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管領・政所体制について

tanuki4uの回答

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  • tanuki4u
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回答No.3

政治制度なんてのは、海外から制度を持ってきて適応するというような分かりやすいケースなんて数は少ない。 のちのちの歴史家が「○○ころ成立だよね」というのが普通です。 ※ はっきりしないから、歴史家の中で○○論争というのが発生するわけです。 日本史で言えば、内閣制度の成立なんてのは、海外からもってきたので明確ですが、鎌倉幕府の成立なんてのは、はっきりしない。 管領制度にしても、守護大名制にしても、「では、今日から管領制度にします」とか、「来年から守護大名制にします」なんていう宣言があったわけでなく、のちのちの歴史家が「このへんをまとめて言うと○○ってな感じだな」としているようなもんです。 ○○幕府という言い方自体も、江戸時代になって江戸時代の歴史家が言い出した言い方ですので、織田信長が「室町幕府を潰す」なんて、言えるはずがない、その言葉自体が信長の時代には無いのですから。 管領制度というと http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%A1%E9%A0%98 足利家の家人である執事の職に、独立した畠山家がなるのを潔しとしなかったので、13歳の畠山義将が就任して、実際は父親の畠山高経が権力を握った、1362年からでないの?という感じ。 それまでの執事が足利家の家人だったのに対して、畠山家が一族とは言え、別個の御家人だったという立場の違いがあります。 管領が事実上のTOPとして権力を握ったというと 14世紀後半畠山義将と細川頼之のころ その後は合議制で 15世紀後半から、畠山政長や細川政元が管領として権力を握る くらいかなと 守護大名では http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E5%AE%89%E3%81%AE%E5%8D%8A%E6%B8%88%E4%BB%A4 半済令あたりから http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%90%8D%E9%A0%98%E5%9B%BD%E5%88%B6 最終的には元和偃武で決着がついたが、ズルズルと続いた って感じかな。

noname#138315
質問者

お礼

だいたいつかめました。ありがとうございます。

noname#138315
質問者

補足

義満のころに管領はトップだったようですね。それ以降については、手元の書籍によると、「義持執政以下は合議制へと政務決定のあり方が変化した。これを重臣会議とか宿老会議という」とありますが、これのことを政所政治体制というんでしょうかね。 『管領政治体制・政所政治体制・守護大名制について書け』という課題をやっているのですが、どうにもそのままずばりの単語がどの専門書にも載っていないんですよね。 ともかくありがとうございました。

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