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F.ニーチェの良いところをおしえてください。

noname#221368の回答

noname#221368
noname#221368
回答No.10

 そういえば前回、名を名乗りませんでした。#9です。  今回は、とりあえず目についた処だけです。  「現世支配的/逃避的類型」の理念型モデルは、以前も強調しましたように、あえて成されたステレオタイプ化で、そこからはずれる状態は、最初から想定されてます。  中国が現実主義なのは、現代史だけ見ても、火を見るより明らかです。インドが生臭いのは、あのあくの強い映画産業の成果を見ればわかります。砂漠的でも北方系でもない南方系の明るさ、なんでしょうか?。  「現世支配的/逃避的類型」に関しては、「意味がなければ生きて行きないのか?、意味がなくたって生きていけるのか?、の究極の選択問題」と、自分は勝手に呼んでます。世界宗教と呼ばれるものは皆、体系化して究極の選択に応えていると思います。  そう考えると、フランチェスコが厭離穢土のような思想と行動を持ったのと、ニルワーナの仏陀が厭離穢土になった動機は、全然別だったんではないのか?、と思える訳です。あらかじめ予防線を張っておきますが、これは良い悪いの問題ではありません。ただそういう歴史と風土の中にいたという、偶然の結果だと思います。  現世支配的類型を、申し訳ないですが、キリスト教とさせて頂きます。そこでは神が、とりあえず自分に意味をくれます。意味は保証されます。よって神の御心のままに生きれば、人は自由になれるはずです。これは悪しき循環の中に、減衰機構を持ちこむ事です(・・・こういう表現しか出来ません。申し訳ない)。  現世逃避的類型ではそうなりません。と言うか、結果として逃避的になります。意味がないなら、意味を必要としないように悪しき循環の外に解脱しようと。よって意味を求める煩悩を捨てれば、人は自由になれる事になります(事になるだけですが)。  「現世支配的/逃避的類型」からの逸脱領域が広大なのは、ウェーバーも知っていたと思います。逸脱領域は、体系化を拒むような(首尾一貫していない)、色んな考えの混合である事が多いという印象を受けます。すぐ思いつくのは、「意味がなくたって生きていける」どころか、「意味がなくたって生きていける事を、積極的に肯定する」方向です。そうでなかった仏陀は、意味を却下するために、修行して苦しんだ。  積極肯定するのは、日本で言えば神道かな?、と思います。神道は究極の問いに応えないので、世界宗教ではありません。「神道+仏教+儒教」を無理に体系化したのが、武士道という印象を持ってますが、日本人との相性が良いだけでした。 >★ 現世支配的類型として、ニーチェのような行き方  ☆ これは 例示がないように思うのですが どうでしょう? むしろ反対であるように思うのですが?  「意味を生産し続ける自分に、意味を見い出した」。これだけで現世支配的類型の、十分な例になると思ったのですが・・・。 >つまりたとえばわざわざ《ルサンチマン》をけなすためのように概念として取り上げた。・・・中略・・・。つまり そんなことを言う前に ふつうの人びとと話し合いを持って ふつうの生活態度を身につけるなら もっと違った道をたどっていたことでしょうと思われます。  「・・・もっと違った道をたどっていた」。そうだと思います。これらに関しては、仕方ないので、恥を晒しますか・・・。補足の最後の§の応答にも、なりそうですし。    ・ http://okwave.jp/qa/q7213684.html の#8.  自分に上記のような危ない時期があったのは、確かです。そして我に返った時、どうも神道よりの選択をした、と気づきました。また科学や数学を神とは認めていません。宇宙は数学原理という仮定で記述できそうだ、という事を、経験事実として認めるだけです。ニュートン以降の物理学者は、心の中は窺い知れませんが、概ねこの方向だと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  次の二種区分は 或る意味で独特のようにも感じられます。   ★ 「現世支配的/逃避的類型」に関しては、「意味がなければ生きて行きないのか?、意味がなくたって生きていけるのか?、の究極の選択問題」と、自分は勝手に呼んでます。世界宗教と呼ばれるものは皆、体系化して究極の選択に応えていると思います。  ☆ あぁ。あるいはむしろ ヱーバーの神義論ですか。テオディツェ。  悪が社会的な力学の関係じょう善よりもつよくのさばっている。そんな世の中に生きる意味はあるのか? 神がいながら なぜ悪がはびこるのか?  このような問いを持たない民族は 確かに問いません。倫理も その場その場での適宜性に沿って決めるというようなことになりがちです。    これは ただしまだわたしにはピンと来ません。それほどはっきりと区分され得るか? あるいは日本人は 特殊であるかも知れませんが ほかの民族・国々はどうか?  ★ そう考えると、フランチェスコが厭離穢土のような思想と行動を持ったのと、ニルワーナの仏陀が厭離穢土になった動機は、全然別だったんではないのか?、と思える訳です。  ☆ フランチェスコは かれも独特な性格だったのではないか? 聖書の字句どおりの意味内容を行動するように自分に課したのは 個別的な問題ではないか。というようにも思えますし。  ゴータマ・ブッダの行動や思想は なかなか分かりづらいように思いますし。つまり内緒で不用意に言いますと ゴータマはけっきょく人一倍自己顕示欲がつよかった。よって ブラフマニズムのままでは・またその中にとどまっていては 自尊心がゆるさなかった。だけかも知れないと思えますし。  どうも個別の要素・要因のほうがつよいようにも思えて来ます。  ★ あらかじめ予防線を張っておきますが、これは良い悪いの問題ではありません。  ☆ 同意します。日本人のあいだにも ロマンティシズムに生きた人間がいたと思うからです。すくないですが。  ★ ただそういう歴史と風土の中にいたという、偶然の結果だと思います。  ☆ これは さらに加えてその人物の特性にもよると見ます。  さて 保留したかたちで本題に入りますが:  ★  現世支配的類型を、申し訳ないですが、キリスト教とさせて頂きます。そこでは神が、とりあえず自分に意味をくれます。意味は保証されます。  ☆ これは もしそうだとすれば いわゆる組織宗教としての・またオシエとしてのキリスト教のことですね。  パウロ・アウグスティヌスあるいはヘーゲルを引き合いに出して捉えた聖書の行き方は あくまで個人にとっての信仰の問題です。実存ですね。何も決まっていません。決まった路線があるわけではありません。  神は われと神との関係 ただこれだけのことですから。  ただし ローマ教会なりそこから出たプロテスタンティズムなりの集団としての仕組みは オシエにのっとるかたちになります。  ★ よって神の御心のままに生きれば、人は自由になれるはずです。これは悪しき循環の中に、減衰機構を持ちこむ事です(・・・こういう表現しか出来ません。申し訳ない)。  ☆ オシエの輪の中に入っていれば ひとまづ安心といった制度なのでしょうか? オシエをじっさいにおしえるのは・そしてそのことが効果をもたらすのは ヒエラルキアなる権限関係に沿ってその秩序をとおしてだというかたち。  繰り返すなら 輪の中にいて権限かつ身分の階層がもたらす秩序に従っていれば まづ死んだあとの天国もだいじょうぶ。というような情況のことでしょうか?    それに対して  ★ 現世逃避的類型ではそうなりません。と言うか、結果として逃避的になります。意味がないなら、意味を必要としないように悪しき循環の外に解脱しようと。よって意味を求める煩悩を捨てれば、人は自由になれる事になります(事になるだけですが)。  ☆ 煩悩を包み込むチカラを得ることを目指す場合もありませんか?  あるいはまた 《意味を求める煩悩を捨てる》というとき そのニルワーナにあっても むしろ《清浄心》であるとかまた《不老不死》といった現実の意味内容を捉えている場合もありませんか?  そういう場合には むしろ遠回りしたかたちで現実支配をもくろんでいるとも考えられます。  政治と共謀するか 政治権力にすり寄るかする。きわめて政治的人間なる類型も 宗教家の間から出ています。親鸞は 支持しますが 蓮如は支持できませんといったような例です。  まだ反論するわたしのほうでも 論点をぜんぶ出していないと言いますか まだどう展開させればよいかが分からない状態であり 保留する部分が多いのですが さらにすすみます。  ★ 積極肯定するのは、日本で言えば神道かな?、と思います。神道は究極の問いに応えないので、世界宗教ではありません。  ☆ たぶん明示的には《世界宗教ではありません》と思います。  ただし 世界宗教でありうる《個人にとっての信仰》の類型は そなえているかとも考えます。  【Q:空仏一如!?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7730857.html  《もののあはれを知る》――つまり あは!と嘆きを吐くそのときの思いに 世界の内にあるわれに還るといったかたちの信仰の姿勢が見られる。こう考えています。  無限と有限とのあいだの矛盾 あるいは世の中の移り変わりを見ても有限性とそれを超える不可変性の何ものかとの間に位置して 《きよらかなおそれ》をいだきつつ あはれを感じるその瞬間。これは 信仰の類型として 世界的な普遍性を持つと考えます。ただし 例に漏れず 集団としての――組織はあまりないようですが――かたちで 世界の意味を問い求めるにしろ意味がないところから出発するにしろの共生については どうであるか? 微妙なところだと思います。  理屈抜きで対立をゆるめる妥協点を探り出そうとする《政治的人間》が出ることもありましょうし。    ★ ~~~~~~~~   現世支配的類型として、ニーチェのような行き方    「意味を生産し続ける自分に、意味を見い出した」。これだけで現世支配的類型の、十分な例になると思ったのですが・・・。  ~~~~~~~~~~  ☆ 《十分》ではないとわたしが思ったのは 《生産しつづけるその意味》に意味があるか? という問いを通らねばならないと思うからです。  どういう意味を生産したのか?   永劫回帰――これに しっかりとした意味はありますか?  権力への意志にしても しかり。超人しかり。だとわたしは思っています。つまり この質問がそのためにあるということになります。アンチ・クリストは 最大の闇だと言わざるを得ません。      ★ 危ない時期  ☆ にかんしましては わたしのばあい 同じく次の質問:  【Q:空仏一如!?】  ここでの No.7のお礼欄にかんたんに書いています。  その関係で話を継ぐなら   ○ 関係性 / 社会的な人間どうしのカカワリ   という主題が わたしのばあい 大きい位置を占めていました。その点では 拝見したかぎりで 《自己》やその《価値》といった主題ないし視点が色濃く 精神の問題としてかかわっていたというように見受けられました。  あるいは 別の観点から言って 《孤独》でしたね 主題は。(コミュニケーションの問題だと言えるのですが)。その結果得るにいたった結論は 孤独とは 人間にとっては 孤独関係なのだというところです。  とにもかくにも ニーチェのよさを確かに知りたい。こう思いますね。だって これだけ読者を獲得しているということは いろんな人たちがさまざまにそこから栄養を摂っているのでしょうから。皮肉のひびきが出たかも知れませんが たずねたいという気持ちは じっさい起こったので 設問はしてみたのでした。  これまでわたしはまだその良さを聞いていないという意味になります。

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     どんな《神は死んだ》のか?  主題は ふたつです。  神とは何か?――あるいはつまり 神とは何でないか?  ニーチェのたましいをやすらかな眠りにみちびくことばをかけるとしたら それは何か?  まづ 三島憲一のニーチェ論の一端を引きます。あとで 具体的に問います。  ▲(三島憲一:ニーチェが戦ったもの) ~~~~~  ニーチェが『喜ばしき知識』の中で《神の死》を宣告した話はよく知られている。    寒くなってきてはいないか?    これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか?    昼前から行燈を灯す必要はないのか?    神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか?    神が腐る臭いがまだしてこないのか?    ――神々といえども腐るのだ。    神は死んだ!    死んでしまい 蘇ることはない!    しかも 我々が殺したのだ!    殺しの中の殺しをしたの我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか?    これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。     (『喜ばしき知識』125番)  大方の思想史では このいささかパセティックで安っぽいレトリックに溢れた文章によって ニーチェはプラトニズムとキリスト教がその根拠となっていたヨーロッパの道徳の自己崩壊を確認したということになっている。形而上学の完成と解体が告げられている とされている。  しかし 考えてみれば 変な話である。すでに一八世紀の啓蒙主義以降 知識人は 家庭のつきあいを別にすれば キリスト教の神は信じていなかったはずである。プラトンのイデアとなればなおさらで 大学の哲学科の訓古注釈の営みの外で そんなものを信じている銀行家や工場主や労働者や農民や そしてなによりも将校たちが多数いたとは到底考えられない。なぜ キリスト教の神の死を ニーチェはいまさらのごとく触れ回ったのだろうか。  実際には・・・ニーチェはいわば 自己の議論の正当化のために 当時において標準化されていたヨーロッパの思想の歴史を逆転して 新たに構築しただけであって 実際に闘っていたのは一九世紀の自分の周囲の生活形式(あるいは文化)であり それへの抵抗の中で このようなキャッチフレーズを生み出したのである。  《我々が殺したのだ》ということは 神を生かしておくも 殺しておくもこちら側 つまり我々の思うまま 我々のさじ加減一つということである。すでに神は我々によって構築されていたことが含みとしてある。つまり 神を構築してきた当の我々が葬られるべき存在なのである。ニーチェが闘った相手は 神の語をむやみに重視する一九世紀の生活形式であり 文化なのであった。  ひとことで言えば この生活形式の中核は ナポレオン戦争の終結とともに だがさらには一八四八年革命以降 特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化 そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象である。ニーチェはその知的生涯においてそれと闘う中で 彼の《破綻の美学》を生み出したのだ。  ・・・  再キリスト教化自身が ニーチェには神の死を意味していたのである。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 第五章 破壊的理性の美学――素描の試み   pp.149-151 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~  一九世紀の《再キリスト教化》について三島は きちんと例証していると思います。  そこでそのことに深入りはせずに 全体としてこの三島の議論に 必要な注釈をつけたり あるいはちょっと違うのではないかという批判を加えたり 言うべきことがありましたら まづそれらをおしえてください。  と言っておいて あとは 神とは何か? を問います。  三島も触れていますが 《われわれが構築した神をナイフで殺した》のなら それは《観念の神》であって・あたまの中の想念の中に描かれた思いや考えであって 劣ったものであったり時代遅れになったりしたら ナイフで切り殺されても当たり前です。ただの想像の産物を相手に闘った。またそういうたぐいの〔ニーチェの〕文章である。  つまり そんな《ただの観念の構築と抹殺といったお遊び》のことを どうしてそんなに熱情を燃やして闘ったりしたのか? それは どこから見ても《神》ではなかったというのに。  いったいニーチェとは何だったのか?  レクイエムを書いてやってください。

  • 再考: 《神は死んだ》か?

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第十章 《神は死んだ》のか  ▲ (ヰキぺ:神は死んだ) ~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AF%E6%AD%BB%E3%82%93%E3%81%A0  (あ) 神は死んだ(かみはしんだ、独:Gott ist tot, 英:God is dead)は、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの言葉として、ニヒリズムを表す言葉として広く引用される言葉である。  (い) ニーチェは、キリスト教的な神や価値観が、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰が消滅して、現実の生・世界が無価値・無意味になり、ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだ(も同然だ)ということばで表した。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~    問い‐1. 《ニヒリズム》とは どういう思想ですか?   (う) こう問うわけは 虚無志向というのは あくまで往復の道があって 当初はその虚無の国行きだけの片道だと思っていたとしても けっきょくには 復路もあるとなるはずではないか。だから いったいそれとして言わば独立した思想があり得ますか? という問いです。   問い‐2. 《神》は 果たして《死ぬ》ものか? つまりいつか・どこかで《生まれた》ものか? きわめておかしな表現であると考えられるのだが どうか?  (え) 《価値観が消滅する》という意味で《死ぬ》と使っても むろんおかしくはありませんが。    問い‐3. この場合に《現実の生・世界が無価値・無意味になり》というのも おかしな表現(思惟)ではないか?  (お) なぜなら もしそれがほんとうだとしたら 《キリスト教的な神や価値観が〔無いところでは あるいは〕、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰》が無かった土地とそこに暮らす人びとにとっては もともと昔から《現実の生・世界が無価値・無意味》であったとまわり回って言っていることになる。のではないか? そんなバカな話があるのでしょうか?  問い‐4. ▲ (い) ・・・ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだ(も同然だ)ということばで表した。  ☆ だからと言って 《超人・大地・大自然》を あらたな神のごとくに持ち出せばよいというものではない。はずだ。どうか?

  • どんな《神は死んだ》のか?

     どんな《神は死んだ》のか?  主題は ふたつです。  神とは何か?――あるいはつまり 神とは何でないか?  ニーチェのたましいをやすらかな眠りにみちびくことばをかけるとしたら それは何か?  まづ 三島憲一のニーチェ論の一端を引きます。あとで 具体的に問います。  ▲(三島憲一:ニーチェが戦ったもの) ~~~~~  ニーチェが『喜ばしき知識』の中で《神の死》を宣告した話はよく知られている。    寒くなってきてはいないか?    これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか?    昼前から行燈を灯す必要はないのか?    神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか?    神が腐る臭いがまだしてこないのか?    ――神々といえども腐るのだ。    神は死んだ!    死んでしまい 蘇ることはない!    しかも 我々が殺したのだ!    殺しの中の殺しをしたの我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか?    これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。     (『喜ばしき知識』125番)  大方の思想史では このいささかパセティックで安っぽいレトリックに溢れた文章によって ニーチェはプラトニズムとキリスト教がその根拠となっていたヨーロッパの道徳の自己崩壊を確認したということになっている。形而上学の完成と解体が告げられている とされている。  しかし 考えてみれば 変な話である。すでに一八世紀の啓蒙主義以降 知識人は 家庭のつきあいを別にすれば キリスト教の神は信じていなかったはずである。プラトンのイデアとなればなおさらで 大学の哲学科の訓古注釈の営みの外で そんなものを信じている銀行家や工場主や労働者や農民や そしてなによりも将校たちが多数いたとは到底考えられない。なぜ キリスト教の神の死を ニーチェはいまさらのごとく触れ回ったのだろうか。  実際には・・・ニーチェはいわば 自己の議論の正当化のために 当時において標準化されていたヨーロッパの思想の歴史を逆転して 新たに構築しただけであって 実際に闘っていたのは一九世紀の自分の周囲の生活形式(あるいは文化)であり それへの抵抗の中で このようなキャッチフレーズを生み出したのである。  《我々が殺したのだ》ということは 神を生かしておくも 殺しておくもこちら側 つまり我々の思うまま 我々のさじ加減一つということである。すでに神は我々によって構築されていたことが含みとしてある。つまり 神を構築してきた当の我々が葬られるべき存在なのである。ニーチェが闘った相手は 神の語をむやみに重視する一九世紀の生活形式であり 文化なのであった。  ひとことで言えば この生活形式の中核は ナポレオン戦争の終結とともに だがさらには一八四八年革命以降 特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化 そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象である。ニーチェはその知的生涯においてそれと闘う中で 彼の《破綻の美学》を生み出したのだ。  ・・・  再キリスト教化自身が ニーチェには神の死を意味していたのである。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 第五章 破壊的理性の美学――素描の試み   pp.149-151 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~  一九世紀の《再キリスト教化》について三島は きちんと例証していると思います。  そこでそのことに深入りはせずに 全体としてこの三島の議論に 必要な注釈をつけたり あるいはちょっと違うのではないかという批判を加えたり 言うべきことがありましたら まづそれらをおしえてください。  と言っておいて あとは 神とは何か? を問います。  三島も触れていますが 《われわれが構築した神をナイフで殺した》のなら それは《観念の神》であって・あたまの中の想念の中に描かれた思いや考えであって 劣ったものであったり時代遅れになったりしたら ナイフで切り殺されても当たり前です。ただの想像の産物を相手に闘った。またそういうたぐいの文章である。  つまり そんな《ただの観念の構築と抹殺といったお遊び》のことを どうしてその熱情を燃やして闘ったりしたのか? それは どこから見ても《神》ではなかったというのに。  いったいニーチェとは何だったのか?  レクイエムを書いてやってください。