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ドイツ第二帝国について
- ドイツ第二帝国について調べてみました。各王国や諸侯はドイツ帝国政府に徴税されるのか、大臣や官僚はプロイセン王国から選ばれるのか、各王国の軍隊はドイツ帝国の指揮下に入るのか独自の指揮下に入るのか、そしてなぜ各王国や諸侯を滅ぼさなかったのかという疑問があります。
- ドイツ帝国の資金調達について知りたいです。各王国や諸侯はドイツ帝国政府に徴税されるのでしょうか?もし徴税される場合、どのくらいの金額が徴税されるのか知りたいです。また、ドイツ帝国政府の大臣や官僚はどのように選ばれるのかも教えてください。
- ドイツ帝国の統一において、各王国や諸侯の軍隊はドイツ帝国の指揮下に入るのでしょうか?それとも独自の指揮下に入るのでしょうか?また、なぜプロイセンは各王国や諸侯を滅ぼさず、連邦制を採用したのかについても知りたいです。
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租税や各邦軍に関する事柄は既に回答者の方がおっしゃる通りで 直接税は各邦、帝国の歳入は間接税、関税、各邦からの拠出金などです なぜ連邦制であるかというと統一以前にバイエルンなど各領邦は高度な官僚制が整備された国家であり ビスマルク自身、冷徹なまでに連邦制を尊重したからです ドイツは統一以前の1834年にドイツ関税同盟を結成し 54年にはオーストリアを排除し経済的には既に小ドイツ主義的統一を果たしていたのです これが力で各領邦を潰さない理由の一つでもあるのです 歴史的にifは語ってはならないと言いますが、もし力で抑えつけたら・・ 1848-49年、3月革命の余波でドイツ南西のバーデン大公国で大公を追放し革命共和国が成立 今までの革命騒ぎと違うのは旧大公国軍が革命政権に合流したことでした ドイツ連邦はプロイセン軍を中心とする鎮圧軍を組織しバーデンへ侵攻、大きな犠牲を出した激しい戦いの後に鎮圧 約8万人のバーデン人が国外へ脱出しました その鎮圧軍の司令官はプロイセンの皇太子で亡命バーデン人から散弾皇子と呼ばれ怨まれました その散弾皇子こそ後のドイツ初代皇帝ヴィルヘルム1世です 国外へ脱出したバーデン人の多くは合衆国へ亡命 間もなく始まった南北戦争では当然反奴隷制民主主義を標榜する北軍に参加 その中の一人カール・シュルツは合衆国内務長官にまでなりました 亡命バーデン人は当然統一ドイツに好印象は持っていません もう一つ ドイツと違いガリバルディの力により両シチリア王国を滅ぼし中央集権的統一を果たしたイタリアはその後どうなったでしょう 南部イタリアでは匪賊の反乱が起こり、結果イタリアは鎮圧のために大兵力と10年の歳月を使い事実上内戦状態になり シチリアのパレルモに対する海軍の無差別砲撃も含め軍、匪賊双方で虐殺、略奪など頻発 結果、対オーストリア統一戦争よりはるかに多い戦死者を出しました イタリアの南北問題は現在も尾を引くまで根深いものとなっています 同胞に対する力による抑圧は禍根だけと思いますね 特にドイツ人である以前にバイエルン人、シュヴァベーン人、ザクセン人というように強烈に地元意識の高い人々に対しては 長文失礼致しました
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- tanuki4u
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なるほど。ドイツ人は誇り高くて、自国民以外の民族を軽蔑していると聞いたことがあります。やっぱりドイツの性格はそこから来ているんですね。 ↓ ウィリヘルムが誇り高いとかではなく、ドイツ南部のカソリック地域は別物意識があったからです。 意外と知られていませんが、プロイセン王国は宗教的には寛容で、多くのプロテスタント系の住民を受け入れています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%B3%E7%8E%8B%E5%9B%BD 文化の部分参照。 リアリストのビスマルクが、19世紀後半以降国民国家としてイギリスやフランスと同等の規模がないとマズイと判断してウィリヘルムをなだめすかして皇帝にした。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A01%E4%B8%96_(%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E7%9A%87%E5%B8%9D) http://www.geocities.jp/kingo_chuunagon/kikaku/kokuryoku.html#population ドイツ帝国としてまとまったおかげで、人口では英仏と並べた
- ithi
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riki0701 さん、こんばんわ。 ドイツ帝国は1871年に成立しますが、このとき、普仏戦争の途中でした。そのときプロイセン国王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位しました。 このときのきっかけはこの戦争に参加した諸侯の推薦という形をとっていました。だから帝国成立後も一定の利権とともに自分達の政治組織や軍隊の存続も認められていました。しかし、いずれにせよプロイセンの強い軍事力による事実上の併合と同じだと思います。完全に滅ぼさないのは統一の立役者ビスマルクの手法によるものと思います。これは諸侯の支配する民衆の感情を考慮したものと思われます。 それから、各諸侯の軍隊ですが、平時は各諸侯に軍隊指揮権がありますが、有事になるとプロイセンの司令部から命令が発せられ、プロイセン国王=ドイツ皇帝の指揮下に入るようです。 税金ですが、各諸侯が課す税金と帝国税という税金があったようです。
お礼
回答ありがとうございます。 民族の感情を考えて、ドイツを統一に導くとは・・・・。ビスマルクは他の暴君とは違う、優れた政治力をもってたんですね。
- tanuki4u
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%84%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%A8%EF%BC%9D%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%95%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%88 プロイセン人ではない帝国宰相 http://cyber.tokaigakuen-u.ac.jp/cosmos/tokai/finance/public3.htm 「ドイツの場合には、イギリスと対照的に、関税や消費税が増徴されてきたが、これは1871年のドイツ帝国成立以来、税源が帝国は関税と消費税、邦は直接税というふうに分離されていたからであった。」 以上 引用 ということのようです。 フリードリッヒ三世自体は、ドイツ帝国成立に賛成ではなかった。 彼にとってみれば、南部のカソリックの連中など、臣民とは思えないということでした。 プロイセン国王としては、他の国を支配したくなかったという部分があります。 1871年における人口 プロイセン 2400万 ドイツ帝国 4100万 非プロイセン1700万 非プロイセンが組めば、そんなに圧倒的でもなく、イギリスやオーストリア、ロシアの介入は必然だと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 >フリードリッヒ三世自体は、ドイツ帝国成立に賛成ではなかった。 彼にとってみれば、南部のカソリックの連中など、臣民とは思えないということでした。 プロイセン国王としては、他の国を支配したくなかったという部分があります。 なるほど。ドイツ人は誇り高くて、自国民以外の民族を軽蔑していると聞いたことがあります。やっぱりドイツの性格はそこから来ているんですね。
お礼
興味深いifありがとうございます。 王国が普通だったこの時代。共和制は許せなかったんでしょうね。