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私が認知していないものは存在しているのでしょうか?

私が認知していないものは存在しているのでしょうか? 私が認知していないもの(実際に見たことがないもの)は存在していると言えるのでしょうか。例えば私は海外渡航経験がないのでハワイに住んでいる人やそこにある物、そもそもハワイの島自体も実際に見たことがないわけで、TV等で見て、「確かにあるらしい」というだけで、実際に存在しているかどうかは自分が確かめない限りわからないですよね?もしかしたら自分の認識している世界だけがこの世界なのではとも思ってしまいます。 最近、ふと浮かんだ疑問なんですが、これは哲学と言えるんでしょうか。。。 わからないですが、皆さんのご意見お待ちしております。

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  • ベストアンサー
  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.6

定義の問題じゃないでしょうか? 例えば、質問者さんをぐるり360度取り囲んでる宇宙は、存在しているかどうか? と見たときに、いちいち認知してる人はまずいないと思うんですが、それならないのだろうか? それを、在ると決めるなら、あるでいいし、ないと決めるなら、無いで良いはずです。論理的に。 客観視、ふかんの視点を、どう扱うか? かもと思います。 ここをどう受け取るかで、無の視点と、有の視点の分岐点になります。 どちらを選んでも、それはそれで、すべてを解釈しきれます。なので、2つの見方が重なったこの世界、とも言えるかも知れません。 ざっくりすぎかもしれないですが。 これ以上あまり考えてないので・・ この話と、シベリアで人知れず木が倒れた、とか言う話しとは、またちょっと違いますよね。

nya-ha
質問者

お礼

>在ると決めるなら、あるでいいし、ないと決めるなら、無いで良いはずです。 >ここをどう受け取るかで、無の視点と、有の視点の分岐点になります。 >2つの見方が重なったこの世界、とも言えるかも知れません。 確かにそうですね。 2つの見方が重なった世界。なんかしっくりする気がします。 ご回答ありがとうございました。

その他の回答 (18)

noname#144995
noname#144995
回答No.19

文字訂正です。 住んで切る→住んでいる

nya-ha
質問者

お礼

ありがとうございました。

noname#144995
noname#144995
回答No.18

私はあると思いますよ。季節風でも、世界中を巡って自分の住んで切る地域まで到達しています。ハワイに吹いた風が、押し寄せた波の断片が、日本にも到達しているのですし、人々の声も、国際交流となって反映されています。 そういう主旨ではないでしょうか。

nya-ha
質問者

お礼

ありがとうございました。

  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.17

こんなスレたてること自体がわかってる証拠です。 知らないふりの知ったかぶりごっこも楽しい遊びですよね。 ただ単にお勉強してるだけより、こういうほうが楽しいですからね。 潜在的なちょっとのこっそりの遊びは、参加型ツールのだいご味なん でしょう。 真面目なんですからね、アマガッパさんは。

nya-ha
質問者

お礼

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.16

【私】が【認知】していない〈像〉は【〈像〉として存在】していません。 〈概念〉は〈像〉の永続を暫定的に約束し、〈像〉を【時間的な存在】とするので、 【私】が【〈像〉として存在】していると【認知】しているにもかかわらず【概念を認知】していない場合、 〈像〉を何度も知覚して確認しないと、【〈像〉として存在している約束】がありません。 あるいは、【私】が【認知】していない〈像〉について【概念を認知】している場合、 すでに【認知】している〈像〉と〈像〉との関わりから、【認知】していない〈像〉は【類推して存在】しています。 これらの【存在の認知】は、【現実という何かのありよう】に触れずに形成されます。 わかりにくかったら、自我を持った天才蟻さんとスリッパや、同じく自我を持って呆けの進んだ老蟻さんと砂糖粒、などにあてはめてみてください。 蟻のことでなく形而上的に考えたかったら、ラカンを参考にしてみてください。

nya-ha
質問者

お礼

ありがとうございました。

回答No.15

これは人間原理に近い考え方なのでしょうか。 それはそうとして、ハワイは、存在します。私は行ったことがあります。 あなたにとっては、TVで見て、写真で見て、人に聞いたハワイが存在します。仰るとおり、あなたには実物のハワイは存在しません。 存在は、突き詰めると、自分と宇宙という視点から、宇宙がどこに存在するのかという話となります。 宇宙が完全に自分の外側にあって客観的観察対象であるなら、自分がいようがいまいが、宇宙は厳然と存在していることになります。この場合、ハワイは、自分とは関係なく存在します。 自分がいないのにその存在を認識するわけはないのすが、考え方としてはそう言うことです。 もう一つは、宇宙は自分の中に存在するという立場です。この場合、自分が認識していないものは、存在しません。ハワイという言葉すら聞いたことのない人にとってはハワイは完全に存在しません。仮にその人が実際にハワイを見たことのある人から、その存在を聞いた場合でも、それを聞いたハワイが存在するにすぎません。そして、ハワイが存在する人にとっても自分が消滅すると同時にハワイも消滅することになります。この場合、人によっって、ハワイが存在したり、存在しなかったりしますね。 前者はどちらかというと科学、後者は一部の哲学でしょうか。 どちらも正しくどちらも間違っていると思います。なぜなら、どちらも正しい部分があり、どちらにも欠陥があるからです。 でも、自分から見れば、宇宙を存在させているのは、自分なのですから、ハワイだって存在させるのは自分なんですよね。

nya-ha
質問者

お礼

ありがとうございました。

  • kerota3
  • ベストアンサー率0% (0/2)
回答No.14

「自分が実際に見たり行ったりしたことのある範囲 = 自分で現認して認知した世界」 だと思います。 また、「自分が実際に見たり行ったりしたことのないもの」 でも 他の人が実際に見たり行ったりして確認した情報が、広く出回り、多くの人に認知されて いるものがあります。 自分以外の人が認知した情報を信じるか信じないかはその人の自由ですし、全てが正しい情報とも 限らないでしょう。 更に言えば、あなたが過去に現認し認知したものであっても、現在それが確かにあるかといえば、 在るものもあるし、変化しているものもあるでしょう。 人間は、体が一つしかないので現認出来る範囲が限られてしまいます。 しかし、他人の認識を情報として共有することにより、認識の範囲を広げることが 出来ます。 これは人間のもつ素晴らしい能力の一つだと思います。

nya-ha
質問者

お礼

ありがとうございました。

回答No.13

 その認知主格が、全創造界を蔽う存在であれば、その存在の認知内容と創造界の存在内容に食い違いはないでしょうね。  そうでなければ、普通の人はなにかと自分の認知以外からの来訪者(事物に)に驚いたり、翻弄されるのではないでしょうか。

nya-ha
質問者

お礼

ありがとうございました。

  • asaq
  • ベストアンサー率35% (6/17)
回答No.12

すごく意外です 現時点での回答者のほとんどがハワイは存在していると考えてるんですね >私が認知していないものは存在しているのでしょうか? 存在していません >私が認知していないもの(実際に見たことがないもの)は存在していると言えるのでしょうか。 存在していると言えません >最近、ふと浮かんだ疑問なんですが、これは哲学と言えるんでしょうか。。。 哲学の王道だと思います この問題は非常に深い問題だと思います まずは存在とは何であるのか? 辞書を引くと そん‐ざい【存在】 [名](スル) 1 人間や事物が、あること。また、その人間や事物。「神の―を信じる」「歴史上に―する人物」「クラスの中でも目立つ―」 2 《being; (ドイツ)Sein》哲学で、あること。あるもの。有。 (1)実体・基体など他のものに依存することなく、それ自体としてあるもの。 (2)ものの本質としてあるもの。 (3)現実存在としてあることやあるもの。特に、人間の実存。 (4)現象として主観に現れているものや経験に与えられているもの。 (5)判断において、主語と述語とを結合する繋辞(けいじ)。「sはpである」の「ある」。 なかなかややこしいですが簡単に言うと「ある」ということですね (そのまんまやん・・・・) では「ある」とは? 何をもってある?ない?なんでしょうか? 答えは、「ある」と認識すれば「ある」わけです 主観です この世のすべての存在はあなたの主観でしかないということです 「客観視してみろ」という言葉があります 他からみたらどうなってる?ってことなんですが 他から見るとか出来ません 私の目は体にくっついてますから 客観視するとはつまり 他から見たらどうなのかということについて自分が考えるというだけです 実際に他から見ることは不可能です 何が言いたいのかというと Aさんに「Bさんの立場になって考えてみればBさんの気持ちが分かるだろ!」 と言われてもBさんの気持ちは分かりません 分かるのは「Bさんの立場になって考えてみたAさんの気持ち」だけです 存在するかもしれないBさんの気持ちはAさんの主観だけでしか認識出来ない 客観も主観でしか理解できない(それはすでに主観でしかない) だから主観が認識した物以外は存在していません 認識していないものを存在すると言いきるのはただの思い込みです この問題をどこまでも展開していくと 今見えている物も夢じゃないとなぜ言いきれる? と言う感じになってやがてすべての認識していた物が実は存在しないのかもしれない となります しかしそういったことを考えている私自身は存在しているのではないか? だって存在してないとこの考え自体が生まれないから、だから 「我思う故に我あり」となります でも自分が行っていたと思っていたその思考も 何者かがプログラムした単純な言葉遊びだったら? もう自分さえ存在しませんよ しかし逆に言うと存在しないとも証明できないんですよね だから存在なんてあると思えばあるんですよ ないと思えばない 存在なんて思い込みなんです だってこの世は主観が作り出した世界なんですから もし存在を確かめる方法があるとすればそれは 主観から抜け出すことなんでしょうね でもこれってめちゃめちゃ矛盾してます すいませんそろそろ寝ます^^;

nya-ha
質問者

お礼

ありがとうございました。

noname#123390
noname#123390
回答No.11

有意な案件は黙っていても個から一般へ向かいます。 偉大な思索は大抵がこのようなものです。 ”我思うゆえに我あり”などですね。 この我がすでに一般になっています。 ひるがえって あなたの思索は逆に個から個の中へと勝手にシュリンクしていって、 しかも傲慢にもそれを一般化しようとしている。 中国のように勝手に膨張して他者を飲み込みながら野放図に自己を主張しっぱなしなのも迷惑ですが、 貴方のように 収縮しながらその小世界を外の世界に同化しようというのもどうかと思います。 ハワイは間違いなく貴方の外に存在しますよ。

nya-ha
質問者

お礼

>あなたの思索は逆に個から個の中へと勝手にシュリンクしていって、 >しかも傲慢にもそれを一般化しようとしている。 確かにそうです。それは一方で自覚しています。 >ハワイは間違いなく貴方の外に存在しますよ。 本当にそうでしょうか?

回答No.10

存在自体に切り込む前に、三つの世界(ひとつの世界の三つの境界)を考えてみませんか。 1.観察可能世界 2.認識可能世界 3.(いまだ)認識すらできない世界 目の前に築1300年の法隆寺金堂が有ります。 貴方の観測可能世界は、すでに1300年の風雪に耐えた古い木造建築です。 でも、築1300年ということが分かったので、貴方の生まれる遥か以前、大昔に、大工が法隆寺金堂を建築している過去世界を認識できませんか? 認識できるとすれば「その過去世界は存在する」ということが受け入れられますね。 では、質問者さんが1歳の時、「大工が法隆寺金堂を建築している過去世界」を認識できたでしょうか。 できなかったと思いますよ。1歳の赤ちゃんでまだ理解力がなかったですからね。 あたたが1歳のときに「大工が法隆寺金堂を建築している過去世界」は存在しなかったが、2010年現在は「大工が法隆寺金堂を建築している過去世界」が存在するということになりますね。矛盾しているでしょう。7世紀ごろの事ですからね。 ですから、3.の「貴方が(いまだ)認識すらできない世界が存在する(過去世界の場合は存在した)」と考えるのが正しいでしょう。

nya-ha
質問者

お礼

>貴方の生まれる遥か以前、大昔に、大工が法隆寺金堂を建築している過去世界を認識できませんか? それができないのです。 私は過去のその出来事を実際に見たり聞いたりしてないわけですから。。。 >貴方が(いまだ)認識すらできない世界が存在する(過去世界の場合は存在した) これにはとても納得できます。 ご回答ありがとうございました。

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