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青臭い質問ですが・・・
無とは何か? という質問を見てなんとなく思いました。無は僕らが生きている間(死んでからはわからないのですが・・・)ないんじゃないのか。ということです。 なぜそう思ったのかと言うと「我思う、ゆえに我あり」だから全てを消し去っても自分が残るじゃん。とかそんなことを思ったのですが、でも果たしてその自分というのが、果たして本当に自分なのかという疑問を思ったわけです。 だからと言って、自分はなんなのか? と問いたいわけじゃありません。こうやって「自分」と書く「言葉」自体が自分なのか?と思ったわけです。 言葉がなかったのならば、「我思う」自体も無しなるわけで、(思うという行動が言葉を駆使しているからだと思います)じゃあ言葉が現実なのか? と問えばそれも違うと思うからです。(僕は言葉で物を認識しているわけですが、言葉がなくても何かは存在している。それが例え僕に認識できなくても僕じゃない人から《神様から?》見たら物はあると思うからです) では無とは何か? 自分が死んだら無になるのか。とも考えたのですがそれも違うような気がします。(というか、死んだ経験がないのでわからないのです) みなさんはどうも思われるんでしょう? 無とは自分がなくなってしまうことなんでしょうか。 もしそうであるならその認識している「自分」は「言葉」ではない自分なんでしょうか。
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お礼
回答ありがとうございます。自分の本質に帰るですか。なるほど。うーん、無というものをホント、みなさん様々に感じているのだということがわかって面白く感じました。