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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:天皇を慕って涙するような精神は、明治以降ですか?)

天皇を慕って涙するような精神は、明治以降ですか?

eroero1919の回答

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11114)
回答No.10

#9です。 明治時代というのは、とにかく江戸時代というか徳川幕府を全否定しなきゃいけなかったのです。その事情は追々書いていきますが。で、有名なのが徳川家康が「農民は、生かさぬよう、殺さぬようじゃ」といったとかなんとかという話。 時代劇なんかで農民が虫ケラのように扱われ、命をかけてお代官様に「お代官様、これを」とかなんとかいうと「無礼者!」といわれて斬られる、ってアレです。江戸時代の農民というのはこういう扱いを受けてきたと今の時代の我々も思っているのですね。 とんでもない話でありまして。 実は徳川幕府の統治ってのはかな~りユルいんです。五公五民で半分が年貢だったとかひどい場合は六公四民で6割年貢にとられたとかいわれますね。半分も年貢で取られたら大変です。 ただ、問題は課税の根拠となる年間獲高の算出でありまして。例えば現代の我々も所得税ってのが取られますが、実際の収入が400万円あるのに年収の申告が300万円にしていたらそんだけ得をしますよね。 あの勝海舟のお父さんが勝小吉さんという人で、とてつもなく破天荒なオヤジなんですが一応御家人つまり幕府直轄の武士だったのです。この小吉さんが甲斐だったか信濃だったかの幕府直轄領の石高調査を命じられて行ったんですね。で、小吉さんは離れた場所の仕事なもんだからいい加減な仕事をして、だいぶ農民に有利な石高調査をしたそうで、「ずいぶん農民には喜ばれたぜぇ」って能天気というかむしろ自慢げに自伝に書き残しました。ワイルドだろォ。 徳川幕府というか江戸時代って現代人の予想以上に「話が通じる社会」だったのですよ。例えば八百屋お七っていう有名な話があるのですが、恋い焦がれたお七って女の子が放火をしちゃって捕まった。放火ってのは古今東西大罪(場合によっては殺人より大罪です)で、江戸時代も死罪なんです。ところがお七ちゃんの年齢がこの時代だったのであやふやで、14歳だったかもしれなかったのです。当時、裁きの対象になるのは15歳以上で、14歳以下なら処罰の対象にはならなかった。だけど、お七が自分から「私は14です」といったらお奉行様を騙したことになります。なので、お奉行様は「お前は、14だな」っていったのです。それに「はい」と答えたら「じゃあお前は14歳だから処罰の対象外」となりますし、仮に15歳だったとしてもそれは奉行側の調査ミスであってお七ちゃんには罪はない。だから、お七ちゃんは「はい」とだけ答えればよかったのです。ですがお七ちゃんは「いいえ、私は15でございます」と答えたので死罪となってしまいました。 農民に対しても庄屋つまり豪農を通じて代官と交渉する権利がありましたし、残った資料によるとかなり代官側が譲歩することもあったようです。各藩でも事情はあまり変わらず、なにしろ一揆でも起こされてそれが公けになれば幕府から「統治能力不十分」という名目で取り潰されてしまいます。だから自ずと「ことは穏便に」とならざるを得ず、幕末になると農民一揆がおきて農民側の全面勝利に終わることもあったほどだったのです。 また徳川幕府は福祉政府でもありました。江戸ではしばしば大火事が起きたことがあり、安政の大地震とか洪水などの自然災害にも見舞われたことがあります。 そのとき、幕府は江戸城にある備蓄米を「無料で」炊き出して被災者に与えたのです。これは名宰相として知られる保科正之が明暦の大火のときに幕府の備蓄米を放出したのがきっかけだったのですが、以来、江戸市民が被災すると幕府は備蓄米を放出するようになったのです。そのため、災害が起きた後に江戸市中で大規模な略奪や暴行なんてのが起こったことは一度もないのです。これがどのくらいの速度で対応していたかというと、災害の起きた翌日には備蓄米は放出されていました。翌日ですよ。アメリカでカトリーナ台風による災害が起きたときにアメリカ政府が動き出すのにどれだけの日数を要したか。 こういうことを国家(政府)がやったなんて、当時のヨーロッパ諸国でもまったくありませんよ。災害にあっても教会が頑張るくらいで、当時の政府は窮民救済なんてのに無頓着です。 なんとなく、明治政府が意地でも徳川幕府を否定しなきゃいけない事情が分かってきたかと思います。徳川時代はおよそ200年続いたのは、要するに政府転覆を願うほどの不満がなかったからなんですよ。なにしろその江戸時代でいわゆる政府転覆の陰謀つうのは戊辰戦争を除けば江戸時代初期の「由井正雪の乱」くらいしかないのです。大塩平八郎の乱も、あくまで大塩が願ったのは「世直し」であり、自分が将軍にとって代わろうなんてものではなかったのです。 また徳川将軍が災害対策もちゃんとやってきたことを江戸っ子は知っていますから、天皇陛下か公方様かって聞かれたらそりゃ公方様ですよ。 ところで江戸時代の江戸が一大歓楽都市であったことは有名ですが、当時の人々がどんなペースで働いていたのかというと、だいたい町人は朝は夜明けあたりから活動が始まると早いのですが、だいたい勤務はお昼かお昼過ぎまで。仕事が終わったら風呂屋に行ったり落語や芝居を見に行ったりとのんびり過ごします。では武士はどうだったかというと、だいたい勤務は一勤一休。ええ、まじかよ。まじです。今日出仕したら明日は休み。武士は簡単にリストラできないのでワークシェアリングなのです。だから結構ヒマなのでやれ花見に行ったりなんだかんだと余暇を楽しむのです。ちなみに識字率が異常に高かったのが当時の特徴で、浮世絵を始めとして本が庶民にも普及していました。これも文字を読めただけでインテリだったヨーロッパに比べるとすごいです。今、江戸時代の天文学者の映画をやっていますが、数学ブームがあったのも江戸時代で、数学上の発見をした人は絵馬にその公式を書いて神社に奉納するんですね。各地にそういう「数学神社」がありました。で、そこで腕に自信がある人がその絵馬を見て解くのをチャレンジしたりしていました。数学のマニュアル本があり、旅行のマニュアル本もありました。北斎漫画という本があり、これっていわゆるデッサン集です。もちろんポルノもあり。春画もあるし、吉原を始め品川やら新宿やらに風俗街もありましたし、お安い闇風俗としてちょんの間の夜鷹なんてもいたわけで。文化度という点では現代と変わりません(ただし、我々のイメージする江戸文化というのはほとんど幕末である文化文政時代です)。 ヨーロッパより、かなり大衆文化というのは高かったと思いますよ。庶民が普通に文字が読めたなんてのは日本だけだったんじゃないかなあ。朝鮮戦争の時のアメリカ兵の4割くらいは文盲だったそうです。朝鮮戦争ですぜ。 というわけで、質問と全然関係ないことばかり書いてしまいました。お目汚しでした。

spongetak
質問者

お礼

楽しいお話、ありがとうございます。すごいおおらかな社会だったんですね。機会があればまた勉強してみようと思います。

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