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押し籠もりとは?社会力学のあり方を考える
- 押し籠もりとは、引きこもりの一種であり、現状の社会力学のあり方に対して抵抗し、新しいコミュニケーションのあり方を模索している存在です。
- 押し籠もりや引きこもりは、未来社会の先取りとも言えます。彼らは現状の社会の在り方を乗り越えて、将来のコミュニケーションの可能性を見つめています。
- 押し籠もりは、ヒキコモリを生み出す一方で、ヒキコモリへの理解を促し、新しい生き方の可能性を探求しています。
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- 《押し籠もり》についての批判です。
《日本教=クウキ教》の批判です。 《押し籠もり》。 引きこもりに対して 《押しこもり》。 あるいは 《突っ張り籠もり》。 《押し / 突っ張り》というのは ここで 要するに生活において仕事においてあるいはコミュニケーションにおいて 活発であることを意味します。 ただし 《籠もっている》。 どういうことか? ひとに対して送信はするが ひとからの受信はしない。 発信ではなく ただの送信にしかならない。 でも活発である。押している。突っ張っている。 これは おそらく現状における社会力学のあり方に棹差している状態だと思われます。 《送信》としては いくらでも既成の社会のあり方とその流れに棹差して コミュニケーションを推し進めている。と自分では思っている。 けれども浮いてしまったというよりは そうではなく みづからが周りからの見方考え方を受けつけない。むろん自分の送信している内容と同じであるならば 受け留めている。 半ば鎖国状態のようになっている。けれども 社会力学上 有力な勢力の中に身をおいているかたちであることによって その送信だけの言葉も 或る程度は 人びとによって聞かれている。 また 経済は言わば待ったなしであるから その流れの中に位置するかぎりで 送受信は回って行く。らしい。 ちなみに 《引きこもり》の場合は あくまで 時代の・つまり未来社会の先取りである。 現状の社会力学のあり方に対してすでにそれを乗り越えて 将来のコミュニケーションのあり方を見つめつつ 時代を先取りしている。ただし わづかにそれは 今は陰画としてである。 言いかえると ヒキコモリは 未来社会のネガとして いまは生きている。 KY の場合も同じようである。 現状としての社会力学つまりそれとしてのクウキについては すでにそのような人間的交通のあり方を超えてあたらしいコミュニケーションのあり方を先取りして見つめている。現在のクウキなどは あほらしくて読めない。というところがある。 言ってみれば アマテラス普遍語(科学語および人格語)の問題である。普遍語とは 《あやまち得ない》という看板を掲げているという意味だ。 これが 日本教を――逆立ちにおいて・頭で立つかたちで――成り立たせている。 このアマテラス普遍語を ただしそのきわめて訛ったかたちで 政治(立法)・行政・メディアあるいはその種の企業の世界それぞれにおいて じつは方言として使っている。それぞれの世界の方言をつくって使っている。 KY は その人間的交通のあり方をすでに飛び越えている。そのアマテラス語諸方言は 読めない。読み取れない。読み取らなくてもよいとすでに考えた。 つまり 未来の先取りであり いまはわづかにまだ陽画としては成っていないネガの状態にある。 したがって もしこうだとしたら 《押し籠もり》は一般に意識的に自覚をしてか否かを問わずこのクウキに乗っかってすべて押しでその歩をすすめつつ このようなヒキコモリをむしろ生んでいる。ヒキコモリへと人びとを促す作用を専門にしている生き方になる。 果たしてどうでしょうか? 以上すべてが たたき台です。果たしていかがお考えになりましょうか? オシコモリに負けるな! と言えるまでに現状分析として成っていますか。
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- 哲学・倫理・宗教学
- 《押し籠もり》についての批判です。
基本的にもあらためて批判する必要があると捉え さらにはすでに問うたところの続きとしても 喫緊の課題であると考えました。 これは 意外と 《日本教=クウキ教》の批判になるかと考えています。 《押し籠もり》とは 引きこもりに対して 《押しこもり》。 あるいは 《突っ張り籠もり》。 《押し / 突っ張り》というのは ここで 要するに生活において仕事においてあるいはコミュニケーションにおいて 活発であることを意味します。 ただし 《籠もっている》。 どういうことか? ひとに対して送信はするが ひとからの受信はしない。 発信ではなく ただの送信にしかならない。 でも活発である。押している。突っ張っている。 これは おそらく現状における社会力学のあり方――いわゆる情況ぜんたいのクウキ――に棹差している状態だと思われます。 《送信》としては いくらでも既成の社会のあり方とその流れに棹差して コミュニケーションを推し進めている。と自分では思っている。 そしてこれは いわゆる体制の批判をしても そうだと思われるところが ミソです。 体制から落ちこぼれる場合の思想――生活態度――を単純に倫理規範にうったえて批判をする。つまり要するに きみたちは 怠け者ではないかというような批判です。 けれども浮いてしまったというよりは そうではなく みづからは周りから受け取る見方考え方を受けつけない。じつは 受け取らない。むろん自分の送信している内容と同じであるならば 受け留めている。 半ば鎖国状態のようになっている。けれども 社会力学じょう有力な勢力の中に身をおいているかたちであることによって その送信だけの言葉も 或る程度は 人びとによって聞かれている。 また 経済は言わば待ったなしであるから その流れの中に位置するかぎりで 送受信は回って行く。らしい。 ちなみに 《引きこもり》の場合は あくまで 時代の・つまり未来社会の先取りである。 現状の社会力学のあり方に対してすでにそれを乗り越えて 将来のコミュニケーションのあり方を見つめつつ 時代を先取りしている。ただし わづかにそれは 今は陰画としてである。 言いかえると ヒキコモリは 未来社会のネガとして いまは生きている。 KY の場合も同じようである。 現状としての社会力学つまりそれとしてのクウキについては すでにそのような人間的交通のあり方を超えてあたらしいコミュニケーションのあり方を先取りして見つめている。現在のクウキなどは あほらしくて読めない。というところがある。 言ってみれば アマテラス普遍語(科学語および人格語)の問題である。普遍語とは 《あやまち得ない》という看板を掲げているという意味だ。 これが 日本教を――逆立ちにおいて・頭で立つかたちで――成り立たせている。 このアマテラス普遍語を ただしそのきわめて訛ったかたちで 政治(立法)・行政・メディアあるいはその種の企業の世界それぞれにおいて じつは方言として使っている。それぞれの世界の方言をつくって使っている。(もしくは 二重帳簿ならぬ二重言語)。 KY は その人間的交通のあり方をすでに飛び越えている。そのアマテラス語諸方言は 読めない。読み取れない。読み取らなくてもよいとすでに考えた。 つまり 未来の先取りであり いまはわづかにまだ陽画としては成っていないネガの状態にある。 したがって もしこうだとしたら 《押し籠もり》は一般に意識的に自覚をしてか否かを問わずこのクウキに乗っかってすべて押し 押し 押しでその歩をすすめつつ このようなヒキコモリをむしろ生んでいる。ヒキコモリへと人びとを促す作用を専門にしている生き方になる。 果たしてどうでしょうか? 以上すべてが たたき台です。果たしていかがお考えになりましょうか? オシコモリに負けるな! と言えるまでに現状分析として成っていますか。
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- 哲学・倫理・宗教学
- 《押し籠もり》よ めざめよ!
《押し籠もり》についての――《押し籠もりよ めざめよ!》という――批判を述べます。 1. 《押し籠もり》とは: 引きこもりに対して 《押しこもり》。 あるいは 《突っ張り籠もり》。 2. 《押し / 突っ張り》というのは ここで 要するに生活において仕事においてあるいはコミュニケーションにおいて 活発であることを意味します。 ただし 《籠もっている》。 3. どういうことか? 4. ひとに対して送信はするが ひとからの受信はしない。 発信ではなく ただの送信にしかならない。 でも活発である。押している。突っ張っている。 5. これは 意外と 《日本教=クウキ教》の批判になるかと考えています。 6. これは おそらく現状における社会力学のあり方――いわゆる情況ぜんたいのクウキ――に棹差して行動している状態だと思われます。 7. 《送信》としては いくらでも既成の社会のあり方とその流れに棹差してコミュニケーションを推し進めている。知ってか知らずか そうなっている。 8. そしてこれは いわゆる体制の批判をしても そうだと思われるところが ミソです。 9. 人権を侵害するな! 弱者・少数者を守れ! と主張するのは 情況全体にみづからの生活をどっぷり浸(つ)かった状態にして 押し籠もりをやっている。甘えているを超えている。 10. けれども浮いてしまったというよりは そうではなく みづからは周りからの声を受けつけない。受け取らない。むろん自分の送信している内容と同じであるならば 受け留めている。 11. 半ば鎖国状態――どしどし出すが 入るは要らない――のようになっている。けれども 社会力学じょう有力な勢力の中に――それに反対しながらじつは陰では――身をおいているかとさえ思われるほど《押して》おり同時に《籠もっている》。 12. 経済は言わば待ったなしであるから その流れの中に位置するかぎりで 送受信は回って行く。らしい。 13. ちなみに 《引きこもり》の場合は あくまで 時代の・つまり未来社会の先取りである。 14. 現状の社会力学のあり方に対してすでにそれを乗り越えて 将来のコミュニケーションのあり方を見つめつつ 時代を先取りしている。ただし わづかにそれは 今は陰画としてである。 15. 言いかえると ヒキコモリは 未来社会のネガとして いまは生きている。 16. KY の場合も同じようである。 17. 現状としての社会力学つまりそれとしてのクウキについては すでにそのような人間的交通のあり方を超えてあたらしいコミュニケーションのあり方を先取りして見つめている。現在のクウキなどは あほらしくて読めない。というところがある。 18. 言ってみれば アマテラス普遍語(科学語および人格語)の問題である。普遍語とは 《あやまち得ない》という看板を掲げているという意味だ。 19. これが 日本教を――逆立ちにおいて・頭で立つかたちで――成り立たせている。 20. しかもこのアマテラス普遍語を ただしそのきわめて訛ったかたちのアマテラス方言として作り替え 政治が運営され社会が回っているといううたがいがある。 21. つまりこれに対する反対勢力としてのメディア等々が 押し籠もり作戦に出ているその全体の情況があり それについて そんなクウキは読めないという声にならざる声を発信している。 22. KY は 現状の人間的交通のあり方をすでに飛び越えている。そのアマテラス語諸方言は 読めない。読み取らなくてもよいとすでに直観として思っている。 23. つまり 未来の先取りであり いまはわづかにまだ陽画としては成っていないネガの状態にある。 24. したがって もしこうだとしたら 《押し籠もり》は――体制側にしろ反対勢力の側にせよ―― 一般に意識的に自覚をしてか否かを問わずこのクウキに乗っかってすべて 押し 押し 押しでその歩をすすめつつ ヒキコモリや KY をむしろ生んでいる。 25. 果たしてどうでしょうか? 以上すべてが たたき台です。果たしていかがお考えになりましょうか? 25. オシコモリに負けるな! と言えるまでに現状分析として成っていますか。今年に入って セクハラ反対とLGBT擁護の声が オシコモリの目立った現われではないでしょうか。
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- 哲学・倫理・宗教学
- KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか。
( a ) KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか。 ( b ) ニートや引きこもりは 未来社会への陰画だろうか。 民主制の社会では わざわざ《空気》を読む必要はなく クウキをかたちづくる必要もない。それこそ民主制の雰囲気は 空気のようなものだ。 KY というときのクウキは このいわば白紙であるという意味での空気のさらに上に別の訴える手段を持ちこもうとしたその結果であり その手段じたいであろう。 そのウッタエとは いわば意識の排泄となって現われる。 いろんな意味でのみづからの党派の意向を押し通そうとして 民主的な対話や話し合いという過程にいまひとつ別の手段を持ち込もうとするときの思潮のあやつり手段である。 さいわいこの国には お上には逆らえない・長いものには巻かれろ・寄らば大樹の陰といった《アマアガリ・シンドローム(公民アマテラスへの出世志向)ならびにアマテラス予備軍症候群(アマテラス公民の無謬性神話を無条件に信奉する)》なる風潮がはびこっていて この風潮に乗れば KY としてのクウキも 上昇気流となること請け合いであるようだ。 かくて 先ほどの意識の排泄は ガミガミ電波となって現われ それをアース役が引き受けるかたちとなる。このアース役なる人間のあり方は不当なものであるゆえ クウキを読まない――むしろすでに生理的に読まない――というKYが 歴史的に重要な意味をになって現われたのだ。 たぶん その場合にも KY としてのクウキも読むことだけは読んでおいたほうがよいはずだが 読んだ結果として KY という現象が起きても構わないし 起きたほうがひとは よりいっそう自由である。 また ニートや引きこもりなる現象も同じように アース役からの人間性にとって正当な造反である。 人間の人間による人間のための未来社会構築の過程のひとつである。またそれは もし仮りに疾患だとしても 明らかに社会源病である。 おのおの《わたしがわたしする》という自己の文体の確立のためであり そうであるが いまはまだその負の姿(陰画のようなかたち)で現われているのであろうか。やがて陰画の現像が陽画と成って現われて来るであろうか。
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- KY は 草の根民主制への第一歩ではないか。
KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか 民主制には わざわざクウキを読む必要はなく クウキをかたちづくる必要もない。それこそ民主制の雰囲気は 空気のようなものだ。 日本人にあるまじきKYだ と言ってそれを読めという意味でのクウキは このいわば白紙であるという意味での空気のさらに上に別の訴える手段を持ちこもうとしたその結果であり その手段じたいであろう。 いろんな意味での党派の意向を 民主的な対話や話し合いという過程の中に持ち込み人びとに飲み込ませようとするときの思潮やまた圧力と感じられもする雰囲気のことである。 この国には お上には逆らえない・長いものには巻かれろ・寄らば大樹の陰といった《アマアガリ・シンドローム(公民アマテラスへの出世志向)》が人びとの心の中に見られる場合がある。 あるいはそのアマテラス公民のおこなうことは《あやまち得ない》という無謬性の神話が浸透していて アマテラス公民を無条件に信奉するという《アマテラス予備軍症候群》がしばしば見られる。 これらの風潮がはびこっている。 この風潮を読まないというKY は 未来社会への旗手である。 たぶんその場合にも KY はダメだと言われるときのクウキはそれをも読むことだけは読んでおいたほうがよいはずだが 読んだ結果として KY という現象が起きても構わないし 起きたほうがひとは よりいっそう自由である。 ご見解とご批判をたまわりたく。 なお最後にですが あらためて定義です: ○ KY の定義 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 広い意味での会議において 会議としての意志決定をするときに 言論をとおしてというかたちを超えて おもにヨリ高い権限を有する者の意向を人々がすでに汲み取って ――必ずしもまだ発言されていなくとも噂で流されているところの 意向をすでに汲み取って―― 多くの参加者の意向がそれになびいているとき そのような同調という風潮を意に介さない傾向および志向性。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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- KY は 草の根民主制への第一歩である
民主制には わざわざクウキを読む必要はなく クウキをかたちづくる必要もない。それこそ民主制の雰囲気は 空気のようなものだ。 日本人にあるまじきKYだ と言ってそれを読めという意味でのクウキは このいわば白紙であるという意味での空気のさらに上に別の訴える手段を持ちこもうとしたその結果であり その手段じたいであろう。 いろんな意味での党派の意向を 民主的な対話や話し合いという過程の中に持ち込み人びとに飲み込ませようとするときの思潮やまた圧力と感じられもする雰囲気のことである。 この国には お上には逆らえない・長いものには巻かれろ・寄らば大樹の陰といった《アマアガリ・シンドローム(公民アマテラスへの出世志向)》が人びとの心の中に見られる場合がある。 あるいはそのアマテラス公民のおこなうことは《あやまち得ない》という無謬性の神話が浸透していて アマテラス公民を無条件に信奉するという《アマテラス予備軍症候群》がしばしば見られる。 これらの風潮がはびこっている。 この風潮を読まないというKY は 未来社会への旗手である。 たぶんその場合にも KY はダメだと言われるときのクウキはそれをも読むことだけは読んでおいたほうがよいはずだが 読んだ結果として KY という現象が起きても構わないし 起きたほうがひとは よりいっそう自由である。 ご見解とご批判をどうぞ。 なお最後にですが あらためて定義です: ○ KY の定義 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 広い意味での会議において 会議としての意志決定をするときに 言論をとおしてというかたちを超えて おもにヨリ高い権限を有する者の意向を人々がすでに汲み取って ――必ずしもまだ発言されていなくとも噂で流されているところの 意向をすでに汲み取って―― 多くの参加者の意向がそれになびいているとき そのような同調という風潮を意に介さない傾向および志向性。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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- 哲学・倫理・宗教学
- 観念の運河を《クウキ》なるゴンドラはきょうもゆく
《クウキ》論のこれでもかこれでもかです。 というよりは 先にこの質問を問うてそのあと《 KY 》の主題を問うべきでした。 この問題が広くみなさんの視野に入ることを欲して再度問います。 * 玄関を一歩出ると そこは 運河である。 人びとの いや われわれの頭の中に深く穿たれた観念の水路網。 まづは ゴンドラを誂えなければならない。 船をうまくあやつれないと 通行はむつかしい。見えざる交通法規。 ゴンドラは 何を載せているか? いや ゴンドラが 何で出来ているか? クウキですって? いやでも吸わざるを得ない空気のことですか? ええっ? クウキで出来たそれぞれの船。 ところが その船の材料であるクウキは 一人ひとりがあつらえるのではなく すでに千年二千年も昔から仕立て上げられて来たお古である。 お古のお仕着せ これが われらが運河の通行手形であり うるわしきゴンドラである。 * では このクウキは 何で出来ているか? 思うに マクロとして アマテラス公民の無謬性〔なる神話としてのクウキ〕であり ミクロとして 上司のガミガミ電波であり いづれからも ややもすると 《意識の排泄》が交じって出ている。 《主権者たるスサノヲ市民 ‐ 公僕たるアマテラス公民》という二階建てから成る社会が 国家という社会形態の構造として 逆立ちしてしまった。一階よりお二階さんのほうがえらい。それが アマテラス公民の無謬性なる神話であり そういうクウキとしてゴンドラをかたちづくっている。 官僚や政治家は 間違いを侵さないというお仕着せの船であり 実際にかれらが犯した間違いを知っていても これを口に出してはいけないというのが 通行手形の中身である。〔ここのところ この神話は 崩れて来ただろうか?〕 この逆立ちした《アマテラス‐スサノヲ》連関制のもと その上下関係に似せて形作られているのが 《上司‐部下》の関係である。 しばしば送られてくるガミガミ電波は やみくもに発する意識の排泄をともないながら その観念の運河としては・そこを通行せずばなるまいという部下のあたまの中には けっきょくみづからがアース役となって この電波を受け止めざるを得ないことになる。 スルーすることも出来なくないが そうすると このミクロの・ミニ《観念の運河》は いつまで経っても 同じ絵柄しか写しださない。 まじめな人は アース役となって受けとめ 少しでも運河の水をきれいにしようと努める。 あるいは問題は ガミガミ役にかんしてその自分ひとりの昇進のためや地位の保守のためではなく その電波を会社のためという心つもりで発信するときである。 会社がつぶれたら 元も子もないというところから――いかに人間であることを守り人格をとうとぶ人であっても―― その電波の命ずる仕事を引き受けなければならないと考える。そういうゴンドラの歌もある。 一般に 資本主義の問題である。 かくて 観念の運河を クウキなるゴンドラは今日もゆく。 * 現代の哲学を つのります。
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- 国家のアウフヘーベンを!――いまでしょ。
1. 感性と理性を伴なった或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。 2. イリなる歴史知性すなわち 《世界〔内存在〕への入りをおこなう知性人》 この種の人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。 3. ヨセなる超歴史知性すなわち 《世界を押しなべてその知性によって束ね寄せるスーパー知性人≫ この種の人は まぼろしに取り憑いた。 3-1. その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよ その《いと高き者》に似て来たとき――きわめて人間的な人間になったとき――周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。それは 程度問題なのだと澄ました顔をしている。 3-2. ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。 4. このアマテラス種族でもあるヨセなる超歴史知性が 世の中のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったときスサノヲらはとうとう根競べに負けて 《くにゆづり》をした。 4-1. ふつうのイリ歴史知性のスサノヲ市民らがムラムラでおこなう《まつり》は ことごとく第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。 4-2. かくて 《アマテラス公民‐スサノヲ市民》連関制の完成である。くにのいへと言う。家というからには 構造があり 二階建てである。 5. 《ひかり あるいは まぼろし》は どうなったか? 5-1. 《ひかり ないし まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 人びとの発言にも・つまりそれぞれの自己表現である誰の発言にも 本音と建前とがある。 5-2. あるいはさらに 二枚舌の問題がある。人びとのあいだで利害の一致がむつかしいとすればその限りで 必然的に現われがちである。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。 5-3. それは 広くマ(間・間合い)の問題である。人びとのあいだのそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方を問題としうる。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。 6. さて 大政奉還――国家のアウフヘーベン――のもんだい。 6-1. 大政奉還の問題は 《 A (アマテラス公民)‐ S (スサノヲ市民)》なる連関制 としてのマのあり方を問う。 6-2. 第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガヒをめぐるその正し方 こういった問題である。 6-3. 端的に言ってこのマの問題は おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしている ということではないか? そしてそこから マチガヒがつねに起こり得るのではないか? 6-4. 細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガヒが生じるであろうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられる。けれども問題は そもそもは 《 S (大政主権)- A (従属)》の連関 だったものが A圏主導の《 A主導 - S 従属》連関として逆立ちしているというところにあるのではないか。 6-5. つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。 品行方正なるその人格は むしろただ理念に合わせただけのものではないか? 6-6. イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。 6-7. こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えられる。超歴史知性として ふつうの歴史知性の上をアマガケル振る舞いに出た。お二階へのアマアガリをおこなった。 6-8. つまりそれが アマテラス普遍語(つまり科学語および人格語)であるが これは実際には アマテラス語方言とよぶべき言語類型である。神聖にして侵すべからずという無謬性の神話に包まれている。クウキである。つまりそのクウキとしての神話につつまれなければ チカラを発揮しえないからである。 6-9. つまりはその無謬性の神話から必然的に現われると言っていいところのダブル・スタンダード現象である。 6-10. ゆえに普遍語をよそおうところのアマテラス語方言であるに過ぎないと言いたい。訛っていなくても 舌が二枚 使い分けられている。アマテラス科学語は資料等において部分的にしか表に出さない。アマテラス人格語は ウラとオモテとを使い分ける。 6-11. これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 無謬性を帯びさせようとするアマテラス神話なる反措定に対するための反措定であるから 肯定的な綜合であり 人間のふつうの存在(知性)の復権(ルネサンス)であると考えてよいのではないか? 6-12. これが 逆立ちする《 A (アマテラス)主導‐ S (スサノヲ)従属》連関制としてのマチガヒからのマの回復であり つまりは ムラムラの主権の実現としての大政奉還である。 7. これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。のかも知れない。 7-1. 時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス語方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。ウラで何をやっているか分からないばかりである。そして 経済・財政的にも立ち行かなくなった。 7-2. アマテラス公民の無謬性なる神話がくづれた。D.トランプ現象? 7-3. この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか? 7-4. A - S 連関は 社会形態として国家のことであるのだから 現代においてこの逆立ちの逆立ちは じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか? 7-5. 国家ゆえに領土問題と戦争と経済戦争があるのだ。――かな?
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- 外から来るアヤマチ:ミラー・ニューロン現象
ここでミラー・ニューロン現象とは: 相手( A )の・特に疚しいと感じている思いや行動を こちら( B )があたかも自分という鏡に映して 多少ともその内容を表現してしまうこと を言うとします。 ヤマシサだけに限らないのですが いまはそれをあつかいます。 そのヤマシサは 一般に・漠然とになりますが 相手もこちらもそう思っているという意味とします。つまり 定まらないのですが そうだと思っていること自体は 事実としてあるというかたちです。 このとき こちら( B )が侵すあやまちについては あたかも相手( A )の代わりにおこなっているということであり ならば多少とも水割りのようなかたちで あやまちの度合いがうすまっているとは思われます。 けれどもこれは つまり A と B との間において あやまちについての共同自治なのであると考えることが出来るかも分かりません。 アヤマチであると同時に 共同自治の一環である。そういう見方です。 さて 一般にコミュニケーションにおいて 相手がけんか腰でやって来たら こちらもけんか腰になって わたしは 応対していました。いまも色濃くそれは のこっています。いつになったら こういったミラー・ニューロン現象は 静まっていくのでしょうか? このミラー・ニューロン現象を 自分の中で 避ける・しないと決めた場合は あり得ます。 それは あやまちうるスサノヲ人間語にもとづくのではなく あたかもそこから去って もはやあやまち得ない〔と冀った〕アマテラス普遍語――アマテラス科学語(真実)およびアマテラス人格語(倫理規範)――の世界にのがれる場合です。 この普遍語アマテラス方言をたくみに駆使し得る場合というのは 神聖にして侵すべからざる権威が 人びとによって着せられます。 このアマテラシテ( amatérasité; amaterasity; Amaterasität )なる権威のもとに生活するなら ミラーニューロン現象は 避けることが出来るかも分かりません。 けれども そのときには このミラーニューロン現象を起こした相手( A )をどう扱うかと言えば じつは しばしば ウラで処理をする。ということだと思われます。自分( B )の手は汚さない〔恰好をよそおう〕。 つまりは アマテラス普遍語は だからこそ 普遍語アマテラス方言であるとも言いましたし 見てもいます。 このときひとつのみちびかれる結論としては 問題が 成るべくあやまちうるスサノヲ人間語にもとづき・これから離れないで できるかぎり主観を共同化しうるアマテラス科学語およびアマテラス人格語としての普遍語を用いる。ここにあることになるかと考えます。 ミラーニューロン現象を 《スサノヲ人間語 - アマテラス普遍語》なる構造的なコトバをつうじて 生け捕りにするような方向へとすすむこと。これが 求められるものと考えます。 具体的な事例が出しにくかったのですが 取り敢えずここまでをつづって 当否・成否その他批評・批判を問います。自由なご見解をお寄せください。
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- 哲学・倫理・宗教学
- アマテラス普遍人格語のつまづき
1. まづは S 語 と A 語 (?) わたしたちは どの言語にあっても ふたつのコトバを使い分けているようです。 《スサノヲ( S )人間語》: ・ 身と心から成る自然本性そのものの自己表出〔としての言葉〕 ・ 感性の原野を開き ほどほどの理性を持ってしゃべる言葉 ・ 人間のつねとして あやまち得る思考を容れた広い度量の言葉 《アマテラス( A )人格語》: ・ 身と心なる自然本性を 心ないし精神において捉え相手に向けて 心に或る種の構えを成して自己表現しようとする言葉 (自己表出を ととのえ練り上げ磨き上げさらには飾り上げる) ・ 感性の原野をどちらかと言うと抑えて 理性によって思考の緑野 を開発する。その成果をもってしゃべる言葉 ・ その思考は あたかもあやまち得ないと見なされた《格》を持つ ・ かつてはオシヘとして神格化され 神聖にして侵すべからざるも のと見なされた 2. アマテラス人格語は 普遍科学語を開発している。 すなわち思考の緑野として 言わずと知れたアマテラス科学語の世界を打ち建てた。 誰が認識しても 同じ内容となるというその《個々の主観真実の共通性》 これである。この共同主観が 普遍なる神のごとくであると 時には 見なされた。 3. アマテラス普遍語は 人格語を倫理規範とし これを科学語で根拠づけた。 普遍科学語で彩(いろど)った衣裳としての人格語を着たならば そこに《あやまつべからざる人間像》が出来上がると踏んだ。いわゆる理念の信仰も始まる。 4. かくして アマテラス普遍語文化の君臨となった。 のではないだろうか。 5. このアマテラス語の隆盛が つまづきの石である。 6. なぜなら 自然本性にして普遍たるスサノヲ人間語を貶(おとし)めたつけが回って来ている。 7. スサノヲ人間語は 殊にその感性の原野たる領域において もののあはれを知ったかのごとく こう語る。 ・ 《ひとは 他人(ひと)の自由意志をないがしろにしない。 こころをとうとぶ。 《他人のおよび自分のいのちをないがしろにしない。 《わが自由意志がその自由度において横道に逸れ そこに おける思考が人間をにくみこれを傷つけようと・あるいは殺 そうと思ったりすることはあるが なぜか そうはしないもの だ》。 8. ところが アマテラス人格語は うったえます。 スサノヲ自然感性語の宣言を ・《なんぢ ころすなかれ / むさぼるなかれ》 というふうに規範化しようと。おそらく このこと自体にすでに問題があります。問題が――社会にあって生きることが―― 理性の領域に移行したからです。あたまで逆立ちして町を歩こうと言い出した。 9. あるいは 同じように比べてみようと思えば: スサノヲ人間語は 心の奥にあってこのように言葉を言い出そうとします。 ・ 《われは 心の奥底なるヒトにとっての思いとして 時に身に勝手に起こるやましさ(恥づかしさ)反応を受け留め 恥ぢを知るわが心にすなおにしたがい よくおのれの自由意志を用いよう》 と。これを アマテラス語理性は―― 一般にガミガミ規範ないしアマテラス語理論として――言い換えます。 ・ 《すなおになりなさい。 わがままはいけません。 恥づかしさは 隠しなさい。 ウソをつくのは わるいことです。・・・》 10. すでにアマテラス普遍志向にもとづく《アマアガリ》主義は 行き詰まったのではないだろうか? 思考の緑野と言えども 理性のみによってその普遍語の世界に閉じこもらざるを得ないような規範性を帯びているかぎり このあたまデッカチは つまづきの基となる。 《オシヘや規範あるいは理念》をあたまに抱きながらしか おのれの思考や互いの対話を成し得なくなっている。感性の原野が なおざりにされてしまっている。 11. それだけではなく アマテラス人格語は 感性スサノヲ語を捻じ曲げてしまうくせがついてしまった。次のように語るようになってしまった。 ・ 《すなおだと人に見られれば 何かとよいことがあります。 どれだけわがままを通したいと思っていても わがままだと受け取 られてはいけません。 あたまを使いなさい。 ウソは ウソとバレては いけません。 上手につくのですよ。 また バレたなら うまく振る舞って あなたの秘書や部下の所為に しなさい。 ・・・》 12. アマテラス語は 普遍語が ただの方言にしか過ぎなくなってしまった。 ただのアマアガリのための・それを飾るための・そしてそれを保守するためのアマテラス方言にしか過ぎないほどである。 何ともひどい訛りを身に着けてしまった。ダブル・スタンダードはお手の物というほどに へそが すでにひん曲がってしまったではないか? どちらかと言うとスサノヲ語の側である野党党首が アマテラス語の舌を二枚三枚すでにあつらえて用意していた。それがとおった。 ☆ これを問います。 いまは 転機か? もしそうなら あなたはどうすればよいと考えるか?
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お礼
これはこれは ここまで賛成の一票を投じてくださるとは まだまだ早いと思っていましたので ぎゃくに少々面喰ったほどでした。それに 質問を挙げてから二日も経っていますので そろそろ引き上げようかとも思い始めていたところです。 くつるつむどさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。じつは ヒキコモリやニートは 社会が原因で起こる現象だとか KY は 未来社会の第一歩だとか そういう見方はすでにして来ていたのです。ここでは 《押し籠もり》 これがあらたな視点です。 これを 打ち出したいと ふと思ったものでした。 お一人でも賛同していただけるなら さらに推し出したいとも思うのが 人情のようで わたしもその例に漏れないみたいです。つまり うれしいです。 【Q:ニート・引きこもり・あるいはうつなど精神の傾向は ふつうの社会現象であるに過ぎない。】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6242183.html 【Q:KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6117420.html ★ そうですね。とても興味深い考察、楽しんで読ませて頂きました。 ☆ いえいえ。でも 《楽しんで》というところが いちばん うれしかったです。 ★ 押しこもりは引きこもりを醸成する苗床…という意味に感じました。確かに全ての場合においてそうかはわかりませんがわかります。面白いですね。 ☆ たしかにおっしゃるように 《苗床》だと思います。まだまだ にわか仕立てだったのですが 行けそうだと思いつつあります。 ★ 確かに全ての場合においてそうかはわかりませんがわかります。 ☆ ここんところは さらに詳しく規定して行かねばなりませんね。 ★ クウキに関してはアホらしくて読めない…確かに人間成長の機会を促す事も有るので全てがアホらしいと言ってしまって良いか?はわかりませんが ☆ ここも同じくですね。精確にですね。 ★ コミュニケーションやクウキに関して日本ではちょっと偏りのある場合(利己的な都合上必要とされる)が多く感じられる気がしますがいかがですか。 ☆ おおよそその特定の場ごとに ボスはいると思います。在席していなくても そのボスの意向をになった人物がいると思われます。そして しばしば自分の都合が どこまで通るかに挑戦していると見えるほど 厚かましい場合もあるようです。 そこで こう規定しています。 ○ (アマテラス-スサノヲの連関制) ~~~~ 1. 一般に《上司( A )-部下( S )》の関係を アマテラス( A )-スサノヲ( S )連関と言う。 2. 社会の成り立ちとしては 一階スサノヲ市民圏‐二階アマテラス公民圏 の連関制である。 3. この《一階‐二階》の連関制に似せて 職場などなど仕事や生活の場で 上下関係がかたちづくられている。 4. 一般に《お上意識》が 人びとの思いや考えを覆っていて それこそが クウキとしてそれぞれの上下関係の枠組みを成している。 5. A‐S 連関制とは 心的現象としては一般に《ガミガミ電波‐アース役》の関係である。アマテラス役の者は 往々にして 自分の腹の虫の居所にしたがって その意識の排泄をおこなうかのごとくである。アース役はつらいよと 寅さんでなくても 言わなくちゃならない。 6. やがて アマテラス公民圏は みづからすすんで 主権の存するスサノヲ市民圏に 大政奉還を申し出て来るのではないか? もうじゅうぶん好きなようにあそんだのだと思います。千五百年ほど。 7.・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~ こんなことを考えてみています。 いい人もいると思いますが なにせこのクウキなる社会力学は 個人の自由なウゴキをゆるすかどうか。微妙だと思います。 決して 文書や行動でよくないことを言ったとかおこなったとかではない場合も多いと思います。それが クウキによる事の運びでありましょうから。したがって このわれらが日本の社会は クウキという観念の運河が 掘りめぐらされ 縦横無尽に張りめぐらされている。のではないでしょうか。つまり アマテラス圏発行の――見えない――《我れはクウキに従う》という通行手形が必要である。必要であった。 これまでこのクウキ文化――あえて こう言いましょうか――を推進するのは ただアマテラス公民なのだと思っていましたが スサノヲ市民のあいだにも この《押しこもり》なる現象によって 《〈伝統〉を守る》人びともいるのではないか? こう思ったのが この質問です。 ありがとうございました。