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人間の価値は何で決まる?

caballeroの回答

  • caballero
  • ベストアンサー率17% (31/182)
回答No.15

私のいう「価値」とあなたのいう「価値」がおおむね一致しているかわかりませんが、私は、お金には価値がないと思うのです。あれは「意味」しかありません。仮に、お金が好きで貯めるばっかりで、使わない人がいます。本当にお金そのものが好きだから、手放さないわけです。しかし、その人はお金を保持しているとはいえない。保持しえているのは紙です。お金をあらわすのは数字であり、その数字は使った時点でお金になると考えます。しかしその時点ではお金(数字)は手元にないわけで、保持するなんて到底不可能で、体験する事も時間のない一瞬の事ですので、お金を体験する事もできません。我々は幻想を見ているに過ぎませんと考えています。 人間の価値ですが、周りの人々が個々それぞれに、それぞれの好き嫌いによって決めるのと、当人にとって当人はどうかってこととあると思います。哲学されてしまうのは、後者の方だと思うのですが、当人にとって、当人はどうかって考えた時に、考えている当人とは、まるきし別物の自分が想定されているように考えます。なぜなら、例えばもっとこういう性格だったら、苦しまなくてすんだのにとか、私のペンギンが好だという事が好き、等をあげた、その時、好き(快楽他、様々)を求めて働くのは当人の人格だが、それを享受しえているのは、考える当人とは別の、当人を当人たらしめる存在があるからではなかろうか?  当人の人格はこのような作業をしているといえる。 「コレ、好きゲット、うはうは。コレ、好きじゃない、ブー。コレ、好きゲ・・・」好き嫌いはすべて、人格がないとつかさどれ、えないにもかかわらず、それだけではその動きは客観的事実としか捕らえられない。むしろ、客観と称する立場に当人(人格含む)が立ち、人格の働きをイメージとしてみている状況がイメージされる。しっかし、オナニーじゃないですが、イメージをするのは人格です。さらにそれに、ムラムラきているのも、人格です。しかし、そのムラムラをうつつに実感するには当人の立場にたっておかなければなりません。このようなことがいえるのは、当人の立場は常に、それを当人たらしめている何かと同伴しているからだと考えます。ですから、イメージは立っている当人ではないですが、当人の人格をイメージできている。このイメージの人格にとっては云々・・を言い切るのは、最初から不可能ですので、「人間の価値は何によって決まるか」の選定者「何」は当人の人格のみではありえません。自意識を持ちえていないからです。自意識を持った者のみが選定者の立場に立てると考えます。そして、自意識は二つの場所に同時に立つことは考えられない。が、自意識(人格含む)が自意識を持っていることをどうか問うことは、可能である、それは、当人が当人を主観的に見ることといえる。又、選定対象の「人間」こそに「当人の人格」があてはまるのではないでしょうか、それは、当人が当人を客観的に見ることといえる、当人(自意識)が当人を「第三者たらしめて」みるということだ。そして此処で哲学されてしまうのは、前者の、当人が当人を主観的にみることであろう。 「人間の価値は何によって決まるか?」は「当人は自意識を持っていることをいかに評価するか?」として此処に残された。こと、当人の人格(意識)に限ってそれが自意識である事は自意識にとってどうなのか?それは、自意識を自意識たらしめているもの(同伴者)は自意識にとってどうなのか?ということです。当人(人格)を自意識たらしめているものを「自」とすると、「当人(自意識)にとって「自」は(評価として)どうか?」答えは(前二つ評価じゃないやん⇒「なくてはならないもの?」「必然的にあるもの?」)「ない方がいいもの?」「あってよかった?」 それは、「自意識による、自分である事に対する評価」といえます。  此処までこのような文を読んでいただきありがとうございました。よって、答えは「自意識」です。

noname#2626
質問者

お礼

回答どうもありがとうございました。

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