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豊臣秀頼が徳川にしたがってたら

豊臣秀頼が徳川幕府の家臣になっていたら。。。その後の豊臣家はどうなってたと思いますか??。。。福島や加藤みたいに御家取り潰しになったと思いますか??

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  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9578)
回答No.2

naoki4865 さん、こんばんは。 彼の器量次第ですね。一応、徳川家に対して弓を引くような真似さえしなければ存続するでしょう。そして家光が後継者がいないところを見計らって天下を狙うかもしれないし、次の子がしくじりを起こさない限り、そのまま明治まで残って、公爵という華族になっていたと思います。

naoki4865
質問者

お礼

個人的には残っていて欲しかったのですがね。。。。ありがとうございました

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  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10446/32863)
回答No.6

関ヶ原の合戦で西軍に所属した大名がその後どうなったかを見てみますと、幕末まで生き残ったのは島津家、毛利家、上杉家、佐竹家、くらいです。あとはご存知のように東軍であっても潜在的に豊臣家の家臣と見られた家はことごとく潰されています。 徳川幕府の治世というのは、まあだいたい200年といわれています。そしてその江戸時代の中で取り潰された大名家というのはおおよそ200家といわれています。つまり、1年に1度どこかの藩は潰されているってことなんですね。徳川幕府はほぼ現実的に軍事力は皆無だったのに、その力は強大でした。どこの大名家も「次は我が藩が潰されるのではないか」と戦々恐々だったのです。とにかく何か落ち度が幕府に知れるとそれを口実に取り潰されたので、とにかく事なかれ主義の封印体質となったのです。 しかも徳川幕府は結構執拗に潜在的反徳川勢力を潰す努力も怠りませんでした。毛利家に対しては120万石を37万石にしまして、当時は家臣を切れないものですから収入は1/3に減ったのに、社員の数はそのまま。結局給料を1/3にするしかないわけですから幕府としてはそのまま飢え死にするか叛乱でも起きれば取り潰しの口実ができると思っていたでしょう。またその首都も萩という不便な片田舎にすることしか許しませんでした。 薩摩藩に対しては、江戸時代中期の宝暦時代に薩摩とは全く関係ない木曽川の治水を命じて財政破綻に追い込もうとしました。藩主重年はこの治水工事を終えるとそれを見届けたかのようになんと27歳の若さで病没してしまったのでどれだけ心労だったことでしょうね。 上杉家は男系が4代で途切れてしまっていて、あの有名な九代藩主上杉鷹山は養子です。しかし彼が上杉藩主となった頃、藩の財政は実質的に破綻状態で「藩を幕府に返上しよう」という声さえあがったほどでした。 そんなこんなを考えると、もし仮に徳川家に臣従したとしてもまず財政破綻に追い込まれるほど色んな事にお金を使わされて、破綻に追い込んだら何かの口実で転封に持ち込むか取り潰すか、どこかで男系が途切れて取り潰されるかってことになるのではないかなと思います。 何しろ関ヶ原のときに上杉と(いつ裏切るか分からない)伊達を頑張って引き付けて必死で戦った山形最上家でさえお家騒動を口実に取り潰されちゃったわけですからね。 また別の視点からいいますと、天下統一で平和な世の中が生まれることによって発生した大量の元兵士の失業問題というのがあったのです。兵農分離が進みますと、戦争専門の武士がどこの家にも沢山いたのです。これらの人々はいってみればフリーター武士みたいな人たちで、合戦となると各家に雇われるんですね。こういう人たちが全国規模で少なくとも何十万人といたのです。天下統一で平和な世の中になると彼らは失業します。そのまま農業でもやってくれればいいけれど、百姓が嫌だから彼らは戦争を仕事にしていて、戦争に慣れている人たちが仕事がなくて大都市で徒党を組んで集まっているとそりゃ治安に大変な脅威です。 秀吉の朝鮮出兵というのは彼らに「外需」という形で働き口を用意しようとした一面もあるのですが、それは見事に失敗したわけです。 けれど徳川家にとってもそれは頭の痛い問題で、何より全国各地で暴動だの反乱だのを起こされるのが一番困るわけです。できれば彼らをどこかに一ヵ所に集めて一網打尽に「処分」したいという思惑もあるわけです。大阪の陣にはそういう面も少なからずあるんですよ。 実際、「江戸時代最後の戦争」となった島原の乱では、その失業フリーター武士が全国から島原に集まってきたんですね。そして幕府も彼らが島原に集まることをあえて阻止しなかったのです。その頃にはもう各大名の武士ってのは戦う集団ではなくほとんど官僚(サラリーマン)になっていました。一方の島原の乱に集まったフリーター武士たちは経験豊富な歴戦の強者だったので幕府側は散々苦戦することとなったのであります。それでも「倒幕の動きをする浪人の集団」というのは由井正雪の乱まで続きますから、関ヶ原の合戦から半世紀かかっていることになりますね。

naoki4865
質問者

お礼

よく、幕府が適当な理由つけて、島津や毛利つぶさなかったのが不思議です。。。ありがとうございました

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (810/3028)
回答No.5

難癖つける徳川幕府に恭順を示し、家族を人質に出し東北の僻地に実高30万石くらいの地に転封され困窮にあえぎ参勤交代をし江戸に行くたびに将軍にはいつくばる、そこまですれば生き延びたでしょうねえ。 大坂で生き延びるのは不可能ですよ。

naoki4865
質問者

お礼

大阪城、秀吉、徳川にとっては脅威ですよね、ありがとうございます

noname#252929
noname#252929
回答No.4

残って居た可能性は高いですね。 徳川家は、結構厳しい決まりがあり、身内だからという甘い考え方は排除するという主義でしたので、あれだけ長く残ったわけです。 ですので、従って居れば、そのままでしょうし、謀反などを起こせば徹底的に叩き潰されたでしょうね。

naoki4865
質問者

お礼

確かにそうですよね、国松が仮に跡継ぎになっていたら。。。。たらればですけどね。ありがとうございました

  • notnot
  • ベストアンサー率47% (4844/10253)
回答No.3

織田、足利、今川なども残ったので、明治まで残っていたのでは? まあ、どの段階で服従したかにもよるかも。関ヶ原直後くらいなら十分残り得たでしょう。大坂冬の陣の後だと無理でしょうね。

  • tzd78886
  • ベストアンサー率15% (2589/17101)
回答No.1

秀吉の息子というだけで徳川家にとっては脅威です。カリスマ性がある人物が生きていれば、いつ祀り上げて謀反を企てる大大名が現れないとは限りません。ですから家康は千姫のことを考えて認めたとしても、秀忠は何らかの理由をつけて討ち滅ぼしたことは間違いありません。当時としては驚異的に大柄で聡明な秀頼は徳川家からすれば存在しているだけで恐ろしかったはずです。

naoki4865
質問者

お礼

たしかに。。。徳川家にとっては邪魔な存在ですよね!!ありがとうございます

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