アマテラスとスサノヲの物語のなぜアマテラスはスサノヲの非行を咎めなかったのか

このQ&Aのポイント
  • 古事記に伝えられるアマテラスとスサノヲの物語は、現代人にとって人間の在り方を考える上での参考になる
  • スサノヲがアマテラスの領域にやって来たことに疑いを抱いていたアマテラスは、スサノヲを咎めなかった理由についての見解を求められている
  • アマテラスはスサノヲの非行に対して罰を与えず、追放後に復活させたことから、神の国が前史から後史へと移行する可能性があると考えられている
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アマテラスは スサノヲの非行をなぜ咎めなかったか

アマテラスは スサノヲの非行をなぜ咎めなかったか  古事記などが伝えるスサノヲとアマテラスの物語には われわれ現代人が人間を考えるための恰好の題材を提供していると考えます。そこで 表題の件で問います。質問者なりにあらすじをしるしますので    ○ ほかの人びとはスサノヲを咎めてもアマテラス自身はそうしなかった。それは何故か。  について 見解を示してください。  スサノヲは イヅモで復活する前に タカマノハラの世界でアマテラスの《なぜわたしの領域にやって来たのか。それは領土を奪いにではないのか 》という疑いによって悩まされていた。かれは 理屈で弁明するよりは 非行・愚行を繰り返すという破廉恥な抵抗によって 自己の知恵の同一にとどまろうと欲した。その一つに。    アマテラスオホミカミが 忌服屋(いみはたや=清浄な機屋)に坐(ま)   して 神御衣(かむみそ)を織らしめたまひし時 〔スサノヲが〕その服屋   の頂(むね)を穿ち 天の斑馬(ふちうま)を逆剥(さかは)ぎに剥ぎて堕   (おと)し入るる時に 天の服織女(はたおりめ)は見驚きて 梭(ひ)に   陰上(ほと)を衝きて死にき。(古事記)  とさえ記されている。  もちろんスサノヲは 殺そうと思ってそうしたのではないであろう。だが あえてこのような事をも辞さなかった。  そこで これらの天つ罪と呼ばれる非行のあと 罰を受けて追放されたのだが しかもなおかつその上で イヅモ・スガの宮での復活を受け取ることになった。こうなると つまりあたかも神の国が生起して身は復活し ひとの歴史が前史から後史へ入ったとすると おそらくこの神の国は 過去へとさかのぼり 後史が前史をも覆う・つまり前史を完成させるということが 生起するのではないか。  それは こうだ。この世にあっては 神の国は地上の国と混同して互いに入り組んでいるのだ。地上の経験的で相対的な人間の愛が ちょうどその向きを変えられ回転せしめられてのように あの神なる愛につらなるという〔観想的な〕事態を見ることになるのではないか。なぜなら 《その皮を剥いだ馬を機屋の屋根を破ってその穴から落とし入れて その結果 服織り女たちは驚いてしまい ひとりは 梭(=杼=shuttle)にほとを衝いて死んでしまった》という経験の中のスサノヲの前史の心を すでに その後史の心がおおうと見られるから。ちょうど    王はその宮からわたしの声を聞かれ    王に叫ぶわたしの叫びがその耳に達しました。(旧約聖書詩篇18・6)  とすでに言ってのように 前史の愛のなかに後史(または 王の本史)の愛がたしかに はたらいていたと見出されたかのように。あるいは   〔神の愛は〕処女の胎から あたかも閨(ねや)から出てきた花婿の   ように 道をかける巨人のように躍り出た。   (旧約聖書詩篇 19・5;アウグスティヌス:告白 4・12〔19〕)  というのが 事の真相であるのではないか。これによって機織り女が驚いたのでないなら それは 何故か。機織り女も 肉の眼によってではなく 心の内なる眼で なぞ(神の愛)を見たか。  この事件のあと 《ゆえにここにアマテラスオホミカミは見畏(かしこ)みて 天の石屋戸(いはやと)を開きて さし籠もりましき》。つまり その身を隠した。  もう一例を引こう。  スサノヲは アマテラスの疑惑を疑い返し やはり自己の知恵の同一にとどまろうとして この上の事件を起こす前に 次のような愚行をおこなったと記されている。    アマテラスオホミカミの営田(つくだ)の畔を離ち(境界を取り除き)   その溝を埋め また その大嘗(おほにへ)を聞こしめす殿(アマテラス   の神聖な御殿)に尿(くそ)まり散らしき。(古事記)  これは いわゆる反体制の運動のようなのだが そのあと    しかすれども アマテラスオホミカミは 咎めずて告りたまひしく     ――尿(くそ)なすは 酔(ゑ)ひて吐き散らすとこそ 我(あ)が     汝弟(なせ)のミコト(=スサノヲ)は かく為(し)つらめ。ま     た田の畔を離ち 溝を埋むるは 地(ところ)を惜(あたら)し     (=土地が惜しい)とこそ 我が汝弟のミコトは かく為つらめ。    と詔(の)り直したまへ〔ども なほその悪しき態(わざ)は止まずて    転(うたて)ありき〕。(古事記 承前)  要するに アマテラスは なお疑惑を解かなかった。     *  疑惑を解かないけれども 咎めもしなかった。なぜか?  《疑うなら つまりそう考えるなら 我れあり。》と考えていたという答えをひとつ用意していますが いろんな解釈があると思われ みなさんの知恵を拝借したいところです。

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  • lovekubo
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回答No.10

あーまた来てしまった…。 アマテラスが象徴するものは、何だと思いますか? それが、『愛』です。 さ、また逃げよ。

bragelonne
質問者

お礼

 おもしろい。ラヴくぼさん ご回答をありがとうございます。面白いです。  ★ 愛  ☆ というのでしたら 物語のつづきを読んでみてください。      *  スサノヲの子または子孫のオホクニヌシが スサノヲと同じように 人格の存在のあり方として前史から後史へ回転したのち そこへ アマテラスのタカマノハラから接触があった。この歴史を もうひとつの基軸として 捉えなければならない。  アマテラスからの接触とはここで単純に 服属の要求であり 侵略の動きであります。知られているようにこの結果 オホクニヌシ共同体は かれらに《国譲り》をすることになる。この歴史を 一つの基軸として見ることができます。  ともかく 最後まで取り合わなかったアマテラスから 積極的な接触があった。アマテラスの人びとは もともと 自分たちがスサノヲを追放したのであるから つまりかれを裁く側にあったのだから 服属を要求することは とうぜんのことだと考えた。しかもまず このような関係の進展が スサノヲの復活を証しすると考えられる。  そこで今度は スサノヲの復活の歴史を受け継いだオホクニヌシが むしろアマテラスの側の復活の歴史――つまり かれらの前史から後史への回転――にどうかかわったかが この第二段階の歴史的な基軸となるでしょう。アマテラスがどう復活するか これが あらたな問題なのです。この意味で オホクニヌシのミコトの物語が スサノヲの物語につづくことになります。  古事記など史書の伝えるところによれば アマテラスからの使者には いろんなタイプがあった――そして初めは 必ずしも功を奏さず 使者が何度か何人かに分かれてやって来て 数年 十数年が過ぎていった――と知ることができます。そして けっきょく最後の使者となったのは 武力(腕力)もしくはこれによる威嚇が その接触の基本的な性格であったと知られる。(相撲か腕相撲をしたとかとも)。  このことは あのスサノヲがちょうど昔したい放題のことをしたというのと対応するかのように 今度はアマテラスが 暴力に訴えてでも おまえたちの復活の歴史の秘密は何か それをおしえろと言って寄こしたかっこうであるのです。それには おれたちの支配下におまえたちも入れてあげようと言っているかのようです。  これは 正直に言って スサノヲの愛の勝利を 意味します。むしろ相手側から その宣言をなしたもののように思われます。人は この愛の勝利を――つまり 必ずしも反体制の運動の勝利ではなく 微妙に違って 愛の勝利を―― 絶対に疑ってはならないと思われます。  もっとも ここで直ちに それによってアマテラスの復活が成ったかというと そうではなかった。むしろ実際には 新しいかたちのというほどの別の疑いをなお持ったのであって それは とにかくオホクニヌシのムラを アマテラスの世界に組み入れてやるということによって 密かに――かれらの研究室において――オホクニヌシのムラの生活原理といったものを吟味してみようということを意味した。つまり おれたちの追放した者たちが おれたちより良き宗教を持っているわけなどないではないか これは疑って見なければならないというわけなのでした。  たしかにアマテラスたちも 侵略の手を伸ばしたと言っても すべてを破壊しつくそうというのではなかった。その点でも オホクニヌシは 服属の要求を受け容れたのです。愛の王国の歴史的な観点に立てば 受け容れてあげた――すべてを水に流してあげた――のであるかも知れないし 人間の経験的な愛からいけば 主戦論と非戦論とを闘わせたあげく その人間的な弱さによって非戦論に落ち着き(――主戦論も人間の弱さですが――) 長いものに巻かれたのであるかも知れません。  これが 《国譲り》ですが したがって 事の本質は じつは 《侵略》とか《服属》とかの関係にはないと言わなければならないのかも知れません。    *    すなわち《愛》と言うならば それは スサノヲやオホクニヌシの側にあったと考えられるとわたしは思います。アマテラスの側は 立つ瀬がありません。じっさいただの政治的人間であるように見えます。  どうか反論を期待しますので ご投稿ください。  

その他の回答 (14)

  • kigurumi
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回答No.15

> これにもとづき補足要求として批判をしてまいります。 前回回答をするとき、最初「ではプラトンのこの理論を批判してみては」と書いたのですが消しました。 ふと思ったのですが、あなたは日本書紀の方を覚えていて、私は古事記の内容を覚えている。 この差に解釈の違いがあるのではないかと。 古事記では黄泉に下った母親に会いたいと泣いてばかりいたので、黄泉から戻った父親はそんなスサノオに根の国を治めろと地方に彼を飛ばした。(任命した) かわいい子には旅をさせたかったと推測できますので、やはり親バカだと思います。 地方を治めるように言われたスサノオは、お姉さんに別れの挨拶をしようと会いにいくと、お姉さんは高天原に攻め込んできたと思って身構えた。 そうじゃないと説明するため姉とセックスして、間に生まれた子供を二人の愛の証だと言い、姉はそれを信じスサノオが高天原に居座ったことを許した。 その後 神殿にウンコ撒いたりしたので、他の神が苦情を言うと、お姉さんは恋は盲目で「なんかそれなりの理由があるんでしょう」と取り合わなかった。 しかし、馬の皮をはいで生命の糸をつむいでいた巫女を殺したとき、恋が冷め、怒り心頭となり、とてつもない破壊力の男を信じて男に身を開いて二人の子供を産んでしまったことを公開し、寝込んでしまった。 これが天の岩戸事件ですよね。 事件解決後、姉はもう弟をかばわず、神々はやすやすと高天原からスサノオを追放できた。 というのが古事記にエピソードだったと思いますが、日本書紀の方で解釈するんですか? すいません 日本書紀の方は読んでないです。 が、あなたは原理主義的なキリスト教の信者ですよね。 その立場において、何故神は人間にイエスを殺されたのかわからないってことですよね。 何故 神はそんなことをさせたのか どうしてもわからないので、「どうしてイエスが殺され、するとこの世に光が復活した」という話がまかりとおっているのかその理屈がわからないってことですよね。 どうして神は人間の狼藉を許したのか とか。 その前にどうして神を殺さなければならないのかという疑問がありますよね。 新しい時代を迎えるため、生産能力の無くなった古い神を殺し、次の時代に生産能力の非常の高い神として生まれなおしてもらうため。 だから 御柱祭りという神殺しの祭りがあるんです。 そんなことをしたところで、人間の願いが叶うわけじゃないのですが、人間の思いが形になったものがあの祭りだし、モーセの牛殺しだし、羊殺しだし、魚殺しになるわけです。 牛や羊や魚はそれぞれ一つの時代を表しています。 古い時代の象徴である神を殺すことで、新しく生まれかわり新しい時代の神となるって考え。

bragelonne
質問者

お礼

 そもそも ウケヒは あらかじめ神に誓約したとおりの結果が現われるかどうかで神意をうかがうことだそうで たぶん思うにこれは 結果の判定でどうにでもなるとさえ思われます。そのウケヒで決めようとスサノヲが言ったのは アマテラスが《おまえの心の清く明(あか)きは いかにしてか知らむ》となじる問いかけに答えたものです。《愛の証》というのは 筋が違うでしょう。  (い) したがって  ★ その後 神殿にウンコ撒いたりしたので、他の神が苦情を言うと、お姉さんは恋は盲目で「なんかそれなりの理由があるんでしょう」と取り合わなかった。  ☆ この《恋は盲目で》という解釈には疑問を呼びます。《土地が惜しい。酔った勢いだ》というふうに善意を見ているという解釈は 多くの場合に出されています。ちなみにわたしは まだ分からないという場所にいます。  (う) ★ しかし、馬の皮をはいで生命の糸をつむいでいた巫女を殺したとき、恋が冷め、怒り心頭となり、とてつもない破壊力の男を信じて男に身を開いて二人の子供を産んでしまったことを後悔し、寝込んでしまった。 / これが天の岩戸事件ですよね。  ☆ これまでの筋から言って 納得できません。仮リにもし《恋が冷め 怒り心頭とな》ったのなら どうしてただちに咎めなかったのか? のちにアマテラスが天の石屋戸から出たあとタカマノハラからスサノヲを追放したのも 記述としては 《八百万の神》であって アマテラスではなかった。咎めや処罰にかんしてアマテラスがどう考えたか そのことに触れられていてもよかった。それともタカマノハラの主宰者にかんして《恋》とその破局の話などは出来ない相談だと言うのでしょうか?  (え) すなわち同じことになりますが  ★ 事件解決後、姉はもう弟をかばわず、神々はやすやすと高天原からスサノオを追放できた。  ☆ アマテラス自身の裁定ということが 明らかにされてしかるべきではないでしょうか? それがないのは何故か?  《事件解決》というのは 何を指して言うのか? アメノウズメの踊りのことなのか? だから石屋戸からアマテラスが出て来たことは 別に事件でも事件解決でもないと思われる。スサノヲ事件をめぐってはです。つまり くどいように繰り返すなら 石屋戸を出てアマテラスは どういう裁定を下したか これがあって初めて 事件とその解決を説明することになるはず。  さて 話題は変わって。  ★ が、あなたは原理主義的なキリスト教の信者ですよね。  ☆ ちがいます。  ★ その立場において、何故神は人間にイエスを殺されたのかわからないってことですよね。  ☆ そもそも《キリスト教》という呼び名じたいが 個人の信仰の自殺行為としての組織宗教であるという理由で 絶対的に否定します。ローマ教会以下の宗教組織も 自己解体を提案しています。  イエス物語にかんしては この質疑応答の場ではあちこちで自分の見解を明らかにしています。その限りで《わかる》部分があります。  ★ その前にどうして神を殺さなければならないのかという疑問がありますよね。  ☆ これが 神話の神々の話であり 聖書の神とは心づもりがまったく違うという問題です。後者の神には 《生まれる》も《殺す》もありません。あり得ません。《絶対》という概念をあなたが知らない・知ろうとしない・もしくは知っていても拒むというだけの話でしょう。  わたしが語りかけることができるのは ここまででしょう。よかったら いつでもご説明します。  ★ 新しい時代を迎えるため、生産能力の無くなった古い神を殺し、次の時代に生産能力の非常の高い神として生まれなおしてもらうため。  ☆ この種の話というのは すべて《人間とその経験世界》のもんだいです。《神》と言っていても 人間のことです。もしくは 観念として超能力などが擬人化されまた神格化されて 物語として編まれたというに過ぎません。  このように神話や伝説その他の物語における神々と 聖書の神とを区別することは 哲学のいろはのいです。  プラトンの神々も 至高のイデアと言ったとしても それは人間の想像によるところの《観念の神》です。このような神は はじめから死んでいます(人間と同じように朽ちるべき運命にあります)が それをわざわざ《神は死んだ》と唱えた人も出て来たのでした。そういう話ですから 注意していただきたい。  こういったところでしょうか。

bragelonne
質問者

補足

 こういうことでしょうか?  ○ 前回(No.14)のわたしの(1)から(7)までの批判については 事実関係としては認めた。それは認めたが それはたぶん日本書紀の記述にもとづいての話であって 古事記では筋が違う。よって 大筋で《アマテラスは姉と弟の関係ではあるが あたかも親として〔最初のころは〕弟のスサノヲがかわいかった。ので スサノヲの非行をも咎めなかった》という答えを保つ。  キグルミさん ご回答ありがとうございます。  ★ 古事記では黄泉に下った母親に会いたいと泣いてばかりいたので、黄泉から戻った父親はそんなスサノオに根の国を治めろと地方に彼を飛ばした。(任命した)  ☆ ところが これも順序が違う。  ○ 古事記によれば(わたしは初めから古事記のほうを基礎としています)。イザナキがみづからの産んだ三柱の貴き子のうちのひとり(末っ子)であるスサノヲには まづ   【1】 《ウナハラを知らせ(治めよ)》と務めを決め命じる。つぎに   【2】 スサノヲはこの職務を遂行しなかった。《泣きいさちる》ばかりであった。   【3】 鬚が胸先に伸びるまで泣いてばかりいたと言うのだから 明らかにこの祭司の務めを拒んだのであろう。飛躍して言えば 宗教というものを再考の余地のなくなるまで無意義だと捉え これを否定し拒否した。   【4】 そのスサノヲにイザナキが何故治めることをせず泣いてばかりいるのかと訊くと 亡き母のくに――《根の堅州国》――に行きたいからと答えた。   【5】 イザナキの答えは 《しからば 汝はこの国に住むべからず》であり 《すなはち神(かむ)やらひにやらひたまひき》。とことんまで・どこまでも追放したという。  ☆ すなわち ( a ) 《母親に会いたい》と言ったのは 最初のことではない。ただし確かに 最初からそうであったとも取れる。  ( b ) 父であるイザナキがもしスサノヲを《地方に飛ばした(任命した)》という解釈をとるとしても――《任命した》とは読みとりがたいが そうだとしても――根の国は 《地方》ではないであろう。地方だとすれば それは《この国に住むべからず》の《この国》の範囲内にあると考えられるからである。  ( c ) イザナキは《黄泉から戻った》あと 三柱の子を産み それぞれ職務の分担を命じ そのあとスサノヲの宗教拒否が始まる。そのあと 追放。細かくは こういう順序。  ( d ) もし初めの《ウナハラ》がけっきょくそもそも根の国のことであるとしたら どうなるか?――だとすると 最初から父イザナキは 子のスサノヲに死の国に行けと言っていることになる。  ( e ) この問題は あなたの方からもし問い求めておくべきであると言うのならわたしも考えてまいりますが いまはアマテラスの振る舞いの問題のほうに焦点を当てたい。  ( f ) ともかくにも父イザナキに関しては  ★ かわいい子には旅をさせたかったと推測できますので、やはり親バカだと思います。  ☆ とはまづ考えられない。  ☆ さて アマテラスの振る舞いについてです。  (あ) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  スサノオは、お姉さんに別れの挨拶をしようと会いにいくと、お姉さんは高天原に攻め込んできたと思って身構えた。  そうじゃないと説明するため姉とセックスして、間に生まれた子供を二人の愛の証だと言い、姉はそれを信じスサノオが高天原に居座ったことを許した。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ウケヒを《セックス》と取ったのですね。そういう説もあります。  ▼ (古事記:天の安の河のウケヒの段) ~~~~~~~~~~~  おのもおのも天の安の河を中に置きてうけふ時に アマテラスオホミカミ まづタケハヤスサノヲのミコトの佩(は)かせる十拳(とつか)剱(つるぎ)を乞ひわたして 三段(みきだ)に打ち折りて ぬなと(玉の音)ももゆら(も揺ら)に天の真名井(まなゐ)に振り滌(すす)きて さ噛みに噛みて 吹き棄(う)つる気吹(いぶき)の狭霧(さぎり)に成りませる神の御名は タキリビメのミコト。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このあとおおむね同じようにして 子が生まれるかたちです。すなわち《つるぎを噛んだ》のであり スサノヲの場合は アマテラスの髪飾りとしている勾玉の列なったその《珠を噛んだ》と言います。それで子が生まれたと。  ★ 間に生まれた  ☆ かどうか。  ★ 間に生まれた子供を二人の愛の証だと言い  ☆ どちらの《ものざね(物実・物種)》によって生まれたかを言い争っていますが 単純に《愛の証》ととって話の筋を追うというのも ただちには請け合えないでしょうね。  

  • kigurumi
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回答No.14

> ☆ なぜ《無実のイエス》と分かるのですか?  磔刑シーンはプラトンの善人の証明をパクっているから。 元ネタのプラトンの善人の証明では、そういう設定だから。 元ネタが、善人と高い評判の人に罪を着せ殺すという設定だから。 >★ 無実のイエスを神が人間に殺させたそれはただ聖書記者の主張であるに過ぎません。 じゃあ 聖書自体も作った人の主張にすぎないってことで、聖書は価値が無い ってことでいいんですね? 確かに史実ではなりませんが、新約聖書はプラトン哲学ですよね。 > それになぜ《神がこうしたああした》と人間であるあなたが分かるのですか? プラトンの理論なんですけど。 うさぎと亀の話は人間が会話を傍受していたわけじゃなく、教訓を子供に教えるために作られたものですよね。 >もしイエスの場合には 作り話であったとしても  >なぜはりつけになったかという問いは そしてそれに答える合理思考は 人間のものであり哲学です。 2つから来ている。 一つは古代エジプトの思想。 その思想の源は天体観察。 古代エジプトでは、ナイル川が氾濫することで、陸地に豊穣がもたらされていた。 洪水が起こる時期はわかっていた。 夏の日の出前に東の空にシリウスが現れそのさらに東に3つの星が並ぶ。 これが洪水の予兆だった。 3つの星(オリオン座)=東方の三賢者、シリウス=イエス。 太陽が南半球側を照らすとき、北半球は冬。 古代では12月21、22、23日が一番太陽の出ている時間が短かかった。 その後 上に上昇し、その上昇した先に南十字星があった⇒太陽が十字架にかかる。 その後、太陽は北半球に戻ってきて、やがて春がやってきて、植物は芽を出す。=蘇り=恵み・祝福。 >一切とがめなかった。それはなぜか? これを考えるのも哲学です。 天体のことと人間のことは別に考えないと。 天体を用いてたとえ話をして他者に道理を説明してもいいが、天体の動きと人の道は違う。 親ばかほど、子供が悪さしても「元気があって結構なことじゃない」と言う。 ところが、自分の大事にしていたペットを殺されたら、そうはもう言ってられない。 「出て行け」って勘当したりしますよね。 >アマテラスが神だというのは イエスの神でもここでのスサノヲの神のことでもありません。ただの英雄や偉人の神格化であるに過ぎません。 お金持ちの人の中にはどら息子を家族に持つ人もいますよね。 将来自分の後釜に据えようとしていたのに甘やかして育てたため我がまま放題。  人の上に建つ人格じゃないし子供に会社を継がせると一代でつぶしてしまうと思ったら、後を継がせないじゃないですか。 以前 海外で会った人、 相当の金持ちのぼんぼんらしく、年齢は21歳で、飛行機や船を所有しており、自分の一声で動く部下を従えていた。 シェアマーケットの仕事をしており、ある国から資産を別の国に移動させたため、円高を引き起こしたと言っていた。 こいつは、お好み焼きが大好きで、大阪にベンツを運転させて、たまに食べに行くらしい。 商店街の中にある店の前にベンツを止めるのだそうです。 警察による取り締まりは行われない。 何故なら、ベンツのナンバープレートがアメリカ大使館のものだから。 治外法権で手が出さない。 で、こいつは会社の社長じゃあない、会長。 親も子供の人格を考え、自分の子供を社長の椅子に座らせるわけにはいかないと、早くから会長に据えたわけですね。 会長だと直接経営を操作できないから。 子供に権力を与えると とんでもないことになるから。 で、彼は恐らく家族によって日本から追放されたので、海外に住んでいたんだと思う。 最初、妄想家で精神を病んでいる人かと思った。 実際、彼の乗る車や住居に招待されたとき「話はほんとうだったんだ・・・」とわかった。 「これじゃ 親は海外に追い払うわなぁ・・・」って幼稚さと重大なモラルの欠如があった。 どんな子であっても 親は子供がかわいいじゃないですか。

bragelonne
質問者

お礼

 きぐるみさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ どんな子であっても 親は子供がかわいいじゃないですか。  ☆ そうすると   ○ アマテラスは スサノヲの非行をなぜ咎めなかったか?――姉のアマテラスは あたかも親としてのごとく(なぜなら すでにタカマノハラの主宰者であるゆえ親としてのごとく) 弟のスサノヲがかわいかった。  ☆ というのが 基本的なお答えでしょうか?  これにもとづき補足要求として批判をしてまいります。  1. まづほんとうの父親であるイザナキは 泣いてばかりいたのではだめだと《いたく忿怒(いか)りて    ――しからば 汝(な)はこの国に住むべからず。》  とスサノヲを追放したとあります。親ばかではなかったようです。情況証拠として挙げておきます。  2. ★(要約) 子がかわいいので しかし人格等を考え 権限のない会長に据えた。  ☆ アマテラスは スサノヲが自分の国にやってくるのは 国を奪うためだとうたがった。会長の職につけるといった優遇はしていない。    3. ★ 自分の大事にしていたペットを殺されたら、  ☆ といった《悪さ》はスサノヲはいっさいしていない。したのは アマテラスが取り合わなかったそのあとのことである。  4. ★ 将来自分の後釜に据えようとしていたのに  ☆ ということはなかった。アマテラスは うたがい続けたのみ。  5. ★ 治外法権で手が出さない。  ☆ もしそうだとしたら どうしてアマテラスはスサノヲに治外法権を与えたのか? うたがい続けているから その証拠を手に入れるまでは したいようにさせたということか? ならば あとになってもその嫌疑は固まらなかった。どころか 晴れてしまった。なのに あとで人びとがスサノヲを追い払うことを アマテラスはなぜそのままやるに任せたのか? 治外法権が与えられていたのではなかったか?  6. ★ で、彼は恐らく家族によって日本から追放されたので、海外に住んでいたんだと思う。  ☆ これだと すでに初めに 一定の地位を与えてしかし変なことをしないように権限をおさえて 本国からは追いやってその異国の地で 好きにさせている。スサノヲとは順序がちがう。  7. ★ 「これじゃ 親は海外に追い払うわなぁ・・・」って幼稚さと重大なモラルの欠如があった。  ☆ 繰り返しになるけれど。《幼稚さ》は 任せられたウナハラの統治がいやだと言って泣いてばかりいたことを言おうとしていると思われるが これを咎めたのは 父のイザナキであって アマテラスは関係ない。  《モラルの欠如》というのは ひとつに アマテラスが取り合わなかったそのあとのことであって ふたつに 初めにその事件があったのでもなければ そのあとにおいてもアマテラスはいっさい咎めなかったのである。一般には《スサノヲに善意を見て 咎めなかった》と解釈されている。《重大なモラルの欠如》をアマテラスが咎めて追放したという解釈は通らない。  こういった批判ができるでしょうね。  ★ 3つの星(オリオン座)=東方の三賢者、シリウス=イエス。  ☆ この構図がイエス物語に反映しているとして だからイエスは磔になったという筋は一向に分からないのですが?  ★ 確かに史実ではなりませんが、新約聖書はプラトン哲学ですよね。  ☆ どうしてそうなるのでしょう?  そもそも 紀元前400年ごろでしょうか そのプラトン哲学よりも前に・つまり紀元前2000年ごろ アブラハムに神は声をかけたという物語があるわけです。ぢゃあこのアブラハムのほうは シュメールかどこかの神話をパクったという説を出してくるのかも知りませんが 要するに 話の心づもりがまるっきり違うということを申し上げています。  それは 神という概念が違うということです。プラトンの神も 観念の神ですし オリエント神話の神々は 人間の神格化であるに過ぎないと批判しています。話の要素は仮りに借りて来たものであっても その文章で表わそうとした理論は まったく違った観想にもとづいているという意味です。すでにそれが意味する内容は この質疑応答の場でいろんなところでわたしは投稿したりして明らかにしています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~   > ☆ なぜ《無実のイエス》と分かるのですか?   磔刑シーンはプラトンの善人の証明をパクっているから。  元ネタのプラトンの善人の証明では、そういう設定だから。  元ネタが、善人と高い評判の人に罪を着せ殺すという設定だから。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ プラトンの話を当てはめればそうなるということでしょう? そうではない神と人間の物語だと申し上げております。これは互いに認め合うことです。

noname#131237
noname#131237
回答No.13

前回答より続き III証明 QNo.6088388 ANo.9 お礼より あなたの述べていることが正しいとして、哲学を二つに分けるとします。 普通の哲学と貴方のやっている哲学(内容としては「哲学するとは 生活すること。生活することとは 哲学すること」(QNo.6088388 ANo.9 お礼より)とします。 わたしは学者ではありません。(同上ANo.9 お礼より) あなたは学者ではないとのコト。 哲学は学問です。学問をする人は学者です。貴方は「自分が哲学者であると述べたことはない」といっている。学問ではない哲学が存在するという前提で話している。 哲学者と普通の人の共通点は、生活をしているという事です。 哲学者も普通の人も生活者です。 哲学者と普通の人を区別する為の指標は、すなわち哲学者にあって普通の人にないものは、彼のもたらす哲学的成果です。哲学的成果は学問的成果です。学問的成果は、生活ではありません。 貴方は哲学的成果を上げていない生活者です。そういう意味では普通の人です。 問題は、「おいらはコレが役に立つと思った」と考えることが、「社会的有用性」であると勘違いしていることです。 そういう意味で、あなたは、自分は考えていると勘違いして、無意味な毎日を過ごしている老人です。 主観的オレオレ理論が社会にもたらしたものは、悪口と無意味なテクストの羅列というデータ公害です。わたしは、この公害(老害)が臭いといっているだけです。 あなたによれば哲学とは 哲学と哲学に似ている私の生活(更にその一部である落書き感想文)であるという。 そういう主張が、貴方の理論。 仮に貴方が役立たずであるとすると 貴方の生活は、哲学にたものの中でも、役に立たない領域の一部です。 哲学に似ているものが哲学ではないということを ここでは強調するまでもないでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 たとえば ひとは ひとと会ったときにはまづ こんにちはと話しかけます。  天気の話で継ぐというのも その話題が 互いの思想や信教や政治観には障りのないような無難なことなのでとりわけえらばれます。  このように 生活の中で人間的な交通のあり方をかたちづくること これが哲学です。  同じものを欲しがって取り合いになるときや それと同じ形式として狭い道で互いに出会ったときに まづは相手にゆづるという心がけ これも 哲学です。  話はすっ飛んで たとえば日本人は(あるいは現代日本人は) おとなしい。《主観的オレオレ理論》を口にしない。言おうと思わないから 考えることをしなくなる。思考停止に落ち入る。もはや過去の惰性でのみ生きるようになる。  それでよいのか? という《主観的オレオレ理論》をわたしが提出したら それは 学問としての哲学ではないと言わはる。元気がないぢゃないかと言うと 大きなお世話だと返すのではなく それは哲学でも学問でもないとおっしゃる。  やがて延々と その周辺領域で ああたらこうたら ちんたらちんたら 相手の誹謗中傷をも交えて ゴロツキぶりを発揮する。  これぢゃだめぢゃないか。しっかりせい。と言うのみ。こういうことは学者はあまり言わない。ゆえにわたしは学者ではありませんと述べた。  ★ 哲学的成果・学問的成果  ☆ はどうでもよいのです わたしにとっては。人びとが元気であることが いちばんの哲学的主題です。ただそれだけ。  役に立たなくて わるかったなぁ。

noname#131237
noname#131237
回答No.12

騒ぎ方が幼稚な回答者様には 言って聞かせるしかないようで残念です。 I貴方の主張の構造について 「質問1 『わからないことがあります 解答しなさい。 気に入らない回答の場合は、 私の独断評価で点数をつけ、 却下する場合もあります。 質問内容  「Aではないのか?」 主張A 主張B 主張C ・ ・・ というのがあります。 ただし大枠として回答は、用意してあります。 至急回答せよ。決定保存版です。』 回答者 『すみませんが貴方の質問は妄想に基づくもので 回答はつかないのではないでしょうか?』 質問者 『質問が気に入らないなら来るな。 敗者は俺に食らいついてくるもの。お前は敗者だ。 お前の生態はわかっている!』 しかし論戦の中で立場が危うくなり その質問者様の主張があまりにもバカらしいものであると 晒されてしまった場合 主張のひとつ先のこれまでいい及んでいなかった根拠として 『役に立つことだと思った』 『私と同じ人はいなかった。良くも悪くも私が始めた。 私に続け!』 と分けのわからない言い訳を叫んで 質問を閉める。」 ここに 「思う」ことが、本源的に「よい」こと。 「はじめる」ことが、起源的なこととして「正しい」ことであるという 「べき論」が滑り込まされています。その「良性」「善性」の根拠となるのが「わたし」であるとする。 何事も私から始まるからです。ここで善の安売りをすることも当然忘れない。 こういう人たちは常に「全てが善(膳)だ」と述べ、自分の「善」を基礎付けます。全てが善なら自分も善であるというわけです。 貴方のキーワード 「役に立つ」「はじめ」「みんなを目覚めさせる光」 II詳論 主張 「Aだ。」「Aではない。」 討論テーマとして以下の文章を取り上げて見ましょう。 《貴方の神学は神学ではない。》というあなたの命題は神学でもなければ学問でもなく 妥当性のある判断でもあり得ない。なぜなら もしそれでことが有効であるとするなら それに対してただ《〈貴方の神学は神学ではない〉は間違いである》と言うだけで通用することになる。 注目すべきは、「妥当性のある判断」の下り。 貴方の意見には妥当性がないといっているだけです。 あなたは、貴方の意見について (常識的学問的には妥当性がないとことわった上で、) 新しいこととしては、妥当性があるといっている。 上記の判断という言葉の中に俺の判断は正しいという勘違いがあります。(混ぜ込まれています) 判断をよい判断ととり違えているのです。 結果をよい結果と勘違いしているのと同じ、スポーツ新聞レベルの思考様式に基づいた国語的無知が原因です。 ある人間が、ある主張をするという構造があります。 質問者様自身も認めていらしゃるように 「Aだ」 「いやAではない」 というのは「通用」するというのが(経営)論理学的常識です。 貴方の哲学の根拠というのは、貴方が常に言い逃れとして使う 「役に立つことだと思った」+「私と同じ人はいなかった。良くも悪くも私が始めた。 私に続け!」すなわち 経営学の作法です。 そういう貴方の判断=社会的有用性に基づいたことだけが「素晴らしい考え」であるというわけですwww ( わたしは考える人だ!尊敬せよ!もともと哲学者ではないとかと言い出すのかもねwww) 以上の理由から、わたしは貴方に関し「あなたは押し売り経営学者である」と述べているのです。 あなたのいうチョロイについては、わたしは、「あたらしい」ということがすべてに通じるオレオレ理論の基礎付けであるということをいっている。 私の意見としては、 あたらしいあたらしくないではなく 一般論として「バカらしいことは学問的ではない」ということに早く気がついたほうがよいと思います。 「新しい」のなかに隠されている定義的主張は、今までの哲学とおいらの哲学というカテゴリー。私にいわせれば「哲学」と「哲学ではない哲学」です。 あなたは、自分は考えていると勘違いして、無意味な毎日を過ごしている老人です。 「哲学するとは 生活すること。生活することとは 哲学すること」とゴニョゴニョ呪文を繰り返しているだけ。

bragelonne
質問者

お礼

 めんどうなやり取りだね。  ★ ~~~~~~~~~~~  貴方の主張の構造について  「質問1  『わからないことがあります  解答しなさい。  気に入らない回答の場合は、  私の独断評価で点数をつけ、  却下する場合もあります。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《気に入らない回答の場合は 私の独断評価で》反論し批判して返答する。これだけのことです。およそ――返事をしない質問者を除いて――みながおこなっていることです。回答者は 反批判をおこなえばよいのです。まったく自由なんだよ。  《独断評価》しない人はいない。問題は 筋道をつけて互いに批判しあうことです。これを対話と言います。民主主義の基礎です。  わたしの文章について内容をめぐて批判が出なくなったときには 相手はおおむね同意したという意味です。(わづかに 神学の要素などが含まれるときには 互いに見解の相違だというかたちでやはり合意し ひとまづ対話を打ち切るのです)。  あーあ いちからおしえてやらなくちゃならん。めんどうだよねぇ。〔と言って ドアを開けているわたしは バカか〕。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  あなたは、貴方の意見について  (常識的学問的には妥当性がないとことわった上で、) 新しいこととしては、妥当性があるといっている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この理解はずれている。こうだ。  ○ 従来の学問の考え方や研究者のあいだで暗黙の約束となっているようなエチケット この常識にはわたしの理論は 反しているかも知れない。なぜなら 従来の常識が持つ妥当性は 範囲がまだ狭かったと分かるようになるかも知れないし まだまだ奥が深いということがやっと分かるようになったとならないとも限らない。そういう可能性が あたらしい理論にはあり得ますよ。と言っている。  ★ あなたのいうチョロイについては、わたしは、「あたらしい」ということがすべてに通じるオレオレ理論の基礎付けであるということをいっている。  ☆ この主題 つまり従来の学問のことではなく 狭く従来の神学のことをうんぬんするという主題については わたしはそれとわたしの理論とのあいだには違いがあるということのみを言ったまでなのだから 従来の神学がちょろいと言ったことの証明は そのときしていない。またそのように論証してませんと すでにあとでも述べている。  この未証明ではないかという指摘は ただしい。  で 証明して欲しいのか? それとも 単にいちゃもんをつけるためにだけ取り上げたのか?   従来の神学の理論とどこがどう違うかを問い求めようともしていないところを見ると 後者かな?  つまり わたしの示した理論のどこが問題でどう間違っているかを そのまま直截にあなたが示せば話は何の問題もなくすすむというものです。  わたしの理論は 生きた神学ですと語ったのだから ほかにこれまでの神学理論の中で 生きているそれがあるとするなら それを出して来てください。それについて説明します。そういうことです。そういう対話の運びにならなければウソです。早くできるようになってね。  ★ あなたは、自分は考えていると勘違いして、無意味な毎日を過ごしている老人です。  ☆ わるかったなぁ。それがどうした? それでどうした? それ以下のおまえに言われたくない。

  • lovekubo
  • ベストアンサー率29% (96/321)
回答No.11

あなたは一体何が欲しいのか。 ただ延々と続くこの終わりのない討論を、その空気を楽しみたいだけなのでしょうか。 専門外の私から言わせて頂ければ『またチマチマした事気にしてるな…』ですが、それが哲学なのでしょうね。 …あ、鉄学? 私はあなたの意見や考えに反論もしなければ賛同もしかねます。 ただ、尊重したいだけ。 しかしあなたは大変興味深い人。 だから私はあなたの事が気になる。 そんな私の専門は、『心理学』。 完璧なる畑違いですので、これにて失礼。 でもあなたの事は、いつも見ている。 ※被害はありません

bragelonne
質問者

お礼

 あぁ そうですか。そう映るんですね。ご回答をありがとうございます。  ★ 鉄学  ☆ って何ですか? まさか鉱物学ではないんでしょ?  ★ ~~~~~~~~~~~~  あなたは一体何が欲しいのか。  ただ延々と続くこの終わりのない討論を、その空気を楽しみたいだけなのでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ アマテラスは タカマノハラの主宰者ですよ。人びとがスサノヲを処罰し追い払うことにも 最終的には同意し認可しているものと思われます。そうでなければ 世の中何も動きません。そういう権威あるいは権力者が スサノヲの非行に対しては 咎めない。――おかしいぢゃありませんか?  田の畔を荒らし水路を埋めてしまったり大殿の前にを屎(くそ)したりしても それは 土地が惜しいからだとか酔った上でのことだろうとか言って 咎めない。――おかしいぢゃないですか。  或る人の理解では それはこの話のほぼそのままに アマテラスが《善意に採ったのだ》と言います。これだけで――心理学としても――納得できますか?  たとえばこういう解説があります。  ◆ (吉井巌:古事記の神話――梗概と問題点) ~~~~~   ○ 《二神のウケヒ》という項目もありますが 大したことが書いてないので 次の項目の記事を掲げます。   § スサノヲの乱行    乱行によってスサノヲのミコトが犯した罪の話は 罪の起源説話であり 本来次の石屋戸ごもりの神話と関連したものではない。この神の犯した罪は 大祓(はら)への祝詞にも 農業社会の秩序と営みを妨げる大罪として 天津罪とされているもので スサノヲはここで罪人の権化の扱いを受けているわけである。  しかし井上光貞(『日本古代国家の研究』)は 《逆剥ぎ》《屎まり》について これらは本来重大な罪ではなく 記紀の乱行の神話に基づいて後次に大祓への天津罪に加えられたものと考えている。  この二つの罪は犯した場所が新嘗の聖所であるがゆえに罪となったのであるが この二罪の追加は明らかに次の石屋戸ごもりへと筋をつなぐ意図を示している。  なお大祓へは定期のもののほか 鎮魂祭 新嘗祭とつづく豊饒祭の前にも行なわれ 後述するように(* 省略) 《乱行》  鎮魂祭と関連する《石屋戸》 新嘗祭と関連する《天孫降臨》という神話の展開は 記紀の神話が 宮廷儀礼の成立につれて体系化されたことを物語っている。  (この項の全部)  (稲岡耕二編 日本神話必携 別冊国文学・No.16 1982)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 要領を得ないでしょう?

noname#131237
noname#131237
回答No.9

I>文章の作法など 質問者様には作法がないと理解しておりましたが? 貴方の一体 何処に 作法があるのですか? まず ラテン語も読めないのに作法を学ぶもへちまもないのではないでしょうか? ドイツ語も読めないのにハイデッガー批判とかwwwもやっていらっしゃるようですがwww ドイツ語科が主流の民青では、フランス語科であるので疎まれ、 仏語学科内ではフランス語が出来ないので見放され、 院レベルのフランス語ができなかったからコネのある他大学の経営学科へ避難というのは何ですか?(学費に関する家族とのいざこざは伏せておきますwww) モチベーションが修論テーマだが、心理学が苦手www 社会 社会いってないで、自分で自分の後始末が出来るようにしなさい。 II)「普通の神学はチョロイ」www について >自分はアウグスティヌスを超えた「光の天使」www >理想の城を建設中だ!www 関わるものを次から次へと不幸にしていく おかま神父(bi)の きもサを超然的に越えて て はっきりいって コワイデスwww (私は貴方に面識がなくて幸せですwww) III)反論wwwについて (2つの補足より) 趣意 1関係はない 1+ないかもしれないが・・・ 2 おいらは何をやってもよい!自由だ! 3 妥当性がないというなら証明してみろ! 4 おいらの文章を読め!話はそれからだ! 5 いっておくが コレは哲学ではない。おいらの神学だ! 反証 AさんとBさんがいると仮定します。 Cさんは、「AさんとBさんは、関係がない」と主張しました。 Dさんは、「AさんとBさんは、関係がある」と主張しています。 さて問題です。DさんがCさんに対して、「AさんとBさんは、関係がない」と証明してみろと主張しました。 証明は可能でしょうか? いずれにしても貴方の主張は、妄想・噂話のレベルの話です。 貴方の反論は反論になってませんwww 上記の理由から、「ガラパゴス化」の例証を説明したまでです。 「ガラパゴス化」はチョロイと主張することはできます。(素晴らしい作法ですね) しかしチョロイと証明できますか? おいらの神学はアウグスティヌスの受け売りだが、神学はチョロイ と主張なさるのであれば、なおさらです。説明を求めますwww 古事記はチョろくないと思いますし、神学もチョろくないと思います。 でも 貴方はチョロイでしょう。 (推論ですから主張してもよいということでwww コレが私の神学です) 関係ないものは関係ない。貴方の神学は神学ではない。 アウグスティヌスが述べたことに つけたしをする。 あなたが自由につけたし「たい」ことが真実であるという その証明は、ないようです。不可能です。 更に 関係がないものを無理やり 「ある意味」関係があるといって主張するのは屁理屈であって学問ではない。 貴方のチョロイも、「コレコレ(何でもよいeverything)ハ ある意味チョロイ」という主張を越えるものではありません 押し売り 受け売り は学問ではありませんから。(貴方の学んだ作法は経営学です。素晴らしい経営学とその作法です。) 貴方の臭いへ理屈を学問であるという人間の種族は、「ボケモン(とぼけたおさるさん=おとぼけモンキー=モンキービジネスのサル)」です。 質問者様の主張によると 人間は、アマテラス族とスサノオ族から成立しており、下層階級として、人間になろうとしない縄文(ボケもん)人がいるwww 今生きているのは、おれさまだ!俺様は縄文(ぼけロウ)人ではない!とは質問者様の主張・・・ 私の意見といたしましては、前世紀の異物(闇市世代)である貴方様が、 今に息づく「縄文人さま=ちんパン君を越えたボスざる」wwwであるといわ「ざる」を得ないというものです。 V V akattaka! (「どぢゃ」 でもいいよゥwww) PS 今でも批判者が一人であると信じていらっしゃるのですか? 今でもあなたは「自分は哲学者である」と信じているのですか? 貴方も少しは学んだほうがよいでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 たらこくん きみの生態がだいぶん分かって来た。  1. 負けた・勝てないと思った相手には とことん食らいつくという或る意味では見上げた不屈の精神を持つ。  2. ただし反応は 原始的である。負けたと思う文章をことごとく否定してゆくのみ。  たとえば  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  古事記はチョろくないと思いますし、神学もチョろくないと思います。  でも 貴方はチョロイでしょう。  (推論ですから主張してもよいということでwww コレが私の神学です)  関係ないものは関係ない。貴方の神学は神学ではない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《推論》という言葉の意味が分かっていないようだね。これぢゃ推論になっていないということを示しましょう。  ○ 《貴方の神学は神学ではない。》というあなたの命題は神学でもなければ学問でもなく 妥当性のある判断でもあり得ない。なぜなら もしそれでことが有効であるとするなら それに対してただ《〈貴方の神学は神学ではない〉は間違いである》と言うだけで通用することになる。    3. 言いかえると もはや反論することが出来ないと思ったときには ただ片っ端からあること無いことを引っ張り出してきて これはクサイあれはキタナイと言うだけ。いまや小学生でもそんな幼稚なことはするまいって。  4. 細かいところにも触れておきましょう。  ○ わたしは《「自分は哲学者である」》と言ったおぼえはない。《わたしは哲学している。つまり 哲学するとは 生活すること。生活することとは 哲学することだ》と言ったのみ。  ☆ ちなみに《学者・研究者》というのは 世界史におけるありとあらゆる研究の歴史を まづは基礎資料として研究することから始めている。その研究史の研究に時間を取られて 自分の哲学するその成果についてはあまり発表しないと一方では考えられるし 他方では研究者の遺した文章に取り組むことが哲学することだとも言い得る。そういう仕事の仕方をしている。わたしは学者ではありません。  5. ★ 《前世紀の異物(闇市世代)》――☆ 闇市世代と言うには すでにそのころ(敗戦直後)子どもでなくてはならない。わたしはそうではない。《遺物》というのがふつうだが 《異物》ともしゃれたわけか。  6. ★ 《人間は、アマテラス族とスサノオ族から成立しており、下層階級として、人間になろうとしない縄文(ボケもん)人がいるwww》――☆ ちなみに 《 www 》が何を意味するのか分からない。おしえて。鯉の背景もだよ。  6-1. 社会は スサノヲ市民とそこからアマアガリしたアマテラス公民とから成る。  6-2. アマアガリというのは 市民一般を政治的に(≒宗教としての人心操作によって)束ね寄せる術がともかく社会的に優勢になり有力になった場合の結果を言う。公民の誰もがそうだとは見ないが 一般にアマアガリした者は アマテラス族と呼ぶ。  6-3. 《階級あるいは下層階級》といった分類は この《市民 S ‐公民 A 》連関制にとっては別の観点である。  6-4. 《意思疎通を言葉をとおして図ることをしない》人間以前の状態にある人間 これを おおまかに《縄文人》の類型と呼んだ。スサノヲ市民(つまりアマテラス公民を含めて)の中にいるのではないかとうたがわれる。  6-5. 《ポケモン》については よく知らないので何とも答えられない。  7. ★ 《おいらの神学はアウグスティヌスの請け売りだが、神学はチョロイと主張なさるのであれば、なおさらです。説明を求めますwww》――  ☆ ≪これまでの《学問的な〈神学〉》がちょろいのだということです。≫とわたしが述べたことは わたしの文章がそのような神学に沿っていないのではないかという問いに答えただけのものです。その中身を そのときには示していません。だが この趣旨説明にあるような文章は その一環です。  8. ★ 《5 いっておくが コレは哲学ではない。おいらの神学だ!》――☆ この質問趣旨に掲げた文章には 観想としての・必ずしも論証になじまないような判断(つまり 神学の要素)がありますよと言ったまでです。基本は 哲学です。きみも少しづつまなんで行くとよいのだが。    9. あとは 誹謗中傷である。つつしむように。

  • kigurumi
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回答No.8

要するに無実のイエスを神が人間に殺させたことが理解不能ってことですよね。 悪いことをしようとする人間を神が何故止めなかったのかわからないってことですよね。 そして悪いことをする人間を神が止めなかったことで、人間は善人になった イエスを殺してくれてありがとー イエスよ死んでくれてありがとー という理屈がわからないってことですよね。。 この哲学がよくわからないってことですよね。 これ哲学じゃなくて文学。 哲学の方はこうです。 ギュゲスの指輪。 右に回すと姿が消える指輪を手に入れた者が、誰にも悪をやってもバレない状態になってっても、悪をしないであろうか?って考えたんです。 もっとも悪人なのは、とことん悪をしながら、それが誰にもバレず、もっとも高い評判を得ている人。 高い評判を得ている人の中には、バレていないだけで、本当は悪人かもしれない。 ロード・オブ・ザ・リングでは、姿が消える つまり 悪をやってもばれないツールがこの世にあってはならないと、破棄したストーリー。 そんなもんがあったら、極悪人が最高の名誉を得られることになるから。 そんな指輪は無いのですが、悪人は同じ悪人をかばい、高い地位にいつづけられるってことはある。 ではどうすれば、高い評判の人が本当に善人だとわかるのかってプラトンは考えたわけです。 【やってもいないことをやったと言って高い評判を剥ぎ取り(紫は高い評判を得ている官僚クラスの人が着る衣装)、鞭を打ち、槍で突いても、最後まで 例えば「私はこんなことされても恨みません、神よこの人たちは自分が悪をやっていることがわからないのです、 許してやってください」など善人であり続けた人は、名誉が欲しくて善人ぶってたのではなく、根っから善人だったということになる。】 としたんです。 国家の中だったかな? だからこの神話の元ネタはプラトンの善人の証明。(国家の中のギュゲスの指輪あたり) これが全容です。 そういう紀元前400年くらいのギリシャ哲学が、何百年か後に同じギリシャに伝わっていて、イエス物語が作られたわけです。 ところが、どうしたことか、プラトンの哲学が実在した人の話にすりかわった。 哲学が宗教になっちゃった。 【神は無実のわが子を人間に殺させることで、人間の罪を全部リセットしてくださったのじゃ ってなった。】 「だから止めなったのですね なっとくなっとく」となり、イエス殺しの必然性を受け入れ、「殺人にも時としていい殺人もあるんだー 殺人をして全く罪に問われないギュゲスの指輪を我々は手に入れた!!」 って おおおおおおーーーい! 捨てましょう そんなギュゲスの指輪ちっくな教義。 もともと そんな話じゃないんだから。 伝言ゲームって正確に次の人に情報が伝達されないという特性がある。 伝わった歪んだ情報を無理に正当化しようとするため、また歪めなければならず、さらにピサの塔はゆがんでいく。 あ? 最初から土台が歪んでた って気づけばいいわけです。 そう 土台はプラトンの哲学を勘違いして建てた礎。 歪んだ塔をまっすぐだとするためには、身体をかたむけるしかなく、傾けた本人は転ぶ。 なんでまっすぐ歩けないんだろう と思って、もしかして傾いた塔をまっすぐだと思っているからじゃないか 自分がまっすぐだと思ってみている塔を疑えばいいんです。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 無実のイエスを神が人間に殺させた  ☆ なぜ《無実のイエス》と分かるのですか? それはただ聖書記者の主張であるに過ぎません。  それになぜ《神がこうしたああした》と人間であるあなたが分かるのですか? 想像しても構いませんが それがどうして正解になるのか。  ですから 神学(もしくは 神学を超えたところの神の心)は 人間にはただ観想として仮りに人間の言葉で表現してみるということしか出来ません。仮りの表象であるに過ぎません。  哲学は 経験世界の事物や現象に対応した認識にもとづき 経験合理性にもとづく思考をおこなうという前提で成り立ちます。  もしイエスの場合には 作り話であったとしても 仮りに現実だとしたら なぜはりつけになったかという問いは そしてそれに答える合理思考は 人間のものであり哲学です。  もし相手の人間の心を憶測したその判断がまちがっていた場合 ひとはどう対処するのがよいのか これを考えるのは 哲学です。しかもこのとき まちがった判断をくだしたと考えられるアマテラスは なおそのうたがいを解かなかった。そしてその一方では 悪をはたらくその相手であるスサノヲを 放っておいた。一切とがめなかった。それはなぜか? これを考えるのも哲学です。  わたしの解釈と思惟には神学の要素が入り込んでいますが 問題は基本として 人間とその社会の事象についてです。アマテラスが神であるとは――つまり 神学を超えたところの神であるとは―― ひとことも言っていません。取り違えやすり替えは 無用に願います。  もし神話における神々のひとりであるという話を持ち出すのであれば それは ただ人間に神的性格を与えただけのことだと答えます。それは イエスの神ではありません。また ここでわたしがスサノヲにとって 見捨てられたがその見捨てられたそのことによって じつは 見捨てられていなかったというときの神 この神ではありません。  アマテラスが神だというのは イエスの神でもここでのスサノヲの神のことでもありません。ただの英雄や偉人の神格化であるに過ぎません。つまり人間のことです。  そしてこのように神話の神と イエスの神とを区別することが出来ないというのは 哲学ではありません。ただのまんがです。  ★ 悪いことをする人間を神が止めなかった  ☆ と想像をめぐらして解釈したその内容を 神学でもなければ哲学ですらないのに ここで回答に持ち出してくるとは!  ★ 悪いことをする人間を神が止めなかったことで、人間は善人になった  ☆ という解釈をもし百歩ゆづって取り上げるとするなら これは スサノヲの話です。ところが  ★ イエスを殺してくれてありがとー イエスよ死んでくれてありがとー という理屈  ☆ は こんどは スサノヲとは関係ありません。スサノヲは磔になったわけでもなくほんとうに死んだのでもありません。しかもすでに触れたように  ★ 悪いことをする人間を神が止めなかった  ☆ という解釈は 自由ですが それが神の心を表わしているとは 思えません。人がその正否を知ることはできないでしょう。言いかえると 単なる人の比喩として神々のひとりであるに過ぎないアマテラスが――たしかに非行をおこなうスサノヲを咎めなかったからと言うので――《神》だとあなたは見なしています。ご自分の説として見なしているのではなくても そういうふうに対象となる物語の内容を推測したということになっています。いったいどういう思考ですか? それとも何らかの神のお告げによってこういう回答を寄せているのですか?  あなたがここで為したことは プラトンだかトールキンだかを取り上げようとしたその意図を示したこと これのみです。ほかに何も推論として筋の通った中身はありません。どうですか?  * ともかく哲学と神学とまんがの要素がそれぞれ入り組んでいるので 取り扱うにやっかいですな。

bragelonne
質問者

補足

 ふうむ。自分で挙げた質問とはいえ いろんな人が投稿してくるものだ。  投稿を受け取りながら言うのもいけませんが きぐるみさん あなたは わたしの質問に投稿したご回答内容についてわたしが補足要求として問い返した主題が いくつも未回答のまま残っています。それをどうするの?とまづは言っておきます。  (えた・非人の質問へのご投稿では こういった神の主題ではなかったので それとして応答しました)。  さて まづこう問うておくべきでしょうね。   ★ あ? 最初から土台が歪んでた って気づけばいいわけです。  ☆ 仮りにそのプラトンの著わした土台をパクって聖書としてまとめたという文章について その解釈としての《土台が歪んでた って気づく》ことが出来ないままでいるとしたら?   つまり あなたの聖書の解釈は 土台 成っていないというわたしの批判に対して――初めに述べたように―― これまで一度として答えたことがありません。逃げたまま 同じことをこのカテの場で繰り返し繰り返し投稿しているのをわたしは知っています。  その上で 回答内容は 次のようでしょうか。わたしなりに要約しましょう。  1. 《善人》が現実にいて欲しいという願いに応じて その存在の論証が著わされた。  2. 善人であるのに・つまり冤罪をこうむって 死刑にされた場合にその人間の取る態度で決まる。  3. 罪をかぶせ死刑にする人間たちを恨まなかった。ゆえに 善人だったと分かる。  4. この論証哲学が イエスの物語の中に編集されたし 同じようにこのスサノヲの罪とその処罰の話にも現われている。  5. けれどもそもそも もともとは哲学の議論であったに過ぎない。キリストとその父なる神が登場させられてしまったし スサノヲの話では アマテラスがその神におおむね当てられた。ただそれだけの話だ。   6. ★ 《哲学が宗教になっちゃった》。  ☆ すなわちこの解釈が もしかして大まちがいであったとしたら?  それは考えたことがないのでしょうか?   ★ 哲学が宗教になっちゃった。  ☆ の中身は こうだということですが:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~   【神は無実のわが子を人間に殺させることで、人間の罪を全部リセットしてくださったのじゃ ってなった。】  「だから止めなったのですね なっとくなっとく」となり、イエス殺しの必然性を受け入れ、「殺人にも時としていい殺人もあるんだー 殺人をして全く罪に問われないギュゲスの指輪を我々は手に入れた!!」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ つまりこの解釈内容が 聖書やあるいはスサノヲとアマテラスの神話に当てはまるのなら ご見解は 誰もが受け容れなければならない主張ということになります。果たしてどうでしょう?  もうすでにご自分でそれはあやしいと 分かっておられるのではないですか。もしそうでないとすれば わたしといったい何のためにあれだけやり取りをして来たのでしょう。  ○ ひとことで言えば 神のこころを人間が知り得るわけがありません。知ったと言うのなら それは 人間であるその人の解釈です。  ☆ 知ったというその神の心は 神の心であ〔るとは限〕りません。人間が考え想像して得た思考の産物です。(万が一あるいは億が一 正解であったとならないとも限りませんので 断定は出来ません)。  それは 観念の神であり 観念の神として人間が表象した神の心です。知り得るわけがありません。ぢゃぁ知ったというその人は 神であるのか? と問わなければなりません。  ちなみに趣旨説明に述べた質問者の解釈は 人間の主観として・主観において解釈した世界観です。つまり基本として哲学の話になっています。神学の要素が入っているとはことわっています。  あらためてまとめてみましょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  要するに無実のイエスを神が人間に殺させたことが理解不能ってことですよね。  悪いことをしようとする人間を神が何故止めなかったのかわからないってことですよね。  そして悪いことをする人間を神が止めなかったことで、人間は善人になった イエスを殺してくれてありがとー イエスよ死んでくれてありがとー という理屈がわからないってことですよね。。  この哲学がよくわからないってことですよね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これはまづ すべてたしかにあなたの主観において得られた命題ですが 哲学と神学(あるいは要するに神とは何であるか もしくは 神は何でないか)との区別がついていません。

  • LTCM1998
  • ベストアンサー率31% (238/747)
回答No.7

古事記へのこだわりが私には理解できません。 しかも、古事記の研究に対して無関心に見えるのも理解しがたいところです。 以下、研究者の記事を引用します。 また、古事記「序」と三巻の本文の間に見出せる認識のずれも気にかかる。すでに西條勉も指摘しているが(前掲論文*引用者注)、「序」が取り上げている古事記の内容には、古事記にとって、それほど重要ではない部分や取るに足りない部分が含まれている。それは、古事記に対する認識不足から生じているに違いないのであり、「序」の執筆者が古事記本文を撰録したとは到底考えられない。 「序」に記された古事記の内容紹介では、イザナギ・イザナミの国生み、アマテラスとスサノヲのウケヒ、ヲロチ退治、国譲りから天孫降臨を取り上げて上巻を要約しており、いわゆる「出雲神話」が無視されている。その態度は、古事記の性格を見誤っていると言わざるをえない。出雲神話の重要さを理解しない人物が古事記を撰録したということなど考えられない。 引用者注:「偽書説後の上表文」『古事記の文字法』笠間書院、一九九八年 (三浦佑之,「古事記「序」は後世の偽書」文芸春秋 85(7), 320-327, 2007-05) また、校訂・翻訳は、当然問題となるところであるのに、典拠を明記しないのも学問としては解せません。 個人的なエッセイであるならば、何から何を連想しようと自由だと思いますが。 少なくとも学問カテゴリにおいて取るべき態度ではないと思います。 ですので、 >古事記などが伝えるスサノヲとアマテラスの物語には われわれ現代人が人間を考えるための恰好の題材を提供していると考えます。 という質問に対しては、そうは思わない、古事記の中から研究者が言うように「取るに足りない部分」を恣意的に取り出して題材とすることは不適切である、としか答えられません。

bragelonne
質問者

お礼

 まぁ 学術論文であれという促しと受け取りました。エルティーシーエムさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 古事記の研究に対して無関心に見えるのも理解しがたいところです。  ☆ このご指摘には 二つの答え方を持ちます。  関心があるから 解釈を披露しつつナゾについて問うています。言いかえると このアマテラスの変な黙秘権を行使したとも取れる沈黙については 一般にもナゾとして捉えられていると思います。(最近年の研究動向については 知らないで言っています)。  けれども この関心のあり方やわたしの解釈の仕方については これまでの研究史にはたぶん無くしたがってその大きな流れから外れていることでしょう。  そうして 研究ないし学問というのは 部外者や素人の見方や提言――それは 学術研究の水準や約束事とは別の見方を要求してさえいるのだが――からあたらしい理論や展望が開けたという場合は いくらでもあるのではないでしょうか。  回答者さんも三浦佑之という人も 古事記の《偽書》説には立っているのではないと受け取ってその問題には入りませんが   ◆ (三浦) 出雲神話の重要さを理解しない人物が古事記を撰録したということなど考えられない。  ☆ の問題に触れます。ひとつには ここでは 序文の著者と本文の著者との区別をまだ問題にしていません。また 誰が《帝紀を撰録し 旧辞を討かくして 偽りを削り実を定め》たかも問うていません。いま伝えられている物語(神話)について みなさん どうお考えになりますかと問うものです。ちなみにわたしの典拠は つぎです。  ○ 西宮一民校注:古事記 1979  ○ 倉野憲司校注:古事記 1963  ☆ もうひとつには 《イヅモ神話》の重要性についてですが これもさほどこだわることも――この質問にかんしては――ないと考えます。というのも すでにスサノヲの〔わたしの言葉での〕復活に触れるということは 《イヅモ》――もしくは ヤマトのミワ地域――の重要性はじゅうぶん明らかになっているとさえ思われるからです。  だいたいこんなところでしょうか。  もっとも乱暴に言えば この問いの問い求めをすすめれば その成果をもって あとでじゅうぶんに学問の体裁をつけることは出来る。こう考えて大きくあやまつことはないと思いますよ。  ただし 回答者さんが この主題じたいについてご関心が薄いということでしたら それは 如何ともしがたいとは思います。それは 仕方がありません。どうでしょう?

回答No.6

質問文は全て憶測で成り立っています。 その憶測の質も、今その人自身の認識度合いを表しています。 推測、推察、洞察などいろいろあります。

bragelonne
質問者

お礼

 ふうむ。よく投稿してくれました。  ★ 認識度合い  ☆ これは 判断のあり方 と言ったほうが適切でしょう。  あとは  ★ 憶測 推測、推察、洞察などいろいろあります。  ☆ というそのとおりです。

noname#131237
noname#131237
回答No.5

どういう風に間違っているか? 以下例証いたします。 例証) 質問者「ガラパゴス化」と「縄文人」は、関係があると思いますが、 「ガラパゴス化」の定義を教えてください。 回答者1「ガラパゴス化」とは「島嶼化」を一般的に言い換えたものです。縄文人とは関係ないと思いますよ。 質問者 おいらは三十年間以上研究してきた。関係あるといっておこう。 回答者2 ガラパゴス化とは、平行進化の文脈で使われています。歴史的・社会的には適合できない概念ではないでしょうか。 質問者 それでも 三十年以上の結果がある。関係がないとはいえないといっておこう。 例証終) さて問題です。回答者は質問者に何を説明するべきなのでしょうか? 結果を成果とを取り違えているのが誤謬の原因です。貴方が「御伽噺を読んでどう感じるか」ということを感想文にまとめるという行為と学問的な「神学」とは関係がありません。 貴方の言う神学と通常の神学との間には、アウグスティヌスという言葉より他に接点が存在しません。 貴方はアウグスティヌスの権威を、自分の権威付けに利用しているだけです。

bragelonne
質問者

お礼

 たらこくん 対話を絶やさない心がけは 見上げたものです。ご回答をありがとうございます。  だが 今回は先回のわたしの答えでじゅうぶんです。  ☆☆(No.3補足欄) ~~~~~~~~~~~~~   1. そもそも《古事記とほかの書物の文章の間に 文脈としての共通性はない》でしょう。  2. それらを結びつけて議論を展開するのは 自由です。問題はその結果です。推論に妥当性が生まれればかまわないでしょう。  3. では どういう推論のまちがいが現われているのか? その妥当性の無さについて 具体的に批判を展開してください。  4. 《おいら以外の要素が存在しない》というのではなく そうではなく すでに文章は述べてあるのですから たとえばどうも神学の要素が混入しているから 哲学の一般的な見方からは取り扱うにはむつかしい。といったふうに述べるのがよいでしょう。  5. ただし この神学の要素も 哲学が扱えるほどに述べたつもりです。――でも それを受け容れたくないというのでしたら それは 自由ですので もう分かりましたということになります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《ガラパゴス化》については 回答者の人びとの指導にしたがっています。いまさら何かを言われることもありません。  ★ 貴方が「御伽噺を読んでどう感じるか」ということを感想文にまとめるという行為と学問的な「神学」とは関係がありません。  ☆ この指摘に対してははっきりと答えることができます。はっきりと答えることがあります。  これまでの《学問的な〈神学〉》がちょろいのだということです。わたしの解釈と《関係がない》とまでは行きませんが 違っていると見えて とうぜんです。わたしはちがったことを・つまり新しい見方を提出しているのですから。  要するにこれまでの神学は 恰好をつけているだけです。光の天使をよそおう悪魔だとは言いませんが 理念の城を建ててみたというだけのことだと考えます。  わたしの神学は 生きています。《おれおれ理論》と名づけても放っておきますが その中身についてしっかりと捉えるとよいでしょう。  ★ 貴方はアウグスティヌスの権威を、自分の権威付けに利用しているだけです。  ☆ わたしはすっかりアウグスティヌスに信仰とその観想あるいは文章の作法などなどをおそわって来ましたから わたしの言うことはすべてアウグスティヌスの請け売りであると言わざるを得ません。  ただし ここ数年のあいだにはかなり独自の――つまりアウグスティヌスに対する裏切りとしての――見方や理論を試みて来ています。そういう考えが得られて来ています。  わたしたちの《権威》は はりつけにあったその人です。その無様な無力 これがわれわれの力のみなもとであり 権威です。  あなたも少しづつまなんでいくとよいでしょう。

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     § 1 それは はじめに スサノヲのミコトに生起した。  スサノヲは 父のイザナキのミコトによって ウナハラの統治を任せられた。ウナハラは 死の世界であり これをつかさどるというのは 宗教の祭司となることである。  この職務を嫌った。というのは その呪術的な宗教の拒否を意味した。  スサノヲは 泣きいさちるばかりであった。泣きいさちることによって 宗教の拒否をつらぬいた。ここに 第一に 神の国が現われた。  § 2 宗教の拒否によって 神の信仰が生まれたというのは 不思議な歴史であり 体験であり 人間の謎です。  § 3 スサノヲは 第二に 姉のアマテラスオホミカミから この宗教の拒否の姿勢を疑われた。  おまえは おまえに任された死者の世界をまつりごつのではなく わたしと同じように生の世界の祭司となりたいから 泣きとおしたのではないか。  わたしたちは 自分のものを確かに自分のものだと証拠づけることは出来ても 自分でないものを それは自分ではないと証明することは 容易ではない。アリバイ(不在証明)の立証は 時としてそのものじたいとして 不可能であります。  不可能な証明が不可能であると分かると 疑う人であるアマテラスは みづからの身を隠した。検察官が 容疑をそのままにして 黙秘権(?)を使った。  ここでスサノヲは アマテラスに対して 泣きとおしたのではなく ちょうど狂を装ってのように やりたい放題のことをしたのです。登校拒否ではなく あらゆる非行を――天つ罪として考えられたそれを――おかした。宮の前に糞をしておいたりした。  § 4 ところがアマテラスは 疑う人でした。  とうとう身を隠したまま 姿を現わさなくなりました。  スサノヲの非行を その権威をもって むしろ容認していたのですが とうとう黙秘権を最後まで行使しました。  人びとは――人びとも――アマテラスの権威に従って スサノヲを責めず ただ身を隠してしまったアマテラスのお出ましを願わざるを得ず その方策を思案しました。  アマテラスは出て来ざるを得なかったのであって それは みづからの権威の消滅をうたがわなければならなくなったから。ここでスサノヲに 第二に 神の国が生起したのです。    § 5 宗教の拒否の肯定をも拒否するというかれの意志が証明された、ゆえ。  あえて破廉恥なことまでおこなうことによって 破廉恥ではないところの神の国が出現したというのは 不思議なことであり 人間の謎です。  アマテラスのお出ましを迎えた人たちは 権威者であるアマテラスに代わって ここでスサノヲの罪を裁きました。スサノヲをこのアマテラスの世界から追放したのです。  § 6 かれらは 宗教(呪術の園)が大好きなのでした。  宗教を拒否してはならないわけではなく 宗教の拒否を肯定してはならないわけでもなく しかし泣きいさちっているばかりではいけないと考えられた。  スサノヲは人びとによって その良心が問われたのではなく その泣きいさちりと非行とが 人びとの裁判にかけられました。スサノヲは 《千位(ちくら)の置き戸(罰金)を負わせられ また ひげを切られ 手足の爪も抜かれて 追放される》こととなった。  § 7 アマテラスは その権威ある主宰者の位を守りました。  かのじょ自身 呪術の園にいたのではありませんが 宗教(だから そのような日常のおこないとしてのオキテやナラハシ)によって生活する人たちを統治することに長けていました。  かのじょは この世に・この日の下に 新しいものは何もないとよく知っていました。この知識の中にないものに対しては 疑うことしか知らなかった。  だから疑うこと――疑うために疑うこと――をもって 呪術の園にある人びとの共同生活を統治していたのです。かのじょは この世の生 人間の世の中をよく知っていました。  § 8 このゆえにも神の国が生起しました。  言いかえると 死の世界と 宗教によるその統治とが 克服されたのです。原理的に。本質的に。人間の存在のあり方として。あるいは同じことで この世の生が――それが行き着くところは 死の世界だから 死が―― 克服されたのです。  死よ おまえのとげはどこにある?  § 9 この世で 時間的に歴史的に 神の国(人間にとってほんとうの現実)が見られることとなった。垣間見られた。  スサノヲに神がここで王となった。  この世の権威たるアマテラスの疑いが克服されたから。  この世〔のアマテラスの世界〕から追放されることによって この世に勝つことが出来たというのは 不思議な人間の歴史であり 謎です。  § 10 スサノヲは 追放され この世から・そして神からも 見放されたのですが ちょうどこの神から見捨てられたというそのこと自体において 神はスサノヲを見捨てていなかった。  スサノヲはこの世に死ぬことによって 復活しました。  ここで神の国が現われたのです。  すなわち日本人のそもそもの歴史のはじめ。  われわれの生活と社会の原点だ。  ☆ 自由なご批評・ご批判をたまわりたく・・・。

  • どうして天照はアメテラスではなくてアマテラス?

    最近古事記にハマっています。 神様の名前への漢字の当てられ方が現代と随分違うところを見ていると、 ついにやにやしてしまいます。 しかし1つ疑問を抱いております。 天の岩戸屋が「アメのイワトヤ」と読まれる様に、「天」が含まれるものは大体の場合「アメ」と読みますが、 天照の場合は「アマテラス」のように読みます。 古代日本では原則的に「天」という字は「アマ」ではなく「アメ」に適用されていたのだと了解していますが、 「アマ」というのは特別な読み方なのでしょうか。 何故「アメ」「アマ」の両方に「天」が当てられたのでしょうか。 逆に言えば、何故「アマ」に当てられたのとは異なる漢字が「アメ」に対して当てられなかったのでしょうか。 これらの疑問への答えを教えて下さい。 答えが長くなるようでしたら、このことを論じている文献を教えて下さい。 どうぞ、よろしくお願いいたします。

  • 記紀が書かれた目的は 天皇家の正統性を当時の国の要人に周知させ また後

    記紀が書かれた目的は 天皇家の正統性を当時の国の要人に周知させ また後世の人に知らしめる ことが第一であったとおもうのです。が、その神代記載の一部ですが アマテラスとスサノオの経緯の理解が出来てません。そこで お教え頂きたいのですが。 乱暴者のスサノオに対しアマテラスは身を隠したりまた出てきたりしますが 直接にはスサノオには手を下しません。高天原の神々の総意で 出雲に追放となり、そこではスサノオは どういうわけか 勇敢な善人となります。物語は 以後オオクニノヌシへと移ります。 私が思うにイズモのスサノオはアマテラスに徹底して前歴の悪行の数々を謝り アマテラスはスサノオを許す 物語があってよいとおもうのです。そこで皇祖アマテラスの心の広い正統性が示されるとおもうのですが どうも徹底してないように思えるのです。 アマテラスの正統性を示すことに関して なぜ スサノオの扱いが徹底してないのか 記紀成立当時の事情を含め どなたか説明頂ければと思います。私の勉強不足は ご容赦ください。

  • アマテラス政治家の無謬性の神話がくづれたか?

     アマテラス公民ないし国家公務員については――それはいわゆる幕藩体制からのお上であって―― 無謬性というしるしが 神話としてのごとく添えられて来たのだと考えられます。《斬り捨て御免》という慣わしに代表されるごとく たとえかれらがあやまちを犯していてもスサノヲ市民らはそれは間違ってはいないと言わなければいけなかった。そういう至上命令ないし錯覚があったということでしょう。  社会保険庁のあやまちが引き金を引いたのかどうか この無謬性の神話はくづれて来ています。  ところが いまの民主党政権もしくは菅政権については どうもその性格や事情がいちじるしくそれまでのアマテラス政権とは異なって来ているのではないか?  感覚で言うのですが 鳩山前政権については まだその社会的な身分としての神話をあたかも引きずっていたからか そのままアマテラス公民の無謬性を どこかで何となく保ち得たかのように映っています。  鳩山由紀夫は出自がアマテラス圏であり 菅直人はそうではなくスサノヲ圏からであるという違いが出ているのかどうか?  そこでこの質問は このアマテラス公民の無謬性という慣わしと 《職業としての政治》にまつわる《悪魔性》とのつながりや如何? と問うものです。  まづは次のM.ヱーバーの議論を聞いてください。悪魔メフィストーフェレスに魂を売るファウストのごとく そのデモーニッシュな動物的な・別種の魂が必要なのだと言っていますか?  ▲ (ヱーバー) ~~~~~~~~~~~  およそ政治をおこなおうとする者 とくに職業としておこなおうとする者は・・・すべての暴力の中に身を潜めている悪魔の力と関係を結ぶのである。  無差別の人間愛と慈悲の心に溢れた偉大な達人たちは ナザレの生まれ〔のキリスト・イエス〕であれ アッシジの生まれ〔の聖フランチェスコ〕 インドの王城の出〔のブッダ〕であれ 暴力という政治の手段を用いはしなかった。  彼らの王国は《この世のものにあらず》ではあったが それでいて彼らは昔も今もこの世に影響を与え続けている。  〔トルストイの描く〕プラトン・カラタエフやドストエフスキーの描く聖者の姿は 今なお この人類愛に生きた達人たちの最も見事な再現である。  自分の魂の救済と他人の魂の救済を願う者は これを政治という方法によって求めはしない。  政治には それとまったく別の課題 つまり暴力によってのみ解決できるような課題がある。政治の守護神やデーモンは 愛の神 いや教会に表現されたキリスト教徒の神とも いつ解決不可能な闘いとなって爆発するかも知れないような そんな内的な緊張関係の中で生きているのである。  (『職業としての政治』 1919 脇圭平訳 pp.99-100)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 政治家としてアマテラス公民たる者はすべからく悪魔に身をゆだねるデーモン(悪鬼)にならざるべからず。――こうでしょうか?  極論して言うのですが この方策を忠実に取ったアマテラス政権は 安泰であって そうでない政権――たとえば民主党政権――は もはやスサノヲ市民らの信頼も支えも失くした。――こうでしょうか?  それとも そもそもアマテラス‐スサノヲの国家という二階建ての家における逆立ちした連関制が 無理なのでしょうか?

  • 古事記と日本書紀の正しく理解するには?

    古事記、日本書紀の原文は難しくて読めませんので、 まんがで読破シリーズを購入して読みましたが、 今ひとつでした。 そこで、分からないことがあるのでご存じの方、教えて下さい。 1.草薙の剣について、スサノオがアマテラスに献上する場面がない。 2.草薙の剣が最初から草薙の剣と呼ばれている。天叢雲剣の名前が出てこない。 3.古事記と日本書紀を正しく理解する本

  • 人はいつから存在したの?(古事記)

    イザナミとイザナギが生んだのは神ばかりだったと思います。 その後、アマテラスやスサノオの下りも神の話でした。 国造りの下りで、 スクナビコナが大国主に「人々の為に農作の方法や医学を・・」の話があったので、この時点では神以外の人間が発生しているとは推測でき、この間なのかなとは思うのですが、 プロメテウスが土と水で作りました。のようにここから人もいたんだと分かる記述は古事記にはないのでしょうか?