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本質観取と仏教

noname#143207の回答

noname#143207
noname#143207
回答No.21

 こんばんは、ひどっち でございます。  まずは、お忙しい中、ご返答賜りまして、厚くお礼申し上げます。 > 二重の象体(でいいかな?)にさいなまれてしまいます。  仰られるとおりかと存じます。 
> カントが、きわめて主観的な経験の形式によって認識と対象の発生を描いたときには、物自体という謎が浮上しました。他方、ボルツァーノ、ブレンターノ、トワルドウスキという、フッサールになくてはならない客観主義の論理学者たちにおいては、無対象の想念とは何なのかが追求しきれずいました。
  トワルドウスキ、そして、ブレンターノに師事したマイノングとの交流が、フッサールに影響を与えたことは耳にしたことがございます。  もちろん、フッサール自身も諸問題を解決し切ったかと言われますと、疑問ではございますが、フッサール以前と以降では顕著な発展が見られたかと存じます。 > そうしてフッサールは、物自体のなんとやらであれ、想念の仮象のなんとやらであれ、志向的な“記述”とし、経験の"記述的差異"の構成であるとします。カントから100年の間の主観と客観の定義の移り変わりは難解でわたしにはよくわかりません。ただフッサールが「対象」を棚上げしたのは大きな仕事であったと思います。  愚生もこの時代の哲学史には明るくはないのですが、ドイツ観念論の系譜の中でも、結局は形而上学的存在が内包されているようでございます。A. ショーペンハウアーも、物自体は現象界の根底に存在している、としていたかと記憶しております。その点におきましては、フッサールの果たした役割、またその後の影響を鑑みますと、大きな仕事であったかと存じます。 
> しかしこんな曖昧で便利な語を廃棄してわたしたちが語りうるかは心もとないこと極まりなく、ひどっちさんもこの曖昧さを抱えているのでしょうか、、、 仏教が「対象を把握する」ものであるとの見解から出発されつつ、執着しないところのそれへと、空観をとおしてお話しされています。まさにこれが、わたしの問いの焦点だといえます。仏教は「対象をどうするのか」ということを、時間の経過や、経験の位相変化を含めて、伺いたいなと思っています。
  これは愚見でございますが、確かデリダにより批判を受け、少なくとも愚生が学生時代(ポストモダニズムが全盛期の頃です)、フッサールはあまり重要視されていなかったかと記憶してございます。つきましては、フッサール果たした役割等は再確認すべきかと思っております。  なお、”空”につきましては、”空見”を龍樹(ナーガルジュナ)は以下のように表現し、空を見る(認識しようとする)ことを戒めているようでございます。つまり、”空”なる対象は見ようと務めてはいけない、としているようでございます。これは、おそらく、執着を生み、諸法無我に反するからかと考えております。 「一切の執着を脱せんがために、勝者により空が説かれた。しかるに人がもしも空見をいだくならば、その人々を「何ともしようのない人」とよんだのである。」中論十三章八詩 訳:中村元 からでございます。 
> やはり精神医学への応用としてのフッサールにおいては、むしろこのように考えていると書き添えます。
「“不完全に貶められたイデア”的な経験対象は“普遍的な構築”による意識作用である」
  ご教授賜りまして厚くお礼申します。とても勉強になりました。 
> ついでに書き添えれば、こうした“普遍的な構築”が、縁起や空観と、もしかすると過程では似ているかもしれないし、といっても瞬間的であるとともに持続的であるような事柄を考えることに仏教は応えないかもしれない、という疑問があってこの質問をたてました。 
  そうでございましたか。”空”は、「生じる」、もしくは「滅する」という概念ではなく、縁起、つまり諸々の相互依存的なものと、考えられているようでございます。その意味におきましては、時間的な概念は含まれていないものと思われます。 
> ひどっちさんのお教えでは、空観は、四苦を滅するがための脱執着という意義が重要であるとわかりますから、現象学が対象という発明物を虚にしようとした意義とちがって、仏教が心や感情の拠り所であることの重みを忘れてはいけないなと噛みしめました。  ご参考としていただきましたこと、光栄に存じます。  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

amaguappa
質問者

お礼

> なお、”空”につきましては、”空見”を龍樹(ナーガルジュナ)は以下のように表現し、空を見る(認識しようとする)ことを戒めているようでございます。つまり、”空”なる対象は見ようと務めてはいけない、としているようでございます。これは、おそらく、執着を生み、諸法無我に反するからかと考えております。 龍樹が空見を戒めるのは表象をさらに対象化するのを食い止めるものとして穏当かと思います。 空という言葉が空を指して説かれるとき、すでに概念と化して物象を結ぼうとしてしまいますね。 > ”空”は、「生じる」、もしくは「滅する」という概念ではなく、縁起、つまり諸々の相互依存的なものと、考えられているようでございます。その意味におきましては、時間的な概念は含まれていないものと思われます。 そうですか。ありがとうございます。空間相関的ですね。 対象認識行為をめぐって“空”を引いていただきましたが、フッサールが対象の思考を回避して意識の持続にスポットライトをあてた点に鑑みるなら、仏教で対象認識と非対象化を込められたともいえる空について、これを対象化して見るのではないとされる意識のほうが焦点になるのでしょうめ。その持続や瞬間がどのように扱われるのかが。 仏教の観自在として自由であるということに繋がっていると思うのですが、過去や未来や現在は、ただ執着しないことにおいて縁起の世界に置かれるのかなと思いました。意識はある意味広がりとして世界に先んじているのかもしれませんね。

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