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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:「存在の空無性」という事について)

存在の空無性とは?

kadowakiの回答

  • kadowaki
  • ベストアンサー率41% (854/2034)
回答No.11

No.8、9、10です。 >1.末那識ではなく、阿頼耶識なら《依他起性》ではないと思うので、阿頼耶識こそが「私」である、とは考えられないのでしょうか? >それとも、阿頼耶識も《依他起性》なのでしょうか? いいえ、「阿頼耶識」については、「全ての存在」が「無自性」にもかかわらず、どうしてわれわれには実体性に裏打ちされた実在であるかの如く思われてならないのかを追究していった結果、「全ての存在」が原因・結果の相互作用(縁起)でしかないことに思い至り、こういう根本識の基本性格に照らしてalaya vijnana(蔵識)と呼んだわけです。 ちなみに、ヒマラヤというのはhim(雪)alaya(蔵)という意味だそうです。 ただ、「阿頼耶識」が「蔵識」だと言っても、決して静態的にイメージしてはならず、第4頌では「阿頼耶識」は「恆転如暴流」(恆に転変してやまない点では激流の如し)と喩えられているように、《原因(種子)⇒結果(現行=次の現行の原因としての種子)⇒次の現行……》の無限の縁起そのものとお考え下さい。 >2.私は、「存在」のあり方としては、「物質」のような存在のほかにも、例えば「引力」などのような「力」も、物質的な実体はなくても現に存在していると言えると思うので、物質ではない阿頼耶識も、立派に存在していると言えると思うのですが、・・・。 失礼ながら、質問者さんはいわゆる《実体論》に囚われすぎているかもしれませんね。 唯識やその思想的な基盤をなす中観思想については、たとえて言えば、数十年前にようやく西洋で唱えられ始めた《脱構築》哲学が今から約1500年前の段階ですでに体系化されいたものだとお考えいただけませんか。 当然ながら、唯識によれば、「物質」も「無自性」、つまり「実体」ではなく、やはり心識に囚われての《遍計所執性》(=虚妄分別)にすぎません。 「3.」、「4.」についても、同様にお考え下さい。 なお、「阿頼耶識」が「存在している」かどうかについては、同じ唯識派でも《有相唯識派》(存在するという立場)と《無相唯識派》(存在しないという立場)に分かれています。 >「実体」を物質以外のものも含めて広く解釈すると「私」には「実体」がある事になるが、「実体」を物質だけに限定して狭く解釈すると「私」には「実体」がない事になる。 >それは詭弁でしかないように思われます。 質問者さんは、もしかして「全ての存在」が識であるといったところで、認識主体としての「私」が識に囚われていることと捉えてはいらっしゃいませんか? 唯識では、認識の主体(能取)はもちろん、客体(所取)も同じく識の産物、虚妄ということになります。 私も素人ですので、舌足らずの説明しかできませんが、「私を含めた全ての存在」が《実体》でも《実在》でもないことについては、『唯識三十頌』をお読みになる前に、問答形式でロジカルに展開されている『唯識二十論』をお読みなった方がより分かりやすいような気がします。

toto77japa
質問者

お礼

何回も、丁寧なご説明を下さいまして、誠にありがとうございます。 『唯識二十論』も読んでみようと思います。 いろいろと、ありがとうございました。

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