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お寺の壁の白い五線は、天皇との関係?
京都のお寺の壁には、白い線が五本入っていることを見ます。 これは、天皇と関係が深い場合だそうですが、どんな関係でしょうか? 門跡寺院?天皇が訪れた? また、二条城でもみます。これも同じ類でしょうか? それとも大政奉還後についた線? 五線以外にも、三本があるそうですが、どこでしょうか?見たことありませんが。 7本もありますか?
- tateyoko555
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>京都のお寺の壁には、白い線が五本入っていることを見ます。 この線は、定規筋と言います。 定規筋がある壁を、筋壁と言います。 >天皇と関係が深い場合だそうですが、どんな関係でしょうか? 京都の寺院では、皇族が出家して坊さんになっていますよね。 俗に言う「門跡寺院」です。 この天皇の血筋を受けている皇族が、出家居している寺の証拠・証明です。 >また、二条城でもみます。これも同じ類でしょうか? 二条城は、徳川幕府の施設ですよね。 天皇さん(と、京都人は親しみを込めて呼ぶ)とは、関係がありません。 家康が築いて(堀は1重)、家光が改修(堀が2重)。その後、幕末まで荒れ放題。 慶喜が撮った写真を見ると、幕府権力の無さが分かります。 で、本題。 筋壁は、朝廷・幕府の許可が必要なんですね。 幕府としても、京都の出張所としての二条城の権威付けに用いたのでしよう。 >五線以外にも、三本があるそうですが、どこでしょうか? ありますよ。 線の数で、寺院の位が分かります。 通常非公開の寺院が多いですが、特別公開時に探して見るのが良いです。 廃仏毀釈で、無くなった寺院もありますが・・・。 ここで回答するよりも、探求して下さい。 多くの場合、5本しか見つける事は不可能だと思います。 「存在しない!」という、京都通も存在します。 >7本もありますか? 5本が、朝廷・幕府から認められた最高位です。 明治維新以前は、存在しません。 ただ、歴史由緒が無い新興宗教組織などでは「デザインとして7本を用いている」場合があるようです。
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