• 締切済み

過去は文書「だけ」が頼りなのか?

日本における歴史の学習,教育,さらには,研究においては,いわゆる「文書至上主義」的な「風潮」があります。 このような,「視野の狭い歴史分析,歴史理解」によって,日本においては,「語ること」は歴史を理解するための「手段」としての価値がないとされます。(「語り」を歴史資料として扱うことに意味がないとされる。)つまり,「語ったこと」が歴史の資料(史料)としての価値をもたない,ということになります。 日本においてこのような「風潮」がある一方で,外国における歴史研究では,「語ったこと」が歴史の資料(史料)として,文書の資料(史料)と「同等の評価」を得ています。 このような「風潮」がある「背景」には,おもには,日本においては歴史研究のための「フィールドワーク」が,ほかの学術分野と比較して積極的に実践されなかったことや,いわゆる「戦争体験との関係」,「マイノリティの歴史との関係」も指摘されています。 さまざまな「事情」がありますが,さらなる歴史の理解のためにも,「語ったこと」の「価値」を見出す必要があると,わたしは考えています。 1.もしも,あなたが歴史の研究,学習において,「語ったこと」を参考にすることが有意義であるのならば,その「理由」を挙げてください。みずからの「経験」でもかまいません。 2.もしも,あなたが歴史の研究,学習において,「語ったこと」を参考にすることが,有意義ではないと考えるのであれば,その「理由」を挙げてください。

noname#181693
noname#181693
  • 歴史
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みんなの回答

  • shirouuda
  • ベストアンサー率17% (14/78)
回答No.2

どこが文書至上主義なのでしょうか? 古代史など文書よりも「物」が重視する面が多々ですし、 比叡山の発掘により、「実際は大して焼かれていない」と、大いに焼かれたとする信長公記などの一級史料の記述さえ、あっさりと覆されたりしてますし。 「戦争の体験の語り」もピンからキリで、検証もせずに、でたらめな語り人をクローズアップして、新たな外交面の火種を作ってしまう愚を犯してますし。 要は、 文書だろうが、 物だろうが、 語り人だろうが、 ちゃんと、その真偽を検証したかどうかが、歴史研究にとって大事であります。

noname#181693
質問者

補足

歴史研究にとって,「真偽」を明らかにしたい。 これは,歴史研究における「ひとつの意義」です。 しかしながら,歴史研究とは,真偽を明らかにするための手段「だけ」なのでしょうか? 歴史研究とは,歴史がつくられた「過程」にも注目しますし,どのようにして歴史が「メンテナンス」されたかという「側面」もあります。 また,わたしは「政治」のことを質問しているわけではありません。あなたの回答には,「政治」や「外交」について言及されていますが,わたしは「歴史」について質問を出しました。 さらには,「でたらめな語り人」という指摘をされましたが,それはどういった人々のことでしょうか?その点についても,「具体的な例」,あるいは「でたらめ」とされる「理由」が述べられていません。 あなたのコメントを拝見すると,なにかしらの,「強迫性」がみられると,わたしは考えます。 それは,いわゆる「戦争体験」,「マイノリティの歴史」において,「一部の歴史観」を「否定」したいために「必死」になっている人々と,「同じ穴のムジナ」であると,わたしは考えます。

回答No.1

私は(1)です 戦争においてでも日本には「かたりべ」と言う方々がおられます。戦争というものどんなに悲惨なものかを聞く事は、教科書にも載っていない想像を絶する体験談として私達は知る事が出来ます。 それら「語る」こと「語り継ぐ」事が必要ないとは思いません。必要な事だと思います。それは過去に限らず、これからにおいても私は必要な事だと思っています。

noname#181693
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 少し難しいことではありますが,「語ったこと」が「重要」であることは,歴史学においては「当たり前」のこととされています。ですから,「戦争体験を語ること」は,非常に重要なことです。残念なことですが,日本社会には,「一部の戦争体験」,あるいは,「一部のマイノリティの体験」を「否定」したい人々がいます。 たとえば,わたしは外国出身の親がいるのですが,わたしが外国に「つながり」を持つことを理由に,学校などで「イジメ」られたときの体験を語ったときに,「日本に差別はない!」と言って,わたしに食って掛かった日本人がいました。その日本人は,わたしのことを「反日主義者」であると考えていました。ひとりのマイノリティとして,みずからの「経験」を誠実な態度でもって語ったにもかかわらず,それが「個人攻撃」のタネになったことは,非常に残念なことです。 個人の経験はここまでにして,今回の質問では,「語ったこと」の「価値」について考えたい,ということです。そのひとつには,文書ではわからないことが,「語り」によってわかるようになる,ということです。さらには,「語ったこと」を活用することは,歴史学者が使う言葉でいうところの,「下からの歴史」でもあります。これについては,日本社会には柳田國男の研究が,最も知られています。 柳田國男の研究が高く評価されているにもかかわらず,彼の言うところの「常民の歴史」があまり日本社会のなかで評価されていないことに,わたしは「違和感」を感じます。どうやら,日本人にとっての<歴史>とは,「殿様の歴史」,「天皇の歴史」という,「偏ったイメージ」があるのかもしれません。

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