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次代のシステムは?
大ざっぱな質問で申し訳ありません。 資本主義 新自由主義 に対して、 次代のシステムを考えてみたいと思います。どんなところから手を着ければ良いかも解らない状態ですが、 皆さんのお考えを色々と聞かせていただければ幸いです。
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こんばんは。政治体制や経済システムの上で「~主義」「~ism」が成り立つかといえば疑問を感じます。 なんとなれば、これらを支える根底には「対峙する相手」が必要だからです。それが例の9.11及びそれに続くイラク・アフガン戦争を契機として「枠組みのあり方」そのものを問うことに力点が移行していることも一因としてあります。もし一つの考え方として成り立つならば「圏」という捉え方もその一つとして適しているようにも考えられます。
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交わす言葉がないと僻まれると気の毒なので、再度投稿してみます。伊鰻太さんと話していると、不思議だなと思うことがあります。お書きになった言葉を解釈して、「~~とおっしゃっているんですね?では、私は――と思います」と話を転がすと、――まぁ話を転がすのも労力がかかりますが、終わりかけたなと思ったところで、不意に「いや、自分は~~という意味では言っていない」という話のされ方が多いという気がします。こうなると会話している相手は脱力してしまいます。私に限りません。他の方の欄を見ていても、同様の印象を受けました。これはわざとなのですか。それとも、単に、ご自分がおっしゃったことをあまりお考えになっていなかったということなのですか。今回、伊鰻太さんは次のようにおっしゃる。 >政治には、無学の者が関わってはいけないのでしょうか? なんで若い頃からより分けなければならないのか、まったく解りません。 私もまったく、同意見ですよ。が、私の前のお礼欄には次のようにお書きですね。 >教育で生み出すエリートには実務者として官僚の道を歩んでもらい、政治は政治家として選ばれた人間が責任をもって行う。なんのことはない、今の制度と変わりません。政治家を選挙で選ばないという一点以外は。 選挙で選ばないで、どうやって選ぶのか。伊鰻太さんの書いたものを読むと、どうも身分制度のようなものなのかと思えてきます。 >まず無条件で「政治階級」の成人男子に議決権をあたえ国会を構成する。その中で選挙を行って元老院を構成する。またその中で選挙を行って内閣を構成する。 かくして、「政治階級」=貴族の子弟だけが政治に関与した世を望んでいるのかな、と思えました。こうなると、政治には専門家以外関わってはならない、ということになるでしょう。私はそれを批判していたのであって、賛成しているわけはないのです。まったく分からないとお書きでしたが、本当に、大雑把な議論の流れも分からなかったんだろうなと思いました。なるほど、こうなると、何かさみしいものがあります。 私があえて教育制度の話を持ち出した理由は、伊鰻太さんが「ゆるい」という風にもおっしゃっていたからです。れっきとした上下関係ではなく、棲み分けだとも仰っていた。だから、ことによったら、貴族というようなヒエラルキーではなく、政治家になりたいという子供は政治家にするというような形をとるのかもしれない。が、選抜方法を民主的な形に工夫したところで、うまくいかないだろう、と言っていたわけです。 しかし、おそらく、全く別の伏線を考えて、お書きだったのでしょうね。伊鰻太さんにしてみると当たり前すぎてお書きにならなかったのかもしれないが、私はそれが、伊鰻太さんの文章から読みとれなかったわけです。 でも、これくらいにしておきましょう。伊鰻太さんと交わすが言葉ないという意味ではなくて、個人批判はしたくないので名は上げませんが、私も苦手な方がいるのです。この方は禅問答のようなことをして時間を潰していると思えるのですが、徹底的に相手を挑発して返事せざるを得ない状況に追い込んでくるので、私は疲れ果ててしまい、一度は、退会したものです。どうもその方の様子が変なので、横入りしてこないとも限りません。目の毒なので、当分、私はOKWaveそのものから、離れていようと思います。 なかなか、猪突先生とは会えないものですね。お元気だといいのですが。それから伊鰻太さんも、お身体、お大事になさってください。
お礼
解りました。 忙しい中時間を割いて下さってありがとうございました。
伊鰻太さん、タヌハチさん、どうもありがとうございます。 まず伊鰻太さんへのお返事ですが、すみません、奨励会は将棋でしたね。私はどうも自分の言葉が正確でないことが多いと思う、この頃です。快く許して下さったことに感謝いたします。さて、棲み分けのようなものとなれば、これはエリートという言葉はもう不要で、ギルド制のようなものかもしれませんね。若いころから政治家志望の子供はより分けてしまい、その教育をする。一応、段階に応じて振るいにかける。政治家が嫌だという子供は、別の職業へ従事できるように導く。 ウェーバーが書いていたと思いますし、別にウェーバーを引き合いに出すほど私はそれを読んでいないのですが、教育には二通り考え方があって、教養をつけるというものと、職業訓練を行うというものがあるようです。今の日本は教養をつけるというものであるから、そこで上位の成績を収めた者は、精神的な何かを吸収している、とみなされるということに思います。なるほど、職業訓練の教育よりは、(一般的な比較の問題に過ぎませんし、職人でも立派な方はいらっしゃるでしょうが、教育のシステムの中身として)、幅広い視野を持っているかもしれません。しかし、期待が裏切られることが多いわけです。それならいっそ、職業訓練でよいではないか、と思いたくもなります。 ただし政治という最重要のことを、ギルド制にしてしまってよいのか。私は、これは無理だと思いますよ。人間、誰しも欲望をもっていますから、ある一部だけが権力を掌握し、自分らがプロフェッショナルだと思えば、独裁性になるでしょう。民主主義ではなくなります。もっとも今の日本は、政治以上に巨大な力をもった集団をギルド制にしています。つまり、自衛隊です。これに対しては、シヴィリアン・コントロールを働かせているわけです。 同じコントロールを政治家たちに働かせればいいと思うかもしれません。しかし、何が抑止力になるでしょうか。軍人らは、軍事力を持って抑止力を突きつけることができるでしょう。農民は農民で、食料供給を制限してコントロールをかけることができるかもしれません。パン屋さんはパンの配給をストップする。が、こうやっていくと、ギルドのもつ力の強い弱いが出てくるわけで、当然ながら、軍事力が一番強いという結果になると思います。こうなると結局、ギルドの親方だけが力を握っており、裏で軍隊の顔色を伺うという世の中になることでしょう。 学者は、最も、力のない集団の一つだと思います。強いて言えば、教育機関に所属しているだけに、子供を人質に取ることになるでしょう(空恐ろしいことですね。師弟の信頼関係も何も無くなるわけです)。しかし、同様に囲碁や将棋のギルドも出来なくなると思います。というのも、抑止力がものを言うのなら、残念ながら、芸事はあまり力を持たないのではないでしょうか。こういう不自由さに私はあまり魅力に感じないのですが……それでも、なお、看過しがたいメリットがありますか。「モノを知らない」民衆が選挙した結果起きる衆愚政治を避けられるかもしれません……でもこんなことを言ったら、選挙権を制限する他ないのです。そして選挙権を制限するということは、選挙権がない人は、「国民」としての権利を一部欠いているのであって、外国人のように蚊帳の外に出されるということになろうかと思います。これはちょっとやめた方がいいと思いますが。 さて、タヌハチさん。病身の中、ありがとうございます。そうですか、完治しない病ですか。どうもそういう予感がしていました。というのも、二週間に一度検査か、治療をなさっているのでしょう。オペで変わるといいですが、あまり楽観的にもなれないというところだとお察しします。完治は無理だとしても、オペが成功するように祈るばかりです。 マルクス主義に対する態度については、よくわかりました。なるほど、原理的マルクス主義者というのは、不幸にして凶暴なものです。私も困ったことが何度かあります。そして私などは全然ましな方で(恫喝された程度)、家に押し掛けられたとか、電話攻撃をかけられたという人もしばしば。そういうわけで、ともかく、原理的マルクス主義を見ると、激昂する方というのもいることはわかります。タヌハチさんがそれだとは申しませんが、ともかく警戒なさっているという印象を受けました。 お話の内容としては、正直な話、カウンターディスクールの域を抜けていないという感想を持っています。原理的マルクス主義の問題点を指摘しているが、ご自分の理論をご自分で提示するには至っていない、という印象です。おそらく伊鰻太さんの設問の趣旨は、別に専門的でなくてもよいから、ナイーヴな将来のヴィジョンを語り合おうということなのでしょう。私もこのサイトに参加していて、ある特定の分野については専門だが、全然そうではないところで発言するのが、どうも怖いなと感じることがあります。実際、私も木造の親方に、日本の将来はどうなるかと補足質問をされて、結局、応えられませんでした。専門でないから、責任をもった形で言うことができないので、ついぞ答えそびれた、というところでした。ともあれ、どうもありがとうございました。エリートの件については、独裁を懸念するという点で、ご意見が近いようですし、もう良しとしましょう。 ところで、結局、そのコメントは消されるに到りましたが、どうも不穏なご様子の方がいるようですね。その方の性格を考慮すれば、暇を持て余して、いつ火花が関係ないところに散るかわかりませんので、私はそろそろ退散することにさせていただきましょう。では、伊鰻太さん、またどこかで。
お礼
回答ありがとうございます。 >若いころから政治家志望の子供はより分けてしまい、その教育をする。一応、段階に応じて振るいにかける。政治家が嫌だという子供は、別の職業へ従事できるように導く。 うーん… なんでしょう。何というのが的確か判りませんが、 「教育」とか「能力」とかに対して、すごく固い考え方のような気がします。 政治には、無学の者が関わってはいけないのでしょうか? なんで若い頃からより分けなければならないのか、まったく解りません。 しかも「政治家志望」て…、志望しない人間が役割として負うことは考えられませんか?是非はともかく裁判員制度のように。 もうそこからして疑問なので、あとの論理は全く解りません。
補足
まぁ、 ナイーブだと言われれば返す言葉も無いわけで、 結局のところ、交わす言葉は無いということでしょう。 しかたないので、 反省しておきます。
- TANUHACHI
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サイコロさんから大別して2つの宿題、imantarx様からもそれに付随した宿題をいただきました。 (1)「どっちみち着地点は同じ」。確かにそう見えるかもしれません。この着地点をある回答者の方は「社会主義的システム」に求め、一方の僕は「社民主義的システム」に求めた。この「社民主義的スタイル」は実際に「座り心地の余り良くないスタイル」とも言い換えることもできます。アメリカに見られる「国民皆保険制度の問題」が伝統的なアメリカのスタイルから見れば「社会主義的」と見なされ、もう一方の陣営からは「資本主義的制度の残滓」と批判されてもいる。こうした現実を見て感じるのは「マルクス的=社会主義」「マルクス的でない=資本主義」と断じるステロタイプと化した固定的な発想に終止してしまい相互に「良からぬモノ」との識別を無意識に行ってしまう危惧を感じさせます。 マルクスが提示したモデルには実際「そこに至る幾つかの指標」が示され、「それ全てをクリアせねば次に移行しない」のか「幾つかがクリアしていれば移行した見なされる」のかは彼自身が明示せず、明示しているのは、「マルクス以後」にマルクスを解釈した人間とも言えるでしょう。つまり「マルクス」と「マルクス以後」では温度差があるとするのが適切な表現かもしれません。これが前段の「マルクス的・非マルクス的」の原点です。 伝統的なマルクス理解をされる方々にとってみれば、僕が「一先ずの着地点」とするヨーロッパスタイルなど「修正主義」との批判をまともに受けてしまう取るに足らぬ存在でしょう。けれど新たな段階が訪れるまで人間は座して待たねばならないのかと問うた時、それまでは「よりベターな選択」をするのが自然な発想だと思われます。この辺は僕が対峙している病に似ています。治療後の何年かの間に再発の兆候が見られなければ治癒したと見なされる。従って現状であらゆる選択肢を視野に入れて治療を行う。 話が横に逸れましたが、「マルクス信奉者」に僕が距離を置くのは「その先」を封印してしまっている部分にあります。マルクスの本音が何処にあったのか。「自然史的過程の後?、そんなモノわしゃ知らん」と言うかもしれず或いは「後は考えて!」と下駄を預けられているかもしれない。ではその2つ3つ前の段階からそこに行き着くにはどうすれば良いのか、と考えるならば「少しでもマシ」な選択が最も現実的な可能性を有すると考えることもできます。 (2)エリートの問題。 これに関してですが僕がheikyu様に同感したのは上記の「取り敢えず」に相当する部分のことであって、後段に示された「エリート」の問題とは異なります。舌足らずでした。個人的な見解ですが僕はフランスの言論のあり方には興味がありません。カルチェラタンで学生達がド・ゴール政権と対峙していた時、サルトルはレストランで豪華な食事に舌鼓を打っていました。80年代前半の西ドイツに始まる「人間の鎖」が意味したモノは自らの庭を他人に引っ掻き回されたくはないとの意味の元に同意した様々な職業階層が加わっていた記憶があります。何も一部のオピニオン・リーダーが牽引した事象でもなく意思あるサイレント・マジョリティの集積であったと理解しています。このことから一部が牽引するスタイルより「多事争論」「百家争鳴」が望ましいと僕は考えています。それには個々人の成熟が何よりも求められますが、それも学歴などのつまならい肩書きが象徴するモノでもなく自らが生きる中で培った「言葉」に魅力を感じます。一部が牽引する形は言葉を換えれば新たな独裁にも繋がりかねない危惧を孕んでいるとも感じます。
お礼
おかえりなさい。 で、良いのでしょうか? どうやら賽子さんへの返信のようなので、お礼欄はまた好き勝手に使います。 >「多事争論」「百家争鳴」が望ましいと僕は考えています。それには個々人の成熟が何よりも求められます 私は、 個々人の成熟は望めないという地点から出発するのが良いのではないかと考えていました。そして今もあまり変わっていません。 「多事争論」「百家争鳴」というか 議論が声の大きさや数の多さ、見当違いの権威、などなどに左右されてしまうことを無くなって、活発な議論が担保されれば、民主制でも寡頭制でもかまわないんじゃないでしょうか。
伊鰻太さん、少し借りますよ(名前の漢字変換を間違ってごめんなさい。パン屋なので「饅」に違いないと勝手に思ったのです)。こういう場面、猪突先生だと、タヌハチさんに、うまく、横入りの質問をしてくださることでしょうね。 というわけで、タヌハチさん: 左派と言ってもいろいろあることは知っています。断定的にマルクスが正しいというディスクールを問い正すというお話はわかりました。しかし、内容の問題をちょっと聞いてみたくなりました。結局、この手の議論は、次のような手順を踏むしかないと思うのです。 ・理論的にいえば、最終的に、社会は、Aに向かおうとしている。 ・しかし、Bという要因が、Aを妨げている。 ・結果、次はCになろうと予想される。 さて、Aは次のようになると、一方は考えてらっしゃる。 >最終的な形態は社会主義(共産主義)と決まっています。 しかし、タヌハチさんは、現状を考慮すれば、Aに唐突になるはずがないとお考えだ。だから、Cという予測を、タヌハチさんは次の通りにお書きです。 >ドイツやフランスそしてオランダや北欧に代表されるヨーロッパ型資本主義もしくは社会民主主義の形が実現可能そして目標としうる形であると存じます。 しかし、こうやって整理すると、AとC、二つは矛盾しないと思えます。つまり、Aでありたいが、Cになってしまうだろう、という程度のことです。かくして、内実として論戦の必要もないと思うのですが、いかがでしょうか。 いや、逆に言うと、タヌハチさんは、そこまで反論しているからには、「社会主義(共産主義)」は現状として実現も無理だが、理論的に致命的な欠陥があるので、避けねばならないというくらいにお考えなのではないかという印象をもったのです。 そして、もう一つ、疑問を加えます。タヌハチさんは、前のコメントで、私の言っている事に理があると仰る。御配慮のお陰で、私は気分良く発言できています。しかし、私は、タヌハチさんが良いとみなした四番の回答をあっさり、退けてしまったわけです。私はエリートという考え方や、アカデミズムが保護するエリートの枠組みそのものも、やめた方が良いと示唆しているわけです。いうなれば、評論という大上段の行為はやめよう、評論家という一段高い立場にいる人にコンセンサスを作ってもらい、徒党を組んで活動するのも疑問である、くらいのことは言っているわけです。つまり、エリートと言っても信頼なんぞできないから、エリートの階層など、とんでもないと言っているわけです。 が、それでもタヌハチさんは、私の言っている事にも理があると認めてくださっている。しかし、こうなってくると、タヌハチさんが何を予測されたのかが分からないのです。私の素人考えですが、フランス的なエリート化を進めると言えば、東大程度のものはやめて、パリ政治学院のように、もっと強力な選抜をしたエリート校を作るということに結論としてはなろうとかと思います。タヌハチさんがおっしゃりたいのは次のことですか?――今の評論家や「エリート」はダメだ。これはサイコロが言うとおりである。が、エリートというシステムがダメなのではない。超エリートを育てなければならない。その超エリートらにこそ、社会を牽引してもらおう。――こういうことでしょうか? が、私は超エリートの学校というもの全般が、嫌で仕方がないわけです。教育システムとしても、問題あると思っています。タヌハチさんは、確か博士号をお持ちでしたよね。どこかの欄で書いてらしたけれども、一流大学の出身だそうです。そうするとエリートということになりますが、実際、ご自分の経験を振り返って、どのようにお考えですか。私は個人的に、伊鰻太さんは、奨励会のような徹底したエリートのコミュニティを見ているだけに、現実を見据えた、ご意見があるのではないかという気がしています。 ともあれ、オペで少し時間が空いているということですから、タヌハチさん、ここは一つ、先の一般的な論理の構造に沿って、つまりAとは何で、Bは何で、Cはどうだという形で、もう一回、ヴィジョンを整理してもらえませんか。
お礼
はい、どうぞ。 なるほどなるほど、解りやすいですね。助かります。 エリートについて少しだけ良いですか? 四番さんはもちろんでしょうが、私も学者=エリートとは思っていません。 そうではなく 「柔らかい身分制」 が意味するのは、 例えばかつてのヴェネツィア共和国のような、役割の棲み分けだろうと思います。 教育で生み出すエリートには実務者として官僚の道を歩んでもらい、政治は政治家として選ばれた人間が責任をもって行う。なんのことはない、今の制度と変わりません。政治家を選挙で選ばないという一点以外は。 民主制の弊害は、立ち回りに優れた者が全てを獲ることが可能であるということだと思います。ゆえに賽子さんの仰られる、学問のエリートが全てを牛耳るなんていう懸念が挙がってくるのだと思います。 そうではなくて、 学問のエリートは「学問」のエリートであり、「全知者」でもなければ「優れた人間」でもなく、ただその学問の力を共同体の役に立てるための存在です。 なぜならば、 身分制においては、国家の舵取り、政治に責任をもつべき人々は別に存在するからです。 奨励会にふれられていましたが(囲碁は日本棋院院生)、まさにそのとおりで、そこはエリートの世界です。ただし芸事の。 学問のエリートが人間のエリートであるかのように見なされるのは、「知」の全能性への幻想というか妄信というか、そんなものですよね? 選抜制度ではなく、 無作為抽出ならどうなるんでしょう? 蛇足ですが、ヴェネツィアの政治集団は三段階です。 まず無条件で「政治階級」の成人男子に議決権をあたえ国会を構成する。その中で選挙を行って元老院を構成する。またその中で選挙を行って内閣を構成する。 というものです。
- TANUHACHI
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こんばんは。 先ずはスレ主であるimantarx様にお詫び申し上げます。僕は「何らかの思うところ」など微塵も抱いておりません、寧ろ感謝の念すら感じさせていただいています。amaguappa様にも同様です。貧弱な見識しか持ち合わせていない僕にやんわりと「勉強し直すこと」を勧めていただき感謝にたえません。 しかしながらgungnir7様にあの様な問い掛けをさせていただいたのは「なぜその様に断定できるのか」との疑問があり質問せざるを得なかったのです。質問してはいけないのでしょうか?。唐突に「これはこうです。だからこうなのです」と一方的に話をされても、その根拠や背景の説明が無い限りでは納得のしようもありません。マルクスの時代には「地球規模」との発想があったかどうかも疑問です。 確かにK.マルクスは人間の活動を下部構造(土台)と上部構造に区分し社会の進化を説明しています。『経済学批判』の序文だったかと記憶していますが、そこで生産様式としての歴史的過程を原始共産制から封建制、資本主義、社会主義、共産主義の過程(ここまでを自然史的過程と呼んでいた記憶があります)を経た後に本来の人間の歴史が始まる、とのプランが提示されていた記憶もあります。そして自然史的過程での「発展」は生産関係と生産様式の不一致によって招来されると説明されておりました。 確かに前近代から近代に移行する過程ではこの解釈も魅力的であることに間違いはないでしょう。1つの見識としても成り立ちます。問題は「近代以降」に発生している点です。マルクスが生きていた18世紀の中盤で「膨張する資本主義」はイギリスやフランスそして新興国のアメリカに見られる現象でした。その「膨張する資本主義」が臨界点に達したところで次のステップに移行するのがマルクスの展望ならば、資本主義も未発達だったロシアで革命政権が樹立されたことをどの様に「合理的に」説明できるのでしょう。 間違って貰っては困りますが、僕のスタンスは左に近いリベラル派と呼ばれる部類です。決して時代錯誤や原理主義ではありません。その立場で危惧するのは「マルクス主義の原理主義化」です。元よりマルクス主義はイギリス経済学・フランス社会思想・ドイツ観念論の3つの柱の成果を継承して構築された体系です。最初からマルクス主義なるモデルがあったわけではありません。それぞれの特性及び可能性にインスパイアされると共にそれぞれの分野に新たな視座を提供する形で相互に発展し続けてきた「発展途上の思考様式」とも言えましょう。従ってこの意味で伝統的なマルキスト(マルクスの信奉者)は嘗て見られた中世ヨーロッパの教会にいた司祭者と同様になってしまいます。彼らのスタンスは「聖書の内容は絶対的真理である」と信じて疑わなかった点にある。それに対する「近代の思考様式」は「先ず疑ってみる」を要件とします。マルクスなりヴェーバーなりが最も戒めたのは「自らを相対化しえなくなった固陋」です。言い換えるならば原理主義そのものに等しい。 サイコロさんの御指摘には賛同できます。東浩紀や宮崎哲弥そして中村伊治哉も単に自らのテリトリーを守るためにリベラルの仮面を被って踊っているにすぎません。この意味では賞味期限の切れた堺屋太一や田原総一朗などと変わりありません。 オペまでは今しばらく時間がありますので、お付き合いをさせていただいてもよろしいでしょうか?。 それにしてもchototsu先生のご様子が気に掛かります。「城の崎にて」の質問を最後に途絶えていることで何か良からぬ事があったのではと不安を感じています。
お礼
解るけど、 TANUHACHIさん、言葉がキツ過ぎです。 「狡猾」なんて、使わない方が良い。もう思い出せないけれど、heartmindさんに対してもそうした言葉を使ってませんでしたか? 議論は文章の意味を争えば良いのであって、相手の人格を攻撃する必要はないと思います。 それと、できたら、スレ主としてのワガママですが、相手に直接向かうのではなく、私に語りかける形式を保ちつつ議論を成り立たせてもらえると、嬉しいです。 エラそうなことを言って申し訳ありません。この件はここまでです。 さてさて、 そんなこんなで前回、前々回もお返事を書けませんでしたが、説明してくださっていることには、いちいち頷く他ありません。 その上で、質問の不備を継ぎ接ぎさせてください。 私が立てたかった問は、 資本主義にかわる次代のシステム?を模索するに当たって、今の社会を支える価値観から、どのような価値観に変わっていくと、どのような社会になっていくのか、 ということです。 時代の大変革がおこるとしたら、どのようなものだと思いますか?ということです。 このことを考えるには、TANUHACHIさんのような正確な現状認識が不可欠ですが、その先のシナリオはヨタ話であればあるほど良いのだと思っています。もちろんヨタ話ですから、けちょんけちょんに批判しあいます。 だめですか?
補足
オペ?ですか。 なんだか前から体調の不調をチラッと書くことがありましたね。 僭越ですが、快癒をお祈り申し上げます。
- miko-desi
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ずばり「婿入り婚」「通い婚」「別居婚」。 日本の平安時代や、今もタイにも残っている母系制http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%8D%E7%B3%BB%E5%88%B6がモデル。温故知新。 持って生まれた資質と群れのセンスに優れた男性なら 一夫多妻も可能(今はタイも一夫一妻制ですが、昔は仏教国であってもそうでした)。 家の相続は女性がし、男性が浮気するのも甲斐性次第。 これで嫁姑問題も、愛人問題もジェンダー問題も無計画による借金問題も 保持的なしかし柔軟な女性によって執行前に検討されることになり、ほぼ解決なんだから。 例外だって往々に存在してしまうでしょうが。 一応ジェンダーフリーとせくシャリティーについてや 国家の基盤が家庭であることなどにふれて長文でかき、要約してみました。
お礼
ありがとうございます。 温故知新 大事ですね。 長文で読んでみたいです。
いろいろと誤解をして、申し訳ありませんでした。ご寛容に感謝します。私は、早とちりが多いのですよ。雨合羽さんにも、御不快な思いをさせて、申し訳ありません。雨合羽さんの善意はよくわかっております。それにしても、かなり文体をお変えになりましたね。ランボーのような光速で結論に到達するのではなく、読み手のために、寄り道してくださるようになったなと思います。先生は、そうですね、お仕事に励んでらっしゃるのだと思うことにします。私も、頑張って、某か仕事をすることにしましょう。 さて、伊饅太さんがお聞きの、私のアカウントについてですが、よく、何者かの複アカではないかと言われます。以前、バッシングされた際は、光栄にも、雨合羽さんの複アカだと言われておりました。仏語というのが、まず一つ、特徴だそうです。雨合羽さんは幸い、その時はお休みでした。が、私は彼女のように才人ではありませんでしたから、雨合羽さんを気の毒に思ったものです。草村さんですか。なるほど、彼も仏語がメインの人ですね。いろんな人がいるものです。 さて、四番さまの意見を、バッシングせぬように、展開させよということだと受け取りました。エリート主義ですか。ははは、私は承服しかねます。私も一応、その端っこくらいに入るかもしれませんし、私で役不足とおっしゃるならそれもそれ、エリートならいくらも知り合いがいます。 が、私は連中をまったく信頼していませんよ。能力が高い人が、人を幸福に出来るとは限らないと思います。この点については、議論無用だと思いますが、いかがでしょうか。たとえば、原子力だって、「我々は専門家である。諸君らは黙っていたまえ」という挙句の果てです。事が起きた時に責任の取りようもないという有様です。 そういうわけで、今のこの時期に、適当と目される人に任せておいて、あとは任せきりの幸福がある(という風に読めましたが)という意見の意義が、ちょっと私にはわかりませんでした。字数の関係で単刀直入に言えば、屁理屈に思えます。実際、パンを売るのでも、一種類しか売らなかったら、お客が詰まらないでしょう。アニメだって、『銀河英雄伝説』しかなかったら、どう思われますか。なるほど、好みがはっきりしている人にとったら、『銀河英雄伝説』で満足しているのに、『四畳半神話体系』を勧められたら、腹が立つかもしれません。『四畳半……』はマイナーなアニメの例のつもりですが、しかし、案外、この京都大学の日常を描いた物語も味があるのですよ。何がいいとか、何が悪いかをどう決めるんですか?厳密に言ってください、となると、ちょっと決めようがないでしょう。知識人が決めたら決めたで、何をエラそうにということになるし、みんなで決めようとなると、審美については決まらないものです。 とはいえ、私にとって痛いことに、選ぶことそのものをやめて、全部のヴァリエーションを並べてよいとやると、悪乗りする評論家がいるということです。東浩紀をやり玉にあげましたが、今に始まったことではありません。テリー伊藤のような人も、一見、真剣に議論しているように装っているが、悪乗りしているのでしかない。そういう人は常にいるんですね。十九世紀にも、こういう人らはいて、たとえば、アカデミックとされる作風でヌードが描かれました。アングルなどを思い浮かべて下さればいいのですが、評論家らは「美しいでしょう」と表では論じていたが、その実、性的な刺激を求めていたわけです。さてね、どうしたものでしょうか。歴史は繰り返すということで言えば、検閲が強化され、アカデミックと認定された者らだけが、大手を振って、エロスを追求する世が来ることでしょう。が、フランスの歴史ということで言えば、実はさらに百年経って振り返ると、アカデミックな芸術家らは、アングルを残して、ほぼ忘れられて、むしろ逆に、退廃だとか言われた方が評価されることとなったのです。クールベらのことです。こういう淘汰の時代がくるでしょう。そう、我こそ優等種だとか、何それこそ生き残るに値すると決めるより、淘汰が起きて、生き残ったものが、結局、優等ということになろうかと思います。 マンガの排斥は、手塚治虫の焼き打ちがあったのでしたね。今更同じことをされても、屁とも思わないというのは、なるほどと思いました。「開明派」とおっしゃるのは、どういう心ですか。私が妙手を?とお願いした答えであるように思いました。
お礼
何からお話ししましょうか。 まず、アカウントに関しては拘っていません。話が挙がってきたついでです。なんだか皆さん大変なめにあわれたんですね。 四番さんの意見に対してですが、私の言い方が不味かったのか、賽子さんに展開をお願いする話ではないですね。そうではなく、正解は出ないだろうけど面白そうだから一手提案してみる、という大らかさが素敵だと思う、というだけの話です。 でも、内容については仰られる通りで、選抜方法とチェック方法に関して疑問を挙げさせてもらっています。当然四番さんは色々考えていると思いますよ。ダメなところも、それでもあえて俎上に挙げた理由も。あっさりした人なんで答えてくれませんけどね。 ところで、自己紹介に関しては、そんなに深く考えてません。アニメが好きだなんてことを言いたいわけでもありません。ある方の自己紹介が好きなので、真似しようと色々物色してとりあえず載せておきました。銀英伝のアニメは観たことないんですよ。娯楽小説として読んだだけです。でも、あのセリフは好きです。私は先天的な、難病に分類される内分泌の障害があるんですけどね、だからこそああいう気概を大事にしたいなと思ってます、ということなんですよ。 そんなわけで、良く解らないのですが、仰られているのは相対主義の話なんでしょうか? それと、 学者さんや知識人と言われる人たちの争いは良く解りません。エロマンガ?の評論が商売になるなんて変だとは思いますが、ならば「おかしい」と批判するのではなく、別の良いと思われるものの評論を流行らせる方が建設的なんじゃないかと思います。 パン屋に限らず食べ物屋は、多くのところが、手間暇はぶいて添加物だらけの味の無いニセモノばかりを売って、消費者もすっかり慣らされていますけど、 「おかしい」と言ってもしょうがないですよね。 私には私にできる精一杯で、良いと思えるパンを作り続けることしかありません。学者さんも同じじゃないんですかね?つながりませんが、とりあえず。 最後に「開明派」は左派だの右派だのというお話があったので、以前の思いつきを引っ張り出しました。伝統と寛容と理知が良いブレンドなんじゃないかと思います。だからってなんの足しにもなりませんし、ましてお求めの「妙手」なんかではないと思います。 うーん… 漫画の排斥と キャピタリズムの関係が良く解りませんでした。
- amaguappa
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新しいエネルギー資源と蓄電池からどんな世界が到来するか? という補足質問でしたね。 よくご存じの月並みなストーリーではありませんか。 コロニーの蚕棚に並んだ人間が生命活動によって熱を発している。 その熱から、人間の生命維持と地球の環境保全に注がれる莫大なエネルギーを生産している。 人々はずっと夢を見ている。。。 さて、夢を見ているという点は、なかなか重要だと思います。 感情生活がないと人間は短命になり、社会生活がないと感情生活は育まれません。 動物に育てられた現実の子供たちが短命であり大脳の発達がなかったごとく、 人間の経験をしらない人間は、神経伝達における電気量が少なく 彼らが蚕棚で送る生涯のエネルギー代謝の面から見て、回収率が悪いと予測できます。 だから、日々のこまごまとした刺激に満ちたリアルライフの夢を見つづけなければ。。。 *** 猪突先生はたぶん目が覚めて雑音を断ち、念願の「日本霊異記」か何かを読みながら世紀の物理理論を打ち建てるというご自分の満ち足りた世界を見つめる老境に入られたのでしょう。 サイコロさんはよく誤解するけど少なくともわたしはご質問をクサしているつもりはないですから、念のため。(東浩紀が駒場時代からがっかりなところには同意だけど。)
お礼
すみません。 なんだか、お詫びする他思いつきません。 すごく頓珍漢な方向なんですね。 どこからかと言えば、 amaguappaさんの最初の回答から、全く理解できていません。 読んでる内に脳味噌がウニになってしまっているようです。 できたら、もう少し平易な文章でお願いできたらなぁと思う次第です。
はじめまして。サイコロと申します。イマンタRXさんは、どういうわけか、私をお気に入りに登録なさっているので、投稿してみました。もしかしたら、フランス語でパン屋さんに名前をつけてほしいと仰っていた方が、イマンタRXさんの、複アカなのではないかと思いましたが、どうでしょう。いや、不都合があったら、お答えにならなくてもかまいません。そして違ったら、無礼をお許しください。それにしても、このスレッド、何だか苦労なさっているようですね。次代のシステムとお書きになったので、システムそのものの意義が、どうなのかという話が、主流のようです。 No1が意味不明ということのようですが、システム、すなわち-ismeと接尾辞が着くものは、文法的に、きちっとした体系のことを名指すのです。きちっとした体系が、そもそも次代になりたたないだろう、ということのようです。つまり質問そのものを、皆さま、覆しにかかっているのです。どうも、学者は意地悪でよくありません。私も、学部の頃、指導教官に-ismeという話をしたら、「君、-ismeということの意味をわかっているのかね?」などと詰問されました。「言葉の使い方を正確に」というわけです。いやいや、こういう揚げ足取りを私は感心しません。 私は喧嘩を売るつもりはありません。しかし、こうした話は、ネオリベラリズムの先を考えるにあたって、非常に重要なことなのです。既に六十年代フランスの学生闘争の話が出ていますが、この時の問題は、知識人が知識のない者(=学生)を導くという「システム」が、是か非かという話でした。アルチュセールは、知識人が頭に立って、導くべきだという。というのも、非知識人は烏合の衆だから暴動でも起こしかねない、というわけです。 これに対して、現代思想を牽引する四天王の一人、ランシエールは怒り心頭に発し、烏合の衆と言われようが、天下りしてきた知識人などに、我々は導かれる必要がないと主張しました。導かれるのでは、結局のところ、資本主義で強いブルジョワの基盤を固める結果になるではないか(もっと複雑な事情がありますが、大雑把にまとめれば)。かくして、ランシエールは、師であるアルチュセールと袂を分かちます。ランシエールより上の世代だが、デリダも似たようなものでしょう。書かれた言葉(エクリチュール)の細部を、あれこれとほじって、知識がない者のいうことを封殺するのは陰険だと言ったわけです(『グラマトロジーについて』)。ドゥルーズも同じです。システムではなく、リゾームだといい始めた。リゾームの可能性やいかにとは、浅田彰あたりが議論していた(と友達の論文が書いていた)が、私はよくわかりません。 が、少なくても日本の学者は、リゾームを実践できないと見えます。というのも、このスレッドにしたところで、旧来の知識人が牽引するモデルをとりたがり、我こそが新たなる牽引者であると語っているように思えるわけです。皆さま、ご本心では、いかがでしょうか? 我こそ、博士様でござい、博士ではない者、黙りおろう、という気持ちがありませんか(ブラジュロンヌさんは、どうも、天下り知識人を徹底批判しているので、違うと言っておかなければ、叱られるやもしれません)。 さて、次代のシステムはどうなるか。私は、悲観的です。極左テロ組織「赤い旅団」のボスであるトニオ・ネグリは、私が会った時は、マルチチュードだと言って、叫んでおりました。マルチチュードというのは、システムではなく、寄せ集めということです。リゾームと言おうが、マルチチュードと言おうが、ミリウーと言おうが、結局、秩序立っていないの集団を意味する語です。何でこういう風にたくさん語があるのかと言えば、皆が皆、自分の理論を構築したと堅く信じてやまないからです。 しかしともあれ、どうやら、システムがもう成立しないということでは、左派の論客は意見が一致しているらしいといえそうです。実際、このスレッドでも、未だマルクス主義が健在であると言えば、総攻撃がかけられるわけなのですし、そうでない方も、どうやらシステムが存続するかどうかについて懐疑的です。 が、トニオさんの受け売りですが、オートポイエーシスという話があるわけです。オートポイエーシスと言えば、ルーマンに言及してもいいが、OKWave上と言えば、猪突先生が何と面識あるという、プリコジンということになります。 プリコジンの熱力学を、イマンタさんはご存知ですか。私も複雑なことは、残念ながら知らないが、要するに、基本モデルは、鍋の水の沸騰であるらしい。鍋の水は、沸騰すると、必ず、綺麗な蜂の巣状の文様を描きます。水はそれを考えているのか。いや、何も考えていない。しかし、熱量があがると、水は自動的に秩序立った文様を描くのです。この物理学の考え方を、社会学に応用したのが、オートポイエーシスです。非常に大雑把な説明だと断っておかなければなりませんし、猪突先生の訂正を待つばかりです。 しかし、鍋の中の水と同様、ミリウーだろうが、マルチチュードであろうが、寄せ集めの烏合の衆でも、議論し、テンションが上がって来るうちに、自動的にある秩序体系を形成しているということがありうるわけです。これぞ、マルクス的にも、革命が起きた前夜の民衆の状態に違いない。次代のシステムという問いに対して、「システムが成立しない」と上げ足をとるだけでは何にもならないと、私ごときが自信満々で言うのは、オートポイエーシスが起きる可能性を見越すからです。 が、今日、このオートポイエーシスがどこに向かっていると言えるのでしょうか。これが、このスレッドの問いだと私はみなしていますが、私は、実に悲観的です。私はどちらかと言えば、左派なのだけれども、近年、呆れ果てる出来事ばかりです。 その極端な事例が、東浩紀のツイッターでした。彼は、元はデリダの研究者で、浅田彰に私淑していたのだけれども(どうやらバイセクシュアルの浅田の愛人であったらしい)、何でもかんでも許容して、現代では、ロリコンのエロマンガでさえも、評論家として「感動した」とのたまうのです(クジラックス、「ろりともだち」)。この漫画はどうにもひどい。どれくらいひどいかは、Googleで検索してみていただきたいが、要するに、小学生を連続強姦した大学生二人組が、全国をボックスカーで逃げ回り、最後に練炭自殺するという話です。東はこの二人の共犯関係に感動した模様です。私も文学研究者のはしくれなので、理論として、共犯者の二人の間にセジュウィックのホモソーシャルな関係があるだとか、何だとか、いろいろわかりはするのですよ。が、いくら理論で武装しても、呆れ果てることではあります。この東氏が、サブカルチャーの旗手とみなされているのだから、まこと暗澹とすることではないでしょうか。 以前、私は猪突先生に、ゴミ箱アートでさえも、アートとして認めるべきだと説いて聞かせました。これは、ゴミ箱にさえ感動する底辺の人の気持ちを思ってもらいたい、美とは多様である、と言いたかったのです。私の愛好するボードレールも、実際、底辺の人々を詩のモチーフとして取り上げるのですし、それは当時としては改革的なことでありました。 こうした寛容が、左派の理論家のスタンスです。が、エロマンガから、ロリコンの人権を唱えるように思える東の意見には、堪忍袋の緒が切れました。いや、もう、左派的な「寛容」に悪乗りして、欲望を解放しまくるだけの愚か者のいうことなど、忘れてしまうべきです。 ――が、私の意見は、別の潮流に絡め取られてしまいました。前置きが長くなりましたが、オートポイエーシスの本題は、これからです。つまり不幸にして、ロリコンを撲滅すべしと言っているのは、極右なのです。日本で言えば、石原都知事。フランスで言えば、国民戦線(FN)です。望む望まざるに関わらず、私自身が、一つの流れの中に吸収されてしまったのを感じます。こういうのを、オートポイエーシスというのでしょう。 というわけで、私は次代のシステムがあるとすれば、モラリストによる、ヒトラーのような排斥運動であると予想します。ここで残るのは、古来の伝統芸能だけであり、サブカルチャーの大半は撲滅されることでしょう。実際、アニメや漫画も、私は、一時は許容していたが、もうやめた方がいいという意見に傾きました。 イマンタさんは、自己紹介で、アニメの引用をしていましたね。だから、アニメ好きでしょう。嫌な未来予測図だとコメントなさるに違いない。しかし次代のシステムが何かと言われたら、おそらく、これになることでしょう。ことによったら、イマンタさんは、その排斥運度に対抗しうる何かを問うているのかもしれないが、これは次代の次代のシステムなので、―つまり二手先のことなので―、この問いの範疇ではない、と狡猾にも逃げて、私はお茶を濁すところです。むしろ、イマンタさんは将棋指しだというから、次の妙手なり名手を考えて、私に教えてください。 最後に、イマンタさんに要らぬ助言を。おそらく雨合羽さんはじめ、サイトに参加なさっている方は、ご自分を天才だとお考えの方だろうと思います。が、天才が、なぜこんなところでくすぶっているのか。皆、それぞれ事情があるのでしょう。私といえば、天才ではありませんが、ともかく、パリにいて、さみしいので、時折のぞくのです。それに、年上の友達が出来てしまいましたからね。ところで猪突先生は元気なんでしょうか。ご存じありませんか。確か、イマンタさんは、猪突先生のファンでしたね。私がいないうちに、何かありましたか。先生は高齢らしいので、病気でもなさっているのではないかと心配にもなります。
お礼
はじめまして。伊鰻太です。 回答いただけて嬉しいです。お気に入り登録は色んな都合でしていますが、賽子さんは猪先生と同じ意味で登録しています。 ええと パン屋ですけど、仕事のことを相談するほどヤボじゃないつもりですし、ネット内でうまく立ち回る必要なんて感じないし面倒なのでアカウントは一つだけです。それと将棋さしじゃなくて、碁打ちです(元プロ志望の落伍者)。 碁の話を少しさせていただくと、チェスや将棋の「駒」のように人為的な意味が予め在るものではないんです。「石」は論理的原子と言っても良いかもしれません。石は、碁盤のどこに置かれるかと、他の石との関係において初めて意味を持ちます。うまく説明できないのですが、社会の見方も、チェス将棋的な人が多くて、なかなか囲碁的な感覚を伝えられないもどかしさを感じることが、しばしばあります。 人文系の学者と言われる人たちは、やたらと駒を増やしたがるというか、新種の駒をつくってみることが好きというか、そんな印象を持っています(素人の偏見)。 それと そんなカテゴリーが意味があるのか判りませんが、私は「開明派」を勝手に自認しています。どうですか?賽子さんも。 漫画は、私は生まれたときから手塚全集なんかに囲まれていましたから、普通に当たり前のメディアで受容も排斥も内容次第であることが自然な解釈です。好きでも嫌いでもないんですね。特定の事例で漫画全般を論じるのは、単に「不当な一般化」だろうと思います。 それで本題ですが、 まず丁寧に説明してくださってありがとうございます。お二人が何に引っかかっているのか、正直良く解りませんでした。まだまだ良く解ってませんが、新自由主義が余計だったんでしょうか?キャピタリズムは依然と変わっていないように思えます。で、依然と皆さんは批評が本分だと思っているらしく、現在の分析はしきりと教えてくれるのですが、未来に関しては無難な予想を他人事のように語るに止まっているようです。四番さんのような大らかさに欠けているように感じます(自分は批評されたくない主義)。 まぁ、質問が悪かったと言えばそれまでの話ですね。 私としては、それでも皆さんと言葉を交わせることは愉しいことです。賽子さんともお話しできたんで満足です。ここに書き込む動機は、賽子さんの素直な想いに強く共感します。 で、 携帯なんで字数制限があって半端ですけど終わります。短めの複数投稿が嬉しいです。
補足
chototsu先生に関しては、私は単にファンでウォッチしていただけなので(ストーカー?)、マイページ以外の内容は全く知りません。 どうしちゃったんでしょうね。 草むらさんも動きがないし。そういえば、賽子さんが草むらさんなのかと思っていました。
社会体制の変化は、科学の進歩と生産活動の効率化を発端にもたらされるべきもの。 それらによって生まれた豊かさにより、より進化した社会体制が生まれてくる。 世の中を自分の目で直接見聞きすることもなく、他人の価値観を理解できる心の広さと余裕がなく、 1~2日見聞きした程度事象とお仲間・古本・ネットマスコミから得た情報だけを情報源として考え出された社会体制は妄想といいます。 本気でフィールドワークを行う覚悟と、白と黒以外にも分け方があることを認める事のできる程度の人格形成が先決でしょう。
お礼
お疲れ様。 場所を間違っているんじゃないですか?
お礼
こんばんは。 回答ありがとうございます。 調子に乗ってうっかりミットをかまえたら、本職に投げ込まれて手を折ってしまった…そんな心持ちです。 全くついていけてません。 「圏」というのは文化圏というようなものですか? アメリカ同時多発テロが、安全保障の枠組みを変えたことは明白ですが、経済システムは微動だにしていないのではないですか?もしくは、新たな効率化(改善)の動きはあっても、資本主義からのパラダイムシフトということではないのではないですか? 話は飛びますけど アドリア海の女王の屍を苗床に、アダム・スミスが肥料をやって、多くの人が水をやって育てた現代の経済社会の、 剪定は経済学でできても、 新しい苗木を芽吹かせることは、哲学の領分ではないかと、思ったりします。 さらに 進化論にしたがうならば、苗木は多ければ多いほど良いかと。
補足
どうやら私は感謝が足りなかったようです。 至らない質問 至らない質問者に 時間を割いてくださった回答者の皆様に、お詫びとお礼を申し上げます。