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「魔女の宅急便」をみてユートピアを考えました
- 「魔女の宅急便」はスタジオ・ジブリのアニメーション映画で、久しぶりのテレビ再放送をみて、ユートピアを考えました。
- 町は、アドリア海に面する坂の町かつ石の町のイメージで、時代は1950年ぐらいでしょうか?町にはキリスト教会を彷彿とする時計塔があり、シトロエン風のトラクシオン・アヴァンや、運転手と車掌の2名乗務のディーゼル・バスが走っているかと思えば、白黒のブラウン管テレビの放送があったり、トランジスタラジオがあるとおもえば、パン屋はマキを燃料とする竈(カマド)でパンを焼き、1930年代のツェッペリン号のような飛行船が飛来したりする想像上の町です。
- すべて過去に人類が実現した生活・技術の組み合わせでありながら、現代の人類が経験している、競争社会、ストレス社会、うつ病社会、孤立社会とは異なり、なにか人と人の繋がり(あるいは魔女と人のつながり)があって、実際に見たこともない街に郷愁を感じる事です。
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思想家のボードリヤール曰く、人類は帆船でずっと満足していたのに、蒸気船が現れるや、大量消費社会が加速して人類は帆船での満足を忘れてしまいましたとさ。 人は帆船に紀元前から乗っていますから、実に長いつきあいですね。 今なお、商船学校や外国の海軍や日本の自衛隊は帆船の訓練で若者を鍛えています。蒸気船やその他の汽船を操らせるより落第生を出しやすく意義深いと考えているのでしょうか。だとしても、21世紀の人類は、行為と技術が饗応しあうロー・テク(スロー・テクと言うべきなんでしょうけど)の満足感をまだ忘れていないのに違いありません。それでいながら、短絡的に目先走った利便性と効率を選択している。資本の奴隷となった人類は矛盾した生き物なのですね。 行為と技術の饗応にも増して人間を誘惑するものについて切り込んでいこうとすると、わたしは、貨幣と言葉がもたらす対等な交換関係に思い当たります。 貨幣と言葉の、中毒をおこさせるかのような魔法のような、長距離の交換に耐え、力を誇示するのに都合好く、使用領域が広がるほど損失リスクの高まる、そんなもろもろの性質が、人類の大脳辺縁系を刺激するのに為すがままではないですか。 大衆性と容易性とゲーム性とがセットになっているものに、人類の大脳は弱いように思うのです。安い・早い・うまいのセットみたいな、ね。 もうひとつ思い当たるのは、中世以前の国家が戦争に勝利することの重大さです。国力を蓄えておくこと、有利な武器を持つこと、他国と相互援助関係を築いておくこと、海路や陸路を迅速に拓けること、そうした需要に応える科学技術がどれほど魅惑的であったかです。 貨幣と言葉の交換機関といえば市場ですが、科学技術の発明がこの市場に出るとき、歴史の動きは、その技術の扱いやすさと普及へと伸びて、一般化と簡易化をもたらすとともに、独占や差異化で優位に立とうとする者を生み出すのではないでしょうか。 ここまでの話なら、スロー・テクでないにしても、ユートピア的社会を妨げる要素ではないのかもしれませんね。大脳辺縁系の刺激に酔い、貨幣と情報を駆け巡らせ、戦争に有利な国家体制をととのえるからといって、それだけなら民衆は愉快に裕福に暮らしそうで、いかにもヨーロッパが夢見たようなユートピアです。競争や競合があっても、好機会を手に入れて挽回できる規模と速度の社会にとどまっていられるなら、でしょうか。 もちろんそこにとどまっていられないうちに荒廃した、近代人の精神のほうの問題にも目を向けないとなりません。 産業革命後、大衆と資本主義が誕生し、人はマネーを介して、消費者としての大衆の奴隷になり、時間の奴隷になり、生産消費構造としての労働の奴隷になりました。また、曖昧模糊とした地域史との繋がりが断たれたことで一見明瞭な閉鎖的論理を弄ぶ自己充足の奴隷になったといえるでしょう。 蒸気機関で、遊園地を作ったのではなかった人類は、たぶん自分らが奴隷になれる大きな力を生み出したかったのではないでしょうか? すでに神は死んでいたのでしょうね。神授の権利だった王の処刑をやりとげるのも間もなくでしたから。 個人とは自由人なるものの発明であったか、という問題に21世紀まだ答えが出ていないようです。神にかわる「大いなる力」を社会全体の目線で見出せる日が来ると、変わるのかもしれない、なんて回答はどうでしょうか。
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- amaguappa
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結論を忘れないうちに序文本論をすっとばして書きますと、人は長生きしすぎていますね! 活字と電信に始まり飛行機とウェブに至って全世界網へ拡張した空間的連絡が、どれだけ、1人から家族から一族から共同体からの、単位で生きることの人の閉鎖と孤独を奪い去ったかということと、世代を超える大量の交流を容易にしたかということを考えました。つまり、時間的連絡も密になったし拡張もしたんですね。 物理的に、次世代との断絶がないという状態には、徒労や台無しや非効率さが現れにくいのではないでしょうか。 たぶん効率的に簡易に引き継ぎすぎている。理念よりさらに深い真髄を伝えるには時間がたりないが技術と方法を伝えるには時間が足りるという具合。 3歩進んで2歩下がるくらい世代交代でもたついていたら、案外世界はこんな方向に進んでいないかもしれない。。。と思うのでした。
お礼
有難うございます。 なるほど、現代の便利な交通や通信が、必要な孤独・孤立を剥奪していると。 そしてそれが非効率を解消し、伝承時間を短縮し、それがあだとなって理念より深い真髄なるものが伝わなくなった、、、。深いですね。
- Revoltes
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>われわれに欠けているモノは何か? 「われわれに過剰なモノは何か?」ではないと思った理由を聞かせてください。
お礼
有難うございます。
補足
過剰なものは沢山ありすぎて、回答欄に書ききれないと思ったからです。
>個人の自律性が確立されないことが、ユートピアの実現を阻んでいるという事でしょうか。 テクノロジー、大量消費社会、市場原理主義(資本主義) と多面的重層的に攻められると、自律性など保てないのではないかと思います。結果ますますテクノロジーと大量消費社会に振り回されて生きるようになる。 どれか一つというのではなく、すべての面で対抗措置を取れなければ、いずれ絡め捕られ、歯車にさせられ、行き着く先は機械の星ではなかろうかと思います。 生活様式を立て直し、市場原理主義に懐疑を抱き、テクノロジーをコントロールできれば、また違った未来が描けるかもしれません。
お礼
ありがとうございます。 原子力の平和利用に対する感情的反発のうねりを見るにつけ、機械の星にはならず、政治と飢餓の星になるような気がしますが、、。
- heartmind
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「人間系の問題」は確かに社会問題であると思います。 原発問題においても、人間の為の手段であるはず技術なのに 技術の為の技術になってしまった。 こういう話になると卵が先か鶏が先かになっちゃいます。 つまり、人間の為の技術が発達した為に、人間は人間や 自然より、技術に関心がいくような生活になってしまう。 しかし技術はもともと自然からのインスピレーションで 作られたものであり、自然の摂理の物語は、人類が誕生 する前からあるという前提が科学であるけど、その前提 を気づいた時より人間は科学という概念を発見したので あってとなってしまい・・・・・。 人間の本能的なインセンティブがそのまま職業になることが望ましい とすれば、それはそのまま、原発問題という人間の科学への業の問題 は解決できないということになってしまう。 芸術や科学の自律と硬直問題は、人間社会への無関心から始まるという 問題を置き去りにはできない。 自然さえあったらいつでも戻れると思って現代まで来たんじゃないかと 私は勝手に想像します。 だから休耕地にソーラーパネルだけはやっぱり反対ですかね。それほど 変換効率がいいわけでもないし、代わりに平地にも木を植えて木材 作ったら涼しいし、伐採コストも斜面よりかからないしいいかも。
お礼
ありがとうございます。 人類は感情が理性をう回ってしまうので、核兵器よりも先に原子力発電所を廃絶してしまうのじゃないかと思っています。 そして、理性を否定するエゴのうねりが、太陽光発電パネルを赤道直下に設置せず、北回帰線よりも北の島にある家々の屋根に乗せてしまうでしょう。
- amaguappa
- ベストアンサー率36% (140/385)
おお、アウフヘーベンしましょう。となりますと、 身体接続のネットの時代になれば、リアルな知覚刺激をとおしてネットの仮想ライフをどうぞ。 好ましい労働をし、蓄財し、趣味活動し、交流し、分子で栄養摂取しながら食事を味わい、性交したり子供を作ったりし、好きな家に住み、家族友人に見守られて大往生をするにあたって、最低限の費用で済むような仕組みが未来に実現するかもしれません。そうすると、この実感仮想ライフのかたわら、リアルの肉体のメンテナンス、遺体処理、ネット環境維持にたずさわる職業には、いったい何の栄光があるのでしょうね。
お礼
ありがとうございます。 >リアルの肉体のメンテナンス、遺体処理、ネット環境維持にたずさわる職業 たしかに、IT業界では、KKK、といってもKu Klux Klanじゃなくて、「キツイ」「キビシイ」「帰れない」というKKKが有るそうですね。3Kではたりなくて、「気が休まらない」、「給料が安い」、「キリがない」、「結婚できない」の四つを加えて7Kっていうのもあるそうです。 きっと、死体処理業界にも同じようなやみが有るのでしょうね。 で、死体処理業はなり手が減少して、需要供給関係から賃金が高騰し、やがて週に1日だけ死体処理業をやると、残りの6日は仮想ユートピアに暮らす生活が可能になる。 そんな生活を長いとこと続けていると、「ある朝目覚めると巨大な虫になっていた、、、」なんてこともあるかもしれない。どっちの姿が本当の自分かは判定不能になるんだね。 しかし、現実の世の中の現実の職業には、「いったい何の栄光があるのでしょうね。」
- heartmind
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>日本が自前の森林資源を賢く使えるようになると、 >それは一歩、ユートピアに近づくと思います。 この意見には賛成いたします。賢く使うをさらに進めるといろいろ な土砂災害や、過疎地問題などさまざまな問題が解決できそうです。 しかし、賢く使うというのは、資源をより人間にとって効果的に 使うことだと思います。 その手段が例えば「スマートフォン」ではないかと思っているのです。 (もちろんスマートフォン単体でそこまでできるとも思えませんが) つまり「スマートフォン」への人間の欲望は、いわゆる物欲と逆向きの 欲望ではないかと思うのです。それは電子書籍しかりです。 なのであれにデコるっていう発想は、ガラパゴス的ともいえるんじゃな いでしょうか。(それはそれで面白いかもしれないけど) 人間のノスタルジアな情緒は、過去の有効な情報を記憶しておく為の 強かな知恵であり、またそれは、日本人の情緒的な「なくてぞ」の有 が無に変化する心像の美しさも例外ではないんじゃないかと思うのですが。
お礼
ありがとうございます。 そうですね。スマートフォン自体が問題なのではなくて、上手く使えない子供たち、中毒になってしまう子供を躾けられない大人たちなど、「人間系の問題」があるだけなんでしょうね。
- masa2211
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No.33 >技術や製品を考えてるのでは無くて、それを使いこなせない社会、間違って使ってしまう社会、社会を考えているということが理解いただけないのですね。 そういうことを話題にしたいのなら、私の回答は ・間違った技術の使い方とは、ある時点の技術で封印し、それ以上の発展を拒否すること を筆頭に上げる と解釈してもらってかまいません。 ※「洗脳」とどっちが悪質かといいわれると言葉につまるけど。 で、ここまでの皆さんの回答で明白なことは、 ・各人の理想は異なる。 ということでしょ? 最初に戻って、 >なぜユートピアを実現できないのか のユートピアとは、Mokuzo100nennさんにとっての理想社会を意味するから、Mokuzo100nennさん以外にとっては ユートピアでもなんでもない社会を意味します。 ※Mokuzo100nennさんにとっての理想社会は私にとっては理想社会ではないことは明示済です。 そうなれば、ユートピアを実現するために最初に必要なことはただ1つ。 ・Mokuzo100nennさんにとっての理想社会を、ほかの人に納得させること。 手っ取り早いのは「洗脳」ですが、これって、間違った技術の使いかたであることの社会的コンセンサスを得ていますよね。 よって、なぜユートピアを実現できないかの回答。 ・「洗脳」するしかないけれど、それはは技術的には反則技にカウントされるため使えない(Mokuzo100nennさん自身は使っていない)ため。 別 回答。事実上、上の回答と同義。 ・Mokuzo100nennさんにとっての理想社会を他人に同意してもらうための努力が足りない。 ※Mokuzo100nennさんにとっての理想社会が実現するようなら、私は徹底抗戦にまわりますよ。 技術や製品をそれを使いこなせない社会、間違って使ってしまう社会、 ということに忠実に回答すればそうなります。 反論あったらどうぞ。できれば、「洗脳」は、技術を間違って使ってしまうことに該当しない(または、洗脳は不要である) という方向で反論してほしいです。あなた自身が要望したことなので。
お礼
万人にとってのユートピアは定義さえできないということでしょうかね。
>社会が自律分散型になるためには、通貨と言語と交通・物流を統合・統一しないいうことが必要なんでしょうね。 いいえ。それだけでは分割された小国家の内部は保証されません。自律分散型社会の要件は「構成要素の自律性」です。構成要素は国ではなくあくまでも個人でしょうから、まずは個人の自律性の問題から煮詰めていきたいです。 そこで、コミュニティーとテクノロジーが絡んできます。 人間の脳の進化過程からすると、人間が共同体意識を保てるのは百数十人くらいまでだろうと思われます。農村がまさに典型的な形態です。これくらいの閉鎖的で自給自足の集団を、おそらく一義的にコミュニティーと呼ぶのであって、都市における所謂「コミュニティー」は不完全な代償物であり、都市生活の不安定さは、やはりコミュニティーの喪失から始まっているのだろうと思っています。 テクノロジーもまた、必然的に個人の自律性を奪うのではないでしょうか。というのも、現在のテクノロジーの発展方向は、確実に職人のスキルを消滅させる方向に進んでいます。ハウスメーカーのテクノロジーは、大工を組立工化し、一本一本の木の性質を読むスキルを失わせていますし、種苗会社のテクノロジーは、農家から種とりの作業を失わせ、作物の生態に深く関わるスキルを失わせています。こうしたスキルを失った、職人ではないただの作業員には、自律性=主体性は望めないでしょう。 話がコロッと変わりますが、「ほんだし」のCMをご存じですか? 「味が決まったね♪」がキャッチコピーなのですが、 そりゃぁ決まるだろう、コンビニの味に!てなもので。 ちゃんと出汁をとって料理をして御覧なさい。味噌醤油の味もさることながら、「素材の味」がいかに重要か。野菜の鮮度がどれほど味を左右することか。長期冷蔵保存された野菜のなんと不味いことか。 そして、プロの料理人の料理が、なんと洗練されていることか。 そんな事が、家庭料理で手間を省いてほんだしを使うだけで、全て失われてしまうのが、今の私たちの暮らす社会なのだろうと考えているところです。
お礼
個人の自律性が確立されないことが、ユートピアの実現を阻んでいるという事でしょうか。
- heartmind
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作者は自然というものを機能的で、科学的なまなざしでみている んじゃないかと私自身は感じていました。 自然の偉大さは摂理という、業を挟まない厳格さに人間側が 勝手な思いを感じているのだというようなそんな感性なんじゃな いかと勝手に想像します。風の舞い上がり方などの厳密な描写の リアルさがそのように感じさせるのです。 トトロの猫バスというのは構造として見たときにも、機能性に 優れていると思います。生物のようなインタラクティブな構造 というのは、実は情報科学が発達した現代文明がこれから目指 すべき未来型の構造ではないかと思っているのです。 猫の毛というのも毛あしの長さ分だけ熱を放熱できる機能である し、建造物の構造物というのは、最大値をもとにつくられますが、 生物の構造というのは、例えば力を入れた時に入れたところだけ エネルギーが注入され弾性率が大きくなり、硬くなります。 それは例えばスラブをエネルギーをインタラクティブに投入できる ようなシステムのトラス構造のようなものにしたと仮定して、百科 事典100冊をボンとほうりこんだときに、ぐわっと反応するよう な、システムであったらと仮定したら、また、そして痛んだところ だけ交換できるようにしたら、また、部材の小ささは運搬コストや その為の大規模インフラを省くことも考えられます。 このように「ある条件においてある場所に」エネルギーが注入させる と、リソースをエネルギーの方向に収束させることになり、結果的に シンプルになって収縮方向に向かうという人間の要求の多様性と熱量 は必ずしも比例しない可能性がもしかしたら情報科学にあるのでは ないかと、少し半信半疑ですが、少し考えてみたりするのです。 (もう少しよく考えてみないと実際のところは分かりませんが) 木という材質も、自然の揺らぎをもつ、化粧としての意匠的機能や、 ひのきちおーるや、マイナスイオンなど、決して高効率に生産できる ものではありませんがが、人間が惹かれるものなので、より効果的な 使い方が期待されていくのだろうと思ったりするのですが、 どうなんでしょうか。
お礼
日本は世界第六位の森林国家で、国内での利用であれば、木は、育成、伐採、加工、運搬、利用、廃棄まで極めて効率的ですよ。それが証拠に日本よりも人件費が高いドイツやフィンランドでは国産の木材が輸出に回るほど競争力を持ってます。日本の林業が国際競争力を失っているのは、自民党政治家と公務員による人災ですね。日本が自前の森林資源を賢く使えるようになると、それは一歩、ユートピアに近づくと思います。
- TANUHACHI
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再び三たびの書き込みをお許し下さい。大学時代の教育哲学か何かの講義で耳にした話ですが「ブルジョアジー(Bourgeoisie)」は元々、「城(城に囲まれた都市)の中に暮らしていた人」との意味だったとの記憶があります。つまりはそれぞれの王なり諸侯の下に生活を営んでいた人にとって「城の中は安住の地」だったのであり、城から外に出たり移動したりするには何事に関しても王や領主の許可無くしては出来得ない行為だったとも考えられます。 一面では安全を保証されているものの一方では支配者の不興を買ったり睨まれでもすれば、それはたちどころに社会的な意味での死を意味しかねない危険も孕んでいた。ザルツブルグにある教会の司教であると同時に領主でもあったコロレドの庇護を嫌い、自らの新天地へと飛び出したモーツァルトにとってザルツブルグは決してユートピアではなかったともいえましょう。安定しているけれど自らの求めるモノがそこになければ、そこをユートピアと呼ぶことが可能だろうか。 千利休にとって四畳半ほどの茶室の設えは文字どおり「自らの王国」としての意味を為す空間だったと思われます。主人と客人が身近で一服の茶を嗜みながら会話する心地の良い空間、主人にとっては客人の身分が如何にあろうとも自らにとっては一人の大切な客人であることに変わりはなく、そこで出会う一期一会こそがユートピアに他ならなかったと僕は思います。 科学が人類の歴史にとって貢献した類例は幾多もあるけれど、一つだけ未だに手にすることが出来ずまた将来も手にし得ないモノがあるとするなら、それは「不老不死の肉体」なり「不老不死の薬」を手に入れる事でしょう。ではもしこれを人類が手に入れたならばどうだろう。人間にとって「制限のない時間」を手に入れる事は同時に与えられた条件の中で如何にシンプル且つより的確に仕事をなし得るかの問題に答えを見出すことを止めさせてしまう事に等しいと僕は思います。時間があるからまた今度と言って肉体的には生きているけれど、その中身である思索をこらすことや問い続けたりすることを先送りにして何時の間にか忘れてしまったら、それこそゼメキスの「永遠に美しく」に出てきたメリル・ストリープやゴールディ・ホーンみたいになってしまうようで何かイヤだなと感じてしまう。だとしたらそれこそ「邯鄲の夢枕」の喩えの様に、心地よい一瞬の微睡みの方が行く分かはマシなのかもとも思えてしまう。こうした点で言えば、親方や物理学の先生、そして美味しいパンを作ることにかけては他の人に負けたくないと精進の日々を送られている人生の先達と話しのできるこうした仮想のコミュニティもその一例だと思われます。 少なくとも「不老不死」だけは人間にとって禁断の箱とも呼びうる存在ではないのかと僕は考えました。
お礼
不老不死が実現したら、生まれたばかりの赤ちゃんをみても可愛いとはおもわなくなるのでしょうね。次世代を担うという役割がなくなって、同世代の競争相手にしかならないからね。
お礼
ありがとうございます。 貨幣と言葉ですか。 貨幣に関しては、その地球化の弊害が言われて久しいですが、言語においても多様性を失ってゆく一方ですね。第二次大戦で枢軸国が敗戦して以降、世界中の言語が英語に汚染されて行きました。そして、スペインや韓国などの経済的途上国を中心に、自らを英語に汚染させる方が経済的に有利である状況が続き、それに輪をかけたインターネット/コンピューターの普及によって、地球全体の英語汚染もおおむね完了する状態です。 生物学において多様性が豊かさを担保するのと同様に、ユートピアを作るためには、世界で100の通貨が通用し、1000の言葉で学術論文が発表される状態が必要なのかもしれませんね。