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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:天皇を慕って涙するような精神は、明治以降ですか?)

天皇を慕って涙するような精神は、明治以降ですか?

sync-magの回答

  • sync-mag
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回答No.11

 No.8です。他の方への返答合わせて、いつもとても丁寧な「お礼」に感心しております。  補足にいただきました高山彦九郎はについてはNo.9様に譲ります。それにしてもeroero1919さんは知識も豊富ですが文章もうまいですね。  >いずれにせよ、絶対的な神的な存在を、現実世界に設定し、神と一般人の間の、媒介者(人間)とし、一般人のずっと上のほうに設定してしまうのは、責任転嫁を引きおこし、精神衛生上(社会全体としても)良くない事だろうと思います。戦争に突入したわけですし。  →そのとおりだと思います。  ただし、わたしはこれを近代化にあたって避けがたい段階であり、日本はこれを踏み外してしまったのではないか、と考えております。  後発の国が近代化するにあたっては、必要な資本を国民から集めなければなりませんが、それはその国の国民にとっては重荷でしかありません。にもかかわらず、近代の国際環境にあって近代国家のメリットは明白であり、これに失敗した国は世界の中で劣位に置かれてしまうか、植民地にされる以外にありませんでした。ならば、時の為政者はなんとしてもこの苦痛を国民に納得させなければなりません。  そのために各国では民族主義が利用されました。そこにロシアはマルクス・レーニン主義を加味し、わが国では天皇制を用いたのだと思います。どこまで為政者が意図したかは重要ではなく、結果的にこのような機能を果たしたことが重要です。  この過程において、イデオロギーはカリスマ的な個人の顔を持って現われます。ソ連、中国をはじめ、戦後の開発独裁と言われた国々はみなそうでした。なぜそうなるのかと言えば、やはりわかりやすいからでしょう。抽象的な理念に説得される国民は多くありませんから、どうしても神がかった「超人」が求められると言いますか、そのような存在があるときに政治が安定するのだと考えます。  この超人は人と隔絶された存在でありながら国民にとって親愛を感じられることが必須です。これは想像ですが、神と個人が直接対峙しているときは個々人が判断しなければならないのに対し、中間段階の人が神の意志を通訳してくれるときはその人に従えばいいのですから個人の判断は重視されなくなるのではないでしょうか。まさしく国家を統治するにあたって求められている機能がこれです。  わが国においてこの役割を果たしたのが天皇でした。しかし、天皇はご存じのとおり政治の実権を握っていたわけではありません。本人のキャラクターもさることながら、明治期において政治を動かしていたのは元勲たちだったからであり、以後この体制が引きつがれていったからです。  国家元首にして統治権の総覧者と定められた存在に政治の実権がない、つまり政治判断に対して責任を有していないという状態が生まれます。ところが、実際の天皇は言われているほど無力ではなく、たとえば上奏に対して拒否することはないがそもそも意に沿わないような上奏は行なわれなかったそうなのですから、実は結構政治判断をくだしていたわけです。しかし、あくまでも内々の話です。  政治的決断が「天皇」の名のもとに行なわれながらその決定に対して天皇が主体的に責任を負わないのなら、いったいだれが責任者なのでしょう。法律の話ではなく、国民の側からするとどう見えるか、どう納得するかという問題です。「陛下の叡慮」と内閣の決定がうまく使い分けられている間は問題ないのかもしれませんが、なんともあいまいさが付きまといます。  元勲たちが退場したあとの議会政治家たちはそれぞれに識見を有した人物もいたと評価してますが、国民からの納得を得られる人物はついに現われませんでした。理由はさまざまに考えられるのですが、結果的には軍部を掌握することができなかったことが大きいと考えます。  平時であればそれでも何とかなりました。政治的意志が欠如していても優秀な官僚機構が行政を執り行なっていましたから。しかし、官僚は政策の策定と遂行が仕事であって、決定は求められていません。その達成に対して責任を感じても、決定そのものには責任は感じないのが道理でしょう。  国民もまた、「民度が低い」と言えばそれでお終いなのかもしれませんが、そもそも国民一般が政治的決定をどこまで左右できるか、言いかえればどこまで責任を有しているかといえば、はなはだお粗末な状態でした。それだけの情報も持ち合わせていませんでしたし、その権限も不充分でした。  開発独裁あるいは独裁者の下での近代化が望ましいと考えているわけではありません。しかし、多くの国がこの過程を経ていることから、ある程度は必要な段階であり、ただ国ごとにその弊害がさほどでもない国と被害が甚大な国があるのではないかと考えます。  カリスマ的個人が国家に屹立する場合には、国家の決定に対して彼は責任を有しているのですから失敗に対しても責任を問われます。行きすぎれば超人の位置から引きずり下ろされて国民から退場を迫られます。しかし、神様に対して退場を迫る人はいません。「いない」というのは言いすぎかもしれませんが、人より神に近い立場の人であれば、一度その信仰を受け入れた以上責任を問うのはとても難しくなるでしょう。しかもこれが日本の場合のように責任があるようでなく、ないようである場合にはなおさら矛先も鈍ります。  だれが責任者なのか判然としないとき、だれを問い詰めれば良いのでしょうか。責任は霧散してしまうのか、それにつれて国民の側の責任も消えてなくなるのでか。しかし、「失敗」という結果は消えてなくなりません。  神と人の中間者を置くことは無責任な仕組みをつくることだと思います。しかし、日本はこれすらやりきることができなかったし、それに代わる手だてを講じることもできませんでした。「天皇をしたって泣く」があまりに便利すぎたからなのだと考えます。  またしても論旨が錯綜としてしまいました。質問者様の深い質問になんとか答えようと頑張ったのですが、浅学非才お詫びします。

spongetak
質問者

お礼

毎回の、懇切丁寧なコミュニケーションとご回答、そしてその示唆的な内容に感謝いたします。 近代の天皇制と、開発独裁との関係にはこれまで思い至りませんでした。近代の、後発国・周縁国のリーダーは、みなこれなんですね。レーニン、毛沢東、ビスマルクもそうなんでしょうね。 そしてこれらはみな、当然ながら、国家社会主義的体制で、経済は、国が直接やるか、国と一体となった一部財閥がやるか、になっています。 とても基本的なところに、いまさらながら気付かせていただきました。 天皇は判断を下さず、実際の判断はその下の内閣が下して政治を行っていたので責任は彼らがとり、天皇自体は「善」でありつづけ、ただ包容力と忍耐と倫理的センスと、状況を適切に理解する力を持って、場面に応じて、ちょっとした適切なコメントをしていることができれば、そのようなものとして存在することができたのでしょう。それはそれは、昭和天皇は大したものだったとおもいます。 これは、実際のカリスマが独裁を敷くより、ずっと継続力があり、一貫性があるといえます。ただ実際のカリスマ独裁者のような、熱狂的ファンが支持するような、具体性には欠けるという弱さがあるかもしれませんが。 そのような結構な開発独裁君主制を持っていて、あとはその下が、きちんと国家運営をしていけばよかったわけです。 大日本帝国憲法において、文民統制にしておけばよかったのに、と思うんですが。あまりにも天皇の権威を高めようと表現してしまい(天皇は陸海軍を統帥す)、一方で天皇の政治権力はないわけですから、本当に矛盾しています。どうしてそんな風に作っちゃったんでしょうか? 軍部大臣現役武官制、なんで復活させたんだ?と、いまでこそ失敗の大きな要因と理解されますが、(理由は不学でまだよくわかりませんが)、当時の段階では判断できなかったでしょう! 無知ゆえの、また経験がまだ浅かったための失敗だったということなのかもしれませんが、代価/授業料は非常に高くつき、精神的にも軍事的にも経済的にも、米国の属国となってしまいました。あるていどは。 話の趣旨がそれてしまいましたが、天皇は「善」なる存在の役目であることに徹し、その下の首相なりがきちんと最終責任をとっていけばよかったのではないかと思います ・・・が、 決して行動の責任を天皇になすりつけず、 「私が○○をしたのは、天皇陛下のため」とか「私は、天皇陛下の御意志に沿おうとして、がんばってきただけだ」など、決してやってはいけないわけですが、 それはどうしても、出てきてしまいますかね。(東条が東京裁判の時ちょっとそういうことを言いかけて、ひやっとした空気が流れた) 一切、責任というか、行動の動機を、おしたい申し上げる天皇に帰さずに、 行動の判断の原因をあくまで自分の中で完結させる、というのは、 非常に不自然で無理があるため、やはりこの人間崇拝の天皇制というのは、理論的には、うまく機能しない感じがします。 そもそも、○○の神の願いである、といって戦争することもあるのであれば、そのような人格神を動機の根拠とするのも、警戒されることになります。 あくまで個人の責任ある理性的判断(できるだけ多くの人にとってメリットとなる方向への、筋の通った判断)が、政治的判断の根拠になるべきだと思います。 そこの政治的判断には、天皇制の入り込む余地はないと思います。 その政治的判断の背後に、宗教心が存在するのは問題ありません。武士道の高潔なる道徳心がその背後に存在するかもしれません。儒教が存在するかもしれないし、キリスト教が存在するかもしれません。しかし今後の日本において、そこに天皇制が存在することは、おそらくもう、ないと思います。もし70年前に、天皇を中心とした八紘一宇の世界平和を、排他性を含まずに望みながら、天皇を慕って涙する精神が存在していたのであれば、これは非常にノスタルジックな、ある面非常にすてきな世界だなと、思います。 いつもお礼といっても、好き勝手書いてるだけですが、適切な議論を展開していただき、感謝しています。ありがとうございます。

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