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F.ニーチェの良いところをおしえてください。

noname#221368の回答

noname#221368
noname#221368
回答No.14

 #13です。  #13のウェーバー批判ですが、たぶんあなたの仰る通りなんですよね。でもそれに対しては、応えずして避けて通ります。というのは、私はあなたのような立ち位置で、ウェーバーを考えた事がないからです。「たぶんあなたの仰る通りだ」と、言うしかありません。これが以前、エーバーに関するやりとりが尻切れトンボに終わった、理由でもあります。・・・答えようがなかった、が正直なところです。  前も言いましたが、自分はプロの数学者でもないし、集合論が専門ではてんでありません。しかし数学を日常的に使う者として、集合論は何を受け入れ、何を失ったのかを起源に遡って自分なりにはっきりさせないと、気がすまなかった。妥協できなかった。  なので対角線の時は、ある意味あなたと意見を同一にできた。ジネンさんが、その他の視点を持ってないかどうかについては、やはりコメントを控えますが、ジネンさんとやりとりした事例、例えば、「数学者は無限公理を設定するにあたって、その内容をまるで理解していない事を知りながら、敢えてそれを設定したはずだ」という意見などには、全面的に賛成なんです。  一方ウェーバーというか、社会学の分野に関して、自分は妥協できるんです。ウェーバーの概念装置なり方法論を、社会を解析する便利で明解な観測装置と、見てしまうからです。なので今回も、尻切れトンボです。  申し訳ない・・・。  ところで#12の、 > 一定の単位体としての地域ごとの社会において その社稷(または 世間)なる神を――すでに《客体化されている》ものであるからには―― 具体的にあたまの上にいただく。そのとき このような言ってみれば不自由な社会生活の中で生きることに《意味》を見い出すか? >つまりそこから  ★ 意味がなければ生きて行きないのか?、意味がなくたって生きていけるのか?、の究極の選択問題」  ☆ が始まる。のだと。 は、1970年代のウェーバー・フリークの旗手バーガーの著した著作、「聖なる天蓋」の単純化された構図だと思います。そして、「合理化」という神(?)を頂いた西欧(米国含む)が、どこに行って来て現状はどうなのか?、について述べたのが、同じくバーガーによる「故郷喪失者達」だと思います。自分は、この2つの著作からも、強い影響を受けています。  「聖なる天蓋」と「故郷喪失者達」が、あなたにとって新しい情報である事を望みます。こんなにウェーバーに詳しい人とは、社会思想史の教官を除いて、出会った事がないので・・・。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。P.バーガーを知らなかったものですから 急ごしらえで勉強しました。  (あ) ヰキぺ:ピーター・L・バーガー   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BBL%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%BC  (い) 野村一夫 :社会学感覚 2 日常生活の自明性を疑う   http://www.socius.jp/lec/02.html  (う) 吉田 幸治:P. L. バーガーの「媒介構造」論について    ―バーガー社会学における行為論的「主体化」契機の可能性―   http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/sansharonshu/383pdf/yoshida.pdf  (え) 今村仁司編:現代思想を読む事典 1988    《現象学的社会学》の項目 (江原由美子稿)  まづ 次のような系譜の中にバーガーは位置すると知りました。  ▼ (え) ~~~~~   A.シュッツはウェーバーの理解社会学をフッサール現象学によって基礎づけようとし 社会成員が日常生活世界において使用する類型に着眼する類型論や 生活世界の様々な多元的現実論を展開した。    ・・・   P.バーガーはシュッツの考え方を導入しつつ 日常的知識の知識社会学の必要を主張し 宗教社会学の領域や社会意識論の分野ですぐれた著作を発表している。  ~~~~~~~~~~  この上で (あ)(い)(う)の資料を読んだのですが どうも論点ないし焦点が必ずしも明解ではなくまた合っていないような感じを受けます。  狭い範囲からの評価ですので 感触だけだとは思います。  ですが たとえば  ▲ (う) 公的領域と私的領域  ☆ の問題を取り上げて例証したいと思うのですが 何ともどういう問題意識を持っているかについて間延びのした感覚のままに理論を構成しようとしている。のではないか? 《主体ないし主体化》をも扱っていると言っていますが これとても何ともいったいどこ行きのバスなのかが 分かりません。主体論などは 大昔から取り上げられて来ているわけですから 初めっからずばっとこれこれの論点をあつかうのだというようにはっきりさせられないかと いらいらして仕方がありません。  ですから 例証すると言いましたが 反証するかたちを採ります。つまり たとえばこういう議論ないし理論がすでにある。それについて いったいどう思うか? という応答の仕方を採ります。  かんたんにしかも簡潔に成しうる議論をえらびます。  上の《公的領域と私的領域》のもんだいです。    *  【Q:《自然に帰れ》!?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5803077.html  ☆☆(その趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~  ・・・社会人を スサノヲ市民およびアマテラス公民に分けます。  しかも この市民( S )と公民( A )のそれぞれ要素は ひとりの人間に――当然でしょう―― そなわると捉えます。  3. このような概念装置を持って マルクスを読みます。  ▲ ( K.マルクス:ユダヤ人問題によせて) ~~~~~~~~~~   結局のところ   ( S ) 市民社会の成員としての人間(* つまり生活者市民スサノヲ)が 本来の人間とみなされ   ( A ) 公民 citoyen (* 人格の全体でもっぱら公共の仕事に就くアマテラス公民)  とは区別された  ( S ) 人間 homme とみなされる。  なぜなら   ( A ) 政治的人間(* アマテラス公民のそういう側面)がただ抽象された人為的につくられた人間にすぎず 比喩的な精神的人格としての人間であるのに対し   ( S ) 市民社会の成員としての人間(* スサノヲ市民)は 感性的な 個体的な もっとも身近なあり方における人間だからである。  【 S主導‐A従属 連関】 《現実の人間》は  ( S )  利己的な個人の姿(* もしくは 感性を自由気ままに発揮しあやまちうるスサノヲ人間語)においてはじめて認められ   【 A主導‐S従属 連関】 《真の人間》は  ( A )  抽象的な公民の姿(* もしくは アマテラス人格語ないしアマテラス科学語)においてはじめて認められるのである。                   (城塚登訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここで S:スサノヲと A:アマテラスとの連関のあり方は あらためて取り出せば 次のふたつの形態があり得ます。   《 S‐A 》連関のかたち=《現実の人間》:      あやまちうるスサノヲ人間語を基礎としてその土壌の中から――     あたかもその泥の中から―― アマテラス規範語を磨き上げ そこ     に花咲かせる人間のすがた。   《 A‐S 》連関のかたち=《真の人間》:      簡単に言えば 理性ないしコギトがすべての意志行為を引っ張る     かたちのアマテラス人格語かつアマテラス科学語にもとづく人間の     すがた。この人間は 《あやまたない》と言われるようになる。      つまり無謬性・不可侵の神話を帯びる。  ☆ たぶん《 〈 S‐A 〉連関のかたち》=《現実の人間》の描像のほうが のぞましいと思うのですが それには 《スサノヲ的自然》を取り戻す必要があると考えられます。どうすればよいでしょう? あるいはすでに回復していましょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  現代・現在の時点では 《アマテラス人格語およびアマテラス科学語のそれぞれ無謬性の神話が くづれて来ている》と言うべき情況ではないか?  こういうふうに世界を捉えて 話をすすめて行って欲しい。というのが バーガーに対する・そして ででてx3さんに対する物言いであり 要望です。どうでしょう?

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     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第十章 《神は死んだ》のか  ▲ (ヰキぺ:神は死んだ) ~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AF%E6%AD%BB%E3%82%93%E3%81%A0  (あ) 神は死んだ(かみはしんだ、独:Gott ist tot, 英:God is dead)は、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの言葉として、ニヒリズムを表す言葉として広く引用される言葉である。  (い) ニーチェは、キリスト教的な神や価値観が、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰が消滅して、現実の生・世界が無価値・無意味になり、ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだ(も同然だ)ということばで表した。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~    問い‐1. 《ニヒリズム》とは どういう思想ですか?   (う) こう問うわけは 虚無志向というのは あくまで往復の道があって 当初はその虚無の国行きだけの片道だと思っていたとしても けっきょくには 復路もあるとなるはずではないか。だから いったいそれとして言わば独立した思想があり得ますか? という問いです。   問い‐2. 《神》は 果たして《死ぬ》ものか? つまりいつか・どこかで《生まれた》ものか? きわめておかしな表現であると考えられるのだが どうか?  (え) 《価値観が消滅する》という意味で《死ぬ》と使っても むろんおかしくはありませんが。    問い‐3. この場合に《現実の生・世界が無価値・無意味になり》というのも おかしな表現(思惟)ではないか?  (お) なぜなら もしそれがほんとうだとしたら 《キリスト教的な神や価値観が〔無いところでは あるいは〕、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰》が無かった土地とそこに暮らす人びとにとっては もともと昔から《現実の生・世界が無価値・無意味》であったとまわり回って言っていることになる。のではないか? そんなバカな話があるのでしょうか?  問い‐4. ▲ (い) ・・・ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだ(も同然だ)ということばで表した。  ☆ だからと言って 《超人・大地・大自然》を あらたな神のごとくに持ち出せばよいというものではない。はずだ。どうか?

  • どんな《神は死んだ》のか?

     どんな《神は死んだ》のか?  主題は ふたつです。  神とは何か?――あるいはつまり 神とは何でないか?  ニーチェのたましいをやすらかな眠りにみちびくことばをかけるとしたら それは何か?  まづ 三島憲一のニーチェ論の一端を引きます。あとで 具体的に問います。  ▲(三島憲一:ニーチェが戦ったもの) ~~~~~  ニーチェが『喜ばしき知識』の中で《神の死》を宣告した話はよく知られている。    寒くなってきてはいないか?    これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか?    昼前から行燈を灯す必要はないのか?    神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか?    神が腐る臭いがまだしてこないのか?    ――神々といえども腐るのだ。    神は死んだ!    死んでしまい 蘇ることはない!    しかも 我々が殺したのだ!    殺しの中の殺しをしたの我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか?    これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。     (『喜ばしき知識』125番)  大方の思想史では このいささかパセティックで安っぽいレトリックに溢れた文章によって ニーチェはプラトニズムとキリスト教がその根拠となっていたヨーロッパの道徳の自己崩壊を確認したということになっている。形而上学の完成と解体が告げられている とされている。  しかし 考えてみれば 変な話である。すでに一八世紀の啓蒙主義以降 知識人は 家庭のつきあいを別にすれば キリスト教の神は信じていなかったはずである。プラトンのイデアとなればなおさらで 大学の哲学科の訓古注釈の営みの外で そんなものを信じている銀行家や工場主や労働者や農民や そしてなによりも将校たちが多数いたとは到底考えられない。なぜ キリスト教の神の死を ニーチェはいまさらのごとく触れ回ったのだろうか。  実際には・・・ニーチェはいわば 自己の議論の正当化のために 当時において標準化されていたヨーロッパの思想の歴史を逆転して 新たに構築しただけであって 実際に闘っていたのは一九世紀の自分の周囲の生活形式(あるいは文化)であり それへの抵抗の中で このようなキャッチフレーズを生み出したのである。  《我々が殺したのだ》ということは 神を生かしておくも 殺しておくもこちら側 つまり我々の思うまま 我々のさじ加減一つということである。すでに神は我々によって構築されていたことが含みとしてある。つまり 神を構築してきた当の我々が葬られるべき存在なのである。ニーチェが闘った相手は 神の語をむやみに重視する一九世紀の生活形式であり 文化なのであった。  ひとことで言えば この生活形式の中核は ナポレオン戦争の終結とともに だがさらには一八四八年革命以降 特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化 そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象である。ニーチェはその知的生涯においてそれと闘う中で 彼の《破綻の美学》を生み出したのだ。  ・・・  再キリスト教化自身が ニーチェには神の死を意味していたのである。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 第五章 破壊的理性の美学――素描の試み   pp.149-151 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~  一九世紀の《再キリスト教化》について三島は きちんと例証していると思います。  そこでそのことに深入りはせずに 全体としてこの三島の議論に 必要な注釈をつけたり あるいはちょっと違うのではないかという批判を加えたり 言うべきことがありましたら まづそれらをおしえてください。  と言っておいて あとは 神とは何か? を問います。  三島も触れていますが 《われわれが構築した神をナイフで殺した》のなら それは《観念の神》であって・あたまの中の想念の中に描かれた思いや考えであって 劣ったものであったり時代遅れになったりしたら ナイフで切り殺されても当たり前です。ただの想像の産物を相手に闘った。またそういうたぐいの文章である。  つまり そんな《ただの観念の構築と抹殺といったお遊び》のことを どうしてその熱情を燃やして闘ったりしたのか? それは どこから見ても《神》ではなかったというのに。  いったいニーチェとは何だったのか?  レクイエムを書いてやってください。