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歴史における「正統性」

Satan94の回答

  • Satan94
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回答No.1

江戸時代まではそれまでの政権を武力で潰した者が次の政権を担うというものでした。 ですからあなたのおっしゃているように正統性はありませんね。 しかし今問われているのは政権の正当性であって正統性とは意味が異なってくるように思います。 それと違憲で無効とされているのは現政権ではなく選挙そのものです。 一票の格差が大きいというのは、有権者数とそこで選ばれる議員数の比率の地域差が大きすぎるということです。 衆議院は小選挙区を導入していますから1選挙区1議員となるので「1議員を選ぶ有権者数が選挙区により差がある」ということになります。 そしてその差があるのは憲法の法の下の平等に違反するというのが原告側の主張です。 今までは違憲という判決が出ても無効という判決は出ませんでした。 次の選挙までに法律改正・施行をしていたためです。 しかし、今回は違憲状態であったにもかかわらずその法律のままで選挙を行ったために無効の判決が下っているのだと思います。 一応そうなった理由はあり、法律改正から選挙までの期間が短く事務手続きが追い付かないためとされています。 その理由の原因は前政権にあるのですが・・・。 このように違憲な選挙によって選ばれた国会議員が政権についているわけですから、その政権は正当ではない、不当だ、といわれるわけです。 >・信長の家臣で、しかも農民出身だった秀吉が主従逆転した上で 天下人となった正統性は? 秀吉は信長の生きていた時は信長の家臣でしたので主従逆転とは言えません。

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