- ベストアンサー
天皇を慕って涙するような精神は、明治以降ですか?
- 明治以降の教育において生まれた天皇を慕って涙するような精神は、尊王攘夷運動のころから存在していた可能性があります。
- 明治天皇や昭和天皇の人柄に対する要素も影響していたと考えられます。
- また、親であるような存在である天皇に対する感謝や憧れからくる涙もあるかもしれません。
- みんなの回答 (11)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
その他の回答 (10)
- sync-mag
- ベストアンサー率57% (98/171)
- eroero1919
- ベストアンサー率27% (3007/11114)
- eroero1919
- ベストアンサー率27% (3007/11114)
- rabirabi88
- ベストアンサー率10% (14/128)
- 安房 与太郎(@bilda)
- ベストアンサー率27% (228/822)
- atcoffee
- ベストアンサー率16% (184/1091)
- bismarks0507
- ベストアンサー率31% (192/605)
- rabirabi88
- ベストアンサー率10% (14/128)
- あずき なな(@azuki-7)
- ベストアンサー率16% (1978/11764)
関連するQ&A
- 尊皇攘夷
今司馬遼太郎の本を読んでいますが、もともと脳のキャパが狭いので少々混乱しております。 幕末~明治維新の時代において、「尊皇攘夷」はひとつのキーワードだったと思いますが、きちんと理解できていないので助言いただきたいと思います。 (1)まず、尊皇攘夷の意味について。 天皇を敬い、夷敵(アメリカなど)を排する事 と理解していますが、あっていますか? (2)幕末において、攘夷派の志士(薩長土)が明治維新を起こしましたが、「尊皇攘夷」を唱えていた彼らが明治維新を成し遂げたあと、「攘夷」であるはずが開国に踏み切ったのはどういう訳なんでしょうか? (3)新撰組の近藤勇も「攘夷」派だったらしいですが、これはどういうことでしょう? 彼のような左幕派も「攘夷」を掲げていたのでしょうか? (4)また、同時代において水戸藩は左幕派の代表として薩長土と戦いましたが、水戸といえば元は「尊皇攘夷」思想の総本山だったのではないでしょうか? いつの間に攘夷志士と戦う左幕派になったのでしょうか? かなり誤解して覚えている部分もあると思いますので間違いを指摘していただけたら嬉しいです。 よろしくお願いいたします。
- 締切済み
- 歴史
- 明治時代以前には、天皇の存在意義はどれほど大きかったのでしょうか?
私は、今日、日本国民が、いまだに自虐史観的感覚を 引きずってしまっているのは、天皇制イデオロギーに よる軍国主義的な第二次世界大戦当時の全体主義思想に 基づく「天皇制」を、霊的には、そのまま引きづり、 「国民統合の象徴」などとすげ替えてはいるが、結局、 何ら精神的に変わっていないことが、最大の理由だと思って います。つまり、自分たちの手で、天皇制を廃止できずに、 マッカーサーの言うとおり象徴天皇制を受け入れたこと にあると思うのですが・・・・明治時代以前には、天皇は、 どれほどの権威があったのでしょうか?日本民族にとって。 やはり、神様的な扱いだったのでしょうか? また、どうして、天皇家は、武士達の謀略等によりその 系統を絶たれることなく2000年以上も守られてきたのでしょうか? それほどまでに、いつの時代も、天皇家は、武士達にも神聖な 存在としてカリスマ性を発揮できていたのでしょうか??? それとも、武士達が立派だったのでしょうか?? 是非、教えてください。よろしくです。
- 締切済み
- 歴史
- 天皇は朝鮮人という主張する人の考えの原点は何?
先日、別件で質問したところ、今の?天皇陛下は朝鮮人だ等という 質問の趣旨と関係ない回答が寄せられ、人を馬鹿にするな等、おおよそ見当の付かない 罵倒を掛けられました。 何でそんなに起こっているのか。皆目見当が付きません。 そもそも、天皇陛下は朝鮮人・コリアンなどという根拠も理解しがたいものがあります。 自助努力で調べたところ、このサイトにも過去にそんな質問が寄せられていました。 1.日本書紀にて朝鮮人と思われる人の血が入っていると書かれている http://okwave.jp/qa/q6617838.html または、検索エンジンで調べると 2.明治天皇が二人いて、本物と偽者(朝鮮人)がすり替わっている 側近の日記と外国人来客者の日記に登場する明治天皇が似ても似つかないため、 二人居たとされているようです。 などがそれらの根拠なのかな?と推測しています。 1.については、事実の確認しようもなく、そうであったとしてもかなり昔のことであり、 仮に、今後皇太子殿下が国際結婚されたとしてその子は日本人ではないと言えません。 日本国籍を有しており、日本人ですから、皇位継承者であると思います。 2.については、私が側近だったらなら、まだ若い明治天皇を外国人に会わせて 何かあってはいけないし、当時の尊皇攘夷の観点から、 もしくは、日本が小国と思われないような観点から、 わざと強そうな影武者(偽者)を立てて引き合わせるということもしたかも知れないと思うのです。 または、外国人が天皇なんだからという思い込みで実際に会った中で一番強そうに思えた人間を明治天皇と勘違いしたということも考えられますよね。 また、これらのことはどうも小説家?の人が本にしたり、DVDにしたりと、 布教活動しているようです。私は見てませんが。 本というと、従軍慰安婦の問題でも日本人元軍人がさも事実のような暴露本を出し、 韓国内でも発売されて問題化しました。でも、これは後にウソであったことを作者本人が語っていますし、古墳からウソの土器などが出土したとか、最近では、iPS細胞を使って人間の手術をしたというようなウソを付く人は後を絶ちません。 信じるか信じないかは本人次第なのかもしれませんが、 明確な歴史的根拠をご存じの方、宜しくお願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
- おおやけの精神
こんにちは。 公の精神について調べてます。 戦国時代とかは弱肉強食権謀術数の世界だったと思います。 幕末になると尊王攘夷運動とかが起き始めて、天下国家のためのことをみんなが考えていた時代ではないかと思います。 歴史番組を見ると大日本帝国の人は自分の為より日本のため、天下国家のためにという精神があったという報道が何度かされています。お国のためにという言葉を紹介するのは小林よしのりくらいでしょうか。 戦後個人の自由で、天下国家のためにという精神は封印されとかされてきたといいます。 日本の歴史で長い目で見て、公の心が何故根付いたのか、村社会とかからの自然発生か、国命や法律由来なのか、なぜなくなってきたのか知りたいです よろしくお願いします
- ベストアンサー
- 歴史
- [歴史]アジア太平洋戦争を止めるには
課題でアジア太平洋戦争はいつの時点なら防ぐことができたと考えられるか、あなたの見解を述べなさい。 というものが出たんですが、一応私なりに考えてみたのですが-3箇所くらいあると思うのです。 1,満州事変時に石原莞爾を含む陸軍へ適切な処罰をすること。 2,日中戦争時、南進論ではなく北進論をとるべきだったということ。 3,東条英機を首相にした祭に、天皇から直接戦争を止めるよう会議で言わせるべきだったといこと。 ※個人的には、石橋湛山の小日本主義なんかもありなのかな?と思っています。 という考えがあるのですが-どう思いますか?観点がズレていたりなど何かご指摘や追加すべき要項がありましたら教えて下さい>< ちなみに、解答サイズはB4用紙の1/4程度だそうです。
- ベストアンサー
- 歴史
- 新撰組の魅力って何ですか?
新撰組ファンの方は多いと思いますが、どうしてそこまで新撰組は人気があるのでしょうか? 自分の抱いている新撰組のイメージは ・幕藩体制を終わらせ天皇中心の政治に動こうとしている時代の流れを読めずに、 ・農民が武士に憧れ、 ・憧れたがゆえに局中法度で変に規律を守ろうとして、背いたら仲間であっても殺す。 ・更には尊皇攘夷派の人間を池田屋事件で殺害し明治維新を数年遅らせた。 ・その後大政奉還が終わった後も、無意味に「武士らしくあろう」として抵抗して死んでいった。 というものです。(間違ってたら指摘してください) 日本の歴史上それほど大きなエポックメーキングな事件を起こしたわけでもなく、かと言って、信長や竜馬のように、「ああ、もっと生きていてくれれば、日本をどんな風に変えてくれるだろう」という期待が持てる人物というわけでもない(と、自分は思っています)。 新撰組ファンの方、一言で語ってくれても良いですし、長く熱く語ってくれても構わないので、教えてください。(決して新撰組批判を目的とはしていません) ちなみに、評判の高い「燃えよ剣」は過去に2度ほど読もうとしましたが、2度とも途中挫折してしまいました。
- ベストアンサー
- 歴史
- 明治維新で長州藩,田布施一味に日本が乗っ取られた?
→以下、コピペですが、真実なのでしょうか?長州藩とユダヤとは?田布施一?誰ですか? 自民党清和会の源流。 「心に青雲」より引用。 鬼塚英昭氏の新著『日本のいちばん醜い日』(成甲書房)を読むと、 日本国家の真相は、明治維新で長州藩,田布施一味に国家を乗っ取られた ということであることが解る。 長州藩の田布施一味とは、山口県熊毛郡出身の政治家らのことである。熊毛郡の田布施町を中心にしている。 ここは光市と柳井市に挟まれた寒村だった。 大室寅之祐=明治天皇、伊藤博文、木戸幸一、宮本顕治、河上肇、難波八助、松岡洋右、安倍源基(終戦時の内務大臣)、賀屋興宣などであ る。むろん、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三は、この田布施一味の末裔である。 小泉前首相の父・純也は、鹿児島の田布施(現在は加世田市金峰町)出身の朝鮮人である。 鹿児島の田布施も山口県の田布施と同じ、朝鮮人部落である。 小泉純也は上京して小泉又次郎というヤクザ(刺青大臣と言われた)の婿養子となって「小泉姓」を名乗り、日本国籍を取得したのだ。 小泉の次に安倍政権、そのいずれもが朝鮮人部落だった田布施の出身であることが偶然であるわけがない。 ユダヤ国際金融権力は、こういう人間を使って、日本乗っ取りを支援しながら、連中の弱みを握って、思い通りに支配してきたのだ。 ユダヤは徹底的に日本の事情=弱点を探って研究しつくしている。 例えばとして、鬼塚氏は幕末に英国公使パークスは、外交官アーネスト・サトウを使って日本の被差別部落を調査させている。 『日本のいちばん醜い日』に益田勝実氏の文章が引用されている。 「天皇様をお作り申したのはわれわれだとは、明治以前に生まれた長州の老人たちによく聞かされことだったが、近代天皇制以前には、京 都に天皇家はあったが、天皇の国家はなかった。 尊皇派が考えていた天皇の国家の考えは思想として獲得されたもので、現実に京都にいる天皇という実在の人物に合わせて作られたものでは なかった。 かれらが求めている天皇と現実の天皇と、いくらか融和出来るうちはよいとして、その矛盾が激化すると、……激化すると、天皇を取り換え てしまうほかなくなる。 わが家に空襲で焼けるまであった孝明天皇使用の皿は、おそらくまだ長州と天皇の間がうまくいっていた、蜜月時代にもたらされたものだ ろう。 奇兵隊挙兵の翌年、1866年(慶応2)の暮れには、孝明天皇は謀殺されてしまった。 もちろん、仕組んだのは江戸幕府ではない。 志士側で、天皇が倒幕の障害になりはじめたからである。 今日では、このことはもう公々然の秘密となっている。(益田勝実『天皇史の一面』より)」 益田勝実は長州の国家老一族である。 だから田布施の住民を虐げた側というか、支配した(あるいは敵対した)側である。 その子孫である益田勝実が、「てんのうはん」、つまり、山口県熊毛郡田布施町麻郷(おごう)に生まれ、孝明天皇の長子睦仁の替え玉とな り、明治天皇となった真相を突いたのだ。 『日本のいちばん醜い日』では、「大室寅之助は田布施の生まれ、……伊藤博文(林家が伊藤家の本家)と「虎ノ門事件」を起こした難波八 助は一族である。 また宮本顕治(日本共産党)も一族。 そして、木戸幸一も系図に入ってくる。 京都大学教授でマルクス主義を木戸幸一、近衛文麿に教えた河上肇も一族である。 そして、大室寅之助の生家の近くに岸信介一族の生家もある。 この地から代議士の国光五郎、難波作之助が出ている。 また、元外相松岡洋右も岸信介の一族である。 あの終戦内閣の最後内務大臣安倍源基も大室寅之助の生家の近くである。 ……大室寅之助が南朝の末裔であるという説があるが、確たる証拠は私の調べた限りではなに一つない。 むしろ、北朝鮮系の被差別部落民ではないのか、と思っている。」(「日本のいちばん醜い日」より) 明治維新から日本の国家中枢に君臨する一族には、このような真相があるのである。 鬼塚氏も書いているが、瀬戸内海の沿岸や島々には被差別部落が多い。 そこからアメリカや中南米に移民として行かされた人も多い。 「家船漁民」といって、船上で暮らす人々も瀬戸内地方には多かった。 いずれも彼らはマレーシア方面から漂着した平家系の民であろう。 源平の戦いがあった平安末期、貴族となって権勢を誇った平清盛一族は、(八切止夫によれば)マレーシア方面から比較的新しく紀伊半島 に“鉄器を持って”漂着した部族であった。 その彼ら貴族化した平家を、それ以前に土着していた北条氏らの平家一族が源氏(頼朝や義経)という馬を扱える部族を使って日本国内から 放逐したのがあの源平の戦いである。 だから清盛一族側の貴族化した平家は、海洋民族だったから騎馬戦は得意ではなく、義経に追われると瀬戸内海を下関(壇ノ浦)まで逃げた 。 当然瀬戸内海には海洋民族である土着の平家系のいわば海賊もいたのだが、彼らは北条側の平家に就いて義経に協力したため、貴族化した平 家らは撤退せざるを得なかった。 だから源平の戦いとは、本質的に“新来の平家”と“旧来土着の平家”との内ゲバであった。 それで勝った側の北条平家は、源氏系統=北朝鮮系を皆殺しにし、生き残った源氏系部族人間は別所などと言われる被差別部落に追い込ん だ。 おそらく瀬戸内一帯に土着していた源氏系の部族も別所などの被差別部落に押し込めて、まともな活動ができぬように圧迫したと思われる。 その一つが山口県の熊毛郡なのであろうし、遠く鹿児島にも同様の田布施として源氏系部落を作ったのではないか。 田布施という所は「正直いって、住むのに悪条件だらけの土地であった」と鬼塚氏は書いている。 あるいは「やたらと寺の多さに気づく」とも書いている。 権力者が寺院を使って被差別部落を抑えつけたのだろうし、本来は白山信仰を持ち仏教には転向しない源氏系(北朝鮮系)を強引に仏教徒に しようとした痕が、田布施の寺の群れなのだろう。 鬼塚氏は、田布施出身の大室寅之祐の家が漁業を営んでいないことを指摘している。 ということは大室家が平家ではないことを意味している。 平家系の庶民の職業は、漁民か百姓と決まっていたからだ。 鬼塚氏は大室寅之祐が北朝鮮系の被差別部落民ではないかと言っている。「週刊朝日」06年10月6日号に掲載された「家政婦は見た~安倍晋 三研究」で、安倍家の家政婦の証言として、安倍晋三の父・晋太郎は、日頃から「自分は朝鮮だ」が口癖で、亡くなったときの遺骨を見ても 韓国系の体型だったと言っている。 田布施(または熊毛郡)出身の一族郎党が国の権力を握っていることに変わりはないようだ。 安倍晋三は統一教会と縁が深いのだからまさに朝鮮半島勢力である。 明治天皇とその取り巻きが、なにせ田布施出身の朝鮮人系統なのだから、現実の政治はその流れに沿うのである。 終戦時(と開戦時)に外相だった東郷茂徳は、鹿児島の朝鮮人部落出身である。 本名は朴茂徳である。 鹿児島ではあるが、田布施と同じ出自なのだ。 だから昭和天皇は終戦の大事な時期に、東郷茂徳を起用した。 東郷に外交ルートを使った終戦工作、すなわち天皇の身の保全と、天皇家の蓄財の隠蔽を命じたのである。 東郷はA級戦犯となり、服役中に病没しているが、おそらく真相を知る人間だから消されたのであろう。 先に紹介したが、終戦時の安倍源基内務大臣は熊毛郡の出身で、安倍晋太郎・晋三との結びつきは不明らしい(家紋は同じ)が、大室家と は親族だという。 安倍源基は周知のように、戦前、警察権力を一手に握った男で警視総監をやり、特高警察で君臨した。 言ってみればゲシュタポかKGBの親分のようなものだ。権力者にとっては重要なポジションである。 これもまた朝鮮人系が握っていたのだ。 さらに。鬼塚氏が指摘しているのは、終戦時の内閣では大分県出身者が多いという。 阿南惟幾陸相(竹田市出身)、梅津美治郎陸軍参謀長(中津市出身)、豊田副武海軍軍令部長(杵築市出身)、また重光葵(東久邇宮内閣外 相)は国東半島出身。 大分県は瀬戸内海で田布施とつながっている。 この辺りは、先の家船漁民の活動範囲であって、その交流のなかで婚姻関係が結ばれていたはずなのである。 つまり昭和天皇は同じ朝鮮人関係者で、敗戦処理を行なったのであった。 こうして見てくると、どうして明治権力が朝鮮半島に侵出したか、しかも朝鮮半島をいわゆる植民地化せずに“内地化”して、インフラ整 備を徹底的に施し、“内鮮一致”を押し進めたかがわかる。 つまり日本が稼いだ富を祖国・朝鮮半島にせっせと注入したのだ。 また日本国内に在日朝鮮人を大量に残し、厚遇してきたかもわかる。 権力者どもにとっては同族だからだ。 わざと(ユダヤの指示で)日本国内に火種を残したとも言えるだろう。北による拉致だってわかったものではない。 総連や北の工作員だけでなく、こうした闇のルートが拉致に介在した可能性もあるし、現在も小泉や安倍という朝鮮系の人間が首相をやって いるのだから、闇は深まるばかりだ。 さらに鬼塚氏は興味深いことを書いている。 明治天皇の生母とされる中山慶子(つまり孝明天皇の種をもらった女性)の墓が東京・文京区の豊島ケ岡墓所にある。 ところがこの明治天皇の生母の墓を、明治天皇を始め皇族まで誰も参拝に行っていないのだという。 http://cosmo-world.seesaa.net/article/
- ベストアンサー
- 歴史
お礼
いつもありがとうございます。勉強になります。
補足
高山彦九郎というのは知らなかったので、ちょっとWikiで見ました。 愛国百人一首の中の歌は、非常に素朴で、カラッとしたところが、いいんじゃないかと思います。 涙するほどの深い情念的・深刻な関係は、ちょっとどうかなと思います。 いずれにせよ、絶対的な神的な存在を、現実世界に設定し、神と一般人の間の、媒介者(人間)とし、一般人のずっと上のほうに設定してしまうのは、責任転嫁を引き起こし、精神衛生上(社会全体としても)良くない事だろうと思います。戦争に突入したわけですし。 うまくすれば、おもしろいゲームの一つとは思いますが。