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ネット全盛の今、自分で調べることの大切さって・・・
- ネット全盛の今、自分で調べることの大切さってどうやって教えてますか?
- ネット全盛の今、自分で調べることの大切さについて考えてみましょう。
- 小学校ではどのようにして自分で調べることを教えているのでしょうか?
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質問者が選んだベストアンサー
小学校の先生ではありませんが答えます。(一応括弧の中の条件には当てはまります) 「冬の準備として、市の衛生局に汲み取り便所の汲み取りを依頼する」 という文言が出てきたとき、当地は雪の降らない地であり誰もその理由がわかりませんでした。 →今の時代、汲み取りどころか、トイレがハイテクになり、おしりを洗ってくれたりしますね。時代は変化していきますから、設問の設定如何によっては、子供たちに考えさせたり、自分で調べたりさせることは十分に可能です。汲み取りではだめでしょうが。 例えば、停電になったらという仮定のもとに、考えさせるとするなら、電気を使わずどうすればいいか、実際に電気を使わない生活を1日過ごしてみるとか、できそうです。 このように、低学年の内は、 「自分で調べること、どうやったら正解を得られるのか、その過程を考えあぐねること」 がとても大切だと思うのですが、今時ネット全盛の時代、小学校ではどのようにしてこういう事を教えているのでしょうか? →今、総合の時間ができて、調べ学習など、盛んです。心配するほどのことはないと思います。 子供たちの間に 「いかに少ない手間で正解にたどり着くか、いかに発表資料を見栄えよく作り上げるか、ーーー」という風潮はないのでしょうか?あったとしたら、それに対して教師はどのように指導するのでしょうか? →この風潮はあるでしょうね。でも、これって大人がそうしているのだから、止められません。現に、質問者も、安易にOKWaveを利用しているわけですし(失礼)。 しかし、こんなことで驚いてはいけません。、宇宙の起源について「紐理論」を提唱した1人である優れたアメリカの物理学者で、未来のことにも詳しいMichio Kaku博士によれば、これから数十年後は、人間の脳とコンピューターの小さなチップを繋いで、人間が考えれば、そのほしい知識をインターネット上から拾ってくることができるという、脳の拡張が普及するとみています(基礎的な技術はできていて、脳障害のある人がすでにこのシステムを利用しています)。こうなれば、昔はコンピューターも手でいちいち入力していたんだ。今の時代は困ったなあ、考えれば情報を拾える時代になって、本当の意味で考える子供が育たないーーなどと未来で問題になっているかもしれません。 ちなみに、今の時代、昔とちがって、逆に、もっと画期的なプログラムもあります。ある太平洋の島に日本の子供たち20人ぐらいを連れて行き、そこで一切助けずに生活しなさいーーというものです。もちろん、原住民の人の言葉も知りません。夜がやってきます。おなかもすきます。トイレも困ります。そういう中から、原住民の人とコミュニケーションをとって、工夫をして、2週間後には帰りたくないと思えるぐらいになり、たくましく成長するというのです。これはすごい教育です。昔はこんなことできませんでした。もちろん、お金がかかることですが、こんなこともありますよという例です。 学校では、教育理論もすすみ、グループ学習などもさまざまに定着しています。少人数化で、障害児(いやな言葉ですが)との交流、老人との交流など人的な交流も盛んです。中学生でボランティア体験もします。 運動会や文化祭などの準備で、こどもたちは実にさまざまに考える機会があります。総合の時間もこれを後押ししています。 以上、ご参考になればと思います。
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お礼、ありがとうございます。#6です。 一側面を強調し過ぎたような気もしますので、もう少し。 >しかし、同じ幼いころから算盤をやっている人でも、それを核にして高度な計算処理能力 その通りですね。実務の場面で算盤が電卓に代わったとき、それでも計算が大事な業務でも少なくないの算盤熟達者は貴重な人材であり続けました。素人電卓使いと同等になってしまった算盤熟練者も多かったわけですが、その差が何だったかということですね。 ずっと算盤で計算していて、さまざまな計算方法に熟達していた人が、算盤が不要となっても大事な戦力であり続けたわけです。細かな手順まで業務指示をせずに、「この表から、こういうデータが欲しい」と言っただけで結果を出せる人ですね。計算の量だけでなく、量による経験から質も高めてきたと言えます。 ちょっと実態がマイナーな職業ですがアニメータってあります。最近でも仕事量の割に年収の低さが報じられていました。昔からそうだったようです。それでもやる人はアニメ作りが好きでやっているようです。 アニメータ(の中でも動画担当)はセル画というアニメになる多数の静止画を描いていくわけですが、昔は全て手描きでした。ラフに描いた線のみの原画をきちんとした線画にしていきます(トレスと呼ばれる写し描き)。そして指定通りに色を付けて行きます。飛ばし飛ばしの原画の間も滑らかにつなげるように絵を描いても行きます。 この『作業』のかなりの部分が機械化されたんですね(90年代ごろから)。いわゆるCGなどです。そうなると、トレスだけが上手い人は淘汰されていきます。人間の顔のように、機械化できない複雑で微妙な部分が余程に上手いのでなければ、必要とされなくなります。 そういう変化があっても、たとえ短期間は仕事が無くなっても復帰したアニメータは多いです。もちろん、機械化した作業を勉強して覚えたわけですが、それだけでは復帰できません。それでアニメータになれるのだったら、コンピュータ『だけ』勉強した人だってアニメータになれます(安月給重労働覚悟ですが)。 トレスという写し描きだとはいえ、それが実体のある事物を描けるための修行になっていた人、あるいは意図してそういう勉強と練習をしていた人などが戻って来れたわけです。今のアニメータの一部は、一枚絵のイラストレータとして通用しそうなくらいの絵が描ける人も少なくありません。 算盤もアニメータも、あるいはどんな技能・技術・職種であれ、作業にのみ熟達するのではなく、何らかの核を修得した人は変化があっても、ずっと生き残るということだと思います。 >最近は東大出ても仕事に就けずに自由業になる人もいるらしいです。 東大だけと思いませんし、むしろ東大は最も優秀な大学の一つだと思います。相対的に受験突破も厳しく、卒業するのも厳しいでしょう。 大学だけでなく、どの学校でも困る典型的な例を考えると、たとえば学校に行って授業を受けさえすれば全て学べると思っている場合です。教科書を読んでも全て分かる。テスト問題も解ける。それはそれで優秀な証しですが、それだけでは困りますね。 教科書には、既に充分に研究され、よく分かっていることしか書いてありません。どの教科書を読んでも分かるから、もう世の中に分からないことは無い、なんて思い込んだらアウトですね。教われることなんて、ごくごく一部でしかありません。武道や芸道などで、師が弟子に「免許皆伝、もう教えられることは無い」と言うとき、普通はそこからは自分でやっていけるということでしかありません。 教科書ではなくて、たとえば論文が読めて、さらに論文が書けるようにならなければ、学問を学ぶ意義は少ないでしょうね。それには、学んだ知識を組み合わせたり、分からないことを知っていることから方向性などを類推したりすることが、最低限でも必要になります。 ここで強引にネット頼りに帰ってくることにしますと、非常に大量の情報がありますが、玉石混交とも言われます。しかし、人に直接会って聴いてみても、玉石混交です。ネットの情報も人が書いていますから。 そして欲しい答えを直接的に書いてあるとは、必ずしも限りません。むしろ、疑問に思うくらいのことですと、たいてい直接の解説はありません。人に聞いても経験談であって、直接の答えにならないことがほとんどです。 現在では、一から聴くことはあまり歓迎されません。ネット検索くらいして欲しい、と言われることも多いです(侮蔑的にググレカスと言ったりする)。それで絞り込めばいいんですね。そうしてポイントを絞っておいて、経験者や専門家に聞いてみる。ネット(や本)は誤読や勘違いを指摘してくれませんし、個別の知識の羅列でもあります。 やはり、双方向のコミュニケーションで聞くということは重要です。経験者に聞いたら勘違いを指摘してくれたり、詳しい人に聞いたら、何と何を勉強したらいいか教えてくれたりします。 さらに学校でのことに帰ってくると、先生がしっかり検証できる自由研究などが、未知のことに踏み出す前の練習として大事になります。先生に取っては既知で理解できるから、生徒・学生は安心して間違うことができます。そうして、学び方を学べてくると、後はどんどん膨らんで行きます。 それが、質問者様の仰る『核』に成長できる種になるのだろうと思います。まだ実務や未知の研究で使える核までは行きませんから『種』ですね。 P.S. それと、優れた道具は楽をするために使うのではなく、もっと高度に大量にやれるためのものだということを忘れないようにしたいと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。
使える道具を最高度に使いこなして成果を得る。それが大事です。 単純な例として計算ということで考えてみましょう。筆算、暗算に上達することに多大な時間をかける、あるいは算盤に熟達するのに毎日長時間の練習を何年もすることに、どういう意味があるでしょうか。円周率やルートといった無理数を暗記することに意味はあるのか。 確かに、ある程度は頭を使う練習にはなっています。しかし、計算結果を得るには電卓もあるし、PCの表計算ソフトもあります。今や、かなり簡単になったコンピュータプログラムを組んでもいい。 学校では算数、そして数学に何年も取り組むわけですが、数学手法に通じていない数字計算名人と、数字の計算は苦手でも問題を解決するための数式を自由自在に扱える人と、どちらが現代では必要性が高いでしょうか。 実務に取り組み、単純な表集計を一生懸命筆算で持ってきた人と、同じ表からグラフや統計分析をして表の数字が物語ることを説明する人がいたら、後者は褒められ、前者は叱られます。私が見た身近な例では、PCの表計算シートをプリントアウトして、ひたすら電卓で検算していた人がこっぴどく上司に叱られていたりしました。 それでも、練習としては、別の方法で簡単にできるけれど、敢えて便利な方法を使わずに地道にやってみることに意義はあります。たとえば、証明済みの公式をわざわざ証明してみることは、学習において行われます。これは、その学問の考え方を学ぶ練習になっており、その学問で考えていく基礎を学ぶことになったりしています。証明を間違ったら、どこで間違えたか確認できるわけですしね。 各々の学問の考え方自体の理解がおろそかですと、その学問自体の研究はできないし、その学問を使って何かしようとすると間違いが多発します。だから、分かっている、あるいは簡単に分かることを、苦労してやってみるという練習は必要です。 それが大体飲み込めたら、もう回りくどく苦労する必要はありません。便利な方法や優れた道具を禁じるのは、無駄なシゴキであり、イジメですらあります。さらには、便利な方法や優れた道具を使うことに熟達していけなくなります。それでは成果を出せない人に育ってしまいます。 そして教育でも実務でも、指導者や評価者の方も、方法や道具を含む諸々の現代の環境をベースとした判定ができなければなりません。実は、そういうところが弱点になりがちです。後進の方が新しい方法や道具に慣れ親しんでいますからね。 P.S. こんな話があります。退官を目前にした老教授が、若いときから取り組んでいた研究成果をまとめた論文を書き上げました。靴の底をすり減らしてあちこち歩き回って調べた膨大なデータに物を言わせた優れた研究論文でした。 老教授がそれを指導していた学生に見せると、学生は老教授の指導の恩に報いようと、ネットでデータ提供を呼びかけました。すると、たちまち教授が調べ上げたデータを圧倒する量のデータが手に入り、学生はそれを老教授の論文の手法に従ってパソコンで分類、解析し、老教授の論文を上回る成果を得て、老教授に提出しました。1週間もかかりませんでした。 学生は老教授の研究の正しさを追試した論文を老教授に捧げたわけですが、老教授のライフワークが1週間程度の仕事だと証明もしてしまったわけです。もちろん、学生は老教授が持つ、研究題材を発見する視点や、研究手法を考案する能力をまだ学べてはいないのですが。 常に最新の道具を使わないと、さらにはどういう便利な道具が出現しそうかを予測していないと、いろいろと悲喜劇が起こります。 電卓が安価になって、算盤熟達者が経理から不要とされたりしたのは、ずいぶん前です。子どもの頃から、ひたすら算盤の練習に明け暮れて、いざそれを武器に有利な就職をしようと思ったら、そうなってしまっていた人も多かったのです。算盤の優位性をいくら主張しても、耳を貸す人はほとんどいませんでした。 そうしたことも、注意点になるかと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 仰る通り、便利な道具を最大に使いこなす、ということが大切ですね。 その一方でこれまた仰る通りに、定理を鵜呑みにするのではなく証明を学習してから知識として身に着ける、という経験も必要ですね。 他の方の回答にありましたが、小学校低学年時代においては学習の過程で調べものをする、という授業がきちんと行われているとのことですのでひとまずは安心しました。 例に挙げていただいた算盤の件ですが、これもまたいろいろと考えさせられますね。 幼いころから算盤さえやっておけば一生くいっぱぐれない、と考えていた人は電卓が出てきたときに経理部員として不要になり困ったことでしょう。 なにそろ算盤以外の特技がないのですから。 しかし、同じ幼いころから算盤をやっている人でも、それを核にして 高度な計算処理能力(暗算とか、あるいはあらゆる種類の計算早見表などを自作できるとか)を持っていたり、 簿記の高度資格を取得してP/L、BSを瞬時に読解できたり、 あるいは税理士並みに節税に通じたり、 税務調査の時に調査官と丁々発止で渡り合えたり、 なんとなれば会社の裏金作りに協力して逆に会社の弱みを握ったり、 と、得意分野、武器を増やしていけば電卓が発売されようが、コンピュータが行き渡ろうが、何も怖いことはありません。 (まあ、最後の一つは余計ですが) 最近は東大出ても仕事に就けずに自由業になる人もいるらしいです。 そういう人は「東大さえ出れば、東大卒という肩書さえあれば勝手に道は開ける」と思っていたんでしょうね。 最初の質問となんかずれてきましたけど・・・・ ご回答ありがとうございました。
補足。 >自分の手足や目で実証すること 汲み取り式便所でいえば,「雪国なら積雪期の回収作業は難しいだろう」という仮説は,積雪期には屋外の農作業ができないという地理の基礎知識から類推できます(ぼくは質問文を読んだときに答えはわかりました)。それを実証するには,「直接に現地にいき,市役所や一般家庭でインタビューしてこい」と指導することになります。 さらに,「じゃあ,雪国の家庭では半年くらい屎尿をためこむことになるので,便槽もでかいのか?」,「冬は低温で屎尿が凍るとすれば,それも回収しない原因ではないか?」などの問題がでてきます。前者は工務店などに聞き取り調査すればわかるでしょう。後者は,市役所の作業員に経験談を聞く。あるいは,屎尿を冷凍庫に入れて,マイナス何度で真空吸引ができなくなるか実験する 爆。
お礼
補足ありがとうございます。
大学教員も教師のはしくれとして回答します 笑。おっしゃっていることは,大学でも生じることなので。 ウェブで簡単に調べることが,必ずしもいけないとはいえないでしょう。学術論文が読めるということもありますので。また,(こういう回答をふくめて)文章を書いていて「この単語の使い方は正しいか?」などと不安になったとき,画面をブラウザに切り替えてウェブ辞書で確認することもしばしばあります。 問題は,入手した情報が正しいか,信頼がおけるか,という点だろうと思います。上述のようにウェブで検索してでてきた論文には,屑論文も多々あります。どこの馬の骨かわからないやつが書いた,無記名の「落書き」も膨大にあります。そういうものを学生が演習で読んできて発表したり,レポートに引用してきたりしたときに,「その情報は屑だ。それが識別できないおまえも素人だ」と,つっぱねられるだけの学識や見識が指導者にあるか。パワーポイントで発表しても,内容がお粗末なら,「そのていどのことしか言えねえのかい。おれの前でそんな発表するとは,いい度胸してんじゃん」。結局はそこに帰着するでしょう。 そういう行動様式や「素人」と断定されたときの学生の意外そうな反応からみるかぎり,高校にいたるまで,「調べてきただけでほめられる」という教育を受けているのではないかと,ぼくには思われます。教育上から「とりあえず」ほめているのか,真贋が見分けられないのでほめるしかないのか,それはわかりません。 自分で問題を設定し,自分の手足や目で実証することがいかに難しいか。それは卒業論文で徹底的にしごくことで覚えさせます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >「その情報は屑だ。それが識別できないおまえも素人だ」と,つっぱねられるだけの学識や見識が指導者にあるか。 仰る通り、それは重要ですね。 >パワーポイントで発表しても,内容がお粗末なら,「そのていどのことしか言えねえのかい。おれの前でそんな発表するとは,いい度胸してんじゃん」。結局はそこに帰着するでしょう。 サラリーマンの間でも一時期、 「いかにパワポのアニメ機能を駆使して、視覚的に印象に残るプレゼンテーションをするか、そこが勝負の分かれ目」 みたいな無駄な競争が激しかった頃があります。 まあ、見る目のある上司はそんな小手先のテクニックには騙されませんでしたが。 (ついでに言うと小手先のテクニックに騙されるバカ上司も少数いました) >そういう行動様式や「素人」と断定されたときの学生の意外そうな反応からみるかぎり,高校にいたるまで,「調べてきただけでほめられる」という教育を受けているのではないかと,ぼくには思われます。教育上から「とりあえず」ほめているのか,真贋が見分けられないのでほめるしかないのか,それはわかりません。 仰る通り、調べるだけでも褒められる、というのは小学生までですよね。 少なくとも高校生レベルだったらきちんと答えを出す、あるいは最終的な答えにたどり着かなくても どういう筋道を立てて解答を求めようとし、どこで止まっているのか、までが評価の対象になり得て、 それ以外の収穫があったとしてもそれは外道であり評価対象ではないですね。 それとも今の高校教育は大学受験だけが目的となってしまったのでしょうか? >自分で問題を設定し,自分の手足や目で実証することがいかに難しいか。それは卒業論文で徹底的にしごくことで覚えさせます。 男はしごいて大きくなる。男は叩いて大きくなる。 どんどんしごいてどんどん叩いてください。
- FEX2053
- ベストアンサー率37% (7991/21373)
え? 別にネットを使おうがなんだろうが、「調べる」ってことの 本質は昔も今も全然変わっていませんよ。単純に「ツール」の 種類が変わったってだけです。 例えば昔にしても、「電話で照会出来る」ためには、自宅なり なんなりに「電話」が無くちゃ出来ませんし、だいたい「百科 辞典」なんてのも、50年以上前には無かったんですからね。 「電話」や「百科事典」の無い時代の「調べる」ってどういう ことだったのか・・・ってトコまで戻ります? 調べる「ツール」はどんどん変わってきているんです。わざわざ 前時代のツールに戻る必要なんてありません。 でも、出てきた情報の確度を確認する作業・・・ってのは、今も 昔も全然変わりませんよ。これをやらないと間違った答えで 納得しちゃいますからね。 だいたい、Web検索だって、Wikipediaの記述と、各新聞社等の サイトの記述が違ってることはしばしばありますし、Googleで ヒットした検索結果の内容が必ずしも正しいとは限りません もの。どれが正しいかは自分で判断する以外に無いんです。 古くは東欧の自由化や、中国の天安門事件、最近ではイスラム の自由化などは、「情報の確度を求める作業がやりやすくなった ために、独裁政府の情報統制が難しくなったせい」ですから。 複数の情報源から自分の判断ができる・・・ということは、ツール の使い方以上に重要なことですよ。 複数の情報から確度を考え、自分の考えをまとて行動を起こす ってのが、「情報リテラシー」ってことです。教師がしなくちゃいけ ないことは、この「情報リテラシー」を教えることです。情報が簡単 に手に入る今、重要なのは「ツールの使い方」ではなく、「得られ た情報の評価」なんですよ。 これは「ツールの使い方を教える」より、相当に高度なことです。 でも、それが出来ない人間は、すぐに「洗脳」されてしまいます。 そういう点で質問者さんの心配は相当に「的外れ」なことです。 むしろ心配は「情報リテラシー」を教えられるほど、教師のレベル が高いかどうか、って話です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 的外れな質問でしたね。 情報リテラシが大切ですね。
- piraippi
- ベストアンサー率27% (47/168)
ゲーム感覚でやってみたらどうですか? ネットを使わないというゲームがあったらどうやって知識を得るかみたいな。 で、ところどころアイテムなどがあれば、 宝探し的な部分もあって子供は楽しんでやってくれるんじゃないですかね?
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど、ゲーム感覚というのもいいかもしれませんね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >→今、総合の時間ができて、調べ学習など、盛んです。心配するほどのことはないと思います。 なるほど、心配する必要はないんですね。 >→この風潮はあるでしょうね。でも、これって大人がそうしているのだから、止められません。現に、質問者も、安易にOKWaveを利用しているわけですし(失礼)。 そりゃそうだ。 >運動会や文化祭などの準備で、こどもたちは実にさまざまに考える機会があります。総合の時間もこれを後押ししています 座学以外の時間にも考える学習ができるということですね。 安心しました。