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関ヶ原の東軍について質問です。

nene-kの回答

  • nene-k
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回答No.8

関ヶ原の戦いは、豊臣家内の石田三成に代表される文治派と、加藤清正や福島正則らの武闘派による内紛=豊臣家臣のトップ争いです。 豊臣家の大老である家康が武闘派についた事で、下っ端の三成は安国寺恵瓊を通じて、同じく大老の毛利輝元に総大将を頼みました。 関ヶ原の時点では、東軍も西軍も、豊臣家の家臣です。 なので、家康は、関ヶ原の12日後には、大坂城におもむいて、秀頼と淀殿に勝利の報告をするとともに、改めて忠誠を誓っています。 この時の家康の心の奥底には豊臣を倒して天下を取る構想が、すでにあったかも知れませんが、あくまで、それは、家康の心の中だけで、少なくとも表向きには、豊臣配下の大老であるポーズは崩していません。 ですから、この関ヶ原の時点では 豊臣が滅ぼされるのが明白でもありませんし、東軍についた武将が恩義ある主人筋を裏切ってもいません。 西軍も東軍も、どちらも、豊臣のために戦っていたという事です。

Enfield
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 やはり文治派VS武闘派という事なのですね。

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