日本の妻を差し出す習慣とは?不倫も多かった奈良時代からの歴史

このQ&Aのポイント
  • 日本の奈良時代や平安時代の人々は「性」に対して大らかであり、妻を差し出す習慣があったと言われています。しかし、具体的な例は少なく、特に身分の高い者に差し出すという習慣については詳しい記録が見つかりません。
  • 「とはずがたり」の中には、御深草院が二条に差し出されるという話がありますが、これも特殊な例であると言えます。また、「源氏物語」においても客人に妻を差し出す話があるようですが、具体的な該当箇所は見つかりませんでした。
  • 今の時代でいう「不倫」も奈良時代や平安時代には多かったと考えられますが、妻を差し出す習慣は一般的なものではなかったようです。このような習慣に関する詳しい情報は限られており、より具体的な例を探すためには一次資料の研究が必要となるでしょう。
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日本には妻を権力者に差し出す習慣があったのか

歌垣という習慣や「源氏物語」などの文学作品からも分かるように、 奈良時代や平安時代の日本人は「性」に対して大らかでした。 今の時代でいう「不倫」も多かったと思います。 では、夫が妻を身分の高い者に差し出す(黙認を含む)という習慣はあったのでしょうか? あったとは思うのですが、いい例が思い出せません。 今一つだけ思い出せたのは、 「とはずがたり」の御深草院が二条を近衛大殿に差し出すという話です。 似たようなお話をご存じでしたら、是非お教えください。 また、「源氏物語」のなかにも「客人に妻を差し出した」という話が あったような気がしたのですが、該当箇所が見つかりません。 (空蝉の場合は夫が望んで差し出したわけではありませんよね?) 記憶違いだと今は思っているのですが、もし該当場面がありましたらお教えください。 どうぞよろしくお願い致します。

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noname#133362
noname#133362
回答No.3

美努王に関しては「差し出す」というと微妙な表現ですが、藤原不比等が軽皇子の乳母という立場に注目して県犬養橘三千代に接近し、夫の美努王を太宰府に左遷させて、いない間に一方的に離婚をさせてしまい、それを知った美努王はこの時点で妻だった県犬養橘三千代と権力を掌握しつつある藤原不比等の権勢の前に何も言えなくなりあきらめるしかなかった。 哀れというか、今の時代で言えば単身赴任中に妻が会社の上司と浮気して、帰ってみたら離婚届に判を押さなければ(飲み屋の伝票をごまかした程度の理由で)会社を懲戒免職、押せば関係会社へしかるべき地位で移れると一方的に言われ、この年で再就職も難しいと泣く泣く判を押したという状況かと思う。

machiko96
質問者

お礼

詳しくご説明頂き、有難うございます! 現代で言うとどのような状況なのかというお話が、非常に面白かったです。 勉強になりました^^

その他の回答 (2)

noname#133362
noname#133362
回答No.2

時代は異なりますが、大海人皇子が妃の額田王を兄である天智天皇に差し出した例。  茜さす紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る(額田王)    紫の匂へる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも(大海人皇子) 二人の間には十市皇女もおり、元夫婦の掛け合いですね。 中国では越王勾践が戦に敗れ、勝者である呉王夫差に妃を差し出して許しを請うた話が有名です。 身分は下ですが、権力者に妻を差し出した(浮気されて嫌々?)のは美努王、妻は県犬養三千代で、差し出した(盗られた)相手は藤原不比等。

machiko96
質問者

お礼

ご回答有難うございます! お礼が遅くなってしまい、申し訳ございません。 額田王のお話がありましたね! 完全に忘れていました。。 自分の妻を差し出す辛さは計り知れませんね。 大海人皇子との婚姻関係がどのように解消されたのかが非常に興味深いです。 中国の物語では権力者に妻を差し出す話や、妻を奪われる話は散見されますね。 最後の美努王と三千代のお話は知らなかったので、勉強になりました。 (普通に離婚してから、藤原不比等との間に子供をもうけたのだと思っていました。。) 有難うございました!

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.1

 平安時代の結婚形態は「妻問婚」といって「夫が妻の家に通う」形の今から見れば一風変わった形態がスタンダードとされています(貴族の場合など)。女房文学の「更級日記」や「和泉式部日記」にはこうした模様が具体的に綴られています。また現代の「一夫一婦制」とは異なり「一夫多妻」や「一妻多夫」の形がごく普通に行われていたとも言われています。  この背景には平安時代の政治構造の特質でもある摂関家との姻戚関係を如何に良好に保つかの問題があり、簡単にいえば「政略結婚」の色彩が強く働いていたとも理解できます。また現代の様に「個人と個人の間での婚姻関係」というよりも「家と家の間での縁戚関係を結ぶ」ことの方が前面に出ています。  また「財産相続」の点からいえば、財産を相続するのは娘であり、夫は社会的地位(肩書き)を相続したとされています(この辺は不勉強なモノで申し訳ありませんが)。  謡曲の「鉄輪」は嫉妬に狂う女性が生き霊となって夫の愛する女性を取り憑いて死に至らしめてしまう、というゾッとする物語でもあります。

machiko96
質問者

お礼

ご回答頂き、有難うございます! お礼が遅くなってしまい、申し訳ありません。 平安時代の婚姻については私も多少知識があります。 現代の私たちからすると、非常に面白い制度ですよね。 ただ、今回の質問でお聞きしたかったことは、 「すでに結婚している女(妻)が夫ではない男と関係をもたされることがあったか」ということです。 もしご存じのお話がありましたら、是非お教え願います。

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