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イランイラク戦争のとき
アメリカとイラクは仲良くなりましたが、ソ連とイラクはどうだったんですか
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本音はともかく仲良くなりました。 ソ連とイラクは1972年に友好・協力条約を結んでいましたが、1977年頃からイラクのソ連離れが起こります。 イラクがソ連の言いなり、衛星国になる事に我慢できなかった模様です。 それまでイラク軍はソ連製武器を主力としていましたが、この頃よりイラクはフランスなどの西側の武器の取得を始めます。 イラクがソ連離れを始めた具体的な例としては西側製武器の取得の他に・・・ 当時、アフリカのエチオピアではエリトリア地方が分離独立運動をしており、それを叩くためにエチオピア政府は武器をソ連に供給してもらっていました。その武器を空輸するためのソ連機の上空通過をイラクは拒否しただけでなく、エリトリアに武器まで提供しました。 さらには1978年にイラクはイラク共産党の弾圧とイラク軍内部の親ソ派共産党員の逮捕も行います。 ソ連が求めていたイラク国内へのソ連軍基地設置も拒否し、首都のソ連大使館がイラク政府の建物内の会話を盗聴しているとして、ソ連大使館の移転まで行います。 さらにはソ連のアフガニスタン侵攻を非難します。 このイラクの態度に、とりあえずソ連はイラクとの関係修復に動き、ある程度の協力関係は取り戻します。(ソ連のアフリカ諸国への支援政策をイラクも助けるとか、ソ連のイラクへの武器供給など) しかし、1980年にイラクは「凡アラブ民族憲章」をアラブ諸国に提唱します。これは、アラブ諸国は紛争解決のために武力行使をやめる。その領土内における外国軍、外国軍基地の存在を拒否するなどというもので、非同盟路線、ソ連離れと受け取れるものでした。 これがイラン・イラク戦争開戦直前のイラクであり、友好・協力条約は結んでいるものの必ずしもソ連と友好的な親密状況にあるとは言えない状況でした。 そして戦争になりますが、イラクは一部の装備を除いて武器の大半がソ連製です。その弾薬や部品、補給物資が必要となります。 これをイラクはソ連に求めますが、ソ連は当初、全面的な供給はせず、限定的なものにとどめました。 これはイラク国内の共産党を弾圧したり、ソ連の外交政策に反対したり、アラブの自立を促す動きをして、ソ連離れの姿勢を見せていたイラクの態度を変えさせるためであり、再びソ連寄りに戻すためです。武器、弾薬が欲しければ、ソ連の影響下から離れるな・・・と言ったところでしょう。 なお、ソ連はイランの方にも接近しています。 イラクのソ連離れ、イランのイスラム革命によるアメリカとの関係悪化で、新たにイランに大きな影響力を持とうとしたもので、イラン・イラク戦争開戦初期には、ソ連はイラクよりもイラン寄りの立場を取っていました。 しかし、イランはソ連の影響下に入る事を拒否し、イラン国内の共産党を弾圧、ソ連のスパイ網も摘発します。これによりイランをソ連の勢力圏に取り込む事を諦めたソ連は、イラクへの支援に重点を切り替えました。 また、この頃、武器、弾薬の補充に苦しんだイラクが一層、西側への接近を見せ、さらには友好・協力条約があるにも関わらず、大規模な支援をイラクに行わないソ連に対して、それまでソ連寄りだった国々に、ソ連に対する不信感が出てきます。イランへの働きかけがうまくいかない事もあり、ソ連はイラクへの大規模な武器供給を再開し、イラクをソ連の影響下に起き、ソ連寄りの国々の信頼を取り戻そうとしました。これが1982年末の事ですから、戦争が開始されて2年経った頃の事です。 つまり戦争が開始されて2年までは、友好・協力条約があったにも関わらず、ソ連とイラクの関係は一応協力関係にあるとは言え、とても親密で友好とは言い難いものがありました。 そもそも、この戦争においてソ連とアメリカの態度は、イランとイラクが大国化するのを防ぎ、この戦争で国力を消耗しきって、もっと自分の国に頼らざるを得ない状況になる事を待っていたというところです。 なお、アメリカとイラクについてですが、戦争初期からイラクと仲が良かったわけではありません。 1967年の第三次中東戦争以来、アメリカとイラクは国交断絶していました。 イラン・イラク戦争が始まった時も国交断絶しており、戦争が開始された頃はアメリカとイラクは仲が良くありませんでした。 それが変わって来たのが1982年頃です。 イラクは当初、この戦争は短期決戦で勝利するつもりでしたがイランの底力にそれは失敗します。 最初の頃はソ連からの支援も十分に貰えない事から、停戦したいと思い1982年には無条件に和平会談に臨む事を了承します。この動きをアメリカは認めイラク支持に動きます。 以後、アメリカとイラクの関係は、ソ連がイラクに冷たかった事もあり改善されていき、イラン・イラク戦争開始から4年経った1984年11月に17年ぶりに、イラクとアメリカの国交が回復されました。そしてアメリカのイラク支援の政策が進んでいきます。 つまり、アメリカとソ連がイラクに援助したのは影響力競争と言えるものです。 ソ連はイラクへ援助してソ連の勢力圏に留めようとし、アメリカもイラクに援助してイラクをソ連の影響下から引き離そうとしました。
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- foitec
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>冷戦のときにアメリカとソ連がどちらも全く同じ国を支援していたということに違和感を覚えます 理由はANo1さんが示した通りです。 ソ連はかねてから親ソ政権であったイラクにあらゆる方面で協力し85年の時点で192億ドルの武器を輸出するなどイラク最大の援助国でした。、 (つまりはイスラム革命前の親米パーレビ王朝は仮想敵であったから。) さらには国内へのイスラム革命の飛び火も恐れて、 (ソ連は同時期にアフガニスタンへの侵攻を行っている点も注意、その後ソ連撤退してアメリカが介入) イスラム革命後のイラン国内では新米から一気に反米運動が盛りあがり、イスラムの親米諸国にイスラム革命精神の拡大を恐れたのです。 この時忘れてならないのは トルコが在留日本人を救出のために命を懸けてくださったことです。 トルコ航空の自国民救援のための最終便を2機に増やしてくれたので、215名の日本人がそれに分乗して期限ぎりぎりで出国(脱出)することができたのです。 このとき自国民よりも日本人の救出を優先し、実際この救援機に乗れなかったトルコ人約500名は陸路自動車でイランを脱出したのでした。
- kusirosi
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王制廃止後、1967年にアメリカと国交断絶後、ソ連と関係を深め アラブ社会主義バアス党の一党独裁体制となると1972年にソ連と友好条約を締結、 アメリカの援助で近代化を勧めた王政イランと対照的に、 イランイラク戦争のころは数百億ドルのソ連製兵器供与を始め、 最大の援助国として、イラクを支援していた。 ソ連の中央アジア諸共和国にイスラム原理主義や民族主義が 広まらないように、アフガン派兵と共に社会主義体制守護の防波堤と したのである。
補足
冷戦のときにアメリカとソ連がどちらも全く同じ国を支援していたということに違和感を覚えます
お礼
あまりにも詳しい説明ありがとうございました。大変よくわかりました