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哲学的な説明を求めています。

合掌によって祈りに耽り易くなる理由は何でしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.2

 心は、肉体と共に在り。  姿勢、は心に影響を与えます。  体を崩していれば心も緩んでいますが、正座をしていると“シャキ”とします。  今、私は崩した体勢から正座に変えてみました。  そしたら、散っていたような心が、集束してきたような感じがします。  また心が体に影響を与えもします。  一番は顔の表情。その表情は心の状態をよく表します。  そして手や足にも心の状態が現れるようにも思います。  それだけでなく手のひらともなると、外部の情報収集と云う大きな役割があるようで、体の部分では心の集中度がとても高いのではないでしょうか。  その外部の情報を集める手のひらを合わせてしまうというのだから・・・・・  いろいろと考えさせられました。  この先、考えを進めていけるようでしたら、それは次回で。  

BuffaloAndJtp
質問者

お礼

下記のページにも哲学関連の質問を提出させて頂きました。 http://okwave.jp/qa/q6896380.html http://okwave.jp/qa/q6895607.html

BuffaloAndJtp
質問者

補足

有り難う御座います。 相互の情報の収集…。そうですよね。

その他の回答 (6)

回答No.7

♯1番さんからの回答を読み直してみましょう。

BuffaloAndJtp
質問者

お礼

http://okwave.jp/qa/q6910654.html 此方にも御教授を賜れませんでしょうか?

BuffaloAndJtp
質問者

補足

御互いの生命線を合わせて、…

回答No.6

 どの回答も的を射ているように思います。  やはり、心を落ち着かせそして一点に集中させやすくなる、という効果があるようです。  肉体は心を表現し、心は肉体を表現する。  相互依存していますね。  だから、何かに祈るときに手を合わすというのは・・・・・たぶん自然の成り行き!  

BuffaloAndJtp
質問者
BuffaloAndJtp
質問者

補足

再度の回答に感謝を致します。 瞑想の時に姿勢を整える基準にもなるそうですね。

回答No.5

もともとは手に何も武器を持っていないことを表す動作だったと聞いたことがあります。 確かに手を合わせてしまうと、何も持てないし、手のひらの中に何も隠せませんよね。 相手を傷つけないという意志表示、それが恭順の意となり、尊敬を意味するようになったとか。 また、インドでは右の手を浄の手、左の手を不浄の手と呼びます。この考え方が仏教にも反映されて右が神、左が人間あるいは自分、というふうに考えられるようになったそうです。手を合わせるとは、神と人間の出会い、梵我一如ですね。 恭順から尊敬へと意味が変容し、仏教において梵我一如を意味するものになり、祈りの形と理解されるに至ったのではないでしょうか。 哲学的ではなかったですね(笑)宗教学的、民俗学的な説明ですみません。

BuffaloAndJtp
質問者

補足

有り難いのですが、よくある説明ですね。

回答No.4

合掌に限らず、印を結ぶ時も両手を合わせる形が多い。 それとは違うが、敬礼の時に利き腕を挙げるのは、攻撃の ために使う手を、上に挙げて何も持っていない事を明らか にする意味がある、と聞いた。 手というのは、攻撃に限らず人が環境と接する第一の手段 であり、それを使っている限り、意識は環境ないし日常性に 拘束される。 手を合わせれば、外に向けられず、普段は環境認識の 前提条件として先入化している自分自身を感じ、またそれを 契機として、目には見えないものに思いをはせる事が容易に なる姿勢(現象表面や日常に流されない)だと言える。 目の前に敬意を示す対象がいれば、手の内をさらす敬礼に なるが、特定の場所にいない対象に対しては、合掌や印の 形になる、ていう。

BuffaloAndJtp
質問者

補足

有り難う御座います。 合掌は手の平を隠す格好になっていませんか。

回答No.3

 こんにちは。  わたしはここにいます。――こう言いたいためです。どこまでもそう言いたいためです。

BuffaloAndJtp
質問者

補足

もう少しの詳しい補足説明が御座いませんと、 他の方々にも伝わり難いのではないでしょうか。

回答No.1

武術家おたまです。 合掌は「気」の流れを活発にし、生理的な安定をもたらすからです。

BuffaloAndJtp
質問者

補足

有り難う御座います。 経絡の相互的な反応ですね。

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