• ベストアンサー

六波羅探題

鎌倉幕府は京都守護を六波羅探題としましたが、探題には北方と南方と2つあったようです。 それぞれは別の場所に役所を構えていたのでしょうか。 また、それぞれは、別々の仕事をしていたのでしょうか? 現在、京都のどこにその遺跡などはあるのでしょう。

  • 歴史
  • 回答数4
  • ありがとう数0

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • dayone
  • ベストアンサー率79% (360/452)
回答No.3

当時「(両)六波羅殿」と呼称され、一方のみを区別して指称する場合には、 …地理的に北方が六波羅領域内の北側に、南方が南側に置かれていたことから… 「北方(殿)」・「南方(殿)」と呼ばれたようで、 北方が五条末(現在の松原通)から六条坊門末(現在の五条通)、 南方が六条坊門末から六条末(現在の正面通)にわたり、 いずれも東大路以西と大和大路以東の間に位置していたようです。 『六波羅探題の研究/森幸夫著/続群書類従完成会(2005)』によれば、 六波羅探題の主たる任務は、(1)朝廷の監視及びそれとの交渉、 (2)洛中警固、(3)西国成敗(訴訟)で、その主班者である探題には、 北条一族中より通常2名を以って選任、 北方には南方よりも家格の高い北条一門が就任したとされ、 また、建治3(1277)年以前は南方の欠員期間が長期に及ぶこともあったようです。 北方探題と南方探題との権限等をめぐる政治的関係について いままで見解を示されているのは、上横手雅敬氏のみであるとして、 「両者相互に地位・部門・地理的管轄・月番等、職掌上の相違は全く見られない。と、 <1>南北両探題の職掌上の差違を否定されている。 次いで、南方には往々欠員があり、空任期間二十二年に及んだ例さえある。 -此等の事実は、純粋に機能について言えば 探題は北方のみで十分であるという結論をひき出せる様である。(中略) 六波羅南・北の関係は、(中略)南方の附随的地位は否定できないであろう。と述べられ、 南北両探題の関係について、「南方の附随的地位」を結論とされている。 このことは逆に言えば、氏が <2>北方の南方に対する優越的地位を認められたと解してよかろう。」 と上横手氏の見解を解釈した上で、森幸夫氏は 「南北両六波羅探題の関係は、 (1)南北両探題のうち一方が執権(執権探題)なる地位にあったこと。 (2)執権探題は公武交渉や六波羅の職務における主導者で、   文書発給権という固有の権限を持っており、   執権探題と一方探題との間には職掌上の差異が存在していた。 (3)執権探題には六波羅探題設置以来、北方探題のみが任じられていたが、   永仁五(1297)年の大仏宗宣に至り、南方も任命されるようになった。   南方が執権となっていた時期、六波羅探題の任務には重大な課題が存していた。」と、 「執権探題」の存在を示した上で、自らの見解を述べられています。 ◇詳細はGoogleBooksの『六波羅探題の研究/森幸夫著/続群書類従完成会(2005.4)』 を紐解かれるのも宜しいかと思います。 http://books.google.co.jp/books?id=2zW9qJR-X90C&printsec=frontcover&dq=%E5%85%AD%E6%B3%A2%E7%BE%85%E6%8E%A2%E9%A1%8C&hl=ja&ei=m8xtTaSAIZT0cbGy8LoF&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CCoQ6AEwAA#v=onepage&q&f=false 遺跡等では、交通事故による2本の亀裂が痛々しい六波羅探題跡碑(洛東中学内)以外に、 「東福寺の六波羅門」は北条時宗の兄・時輔のいた「六波羅探題南方の門」を移築したものだとか… ◇まるごと京都ポータルサイトe-KYOTO>北条時宗「京紀行」 http://www.e-kyoto.net/rekisi/123 ◇同前>北条時宗「京紀行」>「源氏物語の地 拡大地図」 http://www.e-kyoto.net/upload/upload_20100628140845.gif 以上少しでもヒントになれば幸いです^^

その他の回答 (3)

回答No.4

六波羅探題の起源は、承久の変時、北条時房(北)、泰時(南)が、京都守護に代わる形で京に派遣されたことによります。 後鳥羽上皇が隠岐に配流された後も、京の治安、朝廷・公家の監視役、さらには三河以東を幕府に代わって治める役割を果たし、建前としては、鎌倉が執権と連署のツートップ体制をとっていたのに倣い、両探題の連署による指令系統をとっておりました。ですから、北と南は同じ仕事をしておりました。ちなみに、北方が格上です。 その後、朝廷が比較的大人しくなり、南方は暫く空席になっておりましたが、執権北条政村のとき、連署北条時宗による親王将軍宗尊親王の更迭・京帰還に伴う朝廷対策や、時宗の庶兄時輔を鎌倉から遠ざけて得宗家の内訌を予防する目的で、南方が復活することになりました。 名越時章らの叛乱(二月騒動)に時輔が荷担していたとする嫌疑で、執権となった時宗の命で北方の義宗が時輔を討ち、再び南方は空席になりますが、4年後北条時国が南方に任ぜられ、その後若干の空席期間をはさんで、建武の中興に至ります。

  • Pinhole-09
  • ベストアンサー率46% (597/1294)
回答No.2

こちらのURLによると 五条通りを挟んで、北方と南方にあったようです。

参考URL:
http://makibow.s58.xrea.com/hojyo/tokimune3.html
回答No.1

関連するQ&A

  • 京の警護について

    鎌倉幕府が成立したあとは六波羅探題とかが京の警護をしてたみたいですが、その前は朝廷が自前でやってたわけですよね? いろいろと役職があるようで、よく分かりません。教えてください。 それと、外国人で組織されていた部門があったと聞いたのですが、それは何というものですか?

  • なぜ笠置山で挙兵?

    後醍醐天皇は挙兵の地として、なぜ笠置山を選ばれたのでしょうか。 六波羅探題のある京都に近いし、強固な要害があるでもなし 鎌倉方に攻められれば、ひとたまりも無く潰されてしまうことは、目に見えているのに。

  • 六波羅ってどこにある?

    歴史をよんでて、六波羅探題などの場所がでてくるのですが、京都のどのあたり(通り)にあるのでしょうか? また義満の花の御所もあわせて教えてください。

  • 幕府というものについて

    浪人生です。日本史の勉強をして疑問に思ったことがあります。 幕府と聞いて連想するのは鎌倉・室町・江戸の三つですがこれ以外にも幕府ってあると思います。幕府というのは日本史の教科書によると蝦夷征討のため陣を敷く際にまわりを幕で囲ったことからこのように呼ばれるようになった、というような内容が書いてありました。しかし頼朝以降その存在が変わったものになった気がします。そこで (1)頼朝はなぜ権右近衛大将の地位を捨ててまで征夷大将軍になりたかったのか。(それまでに征夷大将軍という存在は歴史の流れの中であまり知れ渡ったものではないのになぜなりたかったのか) どこかの参考書に蝦夷征討のために武士を率いる権利を持つ→武士の棟梁として名実ともに認められるとありましたが、では (2)もし(1)が上で述べたようなことであるあらば、天皇ありきの世の中でなぜ政治の実権を握ることが出来たのか。 征夷大将軍に任命されるのも天皇が全てであった世の中であったのになぜ将軍は政治の実権を握ることが出来、またなぜ天皇はそれを許したのか。それに関連して (3)鎌倉の六波羅探題、江戸の京都所司代に代表する、いわゆる朝廷の監視を名目とした役職がなぜ存在できたのか。 そして (4)幕府とは何か。頼朝以降幕府のあり方が変わったのは一目瞭然ではあるが、ではどのように、そしてなぜかわったのか 以上の四つを教えてほしいです。こういうことではないかというようなことでもかまいません。よろしくお願いします。 (上に述べた質問は全て高校範囲で疑問に思ったことなのでもし事実と違っていたらすいません。高校の範囲を超えていいので納得できるような回答をしてほしいです。図々しくて申し訳ありません。)

  • これで、あってますか? (中学1年の社会です)

    国立の中学校に通っている中1です。 今度の月火水と期末テストがあります。 それで、社会の範囲は鎌倉時代から戦国時代の初めまでです。 そこで、自分なりに教科書やノートを見て歴史の流れを整理してみたのですが、これで大体あっているのでしょうか? ・鎌倉幕府は3代で絶えた。この機会を見た後鳥羽上皇は承久の乱を起こし、政権を天皇に取り戻そうと思ったが、失敗する。 ・しばらくして元寇が起きる。このときは自分の国の防衛だったため、新しい土地が手に入らず、御家人に与える土地がなく、御家人の生活が苦しくなる。 ・幕府は御家人の生活を救うため「永仁の徳政令」を出すが、この法律は借金をすることも禁じたため、さらに御家人の生活は苦しくなった。 ・足利尊氏は幕府を裏切り、大坂の悪党 楠木正成らと、鎌倉幕府を倒す。 ・鎌倉幕府を倒した足利尊氏は、後醍醐天皇にほめられた。 ・後醍醐天皇は「建武の新政」を行い、京都で政治を始める。 ・しかし、足利尊氏は後醍醐天皇の政治に不満を持ち、北朝として新しく天皇をたてる。 ・後醍醐天皇は南朝として、吉野へ逃げる。 ・南北朝時代が始まる。 ・足利尊氏が勝利し、南北朝が統一される。 ・主語は国内の地頭や新興の武士を従え、領地を拡大し、守護大名となる。 ・守護大名は京都に住むようになる。守護大名は家来を「守護代」に任命し、領地の管理を任せる。 ・守護代は任された土地を完全に自分のものにし、暴走を始める。 ・守護代は領地内で下剋上を繰り返し、戦国大名となり、1つの国として政治を始める。 です。 すごく長くなりましたが、よろしくお願いします。    

  • 三河守から征夷大将軍へ

    鎌倉時代、足利家と三河国は因縁が深く代々三河国の守護職を勤め、矢作(岡崎)の地は足利氏の一大拠点とも言える土地でした。又、細川・吉良・今川・荒川・仁木等の足利一門も三河一円に拡がりそれぞれの地名を姓とし繁栄しました。尊氏の代には六波羅探題を滅ぼし天下を取りました。 戦国期に入ると三河国は足利一門に代わり松平(徳川)家が勢力を伸ばし、徳川家康の代に岡崎を拠点として三河を統一、東海を制し遂には天下を取りました。 これは単なる偶然でしょうか?それとも三河岡崎の地は天下人を輩出し易い条件が揃っているのでしょうか?

  • 大江広元に関して

    鎌倉時代に活躍したという大江広元に関してなにかいい資料はあるのでしょうか?生い立ちや考え方、実績等に関してです。京都の公家出身なのになぜ鎌倉幕府のシステム作りに関わったのか、当時の鎌倉武士団同士の争いの経緯を見ると相当重要な人物と認識されていた気配は伺えるが、どの程度の政治力を持っていたのか、鎌倉幕府創設のどこまでが大江広元の仕事だったのか?なぜ子孫が中国地方の毛利なのか?等々、謎が深まるばかりです。いい資料があればお教えいただきたくお願いいたします。

  • 歴史の分からなかった問題があるので教えて下さい。

    社会の歴史の問題が分からなかったところがあったので 教えて下さい。 [鎌倉時代] ------------------------------------ 1185年、源氏が平氏を滅ぼした乱。 将軍と御家人の関係をなんというか。 ↑の関係で結ばれた武士が、農民を支配する社会。 承久の乱は戦いに敗れどこに流されるか。 六波羅探題の目的。 桑・漆・茶などの作物を何というか。 13世紀初めモンゴルを統一した人。 元を建国した人。 ↑に仕えたイタリアの商人。 元が2度にわたり日本を攻めた出来ごと。 ↑を退けた5代執権。 1297年、御家人の借金を帳消しにするための法令。 ↑の結果。 幕府の支配に反対した武士を何というか。 合戦の様子を描いた物語を何というか。 ↑の中でも琵琶湖法師によって広められたもの。 藤原定家らが編集した和歌集。 「方丈記」の作者。 「徒然草」の作者。 金剛力士像の作者。 <鎌倉6仏教> 6つの宗派。 6つの開祖。

  • 鎌倉幕府の所在地は?

    徳川幕府といえばやはり江戸城がその本拠地ですよね。 鎌倉幕府のほうはどこなんでしょう? 江戸城にあたるような本格的な城とか大屋敷があったのでしょうか。 で、あったとしたらそれは現在の住所でいえばどの辺なんでしょうか。 特に源頼朝が日常起居して政務を司っていた場所を知りたいです。

  • 室町時代には「南北の朝廷」だけでなく「東西の幕府」も存在していた?

    室町時代前期における「南北朝」の対立は非常に有名です。 しかし、この時代には京都の幕府とは別に、関東にも「もうひとつの幕府」の ような存在がありました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%BA%9C その名は「鎌倉府」といい、足利尊氏の子の基氏(二代将軍義詮の弟)とその子孫が 代々世襲しました。 この鎌倉府の組織とは、「鎌倉公方」をトップに「関東管領」が補佐し、その下には 「侍所」「政所」「問注所」があり、これは室町幕府の機構にソックリです。 室町幕府はどうしてこの模倣品のような組織を認めたのでしょうか? ちなみに私は学校で初めて「鎌倉府」の組織について学んだ時に、 「これはきっと将来争いが起こるに違いない」と予感していました。 そうしたら、次のページにはもう永享・嘉吉の乱が起こり、これが「応仁の乱」の 引き金となりました。 まるで漫画のようなお約束展開に笑えました。 ではなぜ幕府は「絶対もめる」と分かりそうな組織作りをしてしまったんでしょうか?