• ベストアンサー

どっちがほんとでしょうか?

また疑問がでてきました。 「是れ昭王たり」(これが昭王である) 「是れを昭王となす」(これを昭王といった) どっちがほんとですか? 2つが参考書にのってました。 教科書はあとのほうです。 解釈する人によって違うんだろうけど、 あとの方は「為す」を「いう」と訳してます。 これは間違いではないですか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • bakansky
  • ベストアンサー率48% (3506/7250)
回答No.2

「・・・を○○となす」 という言い回しになじみがないかもしれないですね。 これは、「・・・は○○である」 ということと同じ意味なのです。 「なす」 というと、つい 「成す」 の方を連想して、英語の do が頭に浮かんでしまうかもしれないですが、「為」 という文字自体は 「~である」 という断定の意味を持っています。 だから、読み方が違っても、意味は同じことです。 私の言いたかったのは、「○○となす」 と 「○○たり」 は、同じ意味です、ということでした。 でも、分りやすいのは、教科書に出ている読み方の方だろうなとは思いますので、そちらを覚えておけばよいと思います。 答案としては、どちらでも正解とされるはずです。

noname#153265
質問者

お礼

わかったようなわからないような。 もっとがんばります。ありがとうございました。

その他の回答 (1)

  • bakansky
  • ベストアンサー率48% (3506/7250)
回答No.1

どちらも正しいです。 「是為昭王」 を読み下すと 「是れ昭王たり」 とも 「是れを昭王となす」 とも読めます。 意味は同じことです。 「昭王である」 も 「昭王といった」 も、どちらも過去の人物の紹介をしている文で、一見現在形と過去形の違いがあるように見えますが、ある人物を登場させて、「これが○○である」 という場合もあれば 「これが○○であった」 という場合もあります。英語の場合の時制を当てはめるのは不適当です。 中国語の動詞には、過去形とか現在形とかはありません。過去の人物のことだな、ということが分れば、日本語としてどちらで表記しようと意味は変りません (読み下しは日本語ですから)。 「為」 は、いくつか用法がありますが、ここでは 断定 として使われているとしてよいように思います。 ある人物について、「○○である」 という断定です (「○○となす」 というのは、「○○である」 「○○であった」 というのと同じ意味です)。 ただ、初心者にとっては、「○○と為す」 と読む方が 「為」 の字を素直に読み込んでいるので、分りやすいとはいえます。意味も、「○○といった」 と過去形にした方が、英語の知識のある若い学習者にはなじみやすい、ということがあると思います。 少なくとも、どちらも 「間違い」 ではありません。

noname#153265
質問者

お礼

「たり」と読む場合の断定の意味はりかいできるんですが、「なす」と読む場合の断定の意味がいまいちわかりません。飲み込み悪くてごめんなさい。 いままで読み方で意味を考えたりしてたんですが、そうでなくて、 前後の文脈から考えるってこと?? そうするとものすごく理解するのが難しくなる気がする。。。

関連するQ&A