなわけねえよと応じるのも 同じく特殊絶対性。なぜなら どちらも 証明できない。(だから 絶対性ないし神と呼んでいる)。  11. この理論で――つまり 添削をお願いしさらに実践理論を展開して行って欲しいのですが・それが 質問ですが――おおよそ世界に起きている《神をめぐる心的現象》のすべてについて 理解の基礎としての糸口を明らかにできるのではないでしょうか。  なお 次の趣旨説明欄をも参照ください。  【Q:一般および個別絶対性理論 ならびに特殊絶対性仮説】  https://okwave.jp/qa/q9358717.html

  • 一般および個別絶対性理論:普遍神およびその信仰

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知(間違いだったと分かることもある)        未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)      不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ。未知や不可知と一線を画す)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。    【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心    -------------------------    【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト     【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。類型として梵我一如とよぶとよい。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  5. したがって 非経験の場 ないし 非知なる神は そのまま普遍神である。名が違うのみである。また それら有神論に対して 《無い神》と名づける無神論も いづれも普遍神についての互いに同等の説明である。  ――これが 一般絶対性である。  6. 個別絶対性とは ひとりの人の信仰 すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐっての説明となる。  7. というのは 普遍神をよぶ名前が異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――〔非〕対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。  8. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。また それとして とうとばれる。  9. ちなみに 信仰から得られた観想を 倫理規範としまた世界観としたのは 宗教のオシヘである。一般にこのオシヘをかかげ 無条件に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く宗教は いまのこの理論の外である。オシヘは 思考の緑野の中におさまり 《考える》ものである。《信じる》とは 何の関係もない。  ☆ 以上が 標題についての仮説であり 問い求めのためのたたき台です。吟味・検証しつつさらに推し進めて行ってください。自由なご批判をどうぞ。

  • 聖書の示す神とその信仰は 無条件に成り立つもの

     ・・・でなくてはならない。ということを キリスト・イエスが指し示した。  そこから 《神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てたる〕宗教にかんする一般理論》が成った。  世界における神とその信仰は 神の名が違うだけであって みな同じひとつの神であるということ そしてその神とわれとの関係たる信仰も基本としては 同じかたちである。こう成ります。  《すべての神》という言い方もヘンですが そのあらゆる《神は 無根拠であり 信仰は無根拠にて成り立つ》という意味にもなると考えますが その理由を地図のごとき説明にて示します。   ○ (神とは《非知》のことである) ~~~~~~~   経験事象      可知       既知       未知      不可知(知り得ないと人間が知り得た)   非経験の場(因果関係を超えていると想定)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)(*)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)(*)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   * 無神論と有神論:《非知》を――なぜなら 因果関係を超えているゆえ それが有るとも無いとも人間には規定できないので 好きにどちらかをえらべばよいから――《無い神》としてえらんだ結果の信仰が 無神論である。《有る神》として非知を受け取る有神論と それはまったく対等で同じ信仰である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 真理は シンプルです。シンプル・イズ・ベスト。  このたたき台を 言わばコミュニティーに対して かさねて問います。