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「一期一会」は人に会う機会だけ?出来事の機会も「一

「一期一会」は人に会う機会だけ? 出来事の機会も「一期一会」と言う? 「もうこの人とは会うことはないだろう。だからこの瞬間を大切にしよう」 と思うのは一期一会と言えますが 例えば、高校最後の体育祭に出ることを 「もう高校の体育祭はこれで最後だ、これは一期一会だ。 だからこの瞬間を大切にしよう」 と言うように、出来事に対しても「一期一会」と言う四字熟語を使うのは正しいでしょうか? ご回答よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • thegenus
  • ベストアンサー率49% (330/673)
回答No.8

言葉を吟味するのは面白いですね。 そのブログでしょうか。引用詭弁ですよ。気付かないのでは、茶の湯の良客と同じ権威志向かも。さらには質問サイトよりもそのブログの作者の方が説得力がある? まず参考にされるべきリンクの内容は。 ************* >「井伊直弼(1815~1860)の『茶湯一会集』より 「そもそも茶の交会は一期一会といいて、たとえば幾たび同じ 主客と交会するも、今日の会は再び帰らざることを思えば、 実にわれ一世一度の会なり」 ************* ここまです。その前後は勝手な拡張や修正です。 どこに体育祭とあるのですか?「そもそも」なんだと書いてある引用ですか。語源を正しく引用するんですよね。納得ですか? 語源を部分的に変えたらもはや語源ではなくやすでに転用ですよ。 >「同じ主客と交会するも」 ここも語源ですよね。体育祭の主客は誰ですか? 井伊直弼の解釈を茶の交会以外にも適応したら正しく井伊直弼の解釈を引用できていません。「茶湯一会」集の「一会」です。六字にできれば「一期(茶湯)一会」ですよ。ここでもリンク先でも引用しながら都合よく拡張して転用しています。適応範囲の拡張は許されるんですか。また一瞬一瞬にまで縮小されるんですか。 おまけに、井伊直弼の一期一会自体を、千利休の精神というのも間違いだったのですね。井伊直弼の解釈がすでに間違っているんです。仏教では多いと思いますが、後世の信者が言葉の意味を変えて広めた一例になります。利休の弟子の精神でさえありません。しかも弟子の言葉は師匠の精神を表していません。「一期に一度の会」は出会いや瞬間を大切にする言葉でもありません。語源を言ったらですよ。 井伊直弼がどれほどお目出度い解釈をしているかは、誰が「一期一会の茶会」と感じているかに注目すれば一目瞭然です。 そんな細かい語源はどうでもいいよ、と思うなら、他の部分の語源もすべてあきらめないとご都合主義です。引用の悪用、引用詭弁になります。 それは引用したところで結局、都合よく合わせたり削ったりしているのに変わりありません。 国語カテですのでもう一度よく主語と述語を考えて引用文をお読み下さい。 そもそも一期一会といい、実にわれ一世一度の会なり、です。井伊直弼はそもそもと言っていますので語源になりません。間違った意味の語源を広めた第一人者をさらに間違って引用されていませんか。 一期一会はもともとぜんぜん良い意味ではありませんでした。弟子は師匠より先に鼻と耳をそがれて殺されているようですが、この弟子が言い出し一期一会の具体的内容とその目的はなんですか?「普遍的に参加者である相手を思いやる意味」ではありません。語源は茶道家の商業的な言葉です。そこらへんを、質問者さん、よく調べられた方がいいですよ。現代で言えば「安かろうマズかろう」です。商人側が客を洗脳するための言葉が「安かろうマズかろう」と「一期一会」です。「そもそも」の語源はそうです。井伊は権威主義的に偏向して「一期一会」の意味を美化しています。つまり得心したつもりでいる井伊自身も騙されている客人なのです。 この言葉がらみで登場した千利休とその弟子と井伊直弼は三人とも殺されています。この三人は権威として、人の心をつかむ極意を説きながら、実践的に、本人は他人の心をつかめずに殺されるほど誤解されたのです。誰よりも矛盾していますね。しかし殺されても語源である発言内容とは矛盾していないのです。人生ではなく、茶の湯の極意だからです。極めて限定的な語源なのです。 ★ですから語源とは関係ない仕事や体育祭まで適用すると矛盾が出てきます。その適用はあきらかに拡張語源に基づいています。どうせ拡張するのならば、会なら何でもあり方面の体育祭ではなく、死を覚悟するところまで拡張する方が語源的に正しくありませんか。 現実的に死を伴ってしまった縁起でもない言葉でもあります。人権も抗生物質もない時代です。日本でも餓死者のいる時代です。死が前提の時代だから人が簡単に死ぬというその説明はないんですよ。実際殺された三人にまつわる言葉です。 私の一つ前の回答の時点でもう述べていますが省略や背景を無視したらダメだと思います。そして語源にまでさかのぼって納得する時は、その語源の条件を無視したらご都合主義の語源になります。殺された井伊直弼も「一世一度の会なり」と言っていますしね、その語源は軽い意味の言葉ではありません。 そもそも「一期(一世)」の意味を現代的に軽くとらえたらありがたい言葉ですかね。「一会」の方ばかりを盛り上げる人が多いようですが。 念押しとして、先述のリンクですが、井伊直弼の「内容」の前後は井伊の解釈ではありませんからね。井伊は茶の湯について述べています。わーいわーい、忘年会の事ではありません。話が変わります。

jkkjrerew
質問者

お礼

ありがとうございました。

その他の回答 (7)

  • Pinhole-09
  • ベストアンサー率46% (597/1294)
回答No.7

添付 URL に面白い解釈が載っています。 勿論井伊直弼の解釈が当時の精神であったとしても 世の移り変わりで異なる解釈もあるのは当然でしょう。 言語は認識の共有化の為産まれたものですが、 「一期一会」のように奥深い言葉は人により認識が 異なっても止むを得ません。 この「会(え)」は人の集まり、行事を表すのが本来で すから「体育祭」に使うのは問題ありません。 佛事の集まり、祭りから来たそうです。 勿論現在では「会う」と見て個人に会う時に一期一会を 使うのも正しいと言えます。 ただ一度きりと思われる時も、何度もある時でもこの 精神は必要です。

参考URL:
http://popys-world.cocolog-nifty.com/psblog/2007/03/post_85c4.html
jkkjrerew
質問者

お礼

リンク読みました。納得しました。ありがとうございました。

  • phobos
  • ベストアンサー率49% (515/1032)
回答No.6

> 出来事に対しても「一期一会」と言う四字熟語を使うのは正しいでしょうか? 私も、正しいと思います。 「一期一会」の言葉の意味は 『(茶会の心得から。利休の弟子宗二(1544~1590)の「山上宗二記」に「一期に一度の会」と見える) 生涯にただ1度まみえること。一生に一度限りであること。「―の縁」』【岩波書店 広辞苑第五版】 で、確かに「一生に一度きり」ということですが、この言葉の使い方としては、ANo.3のご回答にある、 > ただ、「これは一期一会だ!」なんて宣言するのは、変な言い回しだと感じます。 > 「もう高校の体育祭はこれで最後だ。一期一会の思いで、この瞬間を大切にしよう」みたいな使い方でしょうね。 に私も同感です。 つまり「『一期一会』の言葉は、本当に一回きりしか無い「人との出会い」やイベントを指す場合にしか使えない」という解釈は、間違っているとは言えないが、この言葉の本来の成り立ちから言うと、何かヘンでは無いかと私も感じるのです。 この言葉は、本来は、何度も繰り返される出会いや出来事に対してこそ使われる言葉なのではないでしょうか。 つまり、ともすれば慣れ切ってしまい、ダレておざなりな対応になりがちな時に、 「たとえ同じメンツであっても、何度も繰返される同じ内容であっても、その一回一回は一生に一度しかない機会なのである。だから手抜きをしないで毎回真剣に取り組もうではないか」 と喝を入れる意味で「一期一会の思いで取り組もう」と言う形で用いるのが、言葉の成り立ちに沿った本来の使い方だと思います。

jkkjrerew
質問者

お礼

ありがとうございました。

  • thegenus
  • ベストアンサー率49% (330/673)
回答No.5

私はこういう勿体つけたサービス業は嫌いですが、一期一会はサービス業者の言葉にふさわしいのです。一期一会の背景を考えなければ、文字通りのただの四つの文字です。単に文字通りならばこれほど普及するに至りますかね。 四字熟語が文字通りになりますと…… 【一石二鳥】 一個の石と二羽の鳥。ほのぼのしている意味になります。 【馬耳東風】 なんでしょうか。原始人の壁画でしょうか。 「風吹かば 一石二鳥の 庭掃除」(自作) 「小春日に 馬耳東風の 美術館」(自作) 春、百姓が自分の田に水を引いているの見て、 「我田引水」は正しいですか。 「君たちにとって体育祭はこれが最後だ。一期一会の体育祭だ!」はギャグになりかねません。 なぜ、千利休にとって、一生に一度の茶会になるかというと、集るメンツが変わるからです。茶会を開くのは、集ったメンツのためなんです。つまり茶会の意義や価値は、相手があっての議論なのです。懐石料理の精神も同じだと思います。 むしろ茶会という概念を人から独立させて論じる事こそが後世の人が始めた学問的芸術論なのです。ましてや、利休の言葉を言語学的に解釈しても意味を成しません。利休は茶会の仕切り役を命じられて予算(報酬)を得ていたプロです。 語源はいうなれば(千家流の)茶会に関する用語です。それが、茶会の枠を超えて、一般性を持つに至るわけは、普遍的な精神性を説いているからですね。字面どおりに茶会ごとの会の固有性を説いているのではありません。 道の一貫性を説いているのです。一期一会は本来単発で応用されるべき言葉ではないです。自分が専門としている事に対して、一貫している姿勢を表現しているのですからね。参加者側が単発で使う事こそが転じた使い方です。 言葉は自由に使われていいと思いますが、他の人が読んだり聞いたりするものです。質問の試みはその始まりでもありますよね。気の利いている慣用句を自分の意味で使いたくなりますが、そういうことなら似た言葉を自作した方が無難です。その創作が面倒ならば一般的用法に観念すべきではありませんかね。 四字熟語は字義の総合だけで意味が決まるとは限りません。長い表現や見えない背景を省略して、四字です。濃縮されているから便利なのであって、そのまんまなら中国風にしただけになります。 例えば快刀乱麻を字義通りに、もつれた糸を切る時に、使っても間違いとは言えませんが、言葉だけカッコよくて、その使い方がオヤジギャグみたいに野暮ったいですね。比喩など含みをもつ四字熟語が、状態そのまんまを表現する四字の言葉に過ぎなくなるのでは、何もその四字熟語を使わなくてもいいのではありませんか。意味もなく、ただその言葉を使いたかった、と読み手に思われます。 一期一会は一朝一夕のスタイルを真似たのでしょうね。意味は背景の方にあると思います。一球入魂なんてのも漢字変換されますね。これは字義通りに使えます。一夫多妻や家内安全はそのまんまの意味で用いる四字熟語です。一期一会は違うと思いますね。 【八方美人】 元の意味は非の打ち所のない完璧なルックスの意味です。でも言われて喜ぶ女性がいますか。「八方美人(元の意味)」と四字熟語を補足するくらいなら最初から別の表現にした方が言葉数が少なく済みます。 八方美人はもはや完全に相手の性格に対する悪い評価ですね。一期一会も、心を問題にしていますが、文字だけでは、その意義を見つけられません。四字熟語は表題のような物です。 月とすっぽん。ひょうたんから駒。犬も歩けば棒にあたる。慣用句をそのまんま使ったらギャグです。 【不立文字】 「禅家不立文字の教へを盛んにして、天下の人民文字を忘るるに至らば如何。(福沢諭吉『文明論之概略』) 」 「千家一期一会の教えを盛んにして、天下の国民目的を忘れるに至ってはいかん!(と思います)」

jkkjrerew
質問者

お礼

ありがとうございました。

noname#180427
noname#180427
回答No.4

thegenusuさんの答えが、面白くて正解だとおもいます。(笑) 「もう、この人と会うこともないかも・・・」 そう思い向き合う覚悟が、「一期一会」でしょう・・・。 そこいらの瑣末な出来事に「一期一会」は、ありません。

jkkjrerew
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。

  • key00001
  • ベストアンサー率34% (2878/8340)
回答No.3

> 出来事に対しても「一期一会」と言う四字熟語を使うのは正しいでしょうか? 正しいし、本来はその意味です。 語源的には、  一期:人の一生  一会:一回の(茶)会 です。 もともとは 「人生において、『全く同じ』と言う茶会は無い。 だから『一生に一度の茶会』と言う思いで、毎回を自分に出来る最高のおもてなしをしよう。」 と言う『茶道の心得』です。 これが転じて、「人との出会い」も「一期一会」と言う様になりましたが、現在ではコチラが主になっている様ですね。 「茶会」の「会」と、「(人に)会う」の「会」が同じだから、こういう変化が有ったんでしょうか? いずれにしても、「明日また会うから使えない」では無く、仰る通り「この時を大切にする」と言う言葉であり、語源的にも「会合」を指す言葉ですから、体育祭でも一期一会は使って良いですヨ。 ただ、「これは一期一会だ!」なんて宣言するのは、変な言い回しだと感じます。 「もう高校の体育祭はこれで最後だ。一期一会の思いで、この瞬間を大切にしよう」みたいな使い方でしょうね。 因みに、 アップル社のS.ジョブズさん「今日が人生最後の日だとしたら、私は今日する予定のことをしたいと思うだろうか」 葉隠「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」 なども、同じ様な境地の言葉ではないかな?と思います。

jkkjrerew
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。

  • thegenus
  • ベストアンサー率49% (330/673)
回答No.2

質問者さんに言われて気付きましたが確かに躊躇すべき用法です。 お察しの通り、使えません。ダメです。一年生の体育祭には絶対に使えません。高三でも翌日会うなら使えません。卒業式でも卒後会うならだめです。一期一会の卒業式で、同窓会の予定を話していたら矛盾です。 「一期一会の茶会でございます」は使えます。参加者と今後、会う事が決まっていない場合やそれを意識して望む場合は。 明日死ぬかもしれないという意味なら全てに使えます。 「一期一会の体育祭にしよう」 「ばか言え明日も会うだろうに」 「一期一会の結婚式にしたい」 「しっかりしてよ、これから一緒に暮らしていくのよ」 「一期一会のエベレストにしようぜ」 「冗談じゃない。生きて帰るんだ」 一方、これは茶会と同じで、毎日乗っているバスガイドが言っても正しいです。 「今日も一期一会のハトバスツアーです」 これは二人以上で天体観測していても今後その人と会う可能性がないと言いたい場合だけ正しいです。 「一期一会のハレー彗星」 人との関係であって、会の自体の珍しさではありません。毎日毎日、茶会や体育祭をしていてもいいのです。参加者と後日、会わない、という意味で使うのならば。 ★そもそも、なぜ機会が一回かというと相手が死んだり別れ別れになってそれっきりになるからなのですよね。相手とそのつもりの会にするという意味ですよ。まったく同じ会は二度と再現できないという意味ではありません。 参加者との今後の関係を考えずに、使わない方がいいです。一期一会の会は、相手ともう会わないかもしれないから大切にする会という意味です。ラフな慣用句としては、会わないと言いたい時です。

jkkjrerew
質問者

お礼

今後会う人場合には使わないほうがよさそうですね。ありがとうございました。

回答No.1

必ずしも「人に会うこと」に限らないでしょう。 「会」という言葉が用いられているので「人に会う」とイメージされやすいのかもしれませんが、この「会」は「会う」ではなく、「茶会」など「人が集う」の意味の「会(え)」だと思います。 もともとは「茶会に臨む時」の心得として、「同じ茶会は二度と無い、この茶会は一生にたった一度の茶会なのだから、そのように心得よ」ということで使われた言葉だったはずです。 高校の体育祭を例に挙げておられますが、どちらかといえば、三年生の時の「これが《最後の》体育祭」という感慨を表わすというよりは、各学年で経験する体育祭は同じように思えて、実は毎年違うもの、一生に一度きりしかない、その学年での体育祭だという感慨を表わすものだと思います。 一年生の体育祭も「一期一会」。二年生の体育祭も「一期一会」です。

jkkjrerew
質問者

お礼

ありがとうございました。

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