• ベストアンサー

太平洋戦争で利益を上げた企業は。

shermanの回答

  • sherman
  • ベストアンサー率24% (15/62)
回答No.3

こんにちは。 ひとつは吉本興業です。 「お国のために協力しましょう」と中国戦線に「笑鷲隊(笑わしたい)」 という慰問団を派遣しました。 戦闘機を鷲に見立てて陸鷲(陸軍)、海鷲(海軍)、両方をまとめて荒鷲 と表現していました。笑鷲はそのもじりです。 当時人気のあった漫才や浪曲、落語などの人気者を中国大陸で 興行させたわけですが、しっかりと「興行料」をとりました。

kouki-koureisya
質問者

お礼

吉本興業は、しっかり儲けたでしょうね。 ご回答ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 軍需省による軍需企業の管理・統制する部署について

    軍需省による民間の軍需企業の管理・統制する組織や部署について質問です。 軍需省とは、太平洋戦争期に設置された日本の行政機関の一つである。 戦時の軍需産業強化の必要性のため、1943年(昭和18年)11月1日、勅令第824号「軍需省官制」に基づき、商工省の大半と企画院の国家総動員部門を統合して設置された省なのですが、ここで質問です。 軍需省主導による民間の軍需企業を管理・統制する場合、どんな組織あるいは部署が担っていたのでしょうか?

  • 太平洋戦争 終結のタイミング

    戦争を肯定するつもりは、ありませんが、太平洋戦争は戦争をしないでいたら、戦争犠牲者以上の餓死者に、国家分断、主権も失い植民地化に陥っていた、との定説 あの時代、戦争突入も否定もできない選択だったのでしょう (この点、誤りがればご指摘ください) ただ、末期の、沖縄戦や東京大空襲等の本土空襲、更には広島・長崎への原爆投下 非戦闘員である民間人に、多くの犠牲者が出ました そこまで至ったので、敗北を認め、終戦に至ったのでしょうか? あるいは、もっと早い時期に終戦(敗北)させ、上記の多大な非戦闘員の犠牲を回避出来ていたタイミングは、あったのでしょうか?

  • 戦時と平時で兵器技術文明の発展速度が速いのはどちら

    1.国家総動員体制で開発にあたる戦時のほうが文明の発達が速い 2.平時のほうが早い。戦時は確実に運用できる保守的な兵器が好まれる どっちでしょうか? 短い戦争だと2、長い戦争だと1だと自分は予想してるんですが実際はどうですか。

  • 太平洋戦争で、海上輸送路を保持できる、と思い開戦に

    太平洋戦争について、太平洋側、すなわち海軍にだけ絞って考えます。 開戦に踏み切る際のシナリオは、次の通り、と思っています。(なお、私は、歴史について、十分な知識を持っているとは思いませんので、かなり誤解している面がある、と思います) (1) まず、真珠湾を奇襲して、 (2) その後、弱体化したアメリカ海軍と戦い、勝利し、 (3) そして、東南アジアを手中に治め、石油や鉄鋼石などを確保する、 (4) そして、不敗の体制を築き上げる。 ところで、現実では、(1)の真珠湾奇襲は成功しましたが,(2)は、ミッドウェイ海戦にほぼ失敗し、それ以後勝ち目がなくなりました。 しかし、仮に、当初のシナリオどおり、(2)についても成功し、(3)の東南アジアを手中に治めることができた、とします。 質問したいことは、日本は、(3)の東南アジアとの海上輸送路を、最初はともかく、長期に安全に保持できる、と考えていたのでしょうか? 国力に任せて次第に回復してくるはずのアメリカ海軍のリベンジから、日本は、3000km以上の海上路を守ることが、可能だ、と思って、開戦に踏み切ったのでしょうか?

  • アメリカの戦争時の建前について

    イラク戦争では米軍の攻撃のたびに民間人に犠牲者がでると、「誤爆でした」「我々の攻撃によるものではない」「そういう事実は確認していない」等の釈明がよくされます。以前の湾岸戦争のときも「ピンポイント攻撃だから民間人の犠牲者は最小限云々」という説明がありました。 アメリカにとって、いったいいつから戦争で一般人を殺すことが建前上いけなくなったのでしょうか? かつてのベトナム戦争では非戦闘員である一般人の多くが犠牲になりました。しかし問題とされて取り上げられているのは、「ソンミ村虐殺事件」などの一部だけです。 太平洋戦争では、東京大空襲によって意図的に民間人の住む木造住宅を狙って焼夷弾が落とされましたし、戦争の早期終結という名目によって広島と長崎に原爆が投下されました。これらも民間人の殺傷を狙ってのことです。さらにアメリカによる原爆投下は歴史上唯一の、戦争における大量破壊兵器の使用です。 これらのことについて、アメリカは今でも正しい選択だったと言っています。 戦争で民間人を殺傷することが建前上にせよいけないこととされるような国際的な取り決めがあるとしたら、それが出来たのはいつなのでしょうか? それとも情報の発達により、戦争の模様がリアルタイムに報道されるようになって、戦争の当事者である国家が国際世論に気を遣うようになったからなのでしょうか? 尚、ここでいうアメリカとはアメリカ政府なりアメリカ軍のとこです。

  • 太平洋戦争は回避する事が出来たでしょうか?

    太平洋戦争は回避する事が出来たでしょうか? 第二次世界大戦が始まる直前、 日本の政局も混沌と していました。 次々に短命内閣が現れては潰され 現れては潰されました。 そして昭和天皇が一番信頼し頼りにされていた 最後の元老西園寺公望も90歳で亡くなりました。 西園寺の最期の言葉は 「いったいこの国をどこへもってゆくのや」 期待していた近衛と袂をわかち 近衛を首班指名した事を後悔し続けたそうです。 そして西園寺の予言通りになってしまいました。 今現在も無責任体制で民主党政府は 「いったいこの国をどこへ 確かに近衛が首相のときに 支那事変がおこり、 高邁な理想とは裏腹に主体性なく思い付きの 行動を取り続け、軍部のつきあげもないのに 勝手に軍拡しながら「不拡大方針」を唱えたり 挙句は「国民政府を対手とせず」といって 断固膺懲路線に転換。いってることと やってることがちぐはぐなままずるずると 支那事変は拡大の一方をたどります。 近衛は汪精衛を擁立して日中宥和をはかるも 失敗。辞職します。 その後平沼内閣の時に独ソ不可侵条約が締結され 「欧州情勢は複雑怪奇」の名言を残し内閣総辞職 しました。 続く阿部内閣は第二次大戦の勃発があり、 三国同盟を陸軍部内から突き上げられますが 日米関係を考えて棚上げにするという功績を 残したものの統制経済の影響と 凶作の影響からコメが流通不足になり、 米価引き上げを図ってコメの出回りを 引き出そうとするが物価高騰物資不足となり 民心が完全に離反。 阿部はしぶとく内閣総辞職と解散総選挙で 局面の打開を図ろうとするも陸軍が民心の 反軍化を恐れて指示せず、内閣は総辞職。 新内閣の首相には当初陸軍大臣畑俊六が噂されますが、 昭和天皇が当時の日独伊三国同盟締結を 求める風潮を憂慮したために、 米内光政に組閣の大命が降下。 米内は組閣と同時に自ら現役を退き予備役に入り、 親英米派で日独伊三国同盟反対論者だったこと、 近衛文麿らによる新体制運動にも 冷淡な姿勢を貫いたこと等により 陸軍や親軍的な世論から不評を買います。 斎藤隆夫の反軍演説も陸軍の反発を招きました。 組閣から半年たって仏が独に降参すると 独伊への接近を企図し、 近衛文麿を中心とする新体制に期待して 倒閣の機会を窺っていた陸軍は、 畑俊六陸相を単独辞職させ 三長官会議にて後任を推挙しなかったため、 軍部大臣現役武官制により、 総辞職に追い込まれました。 昭和天皇は米内内閣総辞職について 「もし米内内閣があのまま続いていたなら 戦争にはならなかったろうに」と、 後年まで悔いておられました。 そのあとを継いだ近衛内閣は 北部仏印進駐、三国同盟締結、 日ソ中立条約、南部仏印進駐も決定。 日米交渉を開始したが暗礁に乗り上げました。 近衛の理想とした近衛新体制は 骨抜きにされ、大政翼賛会も骨抜きにされ どうにもこうにもにっちもさっちも 行かなくなった状況に近衛はさじをなげて 総辞職。 時局収拾のためには誰からも横槍の入りにくい 皇族内閣が適任だろうという事で 東久邇宮稔彦王(当時は現役軍人で 軍部の受けもよいだろうという理由) を首班候補に東条と近衛は推戴していたが 木戸が「皇族の指導によって 政治・軍事指導が行われたとして、 万が一にも失政があった場合、 国民の恨みが皇族に向くのは 好ましくない」として反対し 重臣会議を諮り、結局、 「強硬論を主張する東條こそ、 逆説的に軍部を抑えられる」という 木戸の意見を採択して東条に大命降下しました。 そして東条内閣の時に太平洋戦争が起きてしまいました。 現役大臣武官制がなければ 米内内閣の倒壊はなかったでしょうし 宇垣内閣の流産もなかったでしょう。 皇族初でおそらく最後の皇族内閣として 戦後の敗戦処理にたった54日の 短命内閣とはいえGHQと小競り合いもなく 見事なまでに時局収捨して降伏事業を 混乱もなく収めることができた 東久邇宮稔彦王殿下が東条内閣の かわりに組閣出来ていたとしたら 戦争には至らなかったかもしれません。 そこで質問です。 ※東久邇宮稔彦王殿下の皇族内閣が  第三次近衛内閣の後に組閣されていたとしたら  太平洋戦争は回避できていたでしょうか。 ※現役大臣武官制が復活していなければ 昭和天皇の信任厚い米内内閣が長期政権を 維持して、太平洋戦争を回避できたでしょうか。 ※太平洋戦争を回避できたとしたら現在の日本は どうなっていたでしょうか。 以上3点についてお答え願います。

  • 日本国憲法のテスト

    今度日本国憲法のテストがあります。「太平洋戦争とは」というプリントが配られ、よく読んでおきなさいという指示がありました。 プリント内容は、 1.戦争の起源 2.英米との対立激化 3.戦争への突入 4.戦争の経過 5.戦争の集結 6.戦時下の国民生活 7.戦争の指導体制と戦争責任 8.戦争の結果 テストは700字程度で答える論述問題だけです。 どのような感じの論述問題がでると思いますか? 回答お待ちしています。

  • 沖縄、戦争ひいては地球問題

    辺野古埋め立て問題ですが、先日の選挙で沖縄はオール沖縄で、反対派が全部勝ったにもかかわらず自民政権はしゃにむに問答無用で強引に進めてます。 翁長知事が、中止命令を出す云々まで深刻化してます。これに対して政府の要人は「やれるものならやってみろ」と、まるで戦争も辞さない剣幕のようです。 歴史を振り返ると、沖縄はもともと琉球王国として独立国家でした。日本と中国の真ん中 位置し、かつ弱小だったため振り回され、薩摩藩、明治政府により属国化されました。 その後の沖縄の悲惨な歴史は今さらいうまでもありません。 第二次大戦では、本土防衛のため連合軍の上陸作戦の犠牲となり、いったいどれくらいの民間人が亡くなったのでしょう。 私は戦後生まれですが、戦時中の沖縄戦で米軍が火炎放射器で洞窟の奥に隠れてる民間人を焼き殺す映像を見ました。さらに、沖縄で本来民間人を守るべき日本兵が防空壕にいて、赤ん坊が泣くと、ばれるのでその赤ん坊を銃剣で殺したというのも有名です。防空壕がいっぱいになると、軍人優先だと言って、民間人を追い出したといいますし。 そんなことした連中が、戦後はかつていじめた部下の復讐を恐れ、逃げ回ったのもよく聞きます。植民地だった台湾や満州では、民衆に仕返しされて殺されたり、半殺しになった軍人も多いようです。やはり、自業自得ですね。やった結果はきっちり返ってくる。当たり前ですが。 話が飛んでしまいましたが、軍国主義はなにもいい結果を生まない。過去に勇ましいセリフで国家主義を宣伝して、乗せられて戦争した結果を見れば一目瞭然です。国民は否応無く徴兵され、戦地へ送られる。徴兵忌避は死刑だったんですよ。きちがい沙汰でしょう。 そうしなければ、誰も好き好んで兵士になどなりませんよ。一部の戦争好きを除いて。 考えてみれば、軍国教育で国民を洗脳してお国のために死ぬのを当然と教えた当時の政府も どうしようもない。 沖縄問題を考えたら、結局もっと前の根本からとなりますから必然的にこういう話です。 ただ、私は人類の長い歴史を考えるとこれに似た問題はずっと昔から地球全体であったから 結局人間のやってることは、今も昔も変わりないのかと思います。 話は戻りますが、沖縄はこれ以上本土の犠牲になる必要はないので、昔のように独立も選択肢かと思います。沖縄県民の気持、経済問題などハードルは高いけど、戦時中戦後とこれだけ犠牲にされて黙ってるほうがおかしい。貴重な沖縄のサンゴ、ジュゴンが消えるのを黙って見たくありません。

  • 戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

    戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい 戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。 戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。 戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。 でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍人、民間人合わせて310万人の人が死亡し、都市面積の30%が消失したと言われています。 しかし、310万人の死者は一見多いように見えますが、1億人の人口から見たら3%で、97%の国民は生き残っているわけです。 また、国土が焼け野原になったと言われますが、都市面積の70%は無傷だったわけです。 これらのことから見ても、当時の国民で、肉親や親戚に死亡した人がおらず、空襲も受けなかった人はかなりの数がいるはずです。 その中でも、農村部に住んでいる人であれば、食料にも不自由せず、普段通りの生活をしていた人も多くいたと推測されます。 もちろん時代が時代ですから、派手なパーティーをやったり、観光旅行にでかけたりということはできなかったでしょう。 しかし、戦後世代の人が教わったような、日本中が地獄絵と化したというのはちょっと大げさなのではないでしょうか。 当時は情報も統制され、日本がどんどんやられているというような情報は入って来なかったでしょうから、いずれ自分たちも攻撃を受けるというような危機感もなかったと思われます。 当時の国民の、少なくない数の人たちが、実は普段通りの平和な生活を送っていたと推測されます。 戦時中、実際にこのような普段通りの平和な生活を送っていた方の体験談を聞かせていただけませんか。 また、そのようなことを紹介したサイトなどがあれば教えて下さい。 なお、私が聞きたいのは「戦争中、普段通りの生活をしていた人の話」であって、「そんな人はいない」とか、「そのような質問は不謹慎だ」というような回答はお断りします。 質問の趣旨を理解した上で回答をお願いします。

  • 戦時中の日本国民の生活は、本当はどうだったのか?

    数日前、家でNHKのファミリーヒストリーという番組をたまたま観ていました。 この番組は各界の有名人の家族の歴史を探って紹介しており、私が観た時は女優の余貴美子の家族でした。 余貴美子さんはお爺さんとお婆さんが台湾人で、日本で一旗上げる為に来日し商売を起こし、東京で手広くビジネスを展開していたそうです。 その中で、私が"あれっ"と思った事があったのですが、余貴美子さんのお爺さんは戦時中には乾燥バナナを台湾から輸入して、大儲けし大豪邸を建てたという事でした。 戦争中と言えば、物資が不足しているイメージがありますが、豪邸なんて建てられるのでしょうか? それに国家の命運がかかっている時期に豪邸を建てるなんて贅沢な事を世間は容認したのでしょうか!? 私は、戦争中にそんな事をすれば批判されそうな気がします。 戦時中に、それも台湾出身者が日本でビジネスをし、その上、大儲けをする。 台湾人がそうなんですから、日本人や朝鮮人などでも大儲けし、景気の良かった人はたくさんいたのではないでしょうか!? それから話は変わりますが、数週間前の読売新聞の日曜版の中の新刊本を紹介する欄で、本の名前は忘れましたが、戦時中の事が書かれた本の内容が一部紹介されており、戦争中に日本国内で温泉旅行ブームが起こったと書かれていました。 戦争中に温泉旅行ブームは意外な気がしたしたが、戦況の悪化に伴い日本国民の生活はどんどんと厳しくなっていったのは確実だとは思いますが、これまで日本国民がメディアから聞かされてきた様な、戦争中は主食に芋やすいとんを食べていて非常に貧しかったというのは、数ヶ月、半年、一年間の事なんでしょうか? 私は、戦争が始まる頃からか、その少し前頃から日本国民は自由がなく、食べる物にも事欠いて、窮乏生活を強いられていたと思っていました。 事情通のみなさん、実際はどうなんでしょうか?