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江戸時代 ”川流れ”という行事はありましたか
江戸時代後期(天保の頃)ですが 旧暦12月初旬に”川流れ”と称する行事がありましたでしょうか 現代でも川流れは人が川に流されて災難に会うことを言うと思います 想像するに江戸時代も同様であったろうと思いますが では旧暦12月初旬の”川流れ”は”川流れ”で命を落とした人の供養・慰霊をするための行事ということでしょうか これは長野県上田市に残されている文書に書かれている部分ですがご存知の方教えてください 別の項で江戸時代の”朝白たき”を質問しますこちらもよろしくお願いします
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下記はそれぞれ断片情報に過ぎませんので、参考になるか否かはわかりませんが、 「十二月朔日(乙子の朔日)」「餅」「川浸り(川流れ)」などで繋がりが伺えます。 例えば、 ・『早稲田商学 281号/早稲田商学同攻会/Dec-1979』 ◇「農耕における民俗行事の研究/植田重雄」<1~56/56>には、 http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/handle/2065/4931 <3/56> 一 正月迎えの準備 長野県の農村部では十二月にはいると、「川ナガレモチ」又は「川越シモチ」といって、 臼と杵の形につくり囲炉裡で焼いて仏壇に供え、これを家族で分けて食べる。 他方、「コトオサメ」といって、十二月八日「コトオサメモチ」を搗いて団子として 神棚に供える。「コトオサメ」は一年間の農耕行事(昔は生活行事)の一切の終了を示し、 「コト」は行事や出来事、農耕生活を「コトサマ」として尊ぶ。神のわざと見るからである。 … などの記述があります。 また、『世界大百科事典第2版』「川浸り」項目(鍛島直)によれば、 「川浸り」…12月1日のこと。「川浸りの朔日(ついたち)」とか 一年最後の朔日という意味で「乙子(おとご)の朔日」ともいう。 この日、餅やだんごをつくり川へ投げ入れる習慣は広く全国にわたっていた。 これを「川浸り餅」「川渡り餅」などといい、 河童に引き込まれないよう河童に与えてやるとか、 これを食べると川でおぼれぬなどという。 中国地方ではぼた餅を膝などに塗りつけると川で転ばぬといい、 関東ではこの日の早朝、子どもが川にしりをつけると河童にさらわれないと伝えており、 水難を防ごうとする意識がうかがわれる。 餅やだんごのほか、小豆、粥、ナス漬などを食べる土地もあるが、 本来これらは水神への供物であったと考えられる。 ちょうど半年おいた6月1日の行事「氷の朔日」に類似する点が多く、 水神との関係が強調されるが、農業暦の上でさほど重要な時期ではないことから、 正月を迎えるに先だち、川で水垢離(みずごり)をとったことに由来するという説もある。 ※水垢離…神仏に祈願する前に、水を浴びて身を清め、 穢れをとり除いて心身を清浄にすること。みそぎ。水行。 あと、天保9(1838)年江戸で刊行された歳時記『東都歳事記/齋藤月岑』の 十二月朔日の項目によれば、下記の記述があるようです。 〔東都歳事記 四 十二月〕朔日 乙子<オトゴ>朔日とて、諸人餅を製し祝<祝>ふ、(中略)今日製する餅を、 乙子のもちといふ、又川浸<カハヒタリ>餅ともいふ、水土を祀るの義ともいへり、 此日餅を食へば、水難なしといへる俗習によりて、武家にてもこの事あり、 交代の砌、海上安全を祀らるゝこゝろなるべし、船宿船頭の家にては、 とりわき祝<祝>ふなり、 参考URL ・『古事類苑[第8冊]歳時部1/神宮司庁古事類苑出版事務所編/神宮司庁/明治』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897571/32 ◇「歳時部一 歳時總載上」(53頁)<32/85> なお、これだけでは、「川流れ」と「川浸し」との関連が曖昧ですが、 例えば◇ GoogleBooks http://books.google.co.jp/ にて「川流れ 朔日」などで検索してみると、 『日本村落史講座 7: 生活II/日本村落史講座編集委員会//雄山閣/1990』では …十二月一日を「川浸りの朔日」とする習俗は関東に多いが、 佐久の志賀村でも「川流れ」 の日として朝水浴びをし、小豆餅を作った。… 『中部地方の民俗地図:第5巻/天野武/東洋書林/1999』 …年中行事というものが、現在急速に消滅していこうとしている状勢の中で、 特に「川浸り朔日」は忘れ去られようとしている傾向が強い。 この行事の名称は、「川流れもち」、「川流れ朔日」のほかに、 単に「川流れ」といっているところもあり、… 『日本年中行亊辞典/鈴木棠三/角川書店/1977』 …十二月一日を川浸りの朔日などという風は、関東およびその近接地方にあり、 その日の餅をカビタレモチ、川流れの餅などというから、 その俗信が乙子の餅に結び付いたものである。 だいたいに、東国の川浸りの朔日に対して、西国で乙子の朔日という傾向が… などの断片情報が得られますから、何れかの書籍原本に当たられれば、 「川流れ」=「川浸り」が裏付けられるように思います。 地域・集団・経緯によっての積み重ねなどの差異もあるでしょうから、 上田市の「川流れ」が何れの意味合いを含むかは存じませんが、 一年最後の朔日に際して、全体でとらえるならば祝事、祀事など 複合的に絡んでいるでしょうし、限定的にとらえるならば 水垢離などの禊ぎに通じるのかもしれませんね。 以上 少しでも解決の糸口に繋がれば幸いです^^
お礼
お礼を申し上げる前にお詫びをいたします もう一つの質問 ”白たき”をご存知の方も ”川流れ”のことも百年前のこととは言え語り草にもならないんだなぁ と諦めていましたら GOOから”投稿から2週間を過ぎました”のメールがあり改めて確認しますと この上なくご丁寧な回答をいただいていたことを知りました。 大変申し訳ありませんでした。 いただいた回答から どうしてこれほど幅の広い知識を持った人がこの世にあるのだろうか と思わずにいられないのですが驚いています。 実は投稿後 知人から”水浸し”ではないだろうか と手紙をいただき どうして人さんはこれほど深い研究をされているのだろうかと只々驚いたあと 同じ指摘だ と更に驚いている次第です そもそもこうした質問をしましたのは 私の住む村内の庄屋が天保年間に書いた ”阿須婦日”=言わば公的といいますか地域が認めた公休日を三十日に決める という文書があります 元日からの三が日に始まり十月の秋休みまで三十日を数え 面白いのはその日の献立を書いていることです 回答をいただいた 志賀村の ”朝水浴びをし、小豆餅を” の水浴びはかなりの覚悟の要ったことでしょう また小豆餅にしても餅を餡で包んだものやら餡を餅で包んだものやら どちらでもいいと言えばそれで終わってしまうのですがそれでは余りにつまらないと思うのです。 質問の”川流れ”は公休日ではなくメモリアルデイの取り扱いであったようすですが 献立は 朝鍋餅 とあります。 よく言われる内緒餅のようにも思いますが実態を故老に聞いても ”わしにゃーわかりやせん”がお答えです。 当時何かにつけて餅によって祝う 餅=最上のハレの献立 でありながら 鍋餅は差別されたようですがその実態もわかりません。 お察しの通り私の興味は献立に向いています。再現できるものなら とも考えるのです。 冒頭の”白たき”の出自ですが再度”白たき”ってなんでしょうかで質問をさせてください ヒントだけでもいただければありがたく よろしくお願いします