意味が分かるとはどういうことなのかが分かりません.
意味が分かるとはどういうことなのかが分かりません。
論理トレーニングの本に載っていた文章とその解説を読んでいた時に、
ふと疑問が湧き、そのことを考えるうちに悩んでしまいました。
どんな疑問かというと、「文(章)の意味が分かるとはどういうことなのか?」についての疑問です。
私が読んでいたのは、野矢茂樹氏著「新版論理トレーニング」のP.7問2の問題文なのですが、以下のような文章です。
HIV感染の動向は、他の性感染症とあわせて総合的に性感染症全体の疫学を監視することが必要である。エイズは内科の病気であり、泌尿器科、性病科の病気とは臨床的にまったく異なる。しかも性行為で伝播するという点では、他の性感染症と同じである。しかし、他の性感染症にかかって局所に炎症があると、HIVの感染率は数倍上昇する。だからエイズ予防の視点からは、疫学的に他の性感染症と同時に扱う必要がある。
この文章には、2か所不適切な接続詞が使われているために全体としては支離滅裂で意味不明な意味内容になっています。
ちなみにその2か所とは、3文目の「しかも」と4文目の「しかし」で、両者を交換すると、文章全体の意味が「分かるように」なり、意味明瞭となります。
最初にこの問題文を読んだ時、私は「意味がよく分からず(=言葉から喚起される意味イメージの連続映像をつなげることができず)」、接続詞の「しかも」と「しかし」を入れ替えることで、
確かに「意味がわかる(=言葉から喚起される意味イメージの連続が無理なくつながる)」ようになりました。
しかし、この時ふと頭に「文章(言葉)の意味が分かるとはどういうことなのだろうか?」いう疑問が湧きました。
私は、今まで「文章(言葉)の意味が分かること」を「言葉から喚起されるイメージが自然につなげることができること」だと理解してきましたが、この理解の仕方は間違っているのではないかと感じるようになりました。そのように感じたのは次のような疑問が湧いたからです。
「筆者からしてみれば、間違って書いた『支離滅裂』な意味内容をもたせてしまった文章が、読者にとっては『言葉から喚起されるイメージが自然につなげることができる』文章として読まれ得る可能性があるのではないか?」
また逆に「読者にとっては解読不能で意味不明な文章にしか思えない文章でも、筆者からすれば『言葉から喚起されるイメージが自然につなげることができる』文章として書かれている可能性もあるのではないか?」
以上のような2つの可能性に関する疑問が湧いた時、私は自分の「文章の意味が分かる」という感覚に急に自信が持てなくなってしまいました。
また、ほぼ同様の理由で外国語(英語)の意味を解釈をすることにも自信がなくなってしまいました。
外国語の文章の意味を解釈する際に、私(我々)の感覚や表現能力では「意味不明・支離滅裂」としか判定できない文章でも、当の外国語の文章の筆者にとっては極めて「明瞭で、一貫した」意味を持たせてある文章というのがありうるのではないか?
と疑問に感じたからです。
そこでお聞きしたいのですが
私の従来の文章(言葉)の意味の理解の仕方、すなわち「言葉から喚起されるイメージが自然につなげることができること」という理解の仕方は、そもそも正しかったんでしょうか?
また、私が気付いてしまった、上記疑問群の可能性というものは本当に正当な(=ありうる)もので、疑問としても正当なものなのでしょうか?
もし正当でないとすれば、その理由は何なんでしょうか?
逆に、可能性としてあり得るとすれば、それはどんな場合で、我々の「意味が分かる」という感覚にどのような影響を与えるものなのでしょうか?
文章の意味をとる際のスタンスに自信が持てなくなって、受験勉強が手につかなくなってしまいました(泣)。
自分自身でも、上述の疑問群に解答を出すべく考えていたのですが、一向に答えが出ず頭が痛くなってしまいました(笑)。
どうか、お知恵をお貸しください。
宜しくお願い致します。