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神を創造主と呼ぶのは ただの物語である。

 《創造者》と《被造物》との関係を言うことによって もし前者が後者に絶対的に先行しているということを意味させるのであれば それで済むという問題ではないか。  《絶対》を擬人化して《絶対者》と呼び これをさらに《造物主》に見立てる。そこから 物語がおもしろくなる。そういう演出の問題だということではないか。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • jinseiwalk
  • ベストアンサー率23% (372/1603)
回答No.2

そうです。その物語を作ったのは絶対でない人間ですから、物語は矛盾だらけです。聖書もコーランもおかしな内容です。 仏教でさえ「絶対」を擬人化させて仏像まで作っては神を崇める宗教と同じレベルです。

bragelonne
質問者

お礼

 人生の歩きさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  正直に反応すれば ちょっと粗雑なまとめのように感じられました。    ★ その物語を作ったのは絶対でない人間ですから  ☆ すでに初めにそのたとえば創世記の記述は 事実をしるしたと見る向きとは別に あくまで《物語》であると捉えておられます。  そうしますと わざわざ  ★ 作ったのは絶対でない人間ですから  ☆ と重ねて指摘するのも 要らないかも知れないと思いました。  ★ 物語は矛盾だらけです。聖書もコーランもおかしな内容です。  ☆ これは どうでしょう? たとえばエワとアダムの《原罪》の物語 これもむろん物語なのですが 矛盾だらけでしょうか?  たとえば 次のように質問者は捉えていますので 決して矛盾がその物語を反故にするほどには大きくはないと考えます。     【Q:なぜ知恵の実を食べてはいけなかったのでしょうか?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6869412.html   その回答No.10&15&19&25です。  クルアーンについては ここでは保留します。(ひとことでは まとめないほうがよいと思いますし 具体的な相手との対話の中で考えを述べることがいちばんよいと考えます)。  ★ 仏教でさえ「絶対」を擬人化させて仏像まで作っては神を崇める宗教と同じレベルです。  ☆ ブディズムについても保留しますが ブッダあるいはブディストが《絶対》をどう扱っているのかは やっかいな説明をしなければならないと思います。   【Q:ブッダは 神か? ――仏性をどう扱うか――】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5440380.html    ですが 総じて質問趣旨の《物語》説に賛成票を一票投じていただいたと理解します。ありがとうございます。

その他の回答 (7)

回答No.8

生憎、クライアントPCは外部機器の存在を知っていませんでして、 クライアントにとりましては、サーバさえもがデジタルデータの一部に過ぎません。 つまり、クライアントシステム側では、近隣の周辺機器類でさえもが【ヴァーチャルな虚構(アプリケーションソフトウェア)の要素】として認識されているのでして、『物理的に存在していない仮想マシン』と『物理的に存在している外部機器類』との不毛な峻別が出来なくてもデータの状態には変わりが御座いませんので、無駄な時間の浪費を防ぐ為に其の峻別を行なってはいないのです。 因みに、コンピュータネットワーク自体をシステムだと見做す発想にも、 勿体無い謬見が含まれています。 単独のクライアントコンピュータは外部をアプリケーションの虚構の中に織り込みまして、『天上天下唯我独尊』の教えの通りに、【妄想的】に自己完結のシステムを構成・維持していますので、インターネットに管理者の存在が必要でなくなっているのです。即ち、敢えて申し上げるのでしたら、「各ユーザー自身が管理者だ」、と各クライアントPCは判断しているのでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 あのう  ★ 即ち、敢えて申し上げるのでしたら、「各ユーザー自身が管理者だ」、と各クライアントPCは判断しているのでしょう。  ☆ このように――そしてそれだけではなく 設計・構想の段階においてから始まっていることなのでしょうが―― たとえ《管理》という見方をしないとしても 全体として《人の手によって(頭によって)つくられている》モノでありそこに動きのあるコトである。こういう見方を申し上げているのですが?  したがってたとえば《無心》という規定は あまり合っていないのではないか。このようにもお伝えしています。  峻別があってもなくても 全体としてまとまったかたちで動きはたらくのであれば それとしてシステムでしょう。人為的な世界である。こう申し上げています。  同じことの繰り返しのようですから 投稿への感謝はひかえます。

回答No.7

展開が非常にややこしくなってすいませんが、 人間に関する問題への言及の前にもう少しの解説を加えさせて下さい。 そもそも、インターネットで検索結果を閲覧する時には、LAN側の各クライアントPCからWAN側(http://ja.wikipedia.org/wiki/Wide_Area_Network)のサーバへのアクセスが必要になりますが、ウェブブラウザ画面(IE・FireFox・GoogleChrome等)へ検索結果を表示させるべく、【システム】を活用させる際に、クライアントPCが情報源のサーバの在り処を知らなくても、構いません。 それどころか、0と1との情報の羅列が適切な順序でCPU(中央演算装置)に届いてくれさえすれば、其のクライアントシステムは適切な情報処理を【無心】で済ませてくれますので、サーバがWAN側に有るという事情を知らずとも良く、寧ろ、『クライアントPC自体の内部に存在している場合との齟齬』を其のPCは殊更に認知していないのです。 そして、其の事情はクライアント側だけに留まらず、サーバ側でも起きています。 例えば、此処のページの質問文で畏れ入りますが検索を試みさせて頂きますと、下記のURLのページの通りに、複数のサーバのURLが検出されますが、同じ質疑内容ですのに画面表示方法が違いますね。 http://search.yahoo.co.jp/search?p=%22%E7%A5%9E%E3%82%92%E5%89%B5%E9%80%A0%E4%B8%BB%E3%81%A8%E5%91%BC%E3%81%B6%E3%81%AE%E3%81%AF%22&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=sb-kingbrw1&x=wrt 従いまして、其処からも窺われ得ます通りに、サーバ側でも同じ質疑応答の情報処理を『それぞれのシステムの様式』で行なっていますので、たとえ一つのサーバーシステムの部分的な機能をアウトソーシング的に外部へ委託していましても、通信規約の階層化が適切に済まされていさえすれば、外部委託の事情をサーバは無視し得るのです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  もしこの質問への回答として必要な手続きであるのでしたら 次のようなことが 飲み込めていない状態です。  ★ LAN 側の各クライアント PC から WAN 側のサーバへのアクセスが必要になります  ☆ ということと そして  ★ クライアント PC が情報源のサーバの在り処を知らなくても、構いません。  ☆ ということとは どのように同じなのか? あるいは どのように違うのか? これがはっきりしません。  あるいは 同じような種類の疑問なのですが  ★ 通信規約の階層化が適切に済まされていさえすれば  ☆ ということと  ★ 外部委託の事情をサーバは無視し得るのです。  ☆ ということとの異同です。  言いかえますと こうです。  (あ) 《外部委託の事情をサーバは無視し》たとしても その以前には《通信規約の階層化が適切に済まされてい》るわけだと思われ だとすれば そういうシステム―― PC 内外にわたるシステム――なのではないかという見方です。  (い) 《クライアント PC が情報源のサーバの在り処を知らな》いと言っても その以前に《 LAN 側の各クライアント PC から WAN 側のサーバへのアクセスが》おこなわれているわけだと思われ だとすれば そういう PC 内外にわたるシステムになっているのではないか。  ☆ こういった見方をしてはいけないのか? という疑問です。  もしこの見方でよれけば こういうふうに帰結します。  つまり   (う) この PC なりインタネットの大小・広狭のシステムは すべて人間の知識と思考でつくられている。  (え) たとえ思考をおよぼさなくてもよい部分や領域があったとしても そのように・管理するといった扱いを無しで済ませると思考した結果だと考えられる。  (お) だとすれば もし《無心》という捉え方をするとしても それは人間のつくったシステムをそのシステムの言わば自動的にはたらくのにまかせているという意味での無心である。  (か) つまり 人間の作為もしくは無作為のままにしておくという計らいがある。  (き) よって この IT 技術の成果としてのシステムにかんしては あくまで経験世界におけるモノゴトだと捉えられる。  ☆ 基本的な見方として これまでにも このように受け取って来ており述べて来ています。

回答No.6

全体的な意味の【断片】を記号的に外部化させますと、自己のシステムの全体性を保ちながらネットワーク的な部分の共有が可能になり得るのでしょうけれども、『外部化された物語が共有され得る状態』が出来上がる為には、共有者達自身の内部に元から其の要素が存在していなければいけません。 但し、同じ諸問題が原初的に内部へ存在している、という事実の証明は、 蓋し同時の体験によってしか果たされ得ないのでしょう。 従いまして、たとえ共有され得ない情報の断片を雄弁に外部化させましても、 諸問題の共通性を保障してくれ得る十分条件的な根拠が揃っていない場合には、 其の演出が自分達の問題解決の手段やら理想像やらを提供してくれ難く、 興味本位の読み物へと堕落したのではないでしょうか? 因みに、私のIDの由来は下記のページの内容です。 http://buffalo.custhelp.com/app/home http://www.jtp.co.jp/

bragelonne
質問者

お礼

 IT のお仕事とうかがいました。ばっふぁろうさんとお呼びしましょうか。ご回答をありがとうございます。  ★ 共有者達自身の内部に元から其の要素が存在していなければいけません。  ☆ これは 意外なことをおっしゃると思ったのですが あるいはわたくしの勘違いでしょうか。  つまり 《内部における元からの要素》は 単純にたとえば言語能力といったものでしょう。あるいは 事実認識のほかに どういうわけか その人の気持ちや心が いわゆる志向性として(つまり志向性としてなら 一般性を持つと考えられるかたちで)あると思われ この《こころ》も 人間の内面における能力として 共通だと考えられます。  ★ ~~~~~  但し、同じ諸問題が原初的に内部へ存在している、という事実の証明は、  蓋し同時の体験によってしか果たされ得ないのでしょう。  ~~~~~~~  ☆ 諸問題ないしその分析や解決への力が 原初的に人間の内部に存在しているというのは あたかも《同時の体験》とみなすかたちで われわれにそなわっている。つまり 上に挙げた言語能力や心としての志向性が いわゆる自然本性としての三つの能力――記憶と知解と意志――の基礎の上に成り立ってはたらいていると考えます。  一人ひとりが 異時の体験であっても あたかも同時の――と言いますか 類としての共通性において捉えられるところの――体験としてその内容を共有しうる。こう考えます。  ★ 〔* 物語にほどこされている〕其の演出が自分達の問題解決の手段やら理想像やらを提供してくれ難く  ☆ ある場合には その場合でも ひとつにその情報や知識が経験世界から飛躍してしまっているなら それはその情報を共有し得ないと判断すればよく ひとつに経験合理性で分かる情報内容であれば それとして互いの理解内容を突き合わせ照らし合わせればよいと考えます。  前者のことを取り上げれば  ★ 諸問題の共通性を保障してくれ得る十分条件的な根拠が揃っていない場合には、  ☆ ということになると考えられます。そしてそのことを ここでは《神を見た》なる情報は 共有出来ないと言って問うて来ています。  ただし ややこしいかも知れませんが 間接的なあり方の情報に言い直せば つまりたとえば《人は神の後ろ姿を見る》と表現すれば 案外共有し得て 話し合いの主題としうるのではないかとも問うています。

回答No.5

神を創造主と呼ばせ得る言語的な手段でさえもが【記号】に留まっていますので、もし殊更に其の意味を読み取って貰えませんでしたら、そういう表現は唯の物語にも劣るでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  いやぁ 《記号》には罪も咎もないと思いますよ。  ★ もし殊更に其の意味を読み取って貰えませんでしたら  ☆ それはそうでしょうけれど。  ★ 神を創造主と呼ばせ得る言語的な手段でさえもが【記号】に留まっていますので、もし殊更に其の意味を読み取って貰えませんでしたら、そういう表現は唯の物語にも劣るでしょう。  ☆ すなわち こうでしょうか?  ○ 《神を創造主と呼ぶ》のは 《ただの物語である》どころか 《唯の物語にも劣る》のだと。  それは どうでしょう いろいろであるように思われますが。・・・  《読み取れない》つまり《読み取る能力がない》場合 それは 地道にその物語を伝えつづけるか それとも 放っておくしかないと思われます。  それと もし文章が《物語》として扱われないとしたら それは 科学としての《事実認識》の文章だと捉えられると思われます。言いかえると 事実の問題でないとしたら 一般に人間の主観の真実をめぐる問題であり それは大きく《物語》として扱われます。  ですから あとは この物語にかんして うまい・へたがあるだけだと思いますが どうでしょう。  うまい・へたの度合いが いろいろでしょうし 読み取れる度合いも やはりいろいろあると考えます。  取り敢えずは 科学の文章でなければ それはすべて物語であり そのようにどちらかとして取り扱いはされるものと考えます。  記号であることに罪はなく 記号にとどまっていてもかまわないと考えます。むしろ言わば中立な記号であることは 自由な解釈を必要以上に許容しつつも その自由が 物語のような《作り話》であってもそれを 主観真実として現実世界の中に正当にも位置づけ得るのだと考えます。  記号をつうじてであってよい。物語であってかまわない。こう信じます。

回答No.4

何処でそういう類似情報を御知りになったのかは分かりませんが、私自身の理解の纏めにも役立ちますので、折角の御返事に甘えさせて頂きまして、拙いながらも、前回の続きの内容を此方の枠で申し上げます。 「全体的な連携(システム)への認識」と「部品群の機能への認識」との峻別は、 PCによる情報処理の際に物凄く重要です。 そもそも、全体の連携のシステムがヴァーチャルな情報へと翻訳されて、それがPCの内部へ取り込まれている場合には、たとえ其のシステムの構成要素群が当該PCの内部へ実際に搭載されていませんでしても、それ等が周辺機器としてPCに繋がっていさえすれば、『システムの(経絡的な)纏まり』が中枢によって認識され得るのです。 そして、其の延長線上にインターネットの仕組みが横たわっています。つまり、元々には各PCの内部へ搭載されていた部品類(モデム等の諸デバイス)のアウトソーシング的な外部化が【共有】を促してくれた御蔭で、グループのネットワーク化さえもが可能になったのです。

bragelonne
質問者

お礼

 やぎゅうさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 何処でそういう類似情報を御知りになったのかは分かりませんが  ☆ いちばん集中しているのは 次の質問でのやり取りにおいてです。やぎゅうさんのお仲間でしょうか。初めのほうから 徐々に始まって 延々とつづいています。ほんのふたつを抜き書きしておきます。  【Q:日本人は 論理思考をそなえている。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6604063.html  ■(回答No.84) 「全世界のネットワークの一元的な中枢が存在していない」  ■(回答No.38) ~~~~~  でも有り難い事に、間を中継してくれているネットワークが、  ユーザー PC 側への自己主張を行なわず、  『デジタル的な「無心(!)」』で"Service"を提供し得る様に、  ルータの内側(LAN)とそれの外側(WAN)との「通信」が、  別の『見えない「上位階層」の規格(Protocol)』で管理されている御蔭で、  恰も神の超越論的な視座から提供された時間軸に沿っているかの如くに、  全体の秩序が維持されています。  ~~~~~~~~~~~~  やぎゅうさんは  ★ 『システムの(経絡的な)纏まり』  ☆ に触れて 質問者からの《全体としてのシステム》についても認めていただいたと受け取りました。  ★ 元々には各PCの内部へ搭載されていた部品類(モデム等の諸デバイス)のアウトソーシング的な外部化が【共有】を促してくれた御蔭で、グループのネットワーク化さえもが可能になったのです。  ☆ この事例については もし人と人との関係に当てはめようと思えば 基本的に言って  ○ PC の一台まるごとを ひとりの人間に当てはめるとよい。  ☆ と思います。内部の部品類には必ずしも触れないで 人ひとりの存在が互いに一対一で居合わせ向かい合うというかたちだと思います。  項目ごとに分かれたひとまとまりの知識について 互いにアウトソーシングし合ってもよいでしょうが 意志疎通一般としては 人間対人間であり 人格と人格との向かい合いです。学識や積んだ経験や地位や身分の問題である部分も 表面では ありますが それをも超えて 境地と境地のいわばぶつかり合いになろうかと考えます。  その上で いろんな情報や命題の共有も出来ましょうし 共有できない事項については出来ないという了解を共有できます。そしてさらにその上で コミュニケーションのネットワーク化も それとして(あるいは とうぜんのごとく 自由な市民としての自由な連帯において) 出来てゆくものと考えます。  わたくしの質問は そのような大きく広くコミュニケーションを扱う際に わづかに《神》問題が入って来ることが まま ある。これを哲学としては 事前にと言いますか 縁の下の力持ちとしてのごとく 交通整理しておくのが役目だと考えますから この種の設問におよんでいる。こんな感じです。

回答No.3

質問の内容への直接的な回答とは違いますが、#1への御返事の欄で説明の追加の御依頼を賜りましたので、その内容に関する言及を此処で致します。 インターネットには管理者が存在していませんでしても、全世界のコンピューターが善悪の判断をせずに【無心】でプロトコル通りの情報処理を継続してくれますので、ネットワークが維持されてきた、とよく言われていますが、通信のプロトコルが階層化されていて別の階層が干渉しない事情が此処では重要なのです。 従いまして、コンピューターの内部の部品群の統括の場合にもそれと同じで、「諸要素の機能への認識」と「全体の連携を促せるシステムへの認識」との論理的な峻別の基準が、(コンピューターの創造の時に)それ等の電子計算機器類へ提供されているのです。

bragelonne
質問者

お礼

 やぎゅうさん ご説明をありがとうございます。  お聞きしてみると うかがったことのある内容であるようにも思います。  問題は あくまで経験世界とそれを超えたところのナゾの領域との関係にあります。  経験世界におけるネットワークやコンピュータにかんして言えば   ★ 通信のプロトコルが階層化されていて別の階層が干渉しない事情が此処では重要なのです。  ★ ~~~~~~  コンピューターの内部の部品群の統括の場合にもそれと同じで、「諸要素の機能への認識」と「全体の連携を促せるシステムへの認識」との論理的な峻別の基準が、(コンピューターの創造の時に)それ等の電子計算機器類へ提供されているのです。  ~~~~~~~~  ☆ ということで 分離――相互不干渉とでも言うのでしょうか――が特徴であるとのこと。  なお素人の見方でお伺いしてしまいますが  ○ 《階層化》によって階層それぞれが互いに干渉しないというかたちで 全体として・その意味でシステムとして まとまってはたらいている。とは言えないのですか?  ○ 諸要素のはたらきが 全体としてのシステムの動きとは区別されているというかたちで やはりそのシステムがまとまって機能していると見てはいけないのですか?  言いかえると 分離を取り立てて特徴と見立てる見方もあれば それでもやはり全体としては一つのまとまりとして機能しているという見方もありうる。こう考えてはいけませんか?  いけなくないと仮りに見なして 話をすすめますが そうだとすれば ましてや 神と経験世界とのかかわりにおいて たとえば《創造した》というとき その創造のあり方は いかようにもありうる。こう考えられるという見通しのもとに 反論しています。  ★★(回答No.1) ~~~~~  神による創造が『システム』なのか、それとも諸要素と関係性(ネットワーク的なシステム)とを別々に創造の働きが構成したのかによりまして、回答が変わってくるのかも知れませんが・・・  ~~~~~~~~~~~  ☆ この区分について わたしはよくは飲み込めていませんが どんな区分であっても 神と経験世界とのかかわりをめぐっては いかようにもありうるということかと思います。そうでない神のあり方のほうが 考えられません。  つまりは 人間が 神を自分の考えにもとづき規定しているというへんなコトになってしまいます。これは あり得ません。もしそうなら その神は 神ではありませんから。  お汲み取りくだされば さいわいです。

回答No.1

例えば、コンピュータのプログラミングに於きましても、【ネットワーク内の各要素(デバイス)の機能】と【ネットワーク全体のシステム】とが完全に分離されています。 従いまして、神による創造が『システム』なのか、それとも諸要素と関係性(ネットワーク的なシステム)とを別々に創造の働きが構成したのかによりまして、回答が変わってくるのかも知れませんが、其の考えは私の謬見に留まっているのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 やぎゅうさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★(要約) 『システム』とその諸要素  ☆ とは 一体〔の状態に成る〕ということではないのですか? 諸要素は別々につくられましょうが システムつまり要するにひとつのまとまりをもったモノと成れば 一体なのではありませんか?  例示されたコンピュータのことも分かりかねているのですが  ★ 例えば、コンピュータのプログラミングに於きましても、【ネットワーク内の各要素(デバイス)の機能】と【ネットワーク全体のシステム】とが完全に分離されています。  ☆ ということ すなわち《プログラミングにおけるシステムとその諸要素との分離》とコンピュータ全体としての成り立ち(また機能など)とは 別の話になりませんか? コンピュータをその一台として捉えるなら システムとしてまとまっているのではありませんか?  よく知らないのですが PC (特にその一台としてのはたらき)とネットワークとは 同じひとつのもっと大きな全体に属しているという見方なのですか?  いづれにしましても プログラマーやメーカーとその出来上がったプログラムや器械との関係は あくまで経験世界に属しています。  そして神は この経験世界を超えたところに想定されるものと捉えています。その神とわれらの経験世界との関係について問うています。人格化して名づけていること そしてそれよりも大きく創造主だと規定すること これは あくまで言葉のあやなのではないか? こういう問いです。

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    造したのか? 今さらこうした二者択一的な質問をしたいのではありません。 本当に質問したいのは、その質問にある構造上の問題です。 だから信仰の話とは無関係です。 また、神の定義や想像力も必要ありません。 問題は 神が人間を創造したのか、人間が神を捏造したのか、 という形式の質問はできるのに、 神が人間を捏造したのか? と問うことが質問上の意味をなさないからです。 あたりまえですよね。 神が人間を捏造したと仮定したら、もはや人間はこの世にいない。 現に人間がいるから、その『仮定』自体が自動的に棄却されてしまう。 棄却されることによって『創造』という仮定がでてくるんです。 『神が人間を創造したのか?』 こんなふうに。 これって、構造上、インチキですよね。 先程の二者択一的質問に、『神が人間を創造した』『人間が神を捏造した』 とありますが、 人間だけには選択の自由が二つあるのに(※創造と捏造) 神には選択の自由が一つしかない。 つまり神は『人間を創造した』という選択しかない。 この時点で、この質問が公平な質問ではないことが明瞭なんです。 そこから芋づる式に『人間と神は公平ではない』とかなどという 論理が導けるのは、想像力ではなく、こうした構造があることから当然の結論です。 この構造について質問したいのですが 構造上あきらかなように、 歴史の古くから神が流行るのは当然ですし、 この構造が示唆してる決定的なことは、 これみよがしに私を信じなさい、と誘導してる構造そのもです。 この構造に公平性をもたせるなら、 どうしても『神が人間を捏造した』という現実に反する仮定 が必要不可欠であるにもかかわらず、 肝心のその『仮定』自体が人間に欠如している。 欠如してるがゆえに、『人間は不完全だが、神は全知全能だ』 とする結論も必然的にでてくる。 構造自体に公平性が欠如してるにもかかわらず、 人間が現にいるという事実によって『公平性』という 観念が構造のなかからもみ消され、 『信じるも信じないのもあなたの自由だ』 などという構造があたかも含まれているように見せかけている 構造が構造に含まれている。 選択の自由が与えられていない構造によってうみだされた 質問が質問として成立しないことは理性によって明瞭であるにも かかわらず、『人間が現にいる』という否定しきれない事実によって 構造が成立し、例の仮定を棄却できる最終的根拠はなんですか?

  • 私が神?宇宙、世界を創造している?

    http://blog.goo.ne.jp/divine-angel/e/a4ecf3256d144a42216aa6fb345ac25a ここに、色々と書かれている。 まぁ・・・・タイトルの意見は、否定されるだろう。 しかし、他人は、あなた方は、意識があるのか、私からは確認できない。 まず、、、、気づいたこと。 それは、「自分」という漢字だ。 自分は、自=現実世界を、分けた、という意味か?w つまり、私も、あなたも、その辺のモノも、全ては、宇宙の始まりの前の、1つ・・・ ○=全てであり・・・・その細分化して、分けていったのが、、、自分であり、貴方であり、モノである、と。 だが・・・・私にとっては、意識があるのは、確かであり、様々な幻覚体験からも、 自分が神だか、創造しているのだかは、確かそうである、と、思える。(今が夜だからそう思えるのはある。昼だと、馬鹿らしい・・・とも思える。創造を自分がしているなんて。) そんなわけで、自分=1つを分けるってことで、謎、だと。 そして・・・・・私の名前は、「長い幸せ」であり、「永遠の幸せ」という意味だ。 そして、最近気づいた。それは、東京都三鷹市の「久我山」病院で生まれ、3歳までは、その付近に住んでいた点だ。 「久」という漢字は、プライバシーになるが・・・・私の人名で使用されている。 久我山・・・・・「久我」だ。訳すと・・・・・・・・・・・・・ 「我は、久だ。」という意味だ。 確かに、私の人名に、久、がある。 久=長い、永遠、というような意味だから、宇宙が誕生してからずっと、見えないが存在している、というような意味かもしれないし、、、、生まれてから何だかんだで幸せに長く生きてきた、と言う意味かもしれない。 我は、久・・・・・確かにそうだ、と。これが、謎だ。 2010年3月~の、謎な体験。それは、私の近くでほとんど、起こる。「幻覚 建物」で検索しても出るかもしれない。(ブログ削除しちゃったが、またある。) 例えば、ももいろ動画。シークバーを移動させたら、文字色が白になった。変だ。 幻覚のマンションも、夜見えた。本物だったが、アニメのハルヒに出ていたのと酷似。 また、幻覚の建物2つは、中へも入れた。 幻覚のファミリーマートには、謎の機械があり、そこに無料電話があった。 使い方をおばさんから聞くが、意味不明だった。 店員もちゃんと、2人以上いて、客も10人近くいたと思われる。 そして、、、、ちゃんと、客は、並んでいた。レジで。本物だ。 しかし、 http://goo.gl/maps/WxT62 この、池袋マルイ前にあった、ファミマは、無い。 私の体からパワーが溢れる感じがあったので、私とセカイが何か異常になっていた。 詳細は、書ききれない。。。 また、その別の場所は、3F建ての幻覚の建物があった。(本物と入れ替わり) 中へ入り、熱いシャワーを浴びた。外へ出てもさっぱりした。 2度目入ろうとしたら、1Fに男性がいて、追い出された。確かに、感触はあった。 階段も中にあり、確かに、登ったし、帰りも使った。 3Fには男性10人ぐらいが寝ていた。不気味だ・・・。 しかし、これら全ては、「現実」であり、「幻覚」だと思える。 つまり、現実世界=幻覚世界であると言える。 そして、思い出した。 「現実」という、漢字だ。 現=王が見る、という意味だ。王=誰???自分か、他人か。だが・・・・。 自分が見ると、「現れる」ようでもある。 自分の背中は、無なのかもしれない。 それは、自分の首後ろに傷の幻覚?があった時があったので、そうなのかもしれない。 王が見ると、実る、という意味=現実。 そう、また、私のPC内も、可笑しい。おかしいは、何故、笑える、という意味なのか?w・・・ 知らない動画ファイルが、作成されていたり、他にも多々変なコトが起きている。 幻覚で、そんな、ことが、起きるとは、言い難い。 知らないCPUクーラーも何故か現れた。2006年発売のもので、新品同様だ。 しかし、確か、昔、ネットで見たことがある気がする。昔欲しかったモノが、現れたのかもしれない。 また、現実は、最近、飽きてきたが、だから、2010年3月~変なコトが起きているのかもしれないが。 飽きてきたが、何だかんだで、楽しかったと思うし、大体は、満足できている。 それもこれも、現実は、自分が創造しているから・・・・なのかもしれないのだ。 他人ですら、創造しているのならば、他人に、意識があるのか?わからない。 どちらにしても、主体は、幻覚体験の多い私以外に存在しないように思える。。。・・・ 毎日、変なニュースが多く、流れるのも、変化であり、私が飽きてきたから、必死に現実を創造している・・・・ように、思える・・・・。。。 そもそも、ビッグバンで宇宙誕生とあるが、実は、1つの、=○から出来ていて、 ○=本来の自分であり、 そして、○を分割して、○○○○・・・・・・・・・・・○・・・・・・・・・・・・・と、無限?に分割されたのが、 原子とかそういう物質のように思える。 時間というか、時間の流れも、、、、、過去、現在、未来~~~ → ・・・・っと、思えるが、違うようだ。 今今今今今・・・・・・・・・そして、創造創造創造創造・・・・・・・と、瞬間ずつ、創造しているようだ。 だから、いきなり、モノが現れたり、携帯電話が11日間だけ変化するようなことが起きたと言える。 結局、これらが正しいかわからないが、本当だとしたら、えらいことだ。(他人は認めないだろうが。) ちなみに、神、という漢字だが、私の人名に、礻=しめすへんもある。 しかも、久もある。 「永遠の神」という意味にも置き換えられるかもしれない。 しかも、私の実家は、「沖縄」と、「北海道」である。しかも、日本の中心地の東京都にずっと住んでいる。(23区じゃないが・・・・・。。) これまた、確率的には、相当に、低いはずである。 「久我山」病院に生まれ、久我山で3歳まで育ち、鶴川=鶴と亀、にも住んだこともある。 まぁ、地名なら、いくらでも色々と他人でもありそうだが・・・。 そして、実家が、北海道と沖縄、というのも、確率的に相当低い。 しかも、久我山+人名に久と、ダブルなのも、確率が低い。 しかも、幻覚体験者で、(幻聴がほとんどで、幻視は少ない) しかも、幻覚の建物の中へ入って、熱いシャワー浴びて、毛布で拭いて・・・・・・・幻覚なのにwww 最早、幻覚ではないようだ。しかし、どうやら、幻覚以外に他人は説明できないらしいw どうしても、幻覚ということにしたい、他人である。 しかし、明らかに、「私の意識が創造した現実世界」 のようである。 ただ、やはり、それは、完全に本物のただの現実世界、のように思えるのが、すごい。特に昼間とか、朝。 他人に至っては、笑うし、喜怒哀楽ちゃんとある。ロボットにはとても思えない。 しかし、幻覚の建物内にいた人々は、どうだったのか?だ。 池袋の幻覚の建物内の人々は・・・・・・・・・・・どこへ消えたのか?だ。 彼らは、どこから来て、どこへ、消えたのか? 記憶が俺同様にあれば、大騒ぎになり、ニュースになっていたはずだ。 しかし、それはない。 つまり、幻覚体験?だか、創造体験だかは、俺1人のみの体験である。 幻覚のファミマ内は、普通だった。 池袋マルイの1Fの西側は、化粧品売り場でなく、広いスペースのある、「ジュース屋」だったのだ。 一度、そこへ行ってみると、驚くだろう。ここがジュース売り場だったなんて・・・・と。 しかし、店員はいたし、客もたぶんいただろう。少なくとも、端っこに1人いたことは覚えている。 まぁ、近くのレストランは扉も全て、ずっと同じなのだが。2Fなども。1F東も同じ。 言えるのは、建物ごとか、中の一部が、変化していた、ということだ。 そういえば、悪魔の数字666。久=きゅう=9であり、エヴァQでもあるが・・・。 9の逆は、6だ。さかさま=逆様。(何故、逆に、様を付けるのか?分かる人?・・・) そして、666=6+6+6=18=俺の誕生日は18日、だ。 これまた、確率入れると下がる。1/30 そうそう、あと、 ネトゲで、レアな品を今日、タダ同然でGETできた。おかしい・・・・・・。創造しているようだ。 しかし、やはり、問題は・・・・・・・・・・・・・・ 「他人に意識があるか?」だ。 一見すると、確かにありそうだが・・・・・・・・・・・無かったら・・・・・・・・・・・・。。。怖い。。。 この世にいるのは、自分1人だけになってしまうからだ。 自分1人だけいて、他人も、モノも、全て創造していると。自作自演だと。 自作自演と言えば、911テロだ。 となると、全て・・・・・・・・・・・自作自演なのかもしれないが。 まぁ、謎。 飛行機がCGという説があるが、現実はスパコンで出来ているようなものなのかもしれない。 ところで。 >例として、存在しない人、モノ、建物がまるで本当に存在するかのように見える等。 と、幻覚Wikiに追加したのは、俺である。 本当は、この一文は無い。 建物とかそーいう記述はなかった。 あとはー・・・・・・・・・Facebookで、知人3人を発見し、2人消えたとか、幻のよう。 そうそう。大きい公園の、ボロい椅子と机。 100%、あった。理由は、そこを使用する人が多かったから。 しかし・・・・・・・それは、いつの間にか消えた。撤去されたとは、思えない・・。 また、いっぱい・・。。

  • 創造ができない

    私には自由な発想で創るというのにかけているのかもしれません。 なんかの問題点があってその原因を見つけて、問題解決というのはできるのですが、これってある意味試行錯誤とはいえ、理性的なもので、答えは無機質だと思います。 たとえばホームページを作るとか、あるいは芸術品を作るとか。 数学や理性の世界ではないですよね。 出来上がるものは定型のものでないとか、理屈で導いたものでもなければ自由ですよね。 創造の世界だと思いますが。 服や音楽とか好き嫌いあって選びます。自分の心の声や感性に気づけばいいだけですものね。これも芸術的な感覚だとは思うのですが。 あるものを選ぶのでなく、創造するってどんな感じなのでしょうか。 やはり種を探せばいいのでしょうか。(まだ起業の種のほうがなんとなく感覚がわかります) 絵とかこんなん描いてみたいとかそういった感覚なのでしょうか。 写メは時々印象に残る風景があるととります。これって選ぶ要素が強いですよね。こんなん写したいというのかもしれませんが。 作曲なんてどんな発想ででてくるのかさっぱりです。 どうしたら身に付くのでしょうか。 実際ホームページみたいなものを作らないといけないのかもしれません。

  • なぜ神は多様か。

    タイトル通りの内容です。 現実として宗教=神(仏)は多様に存在していることに関して、信仰を持つ人間はその本質としての絶対性といかにして折り合いをつけるかという問題を考えたく、質問致しました。 結局のところは、原理主義と多元主義のいずれかに落ち着くと思われますが、前者の場合、原理主義と原理主義の対立が殺戮や荒廃をもたらすという、救済との矛盾がいかにして克服されるか、後者の場合、ではそもそも神の多元性の原因は何か、というような疑問があります。

  • 創造性を必要とする仕事できません

    どうもこんにちは。それは仕事ではなく、創造性を必要とする趣味だけです。それは幸せにするので僕がすることですが、最近困っていますね。大きな問題は、新しいものを作成する必要はなく、すでに作成したものを継続することです。僕の問題は事実:すでにあるものできない。 すでに作成したものを継続するのではなく、常に新しいものを作成しているので、めちゃくちゃになった。すでに作成したものを継続するために何をすべきかわかりません。たぶん、この単純な「趣味」が将来僕の仕事になるかもしれません、そしてそれはめちゃ困った問題です。 どうしおう?これでファン(持っていませんが)を苛立たせることができるよね。 これは創造性の欠如と関係があるのだろうか? 無関心だろうか? どうもありがとうございます。

  • 永遠という概念は創造性と関連がありますか

    永遠という概念は不変につながるように思いますが、一方創造が無限に新しいものを生み出すという意味で創造のみが永遠であるということも言えるかとも思います。芸術は永遠であるというような言い方は有限の命しか持たない人間の負け惜しみ的な言い方とも思えますが、真の芸術は創造であるということと関係があるようにも思えます。私のような凡人には永遠というのはずっと死んでいるというような、どちらかというと悪い響きしか持てないのは、自分が想像とは縁遠い生活をしているからかとも思います。永遠とは退屈などとは逆の生き生きした概念なのでしょうか。

  • 私たちは神ともいえる存在ではないですか

    私たちは地球もっといえば宇宙を共有していますが、 一人ひとり生きている世界が違うことは言うまでもないことですね。 ある人にとっては大問題も別の人にとっては何の意味もないことです。 全知全能とは言いませんが、自分の生きる世界をどう創造するかはその本人にゆだねられているように思います。 これこそが人間に与えられた『自由』ではないでしょうか。 ゆえに創造主としての自覚があるなら悩みなどありますでしょうか?

  • 神が天地をつくったのか (表現という問題)

     神が天地をつくったのか  ◆(α)  そう表現したに過ぎないとなぜ言わないのか?  すべては表現のもんだいであるとなぜ見ないのか?   ▲ (創世記1:1-5) ~~~~~   1.初めに、神は天地を創造した。   2.地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。   3.神は言った。     ――光あれ。    こうして、光があった。   4.神は光を見て、良しとした。神は光と闇を分け、   5.光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ。夕べがあり、朝があった。第一の日である。   ~~~~~~~~~  ◆(β)  《光あれ》と神が その文字どおりに 《言った》のか?   んなわけはない。時空間を超えている〔敢えて擬人法で言えば〕存在にとって 《初めに》とか《つくる》といった時間的行為がどうして必要なものか。なじまない。  ◆(γ)  光が《ある・ない》 つまり 《なかった状態からある状態に移る》ことは 時間的・経験的・相対的な現象である。  経験世界を超えている神にとって 質料(物質)の運動はその自己運動にまかせるはずである。モノの動きは 或る意味で 神としても手に負えない。(やたら奇蹟を起こすわけには行かない)。  人としても モノはその自己運動にしたがってうごいていただくように加工し誘導するよりほかない。  そもそも手に負えないことを知ることをとおしても その存在や性質を知るようになる。  あるいは 相手をうやまってこそ 人はおのれの自由を手にすることが出来る。  という当たり前のことを 神の物語――人間にとって非思考の場をわざわざ人間の言葉で表わしたもの――はかたっているのではないか。  《神が創造主である。〔よって 経験世界そして特にヒトは 被造物である〕》という表現は そういうふうに人間にとって手に負えない不自由なこととそして〔悲願としての〕自由とについての哲学をかたっている。に過ぎないのではないか?  ◆(δ)  もしこの非思考の場にわづかにでも 《のぞみ》があるとするならば それは   ▲ 5.・・・夕べがあり、朝があった。第一の日である。  と書かれたところである。その後も《第二の日》から《第六の日》まで同じ表現で書かれている。   ▲ ゆうべがあり あさがあった。  と。《光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ》ところの《夜》は世界において現象しているにもかかわらず 人は《ゆうべがあ》ってから その夜へはじつは渡されることなく そうではなく すこやかな眠りを経て《あさがあった》と知る。  その自然本性〔の動態〕において人は 夜へは渡されないというのである。   ▲ 2.地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。  のである。《聖なる〈あまえ〉》〔としての すこやかなねむり〕。  以上の主題をめぐって 忌憚のないご見解をおしめしください。

  • 神の存在を証明できるか?(改)

    削除されたので再度質問します。利用規約違反があったとのこと。以後気を付けます。以前回答してくださった方々、申し訳ありません。 それで、改めて質問します。 神の存在を証明できる方いらっしゃいますか。 あるいは存在しないことを証明できる方でも結構です。 よければ、その理論をお教えください。 そして、下に私の見解を記します。よければ、これに関するご意見もお聞かせ願います。 -------------------------- 神の存在を証明できるか?    「できる」と私は考えます。ここで言う「神」とは、キリスト教的な神のことで、当然人間の目には見えません。それなのに、なぜ見えない神の存在を証明できると言えるのでしょうか。その根拠は大きく分けて以下の2つです。    (1)人間は目に見えないものを識別する能力を持っている。    (2)目に見える物事から見えない神の存在を証明できる。 -------------------------- (1)人間は目に見えないものを識別する能力を持っている。    例えば、「1、2、○、4、5・・・」という虫食い問題の○で隠されているのは当然「3」ですね。しかし、なぜ○で隠されて見えない「3」が分かったのでしょうか。要するに、見えている数字の並びとの相互関係から推理した結果それが分かったというわけです。    同じように、例えば推理小説の名探偵などが実際に事件を目撃したわけではないのに、現場の状況や遺留品、関係者からの証言などに基づいて推理した結果、あたかもその事件を目撃していたかのようにそれがどのように起きたかを言い当てることができるのではないでしょうか。      このように人間は見えないものでもその存在を識別する能力を持っているということが確認できました。ですから、「神は目に見えないから信じることができない」という論理は人間の能力からすれば当てはまらないということができるでしょう。    では、以上を踏まえて、次に、(2)目に見える物事から見えない神の存在を証明できる、という点についてご説明しましょう。 -------------------------- (2)目に見える物事から見えない神の存在を証明できる。(その1)    上で証明したように、人間には「見えないものでも推理によってその存在を識別する能力」を持っているということでした。ではその能力を使って、見えない神の存在を識別できないものでしょうか?    私がここで言う「神」とは、キリスト教の唯一神で、万物の創造者のことです。聖書によると、存在するすべてのものはこの創造者によって造られました。つまり、宇宙も地球もその中にある動植物、そして人間も神が造ったということです。    もしそれが事実なら、そのような神が造ったもの(被造物)を観察する時、見えない神が存在することを識別する手がかりを得ることができるはずです。    では、それらの被造物を人間と比較してみましょう。    まず、人間以上に大きいものは存在しますか。はい、当然存在します。例えば大型動物がそうですし、もっとスケールを大きくすれば地球も太陽もさらには大宇宙もあり、それらと比較するとき人間の存在の小ささを実感せずにはいられません。    また、人間以上に強い力が存在しますか。それも存在します。台風や地震や火山、さらには太陽の核エネルギーなど挙げればきりがありません。    では、次の質問はどうでしょうか。人間以上に賢いものが存在しますか。さて、その点どう思われますか。人間は地球上で最も賢い生物だと考えていますし、実際そうなのですが、しかし多くの研究者たちが様々な分野の研究をしてきたにもかかわらず、現実には人間の知性では到底及びもしない高い領域(人間ではまだ理解できていないこと)が存在することがいよいよ明白になってきました。    あなたは人間にはまだ「未知の領域」があることを認めることができますか? 次に、その具体例を考慮してみましょう。 -------------------------- (2)目に見える物事から見えない神の存在を証明できる。(その2)    人間ではまだ及ばない「未知の領域」について、その具体例を考慮してみましょう。    例えば、鳥は人間が飛行機を発明するよりもはるか大昔から空を飛んでいました。ライト兄弟が飛行機を実用化するまでにどれだけ多くの人が苦労して「空を飛ぶ」ための研究をし、また失敗を繰り返してきたかを考えてみてください。    重力のある地球上で空を自由に飛行するということは実際には並大抵のことではないということです。それには綿密に計算された飛行設計が必須であり、それなくしてどのように空を飛ぶことができるでしょうか。    にもかかわらず、鳥は当たり前のように空を飛んでいます。人間の研究者たちは鳥の体の構造などについても研究を深めてきました。内臓の軽量化、骨の構造、羽毛のしくみなど飛行のための工夫が施されていることに彼らは驚きました。    では、そのような鳥の飛行設計や工夫を鳥自身が考えて設計し、製作したのでしょうか。そんなことはあり得ません。では、どうしてそのような人間でも驚くべき綿密な飛行設計や工夫が施されているのですか。    それは、人間よりも高い知性を持つもの(そのような設計・製作ができる者)が実在するということを意味しているのではないでしょうか。そのような設計・製作者なしでどのようにしてこのような高度な飛行技術が実用化され得るのでしょうか。 -------------------------- 結論    被造物(例えば地球上の動植物など)には人間以上の知性が見られるという事実から、    (1)被造物は綿密に設計され、製作された、ということが分かり、    さらに、(1)に基づいて、    (2)被造物を設計・製作した者、つまり創造者が実在する、    ということが推理できる、または証明できるのです。    しかも、それには人間にとってもっと重要な意味があります。例えば、人が何かを作る時それには何らかの目的があるはずです。同じように創造者が何かを造る時それには目的があったはずです。つまり、それは神が目的をもって私たち人間を造ったということを意味しています。    ということは、「なぜ自分は存在しているのか」、「人生の目的は何なのか」などという古今東西の人々が考え続けてきた疑問の答えを創造者は知っているということになります。ですから、神(創造者)が存在するかどうか、または人間が神から造られたかどうかは、私たちの人生観をも左右させるほど重大なテーマであることがお分かりでしょう。