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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:イエスという人間は 自分が神であると大嘘をついた。)

イエスは自分が神であると大嘘をついた?

noname#259625の回答

noname#259625
noname#259625
回答No.18

No.16です。 > それとも 捕縛されるのも 処刑されるのも そのこと自体が 父なる神の意志であって そのユダヤ人にとっての犯罪行為というその中身は どうでもよかったという解釈ですか?   イエスならこう言うでしょう。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 ルカ24:25,26 さらに、使徒ペテロならこう言うでしょう。「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、この/ようにして実現なさったのです。」使徒3:17,18 具体的に、メシアが苦しみを受けることになることに関する預言として、例えば、イザヤ53章などがあります。 >そうでなければ それは 神ではありません。 「イエスは神」という前提でbragelonneさんの論理は展開し、その結論として「イエスはやはり神である」としているかと。さもなければ、上の一節は出てこないでしょう。 もし、「経験的な意味での時間過程としての《生まれる》という意味ではありません」なら、その「御子が生まれた」とはどんな意味があったのでしょうか? まっすぐに、それ以前には御子は存在していなかった、ととらえてはならない根拠がありますか?   >もともとヘビなる悪魔も原罪もありません。物語として脚色しただけのものです。 使徒ヨハネならこう言うでしょう。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。・・・罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」ヨハネ第一1:8,10 >エレミヤ書31:31(ヘブル書8章)との兼ね合いをきちんとつけてから こういう話は述べるように求められています。あまりにも 不用意です。 これも、上のヨハネ第一1:8,10から分かるでしょう。ヨハネ第一の手紙は、キリストの昇天の後、数十年後に書かれたわけですが、キリストの贖罪後も、依然として、人間は罪人のままでした。それは現代も同じです。ただ、キリストの贖罪が成し遂げたのは、エデンからの追放以降生じた神と人間との絶縁状態が緩和され、仲介者イエス・キリストによって、望む人は神と和解するための道(機会)が開かれたということでした。 それゆえ,わたしたちはキリストの代理をする大使であり,それはあたかも神がわたしたちを通して懇願しておられるかのようです。わたしたちはキリストの代理としてこう願います。「神と和解してください」。コリント第二5:20

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  (1) イエスの受難  ということは――ご回答内容の引用を端折りますが―― 受難だけが神の計画にあったという意味でしょうか?  その受難の原因や理由については 問わない。こういうことでしょうか?    と言っても すでに前回にこの問いは述べています。  つまり 一向に問いに答えておられない。このことを意味します。  どうですか?  (2) 同じくイエスの受難  理由がどうでもよいというのならば たとえ冤罪であっても死刑にまでされれば――木(十字架)に懸けられる者は呪われているというように―― 失態なのです。  それでよろしいか? んなわけはないと知るべきです。  (3) 《神》とは何か? あるいは むしろ何でないか?  ★ ~~~~   >そうでなければ それは 神ではありません。  「イエスは神」という前提でbragelonneさんの論理は展開し、その結論として「イエスはやはり神である」としているかと。さもなければ、上の一節は出てこないでしょう。  ~~~~~  ☆ これは 子なる神として《父から生まれた》と説明されることについて明らかにしているところです。  むろんすでに三位一体説にもとづいて説明しています。  ただし 《イエスは自分が神であると言った》という命題を直接に証明しようとするのではなく もし神であるならば その中身は――少なくとも想定において――どうであるか? これを互いに共通の了解のもとに置こうというためのものです。  (4) つづき  イエスが(またはキリストが)父から生まれたことと 天使が神によって造られたこととは はっきりと別のことである。その意味は 神であることの内容と 神ではないことの内容とが どう違うか。このことを明らかにしたものです。  天使を造ることに 《ことば》としての子なる神は与かっているのですから そこにおのづから上の区別は明らかであるとしめして――最後には――《イエスが自分を神だと言った》ことの証明にみちびこうとはしています。  すなわち《生まれた》と《造られた》との表現上の異同にかんしてははっきりしないとしても やはり《ことばがはじめにあった》こととそのあと《万物がつくられた》こととには はっきりした違いがあるということです。それなのにこの《ことば》も あなたは天使だと言っているわけです。明らかな矛盾ですよという意味ですが それは 受け容れられないとの表明を 何の根拠も反論もなく 別の話を持ち出して来てそらそうとすることにおいておこなっている。このことが見て取れます。受け容れられない理由が あきらかではありません。  (5) では 神の内 子なる神とは何か?  ★ ~~~~~  もし、「経験的な意味での時間過程としての《生まれる》という意味ではありません」なら、その「御子が生まれた」とはどんな意味があったのでしょうか? まっすぐに、それ以前には御子は存在していなかった、ととらえてはならない根拠がありますか?  ~~~~~~~  ☆ 今回で意味のある文章は ここくらいです。つまり これ以外は すでに問い終えていることについてただほかのことを持ち出して来て話をそらそうとしている文章だという意味です。  (6) つづき    さて けれどもこの問いにもすでに答えています。  ☆☆(No.9お礼欄) ~~~~   【Q‐3】 イエスは 父や聖霊と同じく神であるが 父と子と聖霊とは 位格として(ハタラキとして)はっきりと分かれています。   ★ ~~~~~~~~   イエスは人間としてではなく、復活して(霊者、天使となって)から天に戻り、それから、神の王座のあるところ(至聖所によって予示されている)に大祭司として入りました。全能の神と、霊者として復活した大祭司イエス・キリストは別人であり、大祭司イエスは執り成しのための犠牲の血を神に捧げることができました。   ~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ ここらへんは すべて《聖霊》の世界のもんだいです。しかも 三つの位格のそれぞれの違いにもかかわります。   たとえにおいて 子は 光源としての父から発耀として生まれますが 聖霊は父と子とから明るさや暖かさとして発出されます。むろんこれらは 経験事象としての光とは違って 時空間の無いところで――もしくは時空間があるとも無いとも人間には分からないところで――のことを言っていますから 《生まれる》とか《発出する》とか言っても そこには時間的なへだたりはありません。   あとは 子は経験世界に《肉(つまり身と心なる人)》となって送られたが 聖霊は そのまま霊として送られるのみという違いがあります。   だから 父と子と聖霊という――いわば物語として――説明しています。  ~~~~~~~~~~~~  (7) さらにつづき  子なる神は 肉となって送られた。聖霊なる神は 父と子とからその霊のまま送られる。この違いを表わすために わざわざ三位一体の説明を持つようになった。子と聖霊との違いを見るためには 忘れてならないのは 父が存在するということです。それが 三つの位格が一体だという意味になります。  そうして このことは すでに初めから述べて来たように 《はじめにことばがあった》ことと《そのあと万物が造られた》こととは はっきりと一線を画するということに明確です。あるいは そのようなかたちで明確だと捉えるとよいという意味です。  (8) へび=悪魔または原罪のこと  ★ ~~~~   >もともとヘビなる悪魔も原罪もありません。物語として脚色しただけのものです。  使徒ヨハネならこう言うでしょう。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。・・・罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」ヨハネ第一1:8,10  ~~~~~~~  ☆ だから エレミヤ書31:31(=ヘブル書8章)の記事は どう見たのですか? というひとことを問えば おしまいです。  罪をおぼえることはないと神が言っています。また もう神の名を知れと言って人びとにおしえることもないと神が言っていると。  あとは 人間の経験世界における言語慣習として《罪》なら罪ということばが用いられている。ということのみです。それだけのことです。  ことばに応じたそれとしての(うつろいゆく経験事象としての)内実も人びとの心にあるし起こっているのでしょう。そしてそれだけのことです。  もしエレミヤと上のヨハネとで 神のことばの内容が違っているとしたら それを考えるのは あなたです。それをないがしろにして どうして議論をまともにおこなっていると言えましょう。  つまり こちらからの問いに対して そのことをもないがしろにしていることを意味します。  むろん 敗北宣言と受け取っていますが。  (9) エレミヤ書について  ★ ~~~~   >エレミヤ書31:31(ヘブル書8章)との兼ね合いをきちんとつけてから こういう話は述べるように求められています。あまりにも 不用意です。  これも、上のヨハネ第一1:8,10から分かるでしょう。・・・  ~~~~~  ☆ これについてもすでに答えています。時間表が 《宣教の時代》と《罪が覚えられず神を知れともおしえられないこと》とは 一時期としては錯綜するのだと。  イエスの十字架上の死と復活のあと 聖霊が送られたとき すでにエレミヤの預言は成就しました。それが 現実になるには けっきょく宣教の時代を持たなければならなかったことも然ることながら 単純に言って民主制社会の到来を俟ちつつ たとえば二千年かかりました。そういう問題です。  (10) 同じく  ★ ~~~~~  キリストの贖罪が成し遂げたのは、エデンからの追放以降生じた神と人間との絶縁状態が緩和され、仲介者イエス・キリストによって、望む人は神と和解するための道(機会)が開かれたということでした。  ~~~~~~  ☆ もしこれだと エレミヤ預言とは矛盾します。そうすると エレミヤ預言についての今後の時間表を明らかにすべきであると すでに問うています。これも 無視しましたね。とうぜん答えられないからです。ご自身の仮説が崩壊したとみとめたからでしょう。  神は すでにすべての人が 和解が出来ていると知りなさいと言っていましょう。

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     まづ これは――哲学ですが――たとえを交えての議論です。  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。  ここで神はそれを想定するというものですが この主題(ひとつの回答)についてあらためてその当否を問います。  この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。  その意味は 別の見方を斥け受けつけないという意味ではないということです。ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。  (β) 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 息を引き取ったということなどです。  (γ) 《人間として》でなければ――つまり 神として十字架上でたとえば奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味でですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ。われわれ人間には到底駄目なことだと何ごとについても人びとは あきらめてしまう。  (δ) しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――単なる人間イエスとしてだけではなく キリストなる神の子であり自身が神である存在が人間となった者としてでなければ―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術および科学の光になってしまう。  (δ‐1) 逆に言いかえると 神は 人間の《身体=精神》やその自然本性にそなわった能力やそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 非知であり非経験の場である。  (δ‐2) 啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。その闇は 人間が自分たちの理性の光(アマテラス学術語かつ人格語)で考えに考えた結果 世界を認識したそのとき ほんのちょっとそこではヘソを曲げスケベ心を出して何者の下にも自分は立つまいと心に決めてしまっていたので 陰を自分のものとして伴なっておりやがてシガラミの芋づる式に人びとのあいだにやはり闇を作ってしまったまさにそのものなのだから。    そうでなければ 闇は もともと 人びとのあいだに無かった。  (ε) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てとしての〕宗教についての一般理論が 完成した。  という哲学を問います。よろしくどうぞ。  

  • 闇の中にいた人が光を見たと言えるようになるには?

     まづ これは――哲学ですが――たとえを交じえての議論です。  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。  ☆ このひとつの答えをめぐって 以下に説明をつけますので ご見解をお寄せください。  (β) ここで神というのは それをいま単純にこの(α)のごとく想定するというものです。   (γ) この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。  その意味は 別の見方をしりぞけるものではなく 受けつけないという意味でもないということです。  ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。おそわりたいと思います。――その意味で (α)は単純にそういう想定だということになると思います。  (δ) さて 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切って逃げたという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死を死んだということなどです。  (ε) 《人間として》でなければ――つまり もし神ならそこから降りて来いとローマ兵士たちにからかわれて 神として十字架上から降りて行き奇蹟を起こしたなら あぁ それは神だから出来る われわれ人間にはお呼びではないことだと見なされて 話はおしまいになるということですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の努力が 到底 最終の目的に達して完成することなど出来っこないとわたしたちが思ってしまう。あきらめてしまう。  重ねて述べれば キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ われわれ人間には到底無理だと思い何ごとにつけても人びとは あきらめてしまう。  (ζ)  しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――つまり神の子キリストがやって来たのではなく 単なる人間イエスとしてだけであったのでは―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術や科学の光だけになってしまう。  (η) 逆に言いかえると 神は 人間の《身と心》やその自然本性にそなわった能力なのではなくまたそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 人間がこしらえたものではなく 非知であり非経験の場である。  (θ) 人間の能力としての啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。闇を晴らす光を見たと言えるようには まだならない。  (ι) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から闇を晴らす光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神をユダヤ民族だけのではなく普遍神として指し示した。普遍神と人間たるわれとの関係 すなわち 信仰一般を わが心なる《非思考の庭》として現わした。  (κ) ところが 人びとの中には この世に闇はあってもらわなくては困ると説く人がいる。闇を晴らしてもらっては困ると言う人がいる。のではないだろうか? 懐中電灯――にんげんの科学と芸術――があれば充分という主張である。これについて どう考えますか?

  • 闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには

    闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として(ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として)去っていくことだったのではないか。  この主題について問います。  (β) 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後には全員かれを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死んだということなどです。  (γ) 《人間として》でなければ――つまり 神として十字架上で奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味でですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ。われわれ人間には到底駄目なことだと何ごとについてもあきらめてしまう。  (δ) しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――単なる人間としてだけではなく キリストなる神の子であり自身が神である存在が人間となった者としてでなければ―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術および科学の光になってしまう。  (δ‐1) 逆に言いかえると 神は 人間の《身体=精神》やその能力やそれを発揮した成果なのではないと知らせる必要があった。  (δ‐2) 啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。その闇は 人間が自分たちの理性の光(アマテラス学術語かつ人格語)で考えに考えた結果 ほんのちょっとそのときスケベ心を出してへそを曲げてしまっていたので 陰を自分のものとしてともなっておりやがて芋づる式に闇を作ってしまったまさにそのものなのだから。  この哲学を問います。よろしくどうぞ。

  • 闇の中にいる人が光を見ることができるためには・・・

     ( a ) わたしたち人間が 闇に覆われていたのが そこに光の差すのを見ることができたのは イエス・キリストの出現によってである。  と 質問者自身 思っています。  信仰――非思考の庭がわが心に成るということ――の問題ですが・つまり言いかえるとドグマの問題なのですが 哲学として考えるところをこの( a )の命題を説明しつつ述べますので ご見解をおおしえください。  闇の中にいる人間が光を見ることができるようにする手段についてという切り口ですが。つまりはその意味で 人びとの罪が贖われるためには 何が為されなければならなかったかという問題ですが。  それは いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは   ( b ) 神が人間となって 人間として――ということは 人びとに決して その生前には 神であることが分かられずに 人間として―ー去っていくことだった。のだと思われます。  ( c ) 人間としてというのは たとえば弟子たちも 最後には全員 イエスを裏切ったという事態。つまりイエスは 人から裏切られるような人間存在であったということ。  あるいは はりつけになったイエスの脇腹を突くと 血が出たのだし 実際 イエスは死を死んだということ。などを言います。  ( d ) 人間としてでなければ――つまり神として 十字架上から降りて来るなどといった奇蹟を起こしたなら 話は別になってしまうという意味ですが―― わたしたちの生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  ( e ) しかも 神が肉となった人間としてでなければ 人に見させる光は ただの理性の光にとどまってしまう。逆に言いかえると 神は――そして神なる聖霊は―― 人間の精神なのではないと知らせる必要があった。  だから 信仰は 非思考。ヒラメキ。  ☆ この物語について 哲学はどう捉え扱うのか これが知りたいところです。どうでしょう?