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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・・)

聖徳太子についての批判とは?

このQ&Aのポイント
  • 聖徳太子についての批判や疑問点をまとめました。
  • 聖徳太子の言行について疑問を抱く声もあります。
  • 聖徳太子による和を以っての政策に疑問を呈する人もいます。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#135843
noname#135843
回答No.15

 こんばんは、Hidochiでございます。  以前、聖徳太子について、お教えいただいたときから、自分なりに太子について調べてみました。残念ながら、諸説が存在し、明確な像が浮んでは来なかったのですが、冷酷な“マキャべリスト”の印象は持ちました。  仏教を広めたとされていますが、そもそもそれは豪族仏教であり、新羅等の朝鮮半島との外交戦略が裏には存在したと考えられます。 > (5) 聖徳太子は 国を挙げて例の仏教を受容するか否かのとき 崇仏派と排仏派の戦いになりそこで前者に味方し 後者の物部守屋を亡きものにすることにたずさわった。そのように敵を倒したあと《和を以ってとうとしと為せ》と言っちゃってもらってもねぇ。  権力は握った もうおれたちには逆らうなとのたまわっていらっしゃいます。  現実問題としまして、地政学的に、(畿内最大の拠点として、大和川下流の大阪府八尾市を持つとされています)豪族物部氏を倒す必要があったと思われます(宗教戦争の意味合いが強かった戦いでしたが、宗教だけが問題ではなかったものと察せられます)。 > (8) 人麻呂スサノヲの心意気なら 先の(α)の命題を飲みませんか? 「和を以って貴しと為せと言われなかったなら」 → 「われわれは、“和”という言葉に馴染みが少なくなっていたかもしれない。しかし、それはそれで、じゅうぶんであった。」 と解します。  なお、せっかくサイコロさんの「審美眼」のスレッドに、お誘いいただいたのですが、当初よりブロックされたままとなっておりまして、受け付けてもらえませんでした。従いまして、参加できずにおります。かなり嫌われているようですが、これは致し方ないと思っております。    最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ なお、せっかくサイコロさんの「審美眼」のスレッドに、・・・  ☆ そうでしたか。わたしは どういうわけか ブロックされていたのが解除になっているのに気づいたのでした。  さんざん投稿したあとですが ではわたしももうやめます。ちょうどあとは 《法悦》とかの彫刻(?)についての批評のみが課題でしたから もうやめてもいい頃だとも考えますから。  (いましばらくは見守っていますが どうしても投稿したほうがよいと判断するのでないかぎり 加わらないこととします)。  ★ 仏教を広めたとされていますが、そもそもそれは豪族仏教であり、新羅等の朝鮮半島との外交戦略が裏には存在したと考えられます。  ☆ 経文がもたらされたことは 半島との交通の深まりとともになのでしょうね。   その著と言われる『三経義疏』はかなり高度な注解書のようだと聞いています。学力が優秀だったのだと思います。(辞書などはなかったでしょうし 漢字漢文を読むだけでも一苦労でしょうから)。  ★ (宗教戦争の意味合いが強かった戦いでしたが、宗教だけが問題ではなかったものと察せられます)。  ☆ けっきょくその後には 本地垂迹説まで出ましたから その神仏混合の状態が日本人に合っているとすれば 仏教導入によって古神道を排斥するというのは 手段であったかも知れないと思われます。  ★ 「和を以って貴しと為せと言われなかったなら」 → 「われわれは、“和”という言葉に馴染みが少なくなっていたかもしれない。しかし、それはそれで、じゅうぶんであった。」 と解します。  ☆ ええ。そういう社会的な基礎――つまりは 市民らの生活そのもの――がもともとあったと言いたかったのでした。  《和》は もともとどうもそれ以前の――卑弥呼らの時代からの――《倭国》の倭から来ているとも言います。倭は 背が猫背のようだという意味を帯びて字が好字ではないということで 替えられたのだと。  そして やまとは 養徳(ヤントク)とも書いた時期がありました。徳を養うという好い意味を持って音が似ているということのようです。そして別様にもともとの《ワ》という音韻を継承して また好字二字という原則がありましたから 大和としたらしいです。  ふり返ってみれば この質問は 【Q:日本人は 論理思考をそなえている】の援軍のようなねらいを持ったものでした。そちらのほうは 二つの主題があって それぞれその主題に対応する別の質問が挙げられていて それぞれに反論を伝えるというねらいをも持って 立てたのでした。  そのようにしてこの哲学カテゴリにおいて全体として ちょっと見渡してみますと その問い求めの度合いが煮詰まって来たかにも感じています。自分の投稿がからんでいますので 高ぶりの所為でそんなことを言うのではないかと言われても仕方がないのですが どうも審美眼あたりから《ときが満ちる》感覚をおぼえています。そのことの手放しの表出です。あけすけの表明です。    それにしても 大きな事件がおこりましたね。    地球人かで はこぶるさんが天皇制について触れていたのが やや驚きでした。以前には触れようとされていないと受け取ったことがあったものですから。  不用意な発言になりますが (1) われら(?)が心の炉心なるアマテラシテが 溶け始めたのではないか? (2) この OKWave の哲学カテゴリという場が 或る程度(部分的にでしょうが)日本なら日本の縮図であるような感じを持ちます。(3) 大事件は 東京をも巻き込んだということが大きいように思います。(4) しかも思った以上に世界が気持ちをも寄せて来ているようで 何だか歴史が動いていることを感じさせるようです。  そんなこんなにて。

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その他の回答 (25)

回答No.5
bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ▼ 和を以って尊しと成す  ☆ 漢文ですから  ○ 以和為貴  ☆ でしょう。  ○ 貴(たふと)し:タはタ-やすし(容易)などに見られる接頭辞で 次の語は 太し だそうです。  ◆(大野晋:古語辞典) ~~~~   フトシは 壮大であることを表わす語。従って タフトシは 自然現象を壮(さかん)で立派であるとし 人の身分を高く価値ありと畏敬する心持を表わす。   後に転じて 有り難いと思う意。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▼ 宇宙の公理  ☆ 知りません。  ただ 地球の鼓動ないし宇宙のリズムと合っているとは思います。自分がです。論証無しです。

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回答No.4

此の教えと「謙譲」との間には関係性が御座いませんでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 「謙譲」  ☆ というのは ふつうの言葉として謙遜というのと同じ意味でしょうか? それとも 敬語の一種としての謙譲語のことでしょうか?  いま述べているのは いわばいわゆる常識ないし定説にいどむかたちの問い求めですので   ★ 教え  ☆ ではありませんが そういう問い求めですから その仮説じたいについて 謙遜・謙譲をあてはめることとは別だと思います。敬語の問題とも別だと考えます。  そういう補足要求でしたでしょうか?

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回答No.3

市民圏=第一階:S 圏;市民 S  公民圏=第二階:A 圏:公民 A  これら互いの力学関係:A‐S 連関制 是が全ての「大前提条件」になっているのですか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。かんたんに言えば そのとおりですというお答えになりますが その歴史的な背景事情などなどは どうですかねぇ。  だって この二階建ての構造から成る国の家 家なる国は そもそもの人間社会の初めからあったわけではありません。国家として出来たその成立の時点があったわけです。おそらく将来には 一段と高い次元に揚げられて ふるい権力体制などなどは棄てられていくことと考えます。  揚げられ保たれるのは 人びとの社会的な交通(まじわり あるいは コミュニケーション)が広く民族の全体に広がっただけではなく 民族どうしのあいだにも自由に広がり さらにはこの民族(民族国家)という枠組みさえ 経済的文化的な交通をとおして 乗り越えられようとしている・その開かれた世界のあり方 これだと思われます。  捨てられるのは その権力のあり方としてのふるい逆立ち体制ではないでしょうか?  上の世界交通を基礎として あとは おそらくそれぞれの国家ごとの A‐S 連関制は あたま( A )で立っているという逆立ち状態であるでしょうから それが足( S )で立つ元の社会力学の状態に行き着くものと考えます。  足もしくは その身体につながったかたちで頭( A )をもった足( S )が 市民社会としての主権を帯びると考えられますから。    不用意に言うのですが われらがこころの炉心であったアマテラシテ(象徴)が 溶け始めているように感じますが いかがでしょう?  ○ アマテラス amaterasu ―→(抽象名詞化)    ―→ amaterasité  アマテラシテ   ・ amaterasity アマテラシティ/ Amaterasität アマテラシテート  ☆ 西欧では スサノヲ市民の自然権――自己表現の自由など――をゆづってでも(制限してでも) 国家に主権をあたえて 市民のあいだの無秩序状態をおさめるという社会契約説にもとづいているでしょうか。  たぶん日本では それほど違いはないとも見られるのですが おそらくそういう考え方に人びとがもとづいたというよりは そのかたちとしては そうではなく次のような事情があったのではないかと考えます。全体を統治する主権をわれらにあたえてくれ そうすれば うまく統治して社会全体の安寧と成長を約束すると言う人間たちが登場したのだと見ます。そうして 市民らは くにゆづりをした。そこでニ階建ての家が出来た。  日本では その昔 平地は葦の生える湿地だったので山合いの地に住居をさだめました。谷あいの地でもあり そこには夜刀(やと)の神がいると信じられていた。やとは やつ(谷)で けっきょくへびなどの動物がそのしるしになったと思われます。  そこを棲み処とし また畑ないし田んぼを拓いた。その人びとは草分けだというわけです。先駆者です。  この草分けの人びとを大切にし あるいは――ふるいしきたりですが――やとの神をまつるというかたちが その昔――国家の成る前の――生活共同のすがたでした。  神は へびだけではないでしょうが その神を祀るマツリはとうぜんのごとく たとえば穫り入れのときにムラ中で神々と共食し また感謝の意をささげる。そこでどんちゃん騒ぎがあったかどうかを別として おそらく西欧の社会契約説に見るような《人は人に対して狼である》や《万人の万人に対するたたかい》というような無秩序状態を想定したのではなく また実際そうではなかったのだと思われます。  ですから 社会契約説もそれとして論理的ですが つまりその論理で国の第二階を仮りの主権者として打ち建てるということなのでしょうが 日本では ムラムラの和はそれとして保たれていたということではないでしょうか?  ひとつには その中から 統一的な統治者を目指す者が出た。またひとつには朝鮮半島などとのかかわりにおいてほかのくにとの交通関係が戦争にならないでもなかった。それゆえ この優秀な人びとが抜きん出てムラムラのマツリをおしなべておさめさせてくれと名乗り出たときには 人びとはついによっしゃまかせてやろうと考えたかも知れません。  そうすると あとは ムラムラのマツリが寄り合っているクニ全体をまとめる《マツリゴト》という名の社会経営の体制が出来た。これが 日本の国家であると。もっぱらの公民アマテラスらとそしてさらにその象徴としてのアマテラシテもすでにつくられたものと思われます。  幸か不幸か お二階からのマツリゴトが 一階におけるムラムラのマツリを飲み込むことになりました。飲み込むかたちで 発展をとげました。

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回答No.2

「和を以ってrespectとなさず。」という事が重要なのでしょうね。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  きちんと論点を明確にすることを怠っていると言っていい文章でしょうから 勝手に主題を取り上げてお応えとしますが。  あなたの直前の回答No.1とそして別の質問への回答でのやり取り これらを参照していただきたい。とまづ申し上げます。  【Q:日本人は 論理思考をそなえている。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6604063.html  ★★(回答No.38) 「和を持って尊しとなす」考え方は、論理思考に相反していますでしょうか?  そこで一つの主題は 《ことば》にもアマテラス語とスサノヲ語とがあるという仮説です。  人間の存在についても 社会の形態についても A‐S の連関はあると捉えるのですが 言葉にもそれがあるという見方です。  ・・・・・ S (スサノヲ)・・・・・・・・・・・・A (アマテラス)  ______________________  ・ひと:身体・・・・・・・・・・・・・・・・・精神  ・社会:市民社会・・・・・・・・・・・・第二階という意味での国家  ・言葉:あやまち得る人間語・・・概念・科学語・人格語  スサノヲ人間語にくらべれば アマテラス科学語は 普遍性をもって精確な概念を伝えるものですが それとても むろん経験科学による相対的な正確さなのですから 間違いがないというわけではありません。    《和》は もし諍いや戦争がないというだけに留まらないのだとすれば きわめて主観的なスサノヲ人間語として使われると見るべきでしょうか。良心・信教の自由といった次元での心のやすらかさから 人びとの和ゆえに組織や社会において仕事や生活の共同(つまり 共生)が経済的にもうまく行っているというところまで その問題となる範囲が広がりましょうか。しかもそこで おのおの主観的なやわらぎが問われるといった分析や検証を必要としていましょうか。  それに対して 《リスペクト》は どうなのでしょう?   もっとこまやかにその用例の吟味やら 文化的な比較対照の上での定義づけをお願いしたいのですが ひとつの見方から考えてみます。  ○ わたしは あなたの思想を中身がそのままではリスペクトしないが あなたがその思想を公共の場においても表現するその意志の自由については 誰よりもリスペクトします。  ☆ とやったら どういう用法になるでしょう? これは単なるタテマエとしてのアマテラス語ではなく スサノヲ人間語としても言っていると見てよいと思います。一般的に言って。ただ上っ面だけの言葉ではないと思います。  まづ考えられることは このリスペクトの事例は 《和》の主題と案外重なっていると言ってよいのではないでしょうか? 相手の存在とその自己表現(その自由)を互いに保証し守ることは リスペクトの内容でもあり 和のとうとび目指すところでもありますよね?  とここまでを述べてあとは おまかせします。どうかな?  

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回答No.1

4月1日に嘘を肯定している人の存在を公に言われなかったら、 AprilFoolの存在を知らなかったのでしょうね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ただし エイプリルフールは ただそのように取り決めているだけのことですから どうでしょうか。  つまり 一月一日に決めるとか四月二日にするとかの違いではなく そうではなく ただ人為的に《ウソを言ってもゆるされる》と決め合っているだけのことですから 知らなかったなら知らなかったでしょうし 知ったならそのとき知ることになった ということで済ませ得る性格のことだと思えます。  それとも  ★ 嘘を肯定〔* する もしくは肯定〕している人の存在  ☆ とは どういうことですかね? 大きな意味を持ちましょうか?  《うそ・いつわりを言うなかれ》という規範がありますが これを 例のアマテラス学問の概念にもとづきアマテラス人格語として(=あたまだけで・タテマエとしてだけ)言っても話は始まらないでしょう。生活に根づいたスサノヲ人間語として――それは たしかにつねにと言っていいほどあやまち得ますが―― まづは言っていないとだめでしょうね。あやまちをみとめ つねにあらためて話し合いをつづけるその態度が みそになります。  といった問題が エイプリルフールの事柄にありましょうか?

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     まづ 憲法とやらを読みます。  ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~~~~  一に曰(い)わく、  (あ) 和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  (い) 人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。  (う) しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  次のように問います。  (1) 最後の一文(う)は いわば民主主義に通じる自由な言論 表現の自由 これを 基礎とすると言っています。まづこれを確認します。明治維新でも 同じく《万機公論》と言いました。    ▼ (五箇条の御誓文)  一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ    (2) 次に 同じ最後の一文(う)の中からですが   ▲ 上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて   これについては 眉唾物です。お上つまりお二階さんの論理と目線で ものを言っているといううたがいを拭えません。時代は違いますが われわれは次のような歴史を経て来ています:   ◆ (上田正昭:『日本文化の原点』) ~~~~~~   【直木孝次郎】・・・たとえば七一一(和銅四)年に出された詔(みことのり)に     このころ聞く 諸国の役民 造都に労(つか)れ      奔亡するものなほ多し。     禁ずと雖(いへど)も止まず。   とある。これは・・・労役のために都へ出てきている人民――これが都城建設 道路づくりに使役されるわけですが 生活 労働が苦しいために途中で逃げ出す者が多い。禁止しても止まない。・・・   【上田正昭】 その翌年の正月にも      諸国の役民は 郷(さと)に還へるの日      食糧絶え乏しく 多く道路に飢ふ。     溝壑(こうがく=みぞ)に転びうづまるもの      その類少なからず。   というのが出ていますね。   【直木】 ・・・『続日本紀』つまり 当時の正史に記録されているわけですね。   【上田】 柿本人麻呂も 有名な歌を残していますね。       草枕 旅の宿りに       誰(た)が夫(つま)か        国忘れたる 家待たまくに  (万葉集 巻三・426番)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   (3) 先の(2)のうたがいを証拠立てるには 聖徳太子の同じような趣きの歌を見てみれば分かります。   ■ (万葉集 三・415) ~~~~~~~     上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の死〔み(身)まか(罷)〕れる人を悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首      家にあらば妹(いも=妻)が手巻かむ      草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   すなわち 人麻呂の歌(426番)では すでに死んだ人に向かって 早く起き上がりなさい ふるさとを思い出し 帰って休みなさいと声をかけています。聖徳ぼんくら太子の歌では ああ かわいそうに・気の毒にとだけ言っています。  (4) たとえば   ▲ (あ) 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  と言われても 庶民はもともと けんかをしつつも仲間として和をもって暮らしていた。ところへ お二階さんたちが これをパクって 《和を以って》うんぬんと言いだした。  口先だけ庶民のまねをして和をとうとぶのだと言われても けっきょく 人びとよ おれたちには《さからうな》と言っているとしか聞こえません。都合のよいことだけを言っているとしか聞こえません。  (5) 聖徳うすのろ太子は 国を挙げて例の仏教を受容するか否かのとき 崇仏派と排仏派の戦いになり(そう言われています)そこで前者に味方し 後者の守屋ら物部氏を亡きものにすることにたずさわった。そのように敵を倒したあと《和を以ってとうとしと為せ》と言っちゃってもらっちゃってもねぇ。  権力は握った 文句あっか もうおれたちには逆らうなとのたまわっていらっしゃいます。  (6) 無念のうちに波に呑み込まれた人たちも――つまりあるいは お二階からのでっかく酷い津波に呑まれかけたこれまでの歴史上の数多くの人たちとともに―― われは堂々と立派にまともに真面目に地道にふつうによく生きたと いまいちど起き上がって言って欲しい。  (7) しかも・しかも 聖徳へなちょこ太子の場合には そのウタに《旅人》として歌われた・みまかれる人は のちに聖人であったと分かったと伝えられることになります。聖と聖こそ互いによくわかり合えるのだという尊き教えであります。――ちゃんちゃらおかしいわい。  (8) スサノヲ人麻呂の心意気なら 和の精神をめぐって何が大ごとだと見ますか? どこでエラーが出て来ているのでしょう?

  • 論文: 聖徳太子は ただのくそったれ

     まづ 憲法とやらを読みます。  ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~~~~  一に曰(い)わく、  (あ) 和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  (い) 人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。  (う) しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  次のように問います。  (1) 最後の一文(う)は いわば民主主義に通じる自由な言論 表現の自由 これを 基礎とすると言っています。まづこれを確認します。明治維新でも 同じく《万機公論》と言いました。    ▼ (五箇条の御誓文)  一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ    (2) 次に 同じ最後の一文(う)の中からですが   ▲ 上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて   これについては 眉唾物です。お上つまりお二階さんの論理と目線で ものを言っているといううたがいを拭えません。時代は違いますが われわれは次のような歴史を経て来ています:   ◆ (上田正昭:『日本文化の原点』) ~~~~~~   【直木孝次郎】・・・たとえば七一一(和銅四)年に出された詔(みことのり)に     このころ聞く 諸国の役民 造都に労(つか)れ      奔亡するものなほ多し。     禁ずと雖(いへど)も止まず。   とある。これは・・・労役のために都へ出てきている人民――これが都城建設 道路づくりに使役されるわけですが 生活 労働が苦しいために途中で逃げ出す者が多い。禁止しても止まない。・・・   【上田正昭】 その翌年の正月にも      諸国の役民は 郷(さと)に還へるの日      食糧絶え乏しく 多く道路に飢ふ。     溝壑(こうがく=みぞ)に転びうづまるもの      その類少なからず。   というのが出ていますね。   【直木】 ・・・『続日本紀』つまり 当時の正史に記録されているわけですね。   【上田】 柿本人麻呂も 有名な歌を残していますね。       草枕 旅の宿りに       誰(た)が夫(つま)か        国忘れたる 家待たまくに  (万葉集 巻三・426番)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   (3) 先の(2)のうたがいを証拠立てるには 聖徳太子の同じような趣きの歌を見てみれば分かります。   ■ (万葉集 三・415) ~~~~~~~     上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の死〔み(身)まか(罷)〕れる人を悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首      家にあらば妹(いも=妻)が手巻かむ      草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   すなわち 人麻呂の歌(426番)では すでに死んだ人に向かって 早く起き上がりなさい ふるさとを思い出し 帰って休みなさいと声をかけています。聖徳ぼんくら太子の歌では ああ かわいそうに・気の毒にとだけ言っています。  (4) たとえば   ▲ (あ) 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  と言われても 庶民はもともと けんかをしつつも仲間として和をもって暮らしていた。ところへ お二階さんたちが これをパクって 《和を以って》うんぬんと言いだした。  口先だけ庶民のまねをして和をとうとぶのだと言われても けっきょく 人びとよ おれたちには《さからうな》と言っているとしか聞こえません。都合のよいことだけを言っているとしか聞こえません。  (5) 聖徳うすのろ太子は 国を挙げて例の仏教を受容するか否かのとき 崇仏派と排仏派の戦いになり(そう言われています)そこで前者に味方し 後者の守屋ら物部氏を亡きものにすることにたずさわった。そのように敵を倒したあと《和を以ってとうとしと為せ》と言っちゃってもらっちゃってもねぇ。  権力は握った 文句あっか もうおれたちには逆らうなとのたまわっていらっしゃいます。  (6) 無念のうちに波に呑み込まれた人たちも――つまりあるいは お二階からのでっかく酷い津波に呑まれかけたこれまでの歴史上の数多くの人たちとともに―― われは堂々と立派にまともに真面目に地道にふつうによく生きたと いまいちど起き上がって言って欲しい。  (7) しかも・しかも 聖徳へなちょこ太子の場合には そのウタに《旅人》として歌われた・みまかれる人は のちに聖人であったと分かったと伝えられることになります。聖と聖こそ互いによくわかり合えるのだという尊き教えであります。――ちゃんちゃらおかしいわい。  (8) スサノヲ人麻呂の心意気なら 和の精神をめぐって何が大ごとだと見ますか? どこでエラーが出て来ているのでしょう?  

  • もし和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・

     つぎの命題をめぐって考えるところを明らかにしてください。     もし和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・・   ・・・わたしは 和を乱すことを知らなかった。   聖徳太子批判としていちど尋ねましたが この命題そのものをめぐって みなさんのお考えが聞きたいと思います。  これでよいと思っているのですが さらにいろんな角度からのご見解をつのりたいと思います。

  • 和を以て貴しとなす を英語で?

    「和を以て貴しとなす」という聖徳太子の言葉。 人とのつながりを大切にしましょうという意だと思うのですが、英語でカッコいいフレーズがあるのでしょうか? 教えて下さい。

  • 冠位十二階

    冠位十二階の色(偉い順番)を決めた人って誰ですか? ・・・・・・聖徳太子って外人に見せびらかすために作った空想上の人物ですよね。

  • 比較競争のキリスト教 和の仏教

    ですか? キリスト教→キリストが唯一、全知全能の神。教えにそむけば、避難バッシング。キリストにとって価値があるものは高く評価され、そういう人が特別な待遇をうけるため、比較、競争、独立精神を大切にしている。ゆえにそれに反するものは戦争でも起こして淘汰する。社会の為にこうありなさいという教えはない。 仏教→聖徳太子の考え方でも有名で、「和」を大切にする考え方。神様はいない。無駄な比較、競争を嫌う。とにかく慈悲、共生を大切にした考え方。戦争をおこすとういう考え方は考えられない。社会がよくなるよう、こういう風になりなさいという教えがある。

  • 聖徳太子について

    カテゴリはここで良いのか、それすらも分かってないのですが、違っていたら「違います」の回答でも構いません。 聖徳太子、十七条の憲法の第1条『和を以て貴しと為し、忤うこと無きを宗と為す』の中の『和』とは何と読むのが一番正しいのでしょうか? 昭和10年に出された改訂では、「やはらか」つまり『やわら』と読んでいますよね? もしくは、少し聞いた話では、当時『和』と言う人がいたとか・・・。 それでも質問は同じです。『和』とは何と読むのでしょう? 実は、クイズみたいなもので調べているのです。 人(女性)の名前で『和』と書いた場合、何と読むのか? 上の文章は自分で調べ、そこまでたどり着きました。関係があるのかないのか、それも分からないのですが・・・。 下の文章は問題を出した知り合いからヒントと言う感じで聞きました。しかし「やわら」とは読まないそうです。 もし、『分かる』と言う方、『こうじゃないか?』と言う方、いらっしゃいましたらよろしくお願いします。

  • 『日出処の天子』を読んだことのある方

    聖徳太子に詳しい人や歴史研究家、飛鳥寺にもかなりけちょんけちょんに言われた『日出処の天子』 日本書紀にある『一晩で何里も移動』『一度に何人もの話を聞く』『未来を予見できる』...等 神格化された太子の逸話を随分大胆に物語にしているな、と以前読んだときマンガとして感銘を受けました。 猪の首の話など、実際語られている事を織り込んでいるところも多く見受けられますが、 『いくらなんでもそれはめちゃくちゃ』とおもわれるところ、 逆に『しっかり歴史的背景をつかんでるじゃないか』 と思われる処を幾つかお聞かせ願いますか? ホモと超能力は抜きにして。

  • 自律・自我・さとりは すべて観念のまぼろし。

     つまり  (α) われわれ日本人のあたまは あまりにも《観念》が巣食っているのではないか? そうだとしたら なぜそうか?  これが 問いです。  この問題を捉えるに当たっては 聖徳太子の事例を取り上げるのがよいと思われます。    (β) 特に《さとり》の主題については これをどこまでも《精神 ないし 精神主義》において捉えるという傾向があり それは 聖徳太子の次の命題に現われている。のではないか?   【Q:世間虚仮 唯仏是真とは 世迷いごとではないか?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6791123.html  あるいは この傾向は 言わずと知れた《神》観にも現われます。  (β‐1) 《神とは 人間の精神である》とする勘違い神学。そうならば 人間が神であるとなる。  (β‐2) 《キリスト教を信じる》だの 《宗教を信じる》だのという勘違い。教義は 思考の対象であり 信じるのは 非思考の問題である。  (γ) 《主権在民= スサノヲ市民主権》についての勘違い。つまりはこの現実が ぎゃくに《精神上の問題》だと見なされ その主権問題は ただの観念に過ぎないと思われている。  (γ‐1) 《和を以って貴しと為す》と言うけれど この和の実態はあくまで スサノヲ市民社会・つまり二階建てから成る国家の第一階における生活現実にもとづいている。それを勘違いしている。→(γ‐6)  (γ‐2) 【Q:和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・・わたしは 和を乱すことを知らなかった。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6633903.html  というように ウマヤドノトヨトミミがこの条文をしるしたのは あくまで 仏教の輸入について是か非かを問うて 崇仏派と排仏派とに分かれて殺し合いをおこなった結果 権力をにぎったあとである。   ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~   一に曰(い)わく、和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。  しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    (γ‐3) つまりは  《上と下 すなわち アマテラス圏とスサノヲ圏との睦び合い》としての《和》も  遠くは あくまで S 圏が A 圏に《くにゆづり》をしたあとの段階で言っている。  (γ‐4) つまりは ウマヤドさんは よっしゃこれでわれらが権力は安泰である どうだ 文句あるか? と言っているに過ぎない。   ▲ 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  (γ‐5) そのためにこそ 《世間虚仮 唯仏是真》として 人びとのあたまを《観念》で覆おうとした。観念を巣食わせようとした。これが うまく行ったのである。大成功!!  (γ‐6) 自分じしんは 《和を以って貴し》としなかった。成し得なかった。そのあと あくまでスサノヲ市民社会のありさまとしての《和》をパクって 条文に掲げたのである。スサノヲ市民どうしは けんかをするほど互いに仲が良かった。《和》そのものであった。ウマヤド氏は うらやましかった。ゆえに頭をひねって考えた。  (γ‐7) そのアマテラス・マジックが どんぴしゃり うまく行った。この観念の手品が あたかも千数百年ものあいだトラウマのごとくにか あるいは白雲境のごとくにか 人びとのおつむに作用して来ている。  (δ) ゆえにそののち遠く西のほうから渡って来たところのたとえば自我なる概念 この《自我》も ただ《わたし das Ich 》と言っているに過ぎないのに 何か高尚な観念でもあるかのように後生大事にいだかれている。  (ε) このような大いなる《観念》――あるいは 観念の繭――の中で たとえば《自律せよ》などというまぼろしの哲学が 声高に言われている。  (ε‐1) 経済的に自立せよというのなら まだ分かる。自律・他律などというのは せいぜいが 共同律・社会律に人びとが参加するというほどのことしか言えないはずなのだ。  (ε‐2) それは 《自由 ないし 自由意志》の問題なのだから。たとえシガラミから自由になったとしても 社会は相手のいることだから 相互自律として成るしかないはずだ。  (ε‐3) それを 声高に《自律》と言って なおも観念の繭の中に居続ける。くだらん。まぼろしのアマテラス語(その訛った方言)で カッコウをつけて言えばいいとでも思っている。  (ζ) ・・・(つまり観念があたまに巣食うのは ほかにも 原因があるかも知れません)。  以上 日本のルネサンスがかかっているかと思われますが どの事柄でもいいですから ご教示をお願いします。質問者からもツッコミを入れると思いますが まなんでまいります。