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F・ニーチェの「善悪の彼岸」の一節について
どなたかお詳しい方にF・ニーチェの「善悪の彼岸」69節の難解アフォリズムの解釈をお伺いしたく思います。ちなみにそのアフォリズムは・・・ 「いたわりつつ殺す手を見たことのない者は、人生をきびしく見た人ではない。」 ニーチェ一流の逆説であろうかとも思われますが・・・。
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- tsufujifuji
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私も皆さんみたいな難しい事は、わかりません。 しいて言えば、いたわり…自分の弱さを隠すこと。 殺す手…自分の弱さを知り自分をいまわしめること。 人は、自分の弱さゆえ、弱さが受け入れられないから、強がり他人の上に立とうとする。自分は弱くなんかないって。 他人の上に立つとは、他人を非難したり、はずかしめたり、暴力をふるったり 自分を自慢したり、人を泣かしたり、搾取したり。 自分の弱さをしっつたものは、もう他人を傷つけない。もう傷つける必要が無くなる。 強がる必要がないのだから。だって弱いんだもん。 ただ、自分がしてきたことに後悔する。きびしく見るとはこの後悔のこと。 と私は思います。 それに自分の弱さをに認めるって大変な事でした。 嘘ばかりなこの世の中。弱虫。くやしかっつたら自分の弱さぐらい認めやがれ。 嘘つき。嘘つき。嘘つき。
ああ,神よ,何故に弱きものに美徳など与えたもうたのか. 弱きものが求めたのは,生への乖離などではなく,生への力 だというのに.何故にその手を差し伸べたのか. 我々が最も憎むべきは,生きる意志を弱めようとする,モラル であり,生への執着を離れようとする文化であり,完全であり 完璧なる神々の住むイデアである.また,あるいは生を弱体化 させる,社会であり,ヒエラルキーに於ける,恒温的な衰弱で ある. 人間が如何にして,人間的な自立を可能にしたか.それはかつ て,地にねじ伏せられる様な環境にあって,そのうえにも,寒 さに耐え,強風に虐げられながらも,強固な信仰の地盤に足を 踏ん張り,如何にしても生きようとする,生への意志があった からではないか. 人間的に,余りに人間的に,力強く,如何なるときであっても 必然的に生きようとする,力への意志を前にしたとき,完璧な る神々のイデアでさえも,幻に等しいと思えるのである. おお!若者よ.生きようとする者は,死を恐れてはいけない. 神を信じる者は,死を恐れなどしないのだから.神に救いの手 を求めてはいけない,求める者は,神を信じてなどいないのだ. さあ,行くがよい.強固な信仰と歴史に踏み固められた地盤の 上を.そして低く垂れ込めた,秘かな毒のある空の下を. 柔らかなるものに縋ることなく自力で歩むのだ. あまりに人間的な解釈ではありますが.ニーチェの言うことは, さっぱりです. (´ω`;)
- hanniyagi
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心の反対が知恵であり、自己の感情や欲望の総体としての、心、は自覚されるが。 自己と関係ない事、自然の法則性、などを考える能力としての、知恵、は自覚、されない。 自分には、知恵がある。と自覚出来る人間はいない。知恵×心=一定 であり。 知恵を育てる為には、心を小さくしなければいけない。というのは、中学、いやそれ以前からの 私の理念でした。 若い頃、心を捨てよ、の思想は、知行合一、心に従うのではなく、知恵と行動を一致させよ。 の陽明思想と、「我は心を無味する者、ツァラトゥストラである」のニーチェしか知りませんでした。 それ以前から、ニーチェの言葉は、箴言的、と言われるように、答えは合っているが、考え方、 がない。論語、似ている。自分の考えではなく、人の思想の受け売り、借り物の思想、 ではないか?疑問がありました。 そして30代の半ば、心を捨てよ、の本家は、釈迦、である事を知った時。 なんだ、ニーチェのツァラトゥストラは、釈迦の猿、だったのか。と思いました。 自分の知恵ではない、人の考え方に取り憑かれると、発狂に至る可能性も考えられ、 ニーチェの発狂は、脳梅のせいばかりとも言えないのではないでしょうか。 西洋の風土で育った者が、心を捨てよ、神は死んだもういない。と表現するのは、結構大変な 事なのです。 「いたわりつつ殺す手を見たことのない者は、人生をきびしく見た人ではない」 「人間の価値はいかなる的を持つかによって決まる」と敵(イエスキリスト)を評価、持ち上げながら、 神はいない、と主張する、自分の心との矛盾、葛藤、なのでは? (神を)いたわりつつ、殺さねばならない自分の手(思想故の行動)を見た事のない者、は人生をきびしく見た人ではない。 当たらずとも、遠からず。なのて゜は。
- danchou1981
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本当に詳しい訳ではないのですが、解釈ならと歴史的観点から回答させてもらいます。 わたしは逆説ではなくそのままの意味と捉えています。 善悪の彼岸が発行された1886年当時妹のエリザベートが反ユダヤ主義者と結婚しています。 この事から見て憶測ですが、出版される前にエリザベートとにより何らかの葛藤がでてきたのではないでしょうか。 元々誤解されがちですが、ナチズムが形成される前から反ユダヤ主義は存在していました。 ニーチェ自身ポーランド人の血が流れている事を誇りに思っていた節もあったようですし、ドイツ国家が優れているのはポーランドの血が多くながれているからだと言っています。 この事からみてニーチェが献身的な愛国者だったとわたしは思っているのですが。 ですのでニーチェが反ユダヤ主義に対して憤りを感じていたのはこの事も関係しているのではないかと思うのです。 ニーチェが生きた人生にはユダヤ教解放の時代と重なる点も多々ありますし。 傍観者として迫害を無視するような人民も多かったと思います。 これを踏まえると「いたわりつつ殺す手を見たことのない者は、人生をきびしく見た人ではない。」という一説を少し理解した気でいるのですが・・・わたしは浅はかなので断言する事はできませんが、いかがでしょうか?
お礼
ニーチェの親ユダヤ的な面を表したものだとお考えですね?なるほど・・・。 わざわざありがとうございました。
- bakansky
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人を労るのだから良い行為だと思ってるようでは、人生を真剣に生きようとしている人ではない、といった意味かと思います。 「人を労る行為」 は、普通は 「善意」 に基づく行為だとみなされる。しかし、それは人の 「生命力」 を弱める行為であり、だから 「殺している」 ようなものだ、という表現ではないでしょうか。 キリスト教道徳にどっぷりと浸かっていては、見えるものも見えないよ、というニーチェからのメッセージといえるかも。 それ以上の専門的なことは、私には分かりませんけれど・・・
お礼
ニーチェの君主道徳の表現という解釈も可能なわけですね。 わざわざありがとうございました。
お礼
なるほど、神の死と結びつける解釈ですね? わざわざありがとうございました。